アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

笑顔の「前近代」化

2024-08-04 07:45:16 | 思い
昔、私は脱サラして農業を志し、まずは北海道へと向かった。北の大地で大規模機械化農業を学ぶつもりだった。トラクターに跨り広大な農場を駆け巡る、豪快な農業に魅せられていた。まあ、今となればそれも、「小作奴隷」を大量に確保しようとする支配者側の情報操作(メディアや広告宣伝を用いた洗脳)によるものとわかっている。当時の私は、創られた偽のイメージにまんまと載せられていたのだった。そのお陰で今日の私がある、と言えばそうなのだが、確かに北海道での経験には学ぶものが多かった。
最初に私を指導してくれたのは、とある畑作専業農家の方だった。彼は農家としてかなり成功しており、その地域ではリーダー的な存在らしかった。ただ人間としてはお世辞にも良い人には見えなかった。高圧的で我が強く、頭は切れるが傲慢だった。とてもこの人について行こう、とは思えない人だった。しかし「農業」という分野では、確かに優秀な人だったことは認めよう。

「トラクターにただ乗っていてはいけない」指導が始まって、彼はまずそう言った。機械作業というのは単調なものだし、特に広大な畑の端から端へと向かう途中では、ともすれば眠くなったり、気が散漫になったりもする。大型トラクターを操縦するのは最初の方こそカッコいい!と思うものだが、慣れれば単なる単調な作業の繰り返しである。ベルトコンベアーのパート従業員のそれに近い。特殊な技術や判断が必要とされる場合もあるにはあるが、99.9%はただ「動かし方」を知っているだけで事足りる。だから慣れるとまま「うわの空」で操作してしまっていたりする。
「農家が相手にするのは、作物だ。いつも、作物がどういう状態でいるのか、土やその周りに生えている植物がどうなのかを観察することだ」本当は植物に直に触れなければならないところを、自分は機械を操作し、その機械が植物に触れるのである。ワンクッション中間が入る分だけ、植物の状態を把握するためにはより多くの注意を払わなければならない。常に地面と作物に目を凝らせ。それとできるだけ頻繁にトラクターから降りて圃場を歩け。それが「プロとしての」農家の仕事なのだ。
また彼は言った。だからオレは、トラクターに乗る仕事など実習生に任せている。その間に自分は、こうして圃場を歩いている。できない農家ほど、トラクターから降りないものだ。それは単なる「小作人」で、農業者じゃない。・・・本当に彼の言うとおりだった。その後私は数々の農家で働き、いろいろな農業者を見たが、できる農業者、できない農業者の違いはまさしくそこにあった。できない者ほど自分はトラクターに乗ったままで、地面での手作業や細かい仕事は年寄りや女性にやらせ、「観察する」ということをしていない。

彼の指導は、単なる機械操作やマニュアル的な栽培技術ではなく、プロの農家としての心構えから始まっていた。彼は農業という一分野の「要点」を正確に把握し、凡庸な農作業員と卓越した農業技術者/経営者との違いを明確に指摘してくれた。やはり彼はただものではない。短い間ではあったが、私は彼から農業の一番大切な部分を学び、その後の「自分」と「農業」に役立てることができたのだ。本格的な農業を始めるに当たって、天は私に最適な先生を与えてくれたのだった。そういう人に習ったことを、今では誇りに思う。

その後私はその「根本」を守り、どこでもどのような状態にあっても、またなにをしていても、「生きもの」を観察することを心掛けた。作物、地面、その上の植物、周囲の虫や動物たち、そしてそれを取り囲む生態系を見ることを、そうして私は身につけたのだった。そう、本来農家は「生きもの」を相手にしてきた。今でこそ機械や農薬やお金ばかりしか見ず、大切な「生きもの」を無造作に殺してしまう農家ばかりになったが、一番大事にすべきなのは、その「生きた相手」なのだ。これを見失った農家は、ただ地球を汚染する破壊者に成り下がる。
例えば自分の子どもをまっすぐに育てようとする時に、その食事、遊ぶもの、環境、周囲にいる人間たちに、関心を向けない親がいるだろうか。それらはすべて、子どもの心身の成長にとって大きな影響力を持つものである。農家にとって作物は「子」、周辺環境はみな「生きものたち」である。そこに化学肥料や農薬を振り撒いて、健康体が育つはずがない。優秀な先生のおかげで、私はその当たり前のことを、当たり前のこととして早いうちに身につけることができた。

昔岩手のこの地方の農家は、「曲がり家」と呼ばれる人と馬とがひとつ屋根の下に住まう形態の家に住んでいた。家族の一員として馬を、犬を、動物を可愛がっていたそうである。そうして日本の昔話に見られるような、どこか温かく懐かしい空間が生まれたのだ。しかし現在の畜産は全然違う。今の多くの農家は、自分は現代風の快適な建物に住みながら、動物は「家畜」として可能な限り合理的かつ経済的な(つまり「劣悪」な)状況に囲い、搾り取れるだけ搾り取る。「経済動物」と呼んで、自分と同じ「いのちあるもの」とは見ない。
しかしその姿は、この社会における「支配者と一般庶民との関係」そのものである。私たちは動物たちを家畜として扱い始めると同時に、自らをも「家畜」として扱われることを許してしまったのだ。人は相手が「生きもの」でも「人」でも、同じ「信念体系」を通してそれを見る。大きな視点で捉えれば(人によって若干の差はあるにせよ)、動物や植物を扱う仕方と同じように、他の人間を扱うのである。今までは支配者と私たち、どちらも同じ程度の「愛の割合」でいたのだった。だから同じ波動領域で関わっていれた。

北海道から岩手に移り住み、独自の農業を育んで来た私は、いつまで経っても「機械」を導入しようとは思わなかった。土に触れ植物と交わるどの作業も、多くの学びと気づきの機会を与えてくれることに気づいたのである。このような貴重な接点を機械に預けるなどする気になれない。結果として私だけ、周囲の農家に取り残されたように前近代的で、収量も生産性もいつまでも低く、労力と時間が人一倍かかるものとなった。でも私は、それで満足していた。
始めは農業で一旗揚げようという野心を持っていたはずなのに、いつの間にか農業収入を諦め、土木や草刈りなどの「農外収入」で暮らすのが日常になっていた。食べものを買わず、身の周りの野草で毎日の食事を組み立てた。でも私は、「自分の農業」という意味では、充分に成功したと思っている。
この「アナログ的」農業、実は外側から見た印象ほど捨てたものではない、どころかとても素晴らしいものだということを私は知っている。稲が、野菜が、虫たちが自分の家族なのである。植物が、鳥たちが毎日語り掛けてくる。私にはみんな喜んでいるように見えるし、生命を謳歌しているように見える。お金のためにこの喜びを手放すことなど、とてもできない。「幸せを創る」という意味では、自分は「人生に成功した」と思っている。

でもアナログ的な私も、機械をまったく持っていないわけではない。毎年膨大な量の堆肥(植物質100%)を作るためにバックホーを持っているし、それを土にすき込むのにミニ耕運機を使っている(もうひとつ籾摺り機があって、これが私の保有する農業機械のすべてである)。自分としては要所で、ちゃんと文明の利器を活用しているつもりだ。ただ一般的な農家とは農業全般のやり方が大きく違うだけである。
今は一時農業活動を中断し、自宅のインフラ整備を進めているのだが、それもあと少し、物置一棟建築してひとまず終了という目途が立った。その後また自給農業を始める予定だが、今度はひとつ「耕耘しない」野菜作りをしてみようかと思っている。
この不耕起栽培、実は若い頃の一時期、別の場所でしていたことがある。しかしここに引っ越して来て、あまりに痩せた放棄田跡地で農業生産するのに、「堆肥を作ってすき込む」という短期的効果の高い方策を採用したのだった。以来それを20年間続け、そのおかげで、今やわが家の畑は充分肥えている。ここらが潮時だろう。今度は不耕起栽培を導入して、楽しさ一番、喜び二番の農業をしてみたい。するとバックホーも耕耘機も使わなくなるので、アナログ度がより深まり、わが家も更に一歩「前近代化」の歩を進めることになる。これはもう農業という仕事ではなく、農的な「遊び」である。
しかしこれでちゃんと暮らしていけるのだから、これでいい。無理やり子どもを学校に通わせ、従順な家畜に育成することもなければ、稼ぐためにピラミッドの支配構造にわが身を組み込んで奴隷になることもない。かつ生活全体が遊びになるのだから、ストレスもなく病気にもならない。たぶん縄文人や江戸時代の人々も、これと似たような生活をしていたのではなかろうか。このような指向性の人が増えるにつれて、やがては「お金」というものもあまり使われなくなっていくに違いない。

技術の先端を目指し、それを突き詰めていくうちにいつしか前近代的なものに至る。これはある意味、時代の転換点という現代にあって、とても「よくあること」なのかもしれない。振り子が振れて、ひとつの極点から対極に向かって振り戻すように、今、世界も社会も、ひとりひとりの暮らし方も、同じような動き(流れ)を見せている。
しかし完全に昔の状態に還るわけではなく、それを支える知識や技術は最先端のものである。自ずと表現の仕方は、旧来のものとは違い新しいものとなる。私が蝶や花を愛でながらパソコンを打っているようなものだ。竈に薪をくべながら本場のピザを焼くようなものだ。科学技術が本当の意味で人々のために使われたときに、このような「夢物語的暮らし」は実現するのだと思う。今がそれに向かって舵を切っている時だと思う。

ただ、すべての人が私のような「農的な暮らし」を送る必要があるわけではない。科学技術や商業、流通の分野で活躍する人も、新しい世界には必要である。ある業種では表向き「前近代的」にはならないだろうが、そういうところでも、働き方、仕事に取り組む姿勢、心構えは「前近代的」となる。つまり家を建てる人は誇りを持って最高のものを作り、モノを作る人は稼ぐためというよりは自分の納得できるものを作り、料理をする人は愛する人のために心を込めて作るようになる。100年前の日本がそうであったように。
そんなひとつひとつの個性が集まって全体を構成し、その中でエネルギ-もモノも循環してどの個性も光り輝く、それが今進んでいる「私たち全体の意図」(次元上昇する集合意識)だと思う。表面的には「前近代」化だが、私的にはそれがこれからの「トレンド(潮流・趨勢)」のように思える。一度失われかけた喜びも幸せも、子どもたちの笑顔も、その流れの中で取り戻していくに違いない。




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