
私は昔、といっても20年ほど前の頃だが、怖い夢を見ることが時折あった。おそらくずっと以前から、このような夢を見続けていたようなのだけれど、私が夢に関心を持つようになったのは、この農村に越してきてからである。そして、それに気づいたのだった。その夢は、忘れた頃に鳴る目覚まし時計のように、数週間か数か月ごとに繰り返し現れた。
夢のパターンは決まっていて、私が「何かに追われて必死に逃げる」という筋書きだ。背後から迫ってくる存在は頑強で狂暴、冷酷無比で巨大な力を持った怪物だ。夢によって容貌は違い、本物の怪物だったり、人間のようだったりする。追われている理由はよくわからない。でも夢の中の自分は、それから逃れようと必死だった。
足は泥濘に嵌ってしまったかのように重く、思うとおりに身体は動かない。逃げたり隠れたりするのだが、あまり功を奏さない。挙句に絶体絶命にあと一歩というところで、目を覚ますのが常だった。
これは、私が「夢」を自由に歩けるようになる前の話である。
ある時の夢はこうだ。なにか研究室のような建物の中で、私と、他にたくさんの仲間たち(同僚のような雰囲気だった)がいる。そこへホラー映画さながら、恐ろしい怪物が乱入する。とても対抗できるような状況ではない。思い思いに机の下や戸棚の陰、または部屋の奥へと逃げ回るのだが、仲間は次々と捕まり、破壊され、私もあわやというところで目を覚ました。
後からわかったのだが、実はこのような夢を、私は子どもの頃からずっと見ていたのだった。私が夢を憶えていない体質になったのも、そこに原因があったようだ。捉えどころのない恐怖は、誰しもすぐに忘れてしまいたいものである。
しかしその後シャーマニズムと出会い、シャーマンたちが修行の一環として「夢」を利用することを知り、私もそれを実践した(これが、後に私が明晰夢を見るようになったきっかけとなった)。それと併せて、やはりシャーマンたちが行っていた、内観を通して自分の信念体系を変える試みを始め、それから徐々に少しずつ、私の夢の内容は変わっていった。
夢の探求と信念体系の再構築によってわかったのだが、この一連の常習的な悪夢は、実に私自身の深い心の状態を表していたのだった。つまり、本当の自分(魂と繋がった自分自身)が、自己の信念体系(主にエゴの部分)に抑圧されている状態を表していた。そう、本当の私は常に駆逐され、虐げられて来たのだ。そのことを夢が知らせてくれていた。
だから信念の手放しを進めるにつれて、その結果として夢の内容も変わっていったのである。追う者がいて、それから逃げる私がいる、という構図はそのままだが、追う者は次第に小さく弱くなっていった。その反面、夢の中の私はより機敏に、自由に夢の中を行動できるようになり、不安や恐怖も軽減されていった。
そしてやがてそのような夢を見ることもなくなった。
したところ先日、久しぶりにこの「夢」を見たのである。その中で私はいつもどおりに逃げていた。でも私を追っていたのは、小学生くらいの女の子だった。10才に満たないくらいで、走りも子ども並みである。ただ目つきだけはよくマンガで見るような、悪魔的なものだった(いわゆる白目で、目じりが切れ上がっていた)。エクゾシストのちょっとカワイイ版、といったところか。
私は丘を飛び越え水の中を漕ぎながらも、どこか余裕綽々でいる。文字通り子ども相手の追いかけっこだ。後ろを見ると、彼女はどこまでも私を追ってきている。私は一計を案じ、水の深くなっている箇所に誘導して、彼女をまんまと落とし入れてやった。相手は子どもなので、ちょっと哀れである。さすがに可哀そうだと思ったのか、近くにいたオバさんが駆け寄ってきて、彼女を慰めたくらいだった(なぜかそのオバさんも、悪魔的な目をしていた)。私はそのそばで、ほーら見ろ、こっちこっちとからかっていた。
そこで目が覚めたのだ。明晰夢ではなかったが、内容はよく憶えていた。私の夢に「子ども」が現れる時は、いつも愛しい者、大切で守るべき者として現れるのが常である。でも今回は違っていた。そのまま寝ながら、どうしてか?と自問して、ややあって、夢の意味がわかった。
この子はあの一連の悪夢の延長として、例の怪物の変わり果てた姿として登場したのだった。かつてあれほど強大で、絶大な力を振るっていた信念体系は、いつの間にか子どものサイズになっていたのだ。
