アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

よみがえる地球

2024-07-08 07:21:45 | 思い
私は美しいものが好きだ。と言うとなんだか海原雄山的でよろしくないのだが、ただ素直に言えば、世の中の多くの人がしているように、きれいな花など、心を和ませるものを庭や畑に植えて季節ごとに楽しんでいる(だけの話である)。梅雨に至るこの時期までは、花菖蒲が見頃で、早生から晩生へとひと月近く次々に咲いてはまるで微笑みかけるように庭の空気を明るくしてくれる。
今日はそんなわが家の花々など見ながら、地球環境のことを少し話してみたい。


新峰紫~わが家で一番乗りに咲く花菖蒲

以前私は環境保全活動に熱心に取り組んでいた。こうしている間にも地球上では毎日100種を越す生物が絶滅し続けているという。田や畑を見ると、確かに昔当たり前にあったという植物や虫、魚や鳥たちがまったくいなくなっている。山にも動物がいない(たまに出現すると、やれ農林業被害だと言って有害駆除されている)。秋の七草といって和歌にも詠まれた植物種の半分以上が絶滅種に指定されている。
このような現状にあっても、農村では日常的に大量の農薬が散布され続けている。これで将来どうなるかがわからないと言う方がおかしい。そこで私はまず「生きものを殺さない農業」を実践し、自分という存在が地球にとって害とならないよう努めた。日常生活のあり方を根本から見直した。草刈りや伐採の時も希少な植物を極力残すようにした。そして自分の敷地内にいわゆる「絶滅危惧種」と呼ばれる植物たちを植えて育て始めた。
そもそも昔は、山に限らず田や畑にも、あちこちに木が植わさっていたそうである。昔の人は日用品や家を作るのに手近にある木を使っていたので、個々の木の特性や価値をよく知っていた。そこで、これは何の木、これはなにに役立つ木と言って、有用な木はできるだけ伐らずに残し、伐り倒せばそれに見合った分をまた植えていた。当然と言えば当然である。誰も子孫が砂漠の中に住まなきゃならなくなるようにはしたくない。そうして人々は農作業の合間に木陰で休み、子どもは大きな栗の木の下で遊んだ。木々はたくさんの生命を宿して豊かな環境を作った。
ところが戦後、ただ効率・機械化の便を考えて、農地にある木はみな伐り倒してしまった。プラスチック工業製品が安価に売られるようになり、やがて木の種類や特性を知る人もいなくなった。山の木々も、ほとんどを杉やヒノキの人工林に置き換えてしまった。経済効率や自己の損得だけを考える人間にとって、庭木など限られた場合を除き、木などただ邪魔なだけである。


オオムラサキ(手元に写真が無いので、これはwikipediaから拝借した)

毎年夏になると、わが家の玄関先にオオムラサキが飛んでくる。いわずもがな日本の国蝶だが、私はこの家に来てこの蝶を初めて見た。準絶滅危惧種だそうだ。調べるとエノキ類を食草とするらしい。エノキといえば、昔は一里塚によく植えられて、旅人はその木陰で休んだのだという。たぶんこの裏山のどこかに、まだエノキが残っているのだろう。しかしいつ無くなるかわからない(実際、その後次々と山の木々は伐られていった)。私は畑の一角にエノキの木を植えた。この蝶を絶やしたくない。いつまでもわが家に飛んで来て、いつか子どもたちに、これが日本の国蝶だよと教えてやりたい。
そのエノキは今では大木となって、オオムラサキも毎年夏になると必ず、わざわざ私に挨拶するかのように姿を見せる。数年前からゴマダラチョウも飛んで来るようになった。これもエノキを食草とする、すっきりとした感じの、やはり見事な蝶だ。


ゴマダラチョウ~猫のトイレの壁に留まっているところ

この20数年間で、庭や畑に植えた木の苗はたぶん100本くらいになるだろう。やがてわが家は生態系豊かな植物園のようになり、近くの博物館から学芸員が調査に来るまでになった。環境活動もかれこれ17、8年続けたと思う。しかしある時私は思ったのだった。
私の周りでは生きものたちの種類は増え、生態系は確実に回復し続けている。これは私が彼らを大切にしたからに他ならない。でもこのところ、私の訪れる場所、私の周囲の世界全体でもそのようなのである。これは日本中の皆が環境保全に目覚め、地球を、生きものたちを大切にするようになったからだろうか。またこの限界集落の過疎と高齢化が進み、環境汚染する主体が少なくなったからだろうか。確かにその面もあるにはあるが、どうもそれだけではない。実際のところこの日本やこの地域の至るところで、今でも大規模な環境破壊行為は行われているし、農薬も廃棄物も今まで同様環境中に散布されている。
実はそれは、私がいつの間にか「地球が回復する」タイムラインに乗っていたからだったのだ。地球を大切にする、生きものたちを守ろうとするその思いと行動の中で、私自身が自分の中の愛の割合を高め、それに見合った地球に一歩ずつ移行したことによるものだった。誤解ないよう明確に言えば、一生懸命環境活動をしたからこうなったのではない。内面を変えたことによってこうなったのだ。
こうして私は、自分の進む未来の中で地球が確実に回復することを確信した。今からおよそ5~6年前のことだった。その時に、私はそれまでやっていた環境活動を一切やめた。もうする必要が無いのである。私はそれとはまったく違うやり方で、地球と生態系を変える道を見出したのだ。


亀の井~夏の暑さも和らぐような色合い

地球のタイムラインが多様に分岐するこの時、この同じ日本にも、ますます荒廃する地球、生きものたちがいなくなっていく地球が存在することは知っている。でもそれは、その波動領域にいることを選択した各個人の世界の中にあり、私の中には存在しない。これはよく言われることだが、どちらが良いとか悪いとかいうことではない。この宇宙にはもともと良いも悪いも無いのだ。ただ今現在私たち個々の持っている信念体系の働きによって、人によって「こちらが良い/悪い」と見えるに過ぎない。ただ、今私たちが向かっている五次元の領域では、この価値判断の尺度が存在しない。つまりこれもまた、次元上昇するために私たちが「外すべき信念」のひとつである。
「どちらが悪い/どちらが良い」この判断/裁き/ジャッジを手放したところに、私たちの向かう先はある。地球の破壊が悪いわけではなく、再生した地球が尊いわけでもない。どちらも等しく「ただある」だけなのだ。その中でどの地球を選ぶかは、単にそれぞれの選択次第だ。各人のその自由を、何人も犯してはならない。


五月晴れ~白のところどころに薄いピンクが入る。花によって少しずつ違うので面白い。

私たちの「源」は、可能な限り幅広い体験/感情を味わいたくてこのように様々な形態、状況、人格や内面の性質を細かく分化させて私たちを創造した。その中でも地球は、この広大な天の川銀河を一点に集約したくらいの可能性を内蔵している。地球が「この宇宙の縮図」と呼ばれる所以だ。だからこの時期この時点で、地球人個々がなにを選ぶか、また人類全体としてどのような分化を成すのかが、宇宙全体の関心事になっている。この宇宙が長年積み重ね続けた学習の修了試験が、今この星で行われていると言っていい。
タイムラインの中には、人類が滅亡に向かう地球もある。闇の支配構造が極点にまで深化した社会の地球もある。しかしそれは「源」にとって、次元上昇するタイムラインと同じように大切な、欠くべからざる「体験」である。その道を選ぶ魂は、確かに「勇気ある」者と言えば言えるだろう。でもそれも私たち全体(魂複合体/オーバーソウル)の一部であり、私たち自身でもある。それはそれで素晴らしい体験だ。いずれ私たちはまたひとつとなって、互いの体験を共有し合う時が来る。


村祭~このようにすっとした清楚な感じは、原種のノハナショウブの形質に近いことを物語る。私の好みでもある。

花菖蒲は、同じ株から分けても植える場所、育つ環境によって微妙に花色や姿を違える。植物の中でも特に個体変異の大きい種だと思う。だからこのように昔から、多様な品種が作出されてきたのだろう。
でもこれは植物のみならず、私たち人間も含めたあらゆる生物種にある意味共通の性質だと思う。「源」は多様性を好む。この宇宙にまったく同じものを二つと創らない。逆に言えば、完全に同じものには、意味が無いのかもしれない。分離した状態にあっては、私たちは他者を完全に理解することはできないし、その道が正しいか間違っているかなど、けっして言うことはできない。ただその魂にとっては、それが最善の道である。それだけなのだ。


三淵の流れ~「三淵」とは、山形県長井市にある渓谷らしい。水清冽で絶景なそうだ。


環境保全活動が意味がないと言っているわけでないことはわかると思う。地球を守ることや、生きものたちを慈しむことはとても大切だ。それによって私たちは自分の「愛」を高めることができる。でもそれをしない人、環境を破壊する人を怒ったり、非難したり攻撃することはしない方がいい。それはその魂の自由であり、その人の選んだ道である。例えそれが自分の子であっても配偶者であっても、宇宙の法としてその自由を侵害することはできない。それをすれば自分の波動が下がるだけだ。
では子どもにいのちの大切さを教えなければとんでもない大人になるのではないか、と思う人も中にはいるかもしれないが、これも心配には当たらない。子はその(自分の親への)愛の大きさゆえに、常に親と同じものになる。仮になにも教えなくても、親と同じようにいのちを扱うようになる(もし仮に自分の行動と違うことを教えたとしても、子どもは混乱した挙句に自分を欺くことを学習する。つまり口では綺麗なことを言いながら平気で踏みにじるようになる)。
私たちはただ、素直な自分の表現として、ありのままの自分の生き方の表れとして、いのちを慈しみ、生きものたちを守り、地球に感謝をしていればいいのだと思う。「カタチ」ではなく、まずは「内側」が起点になる。その結果が、その人なりに種々様々な形で表現される。今の私のように、なんら目立った活動をしていなくても、実は地球や人類にとって意外と大きな役割を担っているということもあるかもしれない。

大雑把に言えば今、地球を大切にする人たちは大切にされた地球に行き、地球を破壊する人たちは破壊された地球に向かっている。そんな時代が来ようとは、私も一昔前には思いもしなかった。まるで目出度し目出度しの昔話のようだと思う。でも正直嬉しい。こんな時代に生きていて本当によかったと思う。でもそれにももちろん例外はあって、もし恐れやエゴに突き動かされて活動をしているのなら、その人は次元上昇することはない。他者の行動を否定したり正そうとする場合にも、同様である。相手を強制したり操作しようとすることは、エネルギー的にはコロナの際に出現した「マスク警察」と同じものを発しているので、その人たちと同じ領域に向かって歩んでいることになる。
豊かな生態系に囲まれた「美しい地球」は既に存在している。私たちはその場所へとタイムラインを移すだけなのだ。そのためには、地球を変えることではなく、「自分が変わる」だけでいい。一歩ずつタイムラインをシフトさせるその行程が、三次元的にはまるで時間とともに「地球がよみがえっていく」ように見える。これが私の見出した新しい「環境活動」である。
私としては、地球を慮る人がみな、無事に次元上昇できることを願っている。

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