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進化する魂

フリートーク
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リベラリズムと日本

2010-05-17 11:58:47 | 哲学・思想

常連コメンテーターのここなっつさんにコメントをもらいましたが、形而上学的な話題だけでなく、現実世界における今日的問題、例えば本エントリのような話題についても議論を深められていけると嬉しいです。
どなたでもコメント歓迎します。


16日放映の「ハーバード白熱教室」は第7回「嘘をつかない練習」だった。

ハーバード白熱教室(NHK)
http://www.nhk.or.jp/harvard/

前回から引き続きイマヌエル・カントが言う「道徳」からはじまって、今回は同じハーバードの教授だった政治哲学者ジョン・ロールズの「正義論」を基に公平な「契約」について議論を深めていく。

イマヌエル・カント(Wikipedia,japan)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88

ジョン・ロールズ(Wikipedia,japan)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA

この講義全体のテーマは「Justice(正義,公平)」で、正義とは何か、公平とは何か、それを実現する手段は何かについて、様々なトピックを取上げて議論を深めていく。

今回の見所は、ロールズの「無知のベール」だろう。


正義の根拠を、自由かつ合理的な人々が、彼が「原初状態」と名付けた状態におかれる際に合意するであろう諸原理に求めた。この原初状態とは、集団の中の構成員が彼の言う「無知のヴェール」に覆われた-すなわち自分と他者の能力や立場に関する知識は全く持っていない-状態である。このような状態で人は、他者に対する嫉妬や優越感を持つことなく合理的に選択するであろうと推測され、また誰しも同じ判断を下すことが期待される。そして人は、最悪の状態に陥ることを最大限回避しようとするはずであり、その結果次の二つの正義に関する原理が導き出されるとした。


仮説的な原初状態に置かれた個人は、平等な、それこそ公平な立場で判断を行うというわけだ。
この前段階でサンデル教授が説明するのが、カントの感性界/叡知界の区別。
カントは、人間は感性界(現象界)に属するだけでなく叡知界にも属する人格としても考え、現象界を支配する自然の因果性だけでなく、物自体の秩序である叡知界における因果性の法則にも従うべきことが論じた。
カント曰く、「叡智界の秩序に従うことが普遍的な唯一の道徳法則に従う方法だ」そうだ。

つまるところ、正義は「仮想的な社会契約」から導かれる。
そのために「個人は基本的に自由でなければならない」し「機会は均等化されるべき」だし、社会的/経済的不平等は「恵まれた人の経済的改善が恵まれない人の状況を改善する」なら許される。
格差自体を否定するのは共産主義だが、格差も恵まれない人の厚生に役立つならいいわけだ。

これがリベラリズムに繋がっていくわけだ。

違う言い方をすれば、国民全員が原初状態にいるのが理想で、そのためには国民全員の厚生福祉を政府が実現するという論拠にもなるし、また政治家の身分を保証することで、政治家が原初状態にいることができて、特定の利益団体の票に左右されずに済む訳だ。
この点は「政治家は質素清貧で志によってのみ動かなければならない」という日本とは大きく異なる気がする。

しかし当然ながら、この無知のベールなんて考えは攻撃されることになる。
最も単純な批判は、「原初状態なんて所詮、仮想であって人々が完全に無知になれるとは考えられない」というものだ。
まぁそれはいいとしよう。
あくまでも原初状態に近づければいいわけだから。

一方でリベラリズムの「他人の所得の増加から、自己の効用も増加する可能性」は多いにあると思う。
犯罪抑止とかね。
でも、一つ問題がある。
恵まれている人から恵まれていない人への「所得移転の最適化」は可能なのか、という点だ。
これは、今の日本で起きている今日的問題といってもいいだろう。
「金持ちに増税して貧困対策に用いる。」という問題設定だ。

増税って人のやる気を削ぐと思うんだ。
リバタリアニズム的観点から言えば、増税は奴隷制度に等しいわけだ。

結局、公平な分配などというものは、正義が相対的な価値観だから、有り得ないのではないか。
すると授業の最初「正義、公正とは何か?」に戻ってしまう。
今後、サンデル教授がどのような論理展開を行いながら、正義や公正を説明していくのか、目が離せない。