人間は誰しも、一度自分で構築した「エゴ」を、自分で修正する(不要な部分を外したり、新しいものを付け加えたりして変更する)能力をもともと備えている。ただ幼少期の教育や周囲の大人たちからの感化で、それ(心を変えること)はできない、もしくはごく限られた少数の者にしか成しえないことと思い込まされている。
確かに今までの地球環境では、自らの信念体系を能動的に変えて「悟り」の境地に達した者は、ごく僅かだった。でも今はもう状況はすっかり変わっている。誰もが、本気で望むなら、自分自身を変え、新しく生まれ変わり、意識を高次元へと進化させることができるようになっている。実際それを今、何千万という人間が大挙して行っているところだ。これがいわゆる「集団アセンション」である。
この夢に出てきた女の子は、同時に現在の支配者たちの姿に似ている。かつて地球と人類を「自らの所有物」として支配してきた彼らは、地球がひとつのサイクルを終えるこの時期になり、一転して、無残に追い詰められる立場に立っている。盤石と思われたあの帝国が音を立てて崩壊していく、その様を私たちは目の当たりにしている。
例えばYouTubeを見ていて、今日本では大変なことになっている、世界のある地域の紛争は、今にも世界戦争に発展しそうだ、とかいう情報を目にする時がある。実際そうなのか?と思ってニュースを調べてみるのだが(私はテレビも新聞もとってない。ニュースなど普段は見ることもない)、客観的にどう見ても情勢は大したことはない。
確かにそれを焚きつけている側の努力は端々に伺える。彼らは今背水の陣にあって、持てる力を振り絞って頑張っている。次から次へと、あらゆる角度から大攻勢を仕掛けている。地震や山火事、旱魃や水害などどこもかしこも目白押しだ。9.11の時のように、マスメディアを通して、合成編集映像を大量に流している。だけどそのどれも、成功していない。どこに火種を放り込んでも、まるで湿った地面の上にマッチ棒を置いたみたいに燃え広がってくれない。
ここで、いやどう見ても現状、世の中は大変なことになっている、という人がいるかもしれない。確かにそれもありである。なぜなら、分岐したタイムラインのどこに立っているかで、それぞれの現実は違っているからだ。
世界が大きく扇状に分かれている今、ある人々に起こる現実と、他の人々に起こる現実が次第に違うものになっている。それは、それに気をつけて物事を見れば、とても顕著だと思う。実際私のいるこの地球には、戦争の不安も物資や食糧の欠乏も、新しいウイルスの爆発的な蔓延もワクチンの強制接種も、甚大な被害をもたらす大災害も無い。実際にそれらは起きていないし、すぐに起きるようにも見えない。
ただ自然災害に関しては、地球のサイクル的にも、この時期ある程度は避けられないことだと思う。また地球という一個の生命体にとっても、次元上昇するためには、今まで溜め込んでいた低い波動のものを解き放ち、自らの身体を浄化することは必ずしなければならないことである(これは私たち人間とまったく同じだ。波動を上げるに伴い、今多くの人が体調不良に見舞われている)。その表れが、いわゆる自然災害なのだ。
また古い価値観に基づいて構築された社会(支配構造)が崩れるためには、金融崩壊や政治・経済・社会の一時的なカオス状態は、ある程度、というよりかなりの部分避けられないと思う。逆にそれが起こらなければ、新しい社会は築けない。
でもそれらの変動は、冷静に俯瞰して見れば、今のところとても順調に、最小限の被害に収まるようマイルドな形で起きているように思われる。こんなことを言うとまた、能登半島地震で被災した人がいるじゃないか、ガザ地域で死んだ人がいるじゃないかと言う人もいるだろうが、それにはまた他の要因も絡んでいて、なべて同じ土俵で論じられない。
これに関しては、また別のトピックになるのでここでは深く言及しないが、ただ一言だけ加えれば、それはそれで当事者全員の合意の上で(本人の望んだ体験として)起きていることである。こう言うと三次元の意識では「冷たい」と思うかもしれないが、五次元の見方ではそうなのだ。それぞれの魂が、それぞれに相応しい(自分が選んだ)体験をするために、生まれる場所も両親も、人生の中で出会う大切な出来事も予め選んで生まれてきている。
話を少し戻すが、私が思うに、明らかに、今この世界には異なるタイムラインが並んでいるように見える。各人がどの方向に向かって進むか、エネルギー的にはもう9割方決まっているのではなかろうか。エネルギーの状態が現象界に顕われるのに若干タイムラグがあるとはいえ、全体の波動が上がりつつある今、そう時間はかからないだろう。たぶん数か月か一年以内には、目に見える形で平行現実が物質世界に投影されるのではないかと思う(あくまで個人の私見です)。バシャールの言うには、その後しばらくは異なる平行現実が併存し、少しずつ領域を分かち、やがてはまったく分離してしまうという。
もう、長かった耐久レースも、終盤中の終盤、ゴール目前のラストスパートの段階に入っている。今私たちの生み出すエネルギーが、来年の地球の変動(の顕われ方)を決めるし、個々の人間レベルで見れば、今発するエネルギーの性質が、最終的なその人のタイムラインを決定する。
今まで通りこのまま進む、と決めた人はそれでいいが、もし自分が五次元/三次元どちらに向かっているのかわからない、または五次元の入り口が見えない、という人がいるのなら、今すべてを手放した方がいい。個人的には人を煽ったり焦らせたりするようなことをあまり言いたくはないのだが、言うとしたらこれが最後の機会になってしまいそうだ。とにかく「手放す」。握りしめている三次元的な価値観や信念を、自分自身から払拭すること。今すべきこととして、これより他のことは無い。このタイミング、このチャンスは、人生においても、この先の魂の悠久の旅路の上においても、もう二度と訪れないと思う。
自分の信念体系(エゴ)が、いつの間にか子どもの姿になっていた、ということを知って、感慨深いものがあった。この十数年間、私は自己の内面を観察し、ひたすら信念を外し続けてきた。あの夢は、その結果をこのような形で見せてくれたのだ。
ただもちろん、私にとってもこれですべてが終わったわけではない。道はまだまだ先に続いている。私のエゴがもっと優しくなり、目つきも良くなってキラキラと輝くようになり(本当にマンガみたいだ)、遂には「本当の私」と寄り添って仲良く現実世界を創造できるように、これからも私は信念体系の解体・再構築に励もうと思う。
しかし本当に嬉しいと思うのは、自分はもう二度と、逃げたりおびえたりすることはないということだ。「エゴ」よりも「本当の自分」の方が、もう強くなっている。ここまで頑張ってこれた自分と、縮小させてくれた「エゴ」双方に感謝したい。
もし夢の中でもう一度あの子に会ったなら、今度は、抱き寄せて頭をなでなでしてやろうかと思う。
夢のパターンは決まっていて、私が「何かに追われて必死に逃げる」という筋書きだ。背後から迫ってくる存在は頑強で狂暴、冷酷無比で巨大な力を持った怪物だ。夢によって容貌は違い、本物の怪物だったり、人間のようだったりする。追われている理由はよくわからない。でも夢の中の自分は、それから逃れようと必死だった。
足は泥濘に嵌ってしまったかのように重く、思うとおりに身体は動かない。逃げたり隠れたりするのだが、あまり功を奏さない。挙句に絶体絶命にあと一歩というところで、目を覚ますのが常だった。
これは、私が「夢」を自由に歩けるようになる前の話である。
ある時の夢はこうだ。なにか研究室のような建物の中で、私と、他にたくさんの仲間たち(同僚のような雰囲気だった)がいる。そこへホラー映画さながら、恐ろしい怪物が乱入する。とても対抗できるような状況ではない。思い思いに机の下や戸棚の陰、または部屋の奥へと逃げ回るのだが、仲間は次々と捕まり、破壊され、私もあわやというところで目を覚ました。
後からわかったのだが、実はこのような夢を、私は子どもの頃からずっと見ていたのだった。私が夢を憶えていない体質になったのも、そこに原因があったようだ。捉えどころのない恐怖は、誰しもすぐに忘れてしまいたいものである。
しかしその後シャーマニズムと出会い、シャーマンたちが修行の一環として「夢」を利用することを知り、私もそれを実践した(これが、後に私が明晰夢を見るようになったきっかけとなった)。それと併せて、やはりシャーマンたちが行っていた、内観を通して自分の信念体系を変える試みを始め、それから徐々に少しずつ、私の夢の内容は変わっていった。
夢の探求と信念体系の再構築によってわかったのだが、この一連の常習的な悪夢は、実に私自身の深い心の状態を表していたのだった。つまり、本当の自分(魂と繋がった自分自身)が、自己の信念体系(主にエゴの部分)に抑圧されている状態を表していた。そう、本当の私は常に駆逐され、虐げられて来たのだ。そのことを夢が知らせてくれていた。
