アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

氷雪の門 3

2010-11-21 19:48:10 | 思い

 大戦前まで、他国に抜きんでた日本軍の規律の高さを、欧米諸国は賞賛の眼差しで見ていたことを裏付ける記録が幾つも残されている。外国の報道機関や外国人個人によってなされたものなどだが、その中でも、清朝末期・義和団の乱の頃に北京市内に進駐した日本軍についての記述はよく知られているもののひとつである。

 フランスの国際法学者フォーシーユは、日本軍を賛えて次のように語っている。「日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘らず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない軍隊で、例えば中国軍の捕虜になると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火炙りにされたり、磔にされたりしたのである。更に日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、或は男根を切り落し、胸部を切り開いて石を詰め込み、首は両耳を穿って紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である」と。

 天津落城の際天津市民は、「大日本順民」と書いて日章旗を掲げて日本軍に感謝の意を表明した。

 また北京落城後、列強連合軍は北京市内を国別に分割管理したのであるが、その時ロシア軍管区では、軍紀が乱れてロシア兵が暴徒と化し、虐殺、放火、強姦など暴行の限りを尽し、そのため市民は難を逃れて日本軍管区へ洪水の如くに押し寄せた。たまりかねた北京市長は、その暴状を英国公使マクドナルドに訴え、ロシア管区を日本管区に替えるよう嘆願したという。

(いずれも「日本軍の軍紀は世界一厳正だった」赤堀光雄よりの抜粋)

 中国は多民族国家である。歴代の王朝で、俗に言う「周辺異民族」によるものは多いし、元々「漢民族」という言葉自体が、黄河流域を中心とした地域において在来・周辺多数の民族混淆の結果生まれた概念だとも言われている(「漢民族 - Wikipedia」参照)。だから一般的に中国人というと念頭に浮かぶ、「交渉上手」「抜け目ない」「優れた適応力」「世界中どこでも生きていけるたくましさ」などという気質はこのあたりから生まれたものと思われる。

 彼らの中で「国家」とは、民族的・メンタリティー的同一性というよりは利害的・一時的な集団結合といった方がより的を射ている。厳しい環境を生き抜くために、当座利害を一にする者たちが肩を寄せ合って生きる。もし状況が変わればまたそれに応じて構成員を変える。そのようなものが彼らの「同胞意識」の根底にはある。だからいざ窮したり有事となった際には、彼らの中で守るべき者とそうでない者との差は極めて流動的となる。

 1938年6月9日、日本軍の中原からの西進を阻むため、国軍(JOG注: 蒋介石の国民党軍総司令官の李宗仁)は河南の鄭州の東北部にある花園口で黄河を決壊させる目的で爆破を行った。堤を破った大水は、凄まじい勢いで東へと流出、歴史上最も悲惨ともいわれる大洪水となった。
 河南、安徽、江蘇の3省44県・市、1万3千平方キロメートルが水没し、被害人口1250余万人のうち390万人以上が行方不明、90万人が死亡するという惨事は、損害額の総額が大きすぎて計算できないほどの規模に達したのだった。
 近年、中国で流行った歌がある。その歌詞には、「天地の間には秤(竿秤)がある。その秤の分銅は民衆」とうたわれている。両軍対峙するなかで、中国軍は民衆を飢餓に追いやり、彼らが必死に餓死と戦っているとき、相変わらず重い挑発をして少しもかえりみなかった。しかし日本軍は、この機に乗じて人心を掌握し、軍糧を放出して分け与えた。
 中国軍は駐屯地から周囲十数里に及ぶ農作地を蹂躙し、村に侵入しすべてを奪い、少しでも不満があれば武力に訴え、民間の力を強制的に濫用し、恨みの声が街に溢れるなかで多くの家庭が生活を奪われた。
 一方で隣の日本軍は、現金で人を雇い道路をつくり、農民から奪うこともなく、小さな施しを忘れなかった。 

国際派日本人養成講座「地球史探訪:日中戦争、日本が勝っていたら」より)

 過去に残された(明らかな捏造は除く)どの記録にも共通して、ソ連や中国の軍隊の規律はやはり世界最悪級だと述べられている。戦後半世紀を経てようやく知られるようになったのだが、かつて日本軍の蛮行としてまことしやかに流布された「三光作戦」「南京虐殺」「百人斬り」「従軍慰安婦」などはいずれも、まったくの捏造といっていいものだった。これらの多くは元々中国人や朝鮮人が行ってきたことを、あたかも日本軍がなしたことのようにすり替えたものである。

 ただし現在も中国・朝鮮政府は国を挙げてこれらフィクションの「事実化」に力を入れている。例えば南京虐殺の映画を幾つも作り配信する、アメリカ社会に親中ロビイスト(または工作員)を数万人規模で送り込み、議員の買収や世論操作を数とお金の論理で攻めまくる。こんな中で日本政府がか細い声を出したところで、すぐにかき消されてしまい民衆の耳には届かない。中国人は、「一人がホントの事を言っても、他の99人が別のことを言えば嘘がやがては真実となる」ことを歴史上の教訓として知っているのだ。

 今も、大戦中に軍の犯した蛮行の「生き証人」として話をする元日本兵がおられるのだが、そのような方は十中八九、というより必ずと言っていいほど中国軍の捕虜になった経験を持っている。もし私たちが「中国共産党が日本兵捕虜に対して行った洗脳行為」について正確な知識を持っていなければ、確かに彼らの言葉には信憑性があるように聞こえたりもする。しかし取り違えてはならない。実は彼らこそが重篤な「被害者」なのであり、私たちは涙なくして、老いてなおすり込まれた虚構を語り続けるその様を見ることはできない。この場合の加害者とは言うまでもない。

 確かに戦争末期、追い詰められた日本軍の中に残虐な行為がまったくなかったかといえばそうではないだろう。しかし全体的に見れば既に見てきたように、日本軍と日本人はどちらかというとその対極にあった。例え敵国民であろうと、一般人へのいわれなき暴行や強奪・強姦は軍規に照らして厳しく罰せられていた。

 私の隣家のおじいさんは、戦時中満州に進軍した後シベリアに抑留された経験を持っている。この方、軍隊時代の話をするたびに「いや、日本軍も悪かったのさ。ホントに悪いことしたもんだ」「やっぱ戦争はするもんでねえ」と呟くこと多かった。ではそれはいったいどんなことかと問うと、次のような答えが返ってきた。

「ソ連に追われて山ん中逃げ回ってた時に、もう何週間も食うや食わずでな。ふと行き当たったムラの芋畑を、みんなして手当たり次第、我先に掘り上げてガツガツと食べたもんだ。それを大隊中何千人がするもんだから、あん時の百姓(満人)はたまんねかったろうな。ホントに悪いことした。んでもオレたちみんな腹減って死にそうだったし、上官もとても注意する状況じゃなくて・・・」

 彼の軍は西側国境付近に展開していた第107師団。ソ連軍に退路を断たれ、包囲されたまま20日間近く山岳地帯を彷徨していたのである。おじいさんは百姓の出だから、同じ農民の彼らの立場が身につまされたのだろう。これが彼の後生後悔する「日本人の蛮行」であった。その後彼が連行されたシベリアでは、今もって日本人が何十万人殺されたかわかっていない。または満州・朝鮮において、日本人民が中国人やソ連軍兵士から受けた強奪・強姦・殺戮の数や程度からすれば、なんとかわいらしいことか。

 日本軍がもし語られるように「残虐・冷酷」なものだったら、アジア諸国の中で、中国・朝鮮以外にかような認識を示している国がまったくいないということをどう説明できるだろう。また、幕末から近年まで「日本人」というものに付された「高い道徳性」「真面目で誠実」「嘘をつかない」「信用できる」「勤勉」などという国際的評価はみな出鱈目だったというのだろうか。

 

 冒頭の「真岡郵便電信局事件」で乙女たちが自害したのは、背後にこのような現実があったからである。この史実を描いた映画「氷雪の門」は1974年に完成したが、直後にソ連政府の干渉により上映中止。長らく国民の目に触れずにいたものを、この夏ようやく全国公開される運びとなった。36年間。日本国民が情報操作の網目をほぐし、真実の映画ひとつ公開するのにそれだけの年月がかかったのである。

 YouTube - 【樺太1945年夏 氷雪の門1】

 真岡郵便電信局の事件にちなみ、1963年に稚内の樺太関係者と遺族らの手によって樺太で亡くなった日本人の慰霊碑「氷雪の門」とともに、九人の乙女の像が建立された。

 当初その碑文には、自決は軍の命令で、全員が自決したように書かれていた。しかし実際には軍命令は無く、生存者もいたので、碑文の記述は事実とは異なっていた。その後、公務殉職として叙勲しようとの機運が起こると、碑文は書き直され、死亡は殉職であるとされた。碑文では生存者については触れられていない。 なお9名は公務殉職として1973年3月31日付で勲八等宝冠章を受勲、靖国神社にも合祀されている。

「九人の乙女の像 - Wikipedia」より)

 彼女たちは純粋な使命感から職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をしたのである。それを歪めて、軍の命でやむなく自決に追い込まれたかのような「当初の碑文」を誰が作成したか知らないが、おそらくこれと同じようなことが公然となされた時代だったのだろう。史実の歪曲はこのようにして行われてきた。映画では登場しないが、事件後に局内から別の3名の交換手と、他に残っていた局員が生還している。彼らの証言がかろうじてこの事件の真実の隠蔽を阻むことになった。 

 かつて日本人は、本当に大切なものを守るために命を賭けることができた。自分の大切な人を、自分の国を、当時奴隷同然の状態にあったアジア人たちを解放する大義の下に、小さな島国は世界一の軍事強大国に果敢に挑戦したのである。私は実を言えば、「大東亜戦争」を過去の歴史で日本人が世界に貢献した最大の業績だと思っている。それなくして今日のアジア・アフリカの民族の自立と独立はなかった。日本は1919年パリ講和会議に「人種的差別撤廃提案を提出した時点から、全世界の有色人種を代表して欧米白人支配の巨大権力に対し一人矢面に立ったのである。しかしその対価は、一民族としてはあまりに大きく哀しいものだった。

 アメリカと白人社会は、だからそのような日本人を恐れたのである。ゆえに史実を書き換え、道徳心の高い日本人に殊更「罪悪感」を植え付けることによってアイデンティティーを破壊し、精神的に二度と立ち直れなくするよう画策した。併せてどのような国家も採用しないような空論的憲法を押し付け、軍事力に多重の制約を課して、物理的にも再建の道を閉ざすことにした。日本という国家の「去勢」である。

 時代が変わり今や中国は「一人帝国主義」の勢いで勢力を伸ばし、中ロと並ぶ非人道的独裁国家である北朝鮮さえも核を持つ一歩手前にいる。冷戦後アメリカ主導の下に均衡を保っていたパワーバランスは急速に崩れ、経済力の減退とともに米国は軍備の段階的削減を進め、既に往時の覇権を維持できなくなっている。

 しかし、戦後日本人の洗脳に成功し、これだけ国民が骨抜きになり、正義感や公共心、精神力や我慢強さ、大義や志、国家への忠節心が失われた今となっても、アメリカは日本が軍事力を持つのを是としない。日本男児既になく、大和撫子見当たらず武士道は地に落ちた今となっても、米国国防上の最優先事項は「日本に国家として自衛可能な軍事力を持たせないこと」なのである。日本は永久にアメリカの従属物となっていればいい。彼らは自らの歴史から、「日本人」というものの潜在力を見誤ってはならぬという手痛い教訓を身につけている。

 米国が先鞭をつけ土台を築いた「日本人骨抜き計画」を、その後これ幸いとばかりに継承し利用しているのが朝鮮人、それと中国人である。日本国民が軍隊や政治に対して極度のアレルギー体質になったのをいいことに、容易には目に触れぬ奥深いところで人と金とを動かし、少しずつ少しずつ政界・財界・マスコミ界の中に勢力を浸透させてきた反日勢力がある。これは情報や金力、人脈など、一般に「兵器」として認知されていないあらゆるものを駆使した、現代の新しいタイプの他国支配手法・「侵略」である。相手は国家のみならず在住異民族、国内反日分子を含んだ巨大な一大勢力である。

 残念ながらこの戦争に、わが母国は負けに負け続けている。今や中朝と内通する「極左政権」が政治の中枢を占めており、僅かこの一年余りで国としての国益は各方面で著しく損なわれてしまった。この状態を太平洋戦争に例えるならば、まさに本土決戦が始まった段階に相当する。この危機に瀕し「チャンネル桜」など多くの日本人が立ち上がり行動を起こしてはいるが、全体から見ればまだ小さなレベルに留まっている。今だ圧倒的多数の日本人は、政治も歴史も、本当の事も知らないし知ろうともしない。客観的に現実は悲観的過ぎる状況と言える。

 男子が去勢され女子が貞節を失くした今となっては、おそらく「真岡郵便電信局事件」と同じような悲劇はもう起きることはないのだろう。愛すべきものを愛し大切なものを守りきる心の強さは、失われれば二度と取り戻しにくいのかもしれない。でも私たちには「日本人」としての血が流れており、先祖がなし、かつて世界の多くの人々が賞賛した偉大な生き方を継承する世界で唯一の民族存在である。この宝を無下に地に落とす愚は避けなければならない。

 氷雪の門。これは私たちが、いつかは越えていかなければならないものである。今は弱く行き先を見極めることができなくても、やがては自分の意志で、自分の足で寒風の中を歩まなければならない。私たち日本人にはその力が、歴史と伝統、遺伝子の中に宿っている。

(おしまい)

(作者注:文中文字の大きさに多少のバラつきがありますが、これは作者がgooblogの新しい投稿バージョンの操作に不慣れなためです。気にしないでください)

 

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