アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

氷雪の門 1

2010-11-16 08:56:51 | 思い
 1945年8月20日朝、真岡郵便電信局は炎と煙に包まれていた。艦砲射撃の轟音と炸裂。ソ連兵の機銃音。真岡の街は殺戮の場と化していた。

交換台にも弾丸が飛んできました。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら

 最期に残された回線。震える手でマイクを掴む電話交換手たちの言葉の断片が、泊居郵便局、そして蘭泊郵便局へと放たれる。
 燃え盛る街に踏みとどまり、役場や警察など各所への緊急連絡、逃げ惑う人々への避難経路の伝達、助けを求めて受話器を握る人たちへの情報提供と励まし、そしてソ連軍の侵攻を軍や近隣町村に連絡し続けたうら若き乙女たちの、文字通りこれが最期の通信となった。この時彼女らの手には、青酸カリが握りしめられていた。
(注:真岡町は現サハリン州ホルムスク、泊居町は同トマリ、蘭泊村はヤブロチヌイ。いずれも現在ロシアが実効支配している)

 あの時、5日前に戦争は終わっていたはずだった。祖国は敗戦に打ちのめされ、軍は自主的な武装解除を進めていた。なのになぜこのようなことが起きたのか。終戦も停戦協定も無視して一方的・暴虐的に侵攻してきたソ連軍によって、最終的には南樺太の日本人人口のおよそ4分の一、10万人余りが帰らぬ人となった。この死はいったいなんだったのか。
 その理由を知るには、まず旧ソ連の領土的野心と謀略、それとロシア人自身とその軍の性質など、多くのことを知らなければならない。しかし一度にすべてを語ることは難しいので、ここではそのうち、ソ連侵攻に至った背景と経緯、それと「規律」の面で見た「ソ連軍」というものについてだけ述べる。



 日本とドイツの劣勢が揺るぎないものとなった大戦末期、1945年の2月に米英露3か国で極東密約(ヤルタ協定)が結ばれた。その趣旨を一言で言えば、アメリカは日本の領有地・千島列島を引き渡すことを交換条件に、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促したことにある。ここで交わされた具体的な内容は次の通り。

①ソ連はドイツ降伏後90日以内に日本との戦争に参戦する
②モンゴルの現状は維持される
③日本の領有する樺太南部をソ連に帰属させる
④同じく千島列島をソ連に引き渡す
⑤満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益確保

注:樺太(サハリン)は、江戸時代に幕府直轄領を経て1821年より松前藩の所領となっていた。しかしその後進出してきたソ連との間に国境問題が頻発する。その解決として1875年日ソ両国は「樺太・千島交換条約」を締結。樺太全島はソ連領とする代わり、占守島までの千島列島は日本領と決められる。更にその後、日露戦争後のポーツマス条約(1905)によって、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本へ割譲され、それ以来日本領となっている。終戦時点での南樺太の人口は約41万人。

 この時点でルーズベルトは、自国の被害を最小にして対日戦に勝利するためには、ソ連の参戦が不可欠と考えていた。しかし米国は、その後原子爆弾を完成させたことによって、当初の予想以上に日本の降伏は早いと予測し、ソ連の参戦は不要とのスタンスに変えている。つまりソ連の参戦自体が元はと言えば米国の一時的な都合で発案されたものに、この機を逃さず盗れるものなら何でも盗ってやろうというソ連側が飛びついて画策されたものなのである。
 それにこのヤルタ協定は、国際法上その正当性が裏付けられてはいない。まず「当事国が関与しない領土の移転は無効である」という国際法に違反していること。これは国際通念上自明の理である。もしこれを認めれば、世の中の小国はみな大国に飲み込まれてしまう。それともうひとつ、「連合国自らが領土拡張の意図を否定」したとされるカイロ宣言(1943)とも矛盾している。
 ソ連は1945年4月に、4年前に締結された「日ソ中立条約」の延長を求めないことを日本政府に通告。これによって条約は自動的に、翌1946年の4月25日に効力を失うことになる。しかしそれまでの期間は日ソ中立条約の有効期間内なので、これだけでソ連は日本に対し一方的に宣戦できるという根拠とはならない。
 しかしこの機に乗じて密かに北海道までの奪取を目論んでいたソ連側にとっては、どうしても日本が降伏する前に「参戦」する必要があった。よってソ連は、ドイツ降伏後ほぼ3か月後の8月8日に対日宣戦布告。明らかな条約違反である。またこの時点まで日本政府は、この条約を頼りにソ連政府に連合国に対する和平工作(事実上の降伏交渉)の仲介役を依頼していたが、ソ連側はそれに対して曖昧な態度をとり続け時間を稼ぐ傍ら、密かに対日戦の準備をしていたのである。卑劣というか、なんというか・・・これが国際関係だ!と言われればそうかもしれないが、ここまでやる国家は、世界にあまりない。
 つまりソ連としては自分が「戦勝国」となる前に日本に降伏されてはまずいのであり、また同時に日本が既に降伏まで秒読みの段階にいるということも熟知していた。日本は既に虫の息である。今こそ40年前の敗北の汚名をそそぐチャンスだ(1904年の日露戦争は、日本とロシア帝国が対等に、がっぷり四つに組んで戦った戦争である)。うまくやればあの時とられた領土の何倍かを奪取できるだろう。千島・樺太どころかあわよくば北海道までも。ここは何と言われようと押しの一手だ。ソ連の首脳陣はそう考えたに違いない。対日侵攻はこのようにして画策された。
 宣戦布告は8月8日、駐ソ連日本大使に対してなされた。しかしこの時日本領事館の電話回線はすべて切断されており、大使はそのことを政府に連絡することができなかった。その結果ソ連側の参戦は完全なる奇襲となった。
 翌9日に満州への侵攻開始。兵員およそ160万(関東軍の2.3倍)、その他火砲(同26倍)・戦車(同28倍)・航空機(同10倍)という、圧倒的な兵力が投入された。 迎え撃つ関東軍は物資・交通手段・準備など他のあらゆる面でも大きな後れをとっていた。進撃は怒涛であり、各地で玉砕・全滅が相次ぐ。その結果最優先事項であった日本人居留民、とりわけ辺境に近い開拓団(当時およそ132万人と推定)の引き揚げは難航を極めた。これが後に「中国残留孤児」の問題を産むことになる。
 樺太におけるソ連軍は、11日から本格的な侵攻を開始。15日の終戦を迎えても収まるどころか、一般住民を含めた無差別攻撃を一層激化させつつ南下。対する日本軍は上層部から「積極戦闘を禁ずる」の命を受けており、専守防衛的な行動に制限されていた。そして20日、ソ連軍は真岡の市街地に艦砲射撃後上陸し無差別殺戮。状況打開のため日本軍から派遣された軍使も殺害される。ここに及んで遂に軍も自衛戦闘に転換。冒頭の「真岡郵便通信局事件」はまさにこの時に起きたのである。
 8月22日に知取にて日露両軍による停戦協定が結ばれる。しかしその後も、赤十字のテントと白旗が掲げられた豊原駅前への空爆、病院に取り残された医療関係者や患者等が銃殺されるなど、ソ連軍による無差別攻撃は留まらなかった。またその日、樺太から北海道への引揚船「小笠原丸」「第二新興丸」「泰東丸」が留萌沖でソ連軍潜水艦に攻撃され、1708名の死者と行方不明者を出す(三船殉難事件)。このようにしてソ連軍が強引に全樺太を制圧したのは25日だった。
 ソ連の対日侵攻は9月始めまで継続され、各地で無抵抗の、またはほとんど戦闘能力を抑制された日本軍を相手にまるで飛脚が先を急ぐような、一方的な進撃が続けられた。結果的に満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島がその支配下に編入された。特に占守島以南の千島列島が侵攻されたのは、終戦をとうに過ぎた8月18日~9月5日である。歯舞群島の占領は、ミズーリ号における降伏文書調印の後になっている。
 このように、史実を見れば、終戦間際にソ連軍が行った行動は、その開戦を始めとして悉く国際法違反に違反を重ね、卑劣さと非人道的暴挙に満ち満ちたものである。それを例えるならば「火事場の殺人強盗」または「瀕死の病人を殺して布団を剥ぐ」行為と言える。今なお国際的な原則論的認識としては、南樺太と北方四島を含めた千島列島は国際法上「日本領」に最も近いのであり、戦後60年実効支配し続けているロシア政府正当化の根拠は薄い。
(注:サンフランシスコ講和条約では、日本は「千島列島・南樺太の権利、権原及び請求権の放棄」を承認しているが、この意は「処分権を連合国に与えることへの日本の同意」と解釈されている。条約締結以降連合国は「南樺太」「北方四島」「千島列島」のいずれもどの国の所有に帰すとの判断を下していないため、国際法上それらは所属未定と位置づけられる。また1952年に米国上院も「サンフランシスコ講和条約はこれらの領土をソ連に引き渡すことを意味してはいない」旨決議している。なおソ連はサンフランシスコ講和条約に署名してはおらず、またその後日ソ間の領土の合意はなされていないため、現在でも南樺太と北方四島、千島列島は国際法的には「所属未定」のままである。)
 対日戦の主役であるアメリカでさえ、一時期統治した沖縄・奄美・小笠原を日本に返還している。ましてや終戦間際のほんの僅かな期間、しかも8月15日を境に事実上武装解除に近かった「戦えない日本軍」を相手に侵略・暴虐の限りを尽くした今のロシアが、南樺太と千島列島を「戦利品」だとして自国領と主張する正当な根拠はない。ただこの問題は、ヤルタ会談で一度対日参戦を約束させてしまったアメリカが、その負い目もあって当初黙認していたこと、広く国際社会にあっては、戦後60年に亙るロシア実効支配の経緯から、北方領土を事実上「ロシア領」と認識している国が多いことが、事態を硬直化させる要因となっている。
(注:ただし米国は日ソ共同宣言(1956)に先立って、「北方領土は常に日本の領土であったので、日本に主権があることは正当」との認識を示している。)
 つまり国際法上正当な立場にありつつも、南樺太と千島列島に関しては今日までその主権を強く主張してこなかった日本に非があると言えばある。また北方四島においては、日本は一貫して自国領と主張してきたのだが、現在に至ってそれら先人の積み重ねを一気に台無しにしてしまうような事態に直面している。つまり鳩山から始まる民主党政権が、中国・朝鮮におもねる姿勢を取り続けるあまりに、今まで渋々ながら「話し合いの余地あり」の姿勢を見せていたロシアもここぞとばかりにわかに「北方四島の永続的な主権」を主張し始めたのである。竹島や尖閣さえ日本は譲歩している。ならば北方四島など楽勝でものにできる。
 現在の状況は、奇しくも終戦間際のあの頃と似通っていると言えなくもない。ともに日本が政治的・外交的に危機状態にあり、それにつけ込んでロシアが道理を押し切って日本領を強奪・固定化しようとしている。しかし、ここまで強引に来るのは60年ぶりかもしれない。
 このことは極左的な現政権の問題だけではなく、今まで長きに亙ってこの事案を棚上げにしてきた自民党政権にももちろん責任はある。しかし事の根底には、戦後の新憲法と左翼勢力の過度な台頭、日教組を中心にして行われた誤った歴史教育、国家の安全保障を他人任せにしたために生じた他国(中国・朝鮮)による社会勢力と国家権力への浸透などが存在し、それらの蓄積が半世紀を経て、今や止めようがないほどに溢れ出てきた結果と見ることができる。
 それともうひとつ、日本が正論を正論として主張するに臆し、また仮に主張したにしても国際社会において一顧だにされないのは、ひとえに「有事の際に外部に及ぼしうる実効的な力」を持っていないことに起因する。つまりアメリカによって封印された軍事力の欠如が、日本を国際舞台の上で事実上「半人前」の国家としてしか扱われない、そんな事態を招いてしまっているのだ。国家間の関係は単なる理想や空想、希望的観測だけでは成り立たない。そのことは、世に言う「平和憲法」や「専守防衛的軍隊」をこの60年間、日本以外のどの国も採用していないという厳然たる事実が証明している。
 国家から軍事力を奪うことは、個人から手足を奪うことと同じである。もしその国家がお金を持っていれば、他国はそれを奪うに躊躇しない。また後ろ盾を失った暁には、それは国家の滅亡そのものを意味する。国際社会は「友愛」や「遠慮」「思いやり」が通じる世界ではないのだ。古今東西軍事力を持たない国はなかった。もしそんな国家があるならば、その国はいったいどういう末路を辿るのか。今、日本はそんな悲劇を身に負っている。


(つづく)

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