だから信念の手放しを進めるにつれて、その結果として夢の内容も変わっていったのである。追う者がいて、それから逃げる私がいる、という構図はそのままだが、追う者は次第に小さく弱くなっていった。その反面、夢の中の私はより機敏に、自由に夢の中を行動できるようになり、不安や恐怖も軽減されていった。
そしてやがてそのような夢を見ることもなくなった。
したところ先日、久しぶりにこの「夢」を見たのである。その中で私はいつもどおりに逃げていた。でも私を追っていたのは、小学生くらいの女の子だった。10才に満たないくらいで、走りも子ども並みである。ただ目つきだけはよくマンガで見るような、悪魔的なものだった(いわゆる白目で、目じりが切れ上がっていた)。エクゾシストのちょっとカワイイ版、といったところか。
私は丘を飛び越え水の中を漕ぎながらも、どこか余裕綽々でいる。文字通り子ども相手の追いかけっこだ。後ろを見ると、彼女はどこまでも私を追ってきている。私は一計を案じ、水の深くなっている箇所に誘導して、彼女をまんまと落とし入れてやった。相手は子どもなので、ちょっと哀れである。さすがに可哀そうだと思ったのか、近くにいたオバさんが駆け寄ってきて、彼女を慰めたくらいだった(なぜかそのオバさんも、悪魔的な目をしていた)。私はそのそばで、ほーら見ろ、こっちこっちとからかっていた。
そこで目が覚めたのだ。明晰夢ではなかったが、内容はよく憶えていた。私の夢に「子ども」が現れる時は、いつも愛しい者、大切で守るべき者として現れるのが常である。でも今回は違っていた。そのまま寝ながら、どうしてか?と自問して、ややあって、夢の意味がわかった。
この子はあの一連の悪夢の延長として、例の怪物の変わり果てた姿として登場したのだった。かつてあれほど強大で、絶大な力を振るっていた信念体系は、いつの間にか子どものサイズになっていたのだ。
人間は誰しも、一度自分で構築した「エゴ」を、自分で修正する(不要な部分を外したり、新しいものを付け加えたりして変更する)能力をもともと備えている。ただ幼少期の教育や周囲の大人たちからの感化で、それ(心を変えること)はできない、もしくはごく限られた少数の者にしか成しえないことと思い込まされている。
確かに今までの地球環境では、自らの信念体系を能動的に変えて「悟り」の境地に達した者は、ごく僅かだった。でも今はもう状況はすっかり変わっている。誰もが、本気で望むなら、自分自身を変え、新しく生まれ変わり、意識を高次元へと進化させることができるようになっている。実際それを今、何千万という人間が大挙して行っているところだ。これがいわゆる「集団アセンション」である。
この夢に出てきた女の子は、同時に現在の支配者たちの姿に似ている。かつて地球と人類を「自らの所有物」として支配してきた彼らは、地球がひとつのサイクルを終えるこの時期になり、一転して、無残に追い詰められる立場に立っている。盤石と思われたあの帝国が音を立てて崩壊していく、その様を私たちは目の当たりにしている。
例えばYouTubeを見ていて、今日本では大変なことになっている、世界のある地域の紛争は、今にも世界戦争に発展しそうだ、とかいう情報を目にする時がある。実際そうなのか?と思ってニュースを調べてみるのだが(私はテレビも新聞もとってない。ニュースなど普段は見ることもない)、客観的にどう見ても情勢は大したことはない。
確かにそれを焚きつけている側の努力は端々に伺える。彼らは今背水の陣にあって、持てる力を振り絞って頑張っている。次から次へと、あらゆる角度から大攻勢を仕掛けている。地震や山火事、旱魃や水害などどこもかしこも目白押しだ。9.11の時のように、マスメディアを通して、合成編集映像を大量に流している。だけどそのどれも、成功していない。どこに火種を放り込んでも、まるで湿った地面の上にマッチ棒を置いたみたいに燃え広がってくれない。
ここで、いやどう見ても現状、世の中は大変なことになっている、という人がいるかもしれない。確かにそれもありである。なぜなら、分岐したタイムラインのどこに立っているかで、それぞれの現実は違っているからだ。
世界が大きく扇状に分かれている今、ある人々に起こる現実と、他の人々に起こる現実が次第に違うものになっている。それは、それに気をつけて物事を見れば、とても顕著だと思う。実際私のいるこの地球には、戦争の不安も物資や食糧の欠乏も、新しいウイルスの爆発的な蔓延もワクチンの強制接種も、甚大な被害をもたらす大災害も無い。実際にそれらは起きていないし、すぐに起きるようにも見えない。
ただ自然災害に関しては、地球のサイクル的にも、この時期ある程度は避けられないことだと思う。また地球という一個の生命体にとっても、次元上昇するためには、今まで溜め込んでいた低い波動のものを解き放ち、自らの身体を浄化することは必ずしなければならないことである(これは私たち人間とまったく同じだ。波動を上げるに伴い、今多くの人が体調不良に見舞われている)。その表れが、いわゆる自然災害なのだ。
また古い価値観に基づいて構築された社会(支配構造)が崩れるためには、金融崩壊や政治・経済・社会の一時的なカオス状態は、ある程度、というよりかなりの部分避けられないと思う。逆にそれが起こらなければ、新しい社会は築けない。
でもそれらの変動は、冷静に俯瞰して見れば、今のところとても順調に、最小限の被害に収まるようマイルドな形で起きているように思われる。こんなことを言うとまた、能登半島地震で被災した人がいるじゃないか、ガザ地域で死んだ人がいるじゃないかと言う人もいるだろうが、それにはまた他の要因も絡んでいて、なべて同じ土俵で論じられない。
これに関しては、また別のトピックになるのでここでは深く言及しないが、ただ一言だけ加えれば、それはそれで当事者全員の合意の上で(本人の望んだ体験として)起きていることである。こう言うと三次元の意識では「冷たい」と思うかもしれないが、五次元の見方ではそうなのだ。それぞれの魂が、それぞれに相応しい(自分が選んだ)体験をするために、生まれる場所も両親も、人生の中で出会う大切な出来事も予め選んで生まれてきている。
話を少し戻すが、私が思うに、明らかに、今この世界には異なるタイムラインが並んでいるように見える。各人がどの方向に向かって進むか、エネルギー的にはもう9割方決まっているのではなかろうか。エネルギーの状態が現象界に顕われるのに若干タイムラグがあるとはいえ、全体の波動が上がりつつある今、そう時間はかからないだろう。たぶん数か月か一年以内には、目に見える形で平行現実が物質世界に投影されるのではないかと思う(あくまで個人の私見です)。バシャールの言うには、その後しばらくは異なる平行現実が併存し、少しずつ領域を分かち、やがてはまったく分離してしまうという。
もう、長かった耐久レースも、終盤中の終盤、ゴール目前のラストスパートの段階に入っている。今私たちの生み出すエネルギーが、来年の地球の変動(の顕われ方)を決めるし、個々の人間レベルで見れば、今発するエネルギーの性質が、最終的なその人のタイムラインを決定する。
今まで通りこのまま進む、と決めた人はそれでいいが、もし自分が五次元/三次元どちらに向かっているのかわからない、または五次元の入り口が見えない、という人がいるのなら、今すべてを手放した方がいい。個人的には人を煽ったり焦らせたりするようなことをあまり言いたくはないのだが、言うとしたらこれが最後の機会になってしまいそうだ。とにかく「手放す」。握りしめている三次元的な価値観や信念を、自分自身から払拭すること。今すべきこととして、これより他のことは無い。このタイミング、このチャンスは、人生においても、この先の魂の悠久の旅路の上においても、もう二度と訪れないと思う。
自分の信念体系(エゴ)が、いつの間にか子どもの姿になっていた、ということを知って、感慨深いものがあった。この十数年間、私は自己の内面を観察し、ひたすら信念を外し続けてきた。あの夢は、その結果をこのような形で見せてくれたのだ。
ただもちろん、私にとってもこれですべてが終わったわけではない。道はまだまだ先に続いている。私のエゴがもっと優しくなり、目つきも良くなってキラキラと輝くようになり(本当にマンガみたいだ)、遂には「本当の私」と寄り添って仲良く現実世界を創造できるように、これからも私は信念体系の解体・再構築に励もうと思う。
しかし本当に嬉しいと思うのは、自分はもう二度と、逃げたりおびえたりすることはないということだ。「エゴ」よりも「本当の自分」の方が、もう強くなっている。ここまで頑張ってこれた自分と、縮小させてくれた「エゴ」双方に感謝したい。
もし夢の中でもう一度あの子に会ったなら、今度は、抱き寄せて頭をなでなでしてやろうかと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます