第一部に引き続き、第二部をお送りします。
第一部では、政府による「産業政策」の有効性が低く、「競争政策」や「規制緩和」の有効性が高いことについて軽く触れました。
では、彼らが主張する「競争政策」や「規制緩和」とはどういったものなのでしょうか。
少々極端なものですが、そのわかりやすい例が下記ブログで述べられています。
需要サイドの成長戦略とは?(藤沢数希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51642847.html
どうも民主党はこども手当などで家計の所得を増やしてやれば、需要が増えるので経済が成長すると思っているようで、そのことに関しては多数の評論家から批判されています。
僕も、そういう手当は、格差を是正するための政府の再分配の機能であって、成長戦略にはなり得ないと思っています。
というのも家計を増やすといっても、その財源は赤字国債の発行で、将来の税金の先食いですし、その先食いした税金以上に再分配された人が付加価値を創出するかといえば大いに疑問です。
しかし、需要サイドの成長戦略というのは、実は、日本経済には非常に重要だと思っています。
[中略]
日本には売春業に対する男性側の需要は非常に高いのですが、このように規制されているし、また、そのような中でいちおう合法的に営業を行っているところも、サービスの質が非常に低い上に国際水準からかけ離れた価格になっているため、あまり利用されていないというのが実情ではないでしょうか。
需要があるところで、それを法律で規制しているのだから、そういったサービスを供給しているのは主に法律を破るのがお仕事の方々ということになります。
しかし、そういったブラック・マーケットの経済活動は、もちろん税収にはつながりませんし、やはり安価で質の高いサービスはどうしても過小供給になりがちです。
そこで、日本で吸収しきれない旺盛な需要は、海外で吸収されることになります。
売春業を合法化し、観光政策の一環として積極的に推進している東南アジアの新興国に、日本の潜在的な需要がすべてうばわれてしまっているのです。
こういった状況を改善して、日本のGDPを成長させ、税収を増やし、きたるべき少子高齢化社会にそなえるにはどうすればいいでしょうか?
非常に簡単です。
売春を合法化すればいいのです。
[中略]
合法化することによって、ブラックマーケットの経済活動がすべて表に出てくるので、GDP統計にも反映されますし、もちろん国家の税収にもなります。
さらに、就職氷河期で就職先がなくなってしまった女子の有望な雇用先にもなるので、若年層失業率の大幅な改善も期待できるでしょう。
日本の売春業は、一部の既得権益層を守るために、潜在的な需要が抑えつけられ、国民全体の利益が損なわれているいい例ですね。
潜在的に大きな需要があるのに、それがグローバリゼーションやIT革命についていけない規制によって、抑えられていることがたくさんありません。
また、そういった抑えられた需要にサービスを供給するのは、ブラック・マーケットやオフショア業者で、顧客は安心してサービスを受けられないし、国の税収にもならないのです。
[中略]
つまり、需要サイドの成長戦略とは、ひとことでいえば戦略的な規制緩和なのです。
規制緩和をして、新たな需要をつくり出すのです。
規制をうまく取り除けば、需要がすぐに生まれる分野に、「医療」、「教育」、「介護」などがあります。
こういった分野は、政府の規制によってがんじがらめに縛られているため、ちょっと規制を緩和するだけで、大きな成長が期待できるでしょう。
ところが、規制によって守られている既得権益層の政治活動はかなり熾烈なものになるので、実際に意味のある規制緩和を実行するのはなかなかむずかしいのです。
「規制をかける」ということは、誰かの活動を抑制するということですから、国家が規制をかけることのできる場合というのは、その活動が国家や社会、または個人に対して損失を与える可能性がある場合に限られます。
規制とは、誰かが利益を得ようとする行為を禁止したり抑制したりすることです。
つまり、規制をかけるということは、その人に損失を与える(利益を得ることを禁止する)ことを意味します。
これを国家が正当化するためには、その規制によって得る損失回避という利益が、規制による損失を上回る必要があります。
実態がどうかは置いておいて、少なくても名目的に上記の条件を満たしていることが表明されなければなりません。
でