
夕方、浴槽に湯を張ろうとしたら、底にクモが張り付いていた。足を広げた大きさは、手のひら(指を除いた平らな部分)にひと回りほど小さい。
コアシダカグモ。わが家の母屋に定住するクモ家族の中で最大のものだ。
日中はどこかでじっとしていて、夜になると活動するらしい。去年は風呂場の照明近くを定位置にしていて、風呂に入る時に間違って湯をかけたりしないよう気遣ったものだった。しばらく見ないなと思っていたところ、今度はバスタブの中で発見したのだった。ただ、前より色が薄いようなので、もしかしたら別の個体かもしれない。
捕まえようとしても逃げ回るので、A4の大きさの紙の上に移動させ、紙ごと外に出した。脱衣所の床に置いておくと、いつの間にかいなくなっている。私は、なるべくクモを殺さないようにしている。特に彼らが好きだという訳ではないが、ただわが家では、彼らはとっても役に立ってくれている。それに気づいたのはずっと昔のことだ。
わが家は古い農家の造りなので、とても風通しが良く、しょっちゅう虫が家の中に浸入する。ハエも蚊も、バッタもカマドウマももちろん常連だ。ハヤシノウマオイ(スイーッチョンと鳴く)は夏から秋にかけての押しかけ楽団。冬が近づくと、カメムシやテントウムシが越冬すべく大挙飛来。ストーブの薪と一緒にカミキリムシの幼虫が潜り込み、翌年、屋内で成虫になって飛び立つなんてこともある。
春になると壁やサッシの隙間で越冬していたカメムシたちが動き始めるのだが、ブーンと飛び回った挙句に鍋の具になっていたり、酒のカップの中で泳いでいたりする。私は彼らに、入って来たときと同じように自分で外に出ろ!と説諭するのだが、彼らの多くは聞いてくれない。仕方ないので、台所や流しを歩いている彼らを一匹一匹捕まえては、窓を開けて外に出している。まったく世話の焼けるヤツらである。
しかし一番気になるのは、なんと言ってもハエだ。玄関には猫トイレが設置してあるので、気温が上がるとその周りは渋谷の交差点さながら、ハエの乱れ飛ぶ状況となる。もちろん家の中に入らないようそれなりに気をつけてはいるのだが、やはり侵入は防げない。母屋にはコンポストトイレがあって、ともすればそこでハエが大発生、という事態になりかねない(実際幾度もそうなっている)ので、毎年季節になると、トイレのハエ対策には重々気をつけなくてはならない。
だから家の中をハエが飛び回っていると、とても気になるのだが、ある時とある事に気づいた。
屋内に入って来たハエは、しばらくは喜んでそこら中飛び回っているが、数日経つといなくなっている。ハエは積極的に家屋内に侵入はしても、自分から出ていくことはまずない(それだけ人家の中が好適な環境だということだ)。はて、なぜだろうと考えていて、ハタと気がついた。そうか、クモが捕まえてくれているのだ!
クモの習性を大雑把に分けると、半分は巣を張って獲物を待ち受け(造網性)、半分は巣を張らずに、歩き回って獲物を捕らえる(徘徊性)。わが家にはこのどちらのタイプもたくさんいて、窓や壁、天井近くは蜘蛛の巣でお化け屋敷のようだし、夜には床やちゃぶ台の上を徘徊性のものが歩き回っている。考えてみれば、これだけクモがいるということは、当然それを支えるだけの餌があるということであり、彼らは「生きたもの」しか食べないから、つまり、家屋内に浸入したハエやムシ類を食べてくれているということになる。
なるほど、これで屋内に侵入したハエが姿を消す理由がわかった。彼らクモたちは、人知れずわが家のハエの大量発生を防いでくれていたのだ。のみならずカマドウマや蛾なども闇から闇へと葬ってくれてるに違いない。
それから私は、クモを殊の外大切にするようになった。彼らを殺すことなどないし、生活の動線に触らない限り、蜘蛛の巣はできるだけ残しておく。それが、わが家が「お化け屋敷化」した原因である。もし小さな子どもがわが家に迷い込んでしまったら、泣き出してしまうかもしれない。
わが家がクモを大切にしているという噂がいつの間に広まったものか、以来屋内で見かけるクモの種類も数も、堅調に増え続けている。ハエトリグモなどどこにでもいるし、壁にはヒラタグモが巣を構え、窓周りや部屋の隅にはヒメグモやユウレイグモが軒を連ねている。夜に酒を飲んでいると、一升瓶のラベルに大きなハシリグモが張り付いていたこともある。
お陰で私も、クモの名前をたくさん覚えることとなった。もしこのことが知れ渡ったら、その方面の研究者の方から、ぜひフィールドワークをさせてくれと頼まれてしまいそうだ。

イオウイロハシリグモ
これも足を広げて7~8cmありそうな、大きいクモである。よく見かけるが、写真に収めることがなかなかできない。カメラをとりに行っている間にいなくなってしまうし、撮ってもピンボケだったりする。この画像も、記事冒頭の画像(コアシダカグモ)と同じく、他のサイトから借用したもの。
ここでバスタブの中にいた、コアシダカグモの話に戻ろう。湯を張る前に見つけて救ったつもりでいたが、その翌日に覗いたら、またいた。今度は二匹に増えている。仲間を連れて戻って来るとは、よほど風呂桶の中が気に入ったのだろうか。餌となるものもなさそうなのに。もしかしたら落ちて出られないでいるのか(わが家はユニットバスである)。それとも最近入浴剤として使い始めた「天然湯の華」の匂いが気に入ったのか。未だよくわからない。
ただ彼らと私は、厚い信頼関係にあって、たとえバスタブの中に落ちようと、私が必ず助け出してくれることを知っているようだ。まあ、私も彼らと一緒に風呂に入りたくはない。
そんな、わが家の家族として切っても切れない絆にある彼らだが、しかし自然界ではただ狩人としているだけでもないようだ。先日玄関前の地面で、一匹のハチが大きなクモを、えっちらおっちらと運んでいるのを見かけた。

オオモンクロベッコウ
クモの神経中枢を針で刺し、麻痺状態にして、穴の中などに運び込み、産卵する。孵化した幼虫は生きたままのクモを食べて育つ。
いわゆる「狩りバチ」である。このような姿は何度も見かける。狩られるクモも、大きいものから小さなものまで様々である。ハエを捕らえたクモがハチに食べられ、そのハチもオニヤンマの餌となる。自然界の生態系は緻密であり漏れが無い。もし私がハエを殺そうと殺虫剤を撒いたり、家の中を綺麗にしてクモを駆逐していたら、その生態系は綻び、やがては更に大発生したハエの大群に悩まされることになるのだろう。お化け屋敷にもいいことがあるものである。掃除をしないズボラにも意外な取り柄がある。
世の中には、人が勝手に「害虫」「害獣」と呼んで忌み嫌う生きものたちは多いが、彼らのことは、やはり地球に任せるのがいいようだ。もし彼らが本当に「害」だとしたら、地球の生態系は今のようにはできていないはずだ。それを「害」と見做す側の方に、なにがしかの問題点があると考えるのが自然である。
また一方的に敵対心を持って攻撃(駆除)するのも、事態を更にエスカレートさせる要因である。「敵対のエネルギー」は、同じもので還ってくる。つまり更に「敵対心を抱かせるような状況」を自ら招いてしまうのだ。仮に虫の側はなんら敵対心を抱かないとしても、人間の側から見たらまるで「敵対している」かのように見える状況を、ピックアップして現実化する。これは相手が動物であろうと植物であろうと、はたまた山であろうが大自然であろうが、基本的に同じである。これが「エネルギーで構成される宇宙」の法則だ。これを知るか知らないかは、田舎で暮らすにも、農業をするにも、この地球で生きるにも、そのあり方に大きな違いを生む。
ハエと言えば、最近こんなことがあった。一匹のイエバエ(生まれて間もないかのように、少し小柄だった)が家の中に入り込み、暑いものだからズボンやシャツを脱いでる私の腕や肩や、背中に纏わりついていた。見るとなにをするでもなく、ほとんどの場合ただじっとしている。私が追い払わないので、人を怖れてせわしく飛び歩くこともない。
コンポストトイレの部屋にはハエ捕りリボンがぶら下げてあって、幸運に恵まれてクモに捕まらなかったハエも、いずれはそこでお陀仏になるようになっている。実際家の中に入って来たハエで、長い間生き続けるものはまずいない。それを知っているので、私もせめてハエたちに、生きている間はできるだけ伸び伸びと生きてもらいたいと思って、ウルサイとは思いつつも、許容できるところは許容して、好きに歩かせている。
しかしそのハエは、何日も経ち、一週間経っても同じように居続けた。もしかしたら他のハエに入れ替わってるのかもしれないが、でも行動を見ると、私には同じハエに思えた。私が家の中に入ると、どこからかやってきて、必ず肌に留まるのである。その日も寝ころんで、手の甲に留まった彼を見遣りながら、わが家最強のクモ軍団の包囲網を搔い潜って生き続けるとは、オマエも若いのになかなかのものよのう、などと思っていて、ふと閃いた。
私は静かに立ち上がり、彼を刺激しないように気をつけながら窓のそばに行き、窓から手首だけ出して、払った。ハエは飛び立ち、広々とした空へと消えて行った。
こうして私は、彼を外に出すことに成功したのだった。たった一匹のハエでも、殺さずに済ませれたことは嬉しかった(できればすべてのハエが、同じようであってほしい)。どんな生きものもムダに殺すことなく、どうしても必要なときは、そうさせてくれることに感謝しながら、謙虚な気持ちで最小限の命を絶たせてもらう。地球上のすべての生き物と、そのような関係を持てたらいいと思う。
地球の生態系の中にいながら、その頂点に立って、すべての生きものたちを世話し調和から外れないよう見守る、それが原初より人類に与えられていた役割だった。いずれは私たちも、新しい地球の上でそのように振舞うようになるのだろう。
コアシダカグモ。わが家の母屋に定住するクモ家族の中で最大のものだ。
日中はどこかでじっとしていて、夜になると活動するらしい。去年は風呂場の照明近くを定位置にしていて、風呂に入る時に間違って湯をかけたりしないよう気遣ったものだった。しばらく見ないなと思っていたところ、今度はバスタブの中で発見したのだった。ただ、前より色が薄いようなので、もしかしたら別の個体かもしれない。
捕まえようとしても逃げ回るので、A4の大きさの紙の上に移動させ、紙ごと外に出した。脱衣所の床に置いておくと、いつの間にかいなくなっている。私は、なるべくクモを殺さないようにしている。特に彼らが好きだという訳ではないが、ただわが家では、彼らはとっても役に立ってくれている。それに気づいたのはずっと昔のことだ。
わが家は古い農家の造りなので、とても風通しが良く、しょっちゅう虫が家の中に浸入する。ハエも蚊も、バッタもカマドウマももちろん常連だ。ハヤシノウマオイ(スイーッチョンと鳴く)は夏から秋にかけての押しかけ楽団。冬が近づくと、カメムシやテントウムシが越冬すべく大挙飛来。ストーブの薪と一緒にカミキリムシの幼虫が潜り込み、翌年、屋内で成虫になって飛び立つなんてこともある。
春になると壁やサッシの隙間で越冬していたカメムシたちが動き始めるのだが、ブーンと飛び回った挙句に鍋の具になっていたり、酒のカップの中で泳いでいたりする。私は彼らに、入って来たときと同じように自分で外に出ろ!と説諭するのだが、彼らの多くは聞いてくれない。仕方ないので、台所や流しを歩いている彼らを一匹一匹捕まえては、窓を開けて外に出している。まったく世話の焼けるヤツらである。
しかし一番気になるのは、なんと言ってもハエだ。玄関には猫トイレが設置してあるので、気温が上がるとその周りは渋谷の交差点さながら、ハエの乱れ飛ぶ状況となる。もちろん家の中に入らないようそれなりに気をつけてはいるのだが、やはり侵入は防げない。母屋にはコンポストトイレがあって、ともすればそこでハエが大発生、という事態になりかねない(実際幾度もそうなっている)ので、毎年季節になると、トイレのハエ対策には重々気をつけなくてはならない。
だから家の中をハエが飛び回っていると、とても気になるのだが、ある時とある事に気づいた。
屋内に入って来たハエは、しばらくは喜んでそこら中飛び回っているが、数日経つといなくなっている。ハエは積極的に家屋内に侵入はしても、自分から出ていくことはまずない(それだけ人家の中が好適な環境だということだ)。はて、なぜだろうと考えていて、ハタと気がついた。そうか、クモが捕まえてくれているのだ!
クモの習性を大雑把に分けると、半分は巣を張って獲物を待ち受け(造網性)、半分は巣を張らずに、歩き回って獲物を捕らえる(徘徊性)。わが家にはこのどちらのタイプもたくさんいて、窓や壁、天井近くは蜘蛛の巣でお化け屋敷のようだし、夜には床やちゃぶ台の上を徘徊性のものが歩き回っている。考えてみれば、これだけクモがいるということは、当然それを支えるだけの餌があるということであり、彼らは「生きたもの」しか食べないから、つまり、家屋内に浸入したハエやムシ類を食べてくれているということになる。
なるほど、これで屋内に侵入したハエが姿を消す理由がわかった。彼らクモたちは、人知れずわが家のハエの大量発生を防いでくれていたのだ。のみならずカマドウマや蛾なども闇から闇へと葬ってくれてるに違いない。
それから私は、クモを殊の外大切にするようになった。彼らを殺すことなどないし、生活の動線に触らない限り、蜘蛛の巣はできるだけ残しておく。それが、わが家が「お化け屋敷化」した原因である。もし小さな子どもがわが家に迷い込んでしまったら、泣き出してしまうかもしれない。
わが家がクモを大切にしているという噂がいつの間に広まったものか、以来屋内で見かけるクモの種類も数も、堅調に増え続けている。ハエトリグモなどどこにでもいるし、壁にはヒラタグモが巣を構え、窓周りや部屋の隅にはヒメグモやユウレイグモが軒を連ねている。夜に酒を飲んでいると、一升瓶のラベルに大きなハシリグモが張り付いていたこともある。
お陰で私も、クモの名前をたくさん覚えることとなった。もしこのことが知れ渡ったら、その方面の研究者の方から、ぜひフィールドワークをさせてくれと頼まれてしまいそうだ。

イオウイロハシリグモ
これも足を広げて7~8cmありそうな、大きいクモである。よく見かけるが、写真に収めることがなかなかできない。カメラをとりに行っている間にいなくなってしまうし、撮ってもピンボケだったりする。この画像も、記事冒頭の画像(コアシダカグモ)と同じく、他のサイトから借用したもの。
ここでバスタブの中にいた、コアシダカグモの話に戻ろう。湯を張る前に見つけて救ったつもりでいたが、その翌日に覗いたら、またいた。今度は二匹に増えている。仲間を連れて戻って来るとは、よほど風呂桶の中が気に入ったのだろうか。餌となるものもなさそうなのに。もしかしたら落ちて出られないでいるのか(わが家はユニットバスである)。それとも最近入浴剤として使い始めた「天然湯の華」の匂いが気に入ったのか。未だよくわからない。
ただ彼らと私は、厚い信頼関係にあって、たとえバスタブの中に落ちようと、私が必ず助け出してくれることを知っているようだ。まあ、私も彼らと一緒に風呂に入りたくはない。
そんな、わが家の家族として切っても切れない絆にある彼らだが、しかし自然界ではただ狩人としているだけでもないようだ。先日玄関前の地面で、一匹のハチが大きなクモを、えっちらおっちらと運んでいるのを見かけた。

オオモンクロベッコウ
クモの神経中枢を針で刺し、麻痺状態にして、穴の中などに運び込み、産卵する。孵化した幼虫は生きたままのクモを食べて育つ。
いわゆる「狩りバチ」である。このような姿は何度も見かける。狩られるクモも、大きいものから小さなものまで様々である。ハエを捕らえたクモがハチに食べられ、そのハチもオニヤンマの餌となる。自然界の生態系は緻密であり漏れが無い。もし私がハエを殺そうと殺虫剤を撒いたり、家の中を綺麗にしてクモを駆逐していたら、その生態系は綻び、やがては更に大発生したハエの大群に悩まされることになるのだろう。お化け屋敷にもいいことがあるものである。掃除をしないズボラにも意外な取り柄がある。
世の中には、人が勝手に「害虫」「害獣」と呼んで忌み嫌う生きものたちは多いが、彼らのことは、やはり地球に任せるのがいいようだ。もし彼らが本当に「害」だとしたら、地球の生態系は今のようにはできていないはずだ。それを「害」と見做す側の方に、なにがしかの問題点があると考えるのが自然である。
また一方的に敵対心を持って攻撃(駆除)するのも、事態を更にエスカレートさせる要因である。「敵対のエネルギー」は、同じもので還ってくる。つまり更に「敵対心を抱かせるような状況」を自ら招いてしまうのだ。仮に虫の側はなんら敵対心を抱かないとしても、人間の側から見たらまるで「敵対している」かのように見える状況を、ピックアップして現実化する。これは相手が動物であろうと植物であろうと、はたまた山であろうが大自然であろうが、基本的に同じである。これが「エネルギーで構成される宇宙」の法則だ。これを知るか知らないかは、田舎で暮らすにも、農業をするにも、この地球で生きるにも、そのあり方に大きな違いを生む。
ハエと言えば、最近こんなことがあった。一匹のイエバエ(生まれて間もないかのように、少し小柄だった)が家の中に入り込み、暑いものだからズボンやシャツを脱いでる私の腕や肩や、背中に纏わりついていた。見るとなにをするでもなく、ほとんどの場合ただじっとしている。私が追い払わないので、人を怖れてせわしく飛び歩くこともない。
コンポストトイレの部屋にはハエ捕りリボンがぶら下げてあって、幸運に恵まれてクモに捕まらなかったハエも、いずれはそこでお陀仏になるようになっている。実際家の中に入って来たハエで、長い間生き続けるものはまずいない。それを知っているので、私もせめてハエたちに、生きている間はできるだけ伸び伸びと生きてもらいたいと思って、ウルサイとは思いつつも、許容できるところは許容して、好きに歩かせている。
しかしそのハエは、何日も経ち、一週間経っても同じように居続けた。もしかしたら他のハエに入れ替わってるのかもしれないが、でも行動を見ると、私には同じハエに思えた。私が家の中に入ると、どこからかやってきて、必ず肌に留まるのである。その日も寝ころんで、手の甲に留まった彼を見遣りながら、わが家最強のクモ軍団の包囲網を搔い潜って生き続けるとは、オマエも若いのになかなかのものよのう、などと思っていて、ふと閃いた。
私は静かに立ち上がり、彼を刺激しないように気をつけながら窓のそばに行き、窓から手首だけ出して、払った。ハエは飛び立ち、広々とした空へと消えて行った。
こうして私は、彼を外に出すことに成功したのだった。たった一匹のハエでも、殺さずに済ませれたことは嬉しかった(できればすべてのハエが、同じようであってほしい)。どんな生きものもムダに殺すことなく、どうしても必要なときは、そうさせてくれることに感謝しながら、謙虚な気持ちで最小限の命を絶たせてもらう。地球上のすべての生き物と、そのような関係を持てたらいいと思う。
地球の生態系の中にいながら、その頂点に立って、すべての生きものたちを世話し調和から外れないよう見守る、それが原初より人類に与えられていた役割だった。いずれは私たちも、新しい地球の上でそのように振舞うようになるのだろう。
それは、スマナサーラ長老という仏教や慈悲の瞑想というものを教えている方の動画です。タイトルは「殺生しないで生きられますか? スマナサーラ長老の初期仏教Q&A」というものです。
この動画の内容を簡単にまとめると、部屋に入ってくるゴキブリに対しても人間と対等な尊厳をもって接することで、部屋に入って迷惑をしなくなったというお話です。一般的な見方だと何ともファンタジーな話だなあと思われるかもしれません(笑)
でも、実際私自身がこれを体験しています。昔は害虫だと思っていた虫たちに対しても、尊厳をもち、懸命に生きているその様に敬意をもって殺さないようにすると、不思議なことに全く不快感を感じなくなったり、虫に迷惑をされなくなったりという体験があります。
「自分の嫌いな生命も好きな生命も関係なくすべての生命が幸せにすごせますように」というシンプルな思いを心に保つだけで、本当に自分の生活の質があがります。こんな単純なことが人生の裏技というか、秘術というか、自分を救ってくれるなんて、思ったよりも人生は難しくないのかなと思ったり。
アグリコさんも言及されているように、「自分の発したエネルギーが返ってくる」本当にそうだと思います!
私がクモを大切にし始めたのは、まだスピリチュアルとかシャーマニズムと出会う前で、単に煩いハエをどうにかしようと、生態系的観点からの発見を行動に移しただけでした。それが良い結果を奏し、今ではハエに対しても(若干の)親近感を持つようにもなりました。もう昔のようにハエ叩きで追い回したり、悩まされたりすることもなくなりました。ハエの方が変わってしまったかのように見えます。
つまるところ、「害虫」を生んだのは人間の方なのですね。生きとし生けるものを愛したかつての日本人には、ハエさえも思い遣りの対象だったのでしょうね。だから害虫も害獣もおらず、田や畑でちゃんと充分なだけの食料を生産してこれたのです。
実は私も、この山里で動物による農作物被害には頭を悩ましてました。今後農業を再開するに当たって、もう一度新しい気持ちで彼らとつき合ってみようと思っています。彼らは「敵(かたき)」ではなくて、「私たちの仲間なはずです。このようなチャレンジも、また面白そうです。