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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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知るということ (ここなっつ)
2010-05-17 22:48:47
原初状態という言葉がとても興味深いです。一度知るとその状態に戻ることはできない。だから人は平常(敢えてそう言ってみる)でいることが難しい。

一方、原初状態という状態があるということを知ることもまた重要だと感じた。知ることが知らない状態になるきっかけとなる(なんとも逆説的だ)。実はみんなそうなりたいと願っていると思うんだ。少なくとも私はそうだ。いつも平常でいたいと願っている。
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コミュニタリアニズム (advanced_future)
2010-05-18 11:18:56
>ここなっつさん
コメントありがとうございます。

全くご指摘の通りかと思います。
仮に原初状態が理想だとしても、その原初状態に戻ることは難しい。
人には「忘れる」という機能があるものの、意図的に忘れることができないからです。

しかし、原初状態に近づくためには知ることしかない。
今、自分が知っている拘りを乗越えるためには、それ以上に知るしかないあ。
逆説的なことですが、これはまさに「相対性の悪魔」なのだと私は思います。
進化とは、戻ることは許されず、進むことしかできないのです。

これは物語ですが、生命にビルドインされた知的好奇心が原因で、生命は進むことしか許されない。
知的好奇心において退化は有り得ないのです。
人は必ず飽き、新しい知見を求める。
これは無限にスパイラルする。
終わりのないたびだ。
なぜなら、始まりすらもないのだから。
始まりがあって終わりがあるという概念がそもそも相対的なのです。
絶対性に端はない。
いや、これはちょっとスピリチュアルな物語でした。

ちょっとフライングしますが、ハーバード白熱教室のサンデル教授はリベラリズムから派生して、コミュニタリアニズムの立場をとっている学者です。
これは、当Blogのエントリの流れからすると相対性を前提とした理論といえると思います。
リベラリズムが個人を原子論的な存在として位置づけるわけですが、コミュニタリアニズムでは個人を「共同存在としての人間」として位置づけるわけです。
考えてみれば、そもそもアイデンティティも善もコミュニティ内でしか存在し得ないものだと。
絶対善など存在しない(存在するかもしれないが知覚できない)のであり、あるのは「共通善」だけだ。
これは古代ギリシャの哲学者アリストテレスを発端としている考え方だといわれています。
(アリストテレス以前にもいたと思いますが、有史として存在しないんですね)
どういうことかというと、昔のギリシャの国の単位はポリスで、このポリスは共同体なわけです。
何を基にした共同体かと言うと「共通の利益」なわけで、これが共通善です。
特定の一部の人の利益は「特殊な利益」なわけで、これは共通善ではありません。
「善悪なんて相対的な価値観だぜ」というのは、もう2500年前から言われていることなんですね。
「共通の善」がやがて「公共の善」になったりして、これが公共の福祉を目的とする政府を許容する根拠になるわけです。
だから政府の必然性というものはこのコミュニティとしての善のために肯定されると言っちゃってもいいわけです。
ただ、そうするとハーバード白熱教室でサンデル教授も触れているように、公共の善を果たすために個が犠牲になる場合もあるのではないか、ということですね。
その場合、個は公共の善に対抗するのかどうかという問題設定が有り得ます。
そうすると、リバタリアニズムのように政府が矛盾した存在んだから、政府は小さいにこしたことはないという発想にも繋がるわけですね。
政府は何もするなと。
これに対して、コミュニタリアニズムな人々からすれば、基本的に社会というのは多元的主義的であるもので、価値観の多様性は認められるものであると。
コミュニタリアンがいう共通の善っていうのは、そういうことじゃなしに、そもそもイデオロギーや善なんてものはコミュニティに内在するものなのだから、共通の善を目的にするべきなんだと。
そこには負荷を前提とした自我、個人が定義されるわけです。
極論に走ると全体主義、共産主義と批判されがちな部分なのですが、どのようにしてそことバランスを取るのか、それは番組内で触れられるのか、関心のあるところです。
ただ、脳科学的にミラーニューロンが発見されたように、人間の自我というのは関係的自我、社会的自我と言われるわけで、そもそも自我がコミュニティを前提としたものであるから、という意味ではコミュニタリアンの主張は説得力があるともいえます。

かなり適当なコメントでしたが、今後こういうことも述べていきたいと思います。
まぁ私が説明できることなんてたかがしれていますが。
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Unknown (あつし)
2010-05-20 01:08:49
ブログ主さんどうも、ご無沙汰です。
いろいろとコメントできそうなところがあれば、挑戦してみようと思いますw

さて、NHKのハーバード白熱講義ですが、これは、リバタリアンのところから偶然に視聴していました。展開がはやいのでついていくのに脳をフル回転させなければならないところがよいですね。
 リバタリアンと反リバタリアンの講義では、再配分などの問題を道徳的に説明しようとしていました。非常に興味ぶかい問題でしたね。
 経済の効用として、全体の最適化というものがあると思います。これを図るためには、資本の配分が必要で、リバタリアンとの意見とぶつかってしまいます。
 全体を活かすために、個の自由が制約されるというのは、なにかマクロ生命云々した時の論点と似ています。
 より大きな生命を適正にたもつ意味から、個人の所有や権利が制限されるという発想は正しいとおもいます。
 たとえば、がん細胞、これを放置すれば、他の細胞に転移して寿命を縮めることになります。ガンを主体として観測した場合、人間の都合でリバタリアン的なガンを削除することは間違いですw
 しかし、人間を主体として観測した場合、リバタリアン的なガンを削除することは正しい、となるのです。
 人間のリバタリアンの権利意識が否定されることを正しいと説明する場合、このような論法で理論展開できるとおもいます。
 国をより大きな生命とみて、その最適化に個人の権利が制約されることは十分に肯定されるものです。
 わたしもコミュニタリアンの主張を支持します。
 しかし、個人の権利の制限の範囲については、非常に問題をはらんでいます。
 なぜかというと、国という生命と人間という生命においては、国が優先されますが、国の行動が仮に非調和的な場合や国自身の寿命を縮めるようなものである場合に、国の意思決定だからといって、個人の権利がこれにせいやくされていいのでしょうか?これは正しいことでしょうか?そういう問題が出てくるからです。
 このことから、必ずしもマクロ生命がミクロ生命の権利を制約することが正しいといえるわけではないことがいえます。 
 ここらへんに、なにか重大な意味や問題が内包されているようなきがします。
 
返信する
全体最適の落とし穴 (advanced_future)
2010-05-20 17:09:30
>あつしさん
コメントありがとうございます。
これであつしさんも当Blogの常連コメンテーターの仲間入りですね(笑)
嬉しい限りです。

あつしさんもハーバード白熱教室をご覧になってましたか。
あの番組は面白いですね。
そして、とてもタイムリーな話題だとも思います。
番組のテーマである「Justice(正義,公平)」の議論は、日本における今日的問題だと考えています。
日本では、多くの人が、この問題について混乱していると思うのです。
これまで多くの日本人は、正義だとか公平だとかについて、一部の人々を除いては議論を深めてきませんでした。
議論する必要がなかったという方が正しいと思いますが、そのせいで、今の日本の論壇といいますか、世論は極端な考え方ばかりクローズアップされ、バランスを欠いている。
マクロ経済を重視する全体最適指向な人々は「新自由主義者」「市場原理主義者」などといって糾弾されるし、コミュニティを重視するミクロ最適指向な人々は「守旧派」「既得権益者」などといって糾弾されてしまいます。
相対性がもたらすトレードオフが頭の中にあれば、絶対的な価値観だとか善などといったものを前提にして、それを誰かに押付けようなどとは露にも思わないはずなのですが、マスコミはトレードオフを逆手にとって常に損失側をクローズアップして煽るばかり。
村上春樹は「正誤に関係なく自分は常に弱者の側に立つ」と主張して賞賛を得ましたが、多くの人々がそれを理解しているとは思えない。
そもそも「弱さ」とは何かという点について我々は合意できているのか、甚だ怪しいと思います。
(これは内田樹の受け入りですが)村上春樹が表現しているのは、人間が根源的に持つ本態的な弱さ、論理的に説明が難しく物語によってしか表現できない弱さ、そういったものをクローズアップすると言っているのであって、相対的な価値観であるあやふやな弱者を守ろうと言っているのではないと考えるのです。

日本の報道は政治的立場を宣言しません。
中立を指向するからです。
だから常に弱者の側に立つ。
弱者の側に立てば人道的な正しさを主張できるから。
宇宙が相対的である限り、弱者は必ず存在する。
報道には困らない。
弱者を責めれば人でなしのレッテルを貼られ、弱さに付け込まれる。
だから被害報道ばかりに偏重する。
全体最適路線は糾弾される。

私が思うに、これは日本に「個人って何?」「個人って存在するの?」「個人には権利があるの?」という問題設定がないからなのです。
「個人」なしに「社会」も存在できない。
日本人にとって「個人」も「社会」も初めから存在しているようなものになってしまっている、「個人」も「社会」も人間の創作物なのに、そんな気がするのです。
もちろん、ここには「人権とは自然権なのか?」という問題があります。
実は宇宙には超越的な存在が存在し、そして人間には自然権的な権利があるのかもしれません。
「神の存在証明」と同様に、これは否定できない。
だから、正誤を振りかざして議論を止めるのは辞めにしなければならない。
時には議論を壊すことも無駄ではないかもしれないが、永遠に議論を壊し続けることには、私は意味を感じない。
ゆえに、我々はもっと謙虚に建設的な議論を心がけるべきだと、そう思うのです。
主義主張の違いを理由にテーブルから離れるのはやめようと。

いや、話がそれましたので、話を戻します。
全体最適観点から、個を犠牲にすることについてです。

コミュニタリアニズムの持つ危険性、それは、その極論である共産主義や社会主義と同じ理由になると思います。
日本で「個人の人権と公共の福祉」に関する議論が行われる場合、多くの場合には「公共の福祉」は「個人の人権」を犠牲にするために使われます。
これは、リベラル的発想を基にしたものです。
そこには個人の人権がある。
しかし、コミュニタリアニズムのいう「共通善(公共の福祉)」は、それとは少し趣が違います。
解釈によって違いはあるでしょうけれども、コミュニタリアニズムでは、そもそも善なるものはコミュニティの中で生成され、維持されるものであって、個人に依拠するものではないとします。
コミュニタリアニズムにおいては、「共通善」と「個人」は敵対しないものです。
リバタリアンが攻撃するのは、この共通善の不確かさです。
なぜなら、個よりも全体が最優先されなければならない理由は、その方が多くの利益に適うからだと思いますが、しかし、利益を正確に定義できるかという問題が有り得ます。
社会工学的な見地から運営された社会主義は崩壊しました。
社会を制御することなどできなかったからです。
どのようなことを目的とし、どんなデータをとり、どのようにデータを処理し、どう結論付けるか、人間はその全てにおいて正確に対処できません。
人間は「不確実性」に対処できるようにはできていないし、未来を予知することもできない。
だから必ず計画は失敗してしまう。
重要なことは、正確な計画を立てることではなく、計画が失敗した時にどう対処できるかの方だと気づいたのが社会主義の崩壊と資本主義の勃興の側面ではないかと。
全体最適の名の下に多くの個人が犠牲にされることがある。
その全体最適が正しいかどうかもわからないのにです。
これがリバタリアンの強烈な批判になります。

人間の体から病巣を取り出そうとしたが、しかしながら、それは単に表面的な疾病箇所なのであって、本当の意味での病巣ではないかもしれない。
病巣を切除はして、一旦回復したように見えたが、再発する。
そんなことを繰り返し、闘病生活に疲れ果てる。
自分の人生とは何だったのかと問い詰める。
病気でもいい、もっと楽しく人生を生きる方法はなかったのかと。
これはあくまで極論です。

返答にはなっていないのですが、思うままに書いてしまいました。
今後もよろしくお願い致します。
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