草たちはどこにでも生えていて、どれもこれも一緒に見えるけど、
実はちゃんとこの地この場所に適応した自分の体を作りながら生えている。
だからある場所で育った草を他の場所に移しても、どんなに似たような環境を人為的に作っても、生きられない場合がある。
「適応力」というのだろうか。
適応力の大きい草は、どこに移しても逞しく行き続けて子孫を残し、
世代を経るにしたがってどんどんその地に適応して根づいていくけれど、
適応力の小さな草は、
誰もが育てるような環境では、たちまち淘汰されてしまう。
しかし彼らはその代わり、他の誰も育てない特殊な場所で生きることができたりする。
これも生き物の適応した姿。
地球にとってはどの場所も変わりなく大切なところだから、
どの場所にも草たちが生きれるように、
植物としての役割を果たしてくれるように、
漏らさず配慮してくれているみたいだ。
だから草たちはみんな同じでなく、この場所に生えているこの草はここだけの存在。
ちゃんとそれぞれの役割を持って、ここで生きるべくして生きている。
地球上で言えば、そうだねクローバーならクローバーで考えても、「このクローバー」は、おそらく何千兆もある中でたったひとつの存在なんだろう。人間の目からは同じに見えてしまうけれど。
きっと彼らに名前をつけてやれば、喜んでくれるかもしれないな。
今日あなたと私は出会ったとする。
それはたまたま迷って道を訪ねた相手だったり、
インターネットでひとことやりとりしただけだったりするけれど、
その出会いの確率は、
60億分の1。
あなたはあなたの他に無く、
私は私でしかない。
あなたは今日私の人生を構築するピラミッドの一部となり、
私もあなたの一部となる。
それが出会いであり、
途方も無いくらいの選択肢の中で抜擢し、構成される
ユニークな
人生の仕組み。
一生のうちに私たちは、
何人の人と出会えると思いますか。
私の世界も、あなたの世界も、この世界は出会いの総合体。
だから私たちは、みんな
一緒に生きている、と言える。
この詩は次の記事にトラックバックしています。
「こう・ストーリーズ」【詩】『出没 』
「Club Seagull's~夕暮れ練習帳~」『一万人にひとりの確率』
『出会いの確率・2』に続く
【写真は猫家の水芭蕉】
実はちゃんとこの地この場所に適応した自分の体を作りながら生えている。
だからある場所で育った草を他の場所に移しても、どんなに似たような環境を人為的に作っても、生きられない場合がある。
「適応力」というのだろうか。
適応力の大きい草は、どこに移しても逞しく行き続けて子孫を残し、
世代を経るにしたがってどんどんその地に適応して根づいていくけれど、
適応力の小さな草は、
誰もが育てるような環境では、たちまち淘汰されてしまう。
しかし彼らはその代わり、他の誰も育てない特殊な場所で生きることができたりする。
これも生き物の適応した姿。
地球にとってはどの場所も変わりなく大切なところだから、
どの場所にも草たちが生きれるように、
植物としての役割を果たしてくれるように、
漏らさず配慮してくれているみたいだ。
だから草たちはみんな同じでなく、この場所に生えているこの草はここだけの存在。
ちゃんとそれぞれの役割を持って、ここで生きるべくして生きている。
地球上で言えば、そうだねクローバーならクローバーで考えても、「このクローバー」は、おそらく何千兆もある中でたったひとつの存在なんだろう。人間の目からは同じに見えてしまうけれど。
きっと彼らに名前をつけてやれば、喜んでくれるかもしれないな。
今日あなたと私は出会ったとする。
それはたまたま迷って道を訪ねた相手だったり、
インターネットでひとことやりとりしただけだったりするけれど、
その出会いの確率は、
60億分の1。
あなたはあなたの他に無く、
私は私でしかない。
あなたは今日私の人生を構築するピラミッドの一部となり、
私もあなたの一部となる。
それが出会いであり、
途方も無いくらいの選択肢の中で抜擢し、構成される
ユニークな
人生の仕組み。
一生のうちに私たちは、
何人の人と出会えると思いますか。
私の世界も、あなたの世界も、この世界は出会いの総合体。
だから私たちは、みんな
一緒に生きている、と言える。
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「こう・ストーリーズ」【詩】『出没 』
「Club Seagull's~夕暮れ練習帳~」『一万人にひとりの確率』
『出会いの確率・2』に続く
【写真は猫家の水芭蕉】
こないだテレビで地球の生命史を扱った番組があったのですが、最新の説では初めて肺呼吸を獲得し、地上に上がってきた生き物というのは、「水中の生存競争に敗北して、仕方なく」地上にあがってきたそうです。
どんな状況でも多様に生き抜く生命に不思議を感じました。進化に「意思」などありませんが、あるべくして私たちはここにあるんですね。
今回書いたのは前半です。
難しそうなことを言ってるけど、実際捉えていることはとてもシンプルなんですけどね。言葉にすると難しく感じます。
野菜の写真はあまりありません。blogを始めてから写真を努めて撮っているのですが、デジタルじゃないし、天気のいい日は仕事だし、写真はいつも不足気味です。
生物界は弱肉強食でもないし、勝ったのが生き残ったわけでもない、それとは違うメカニズムがあるんじゃないかと思うんです。
でも、それについてはまだ自分なりの発見や気づきが足りなくて、まとまったことが言えません。
rirakkusuさんは軽いことも言えるし、重いことも言える人ですね。受け容れる幅が広いような気がします。
私のblogに限っては、あまり気を使わないで自由に気軽にコメントしてくださいね。それでも私にとっては結構気づかされることが多いんです。
気付いたことありますか?
踏まれれば踏まれるほど、たくさんの友達ができるといいですね。
本当に、クローバーもpersempreさんもいいことを教えてくれます。
私たちもそう、創られているのでしょうね。
お互い、もっともっとたくさん踏まれた方がいいかもしれませんね。
blogもそう、波風の立つつき合いを通して良い人間関係が生まれてくるみたいです。
例え人に対して絶望し心を閉ざしても、あなたは花に心を開いてなお生きようとしている。だから、こう思うのです。
花は生きようとするあなたの生命を代弁してくれているかもしれません。
草や花たちは私たちさえその気になれば、とてもいろいろなことを教えてくれる。
彼らは素直で、例え死に逝く時でも驚くほど前向きなことを伝えてくれる。
日々草を刈り、草の芽を摘む私にさえも。
花と話ができる哀しさは、話をすることにではなく、話をするようになった、その人のこころにあると思います。その哀しみの少しでも、わかる気がします。
花は、草は、最期の最期までとても優しい。
あなたに、私にしかできないことが、この世の中にはたくさんあります。それは決してお金持ちになったり、みんなから尊敬されたりすることではないかもしれないけれど、人と比べて少し違った経験をして来た私たちには、あると思うのです。
それは、路傍の一輪の花の生命を救うことかも知れません。
それが自分の生きる道ならば、そうして生きて行きましょう。
あなたの前途に、幸がありますように。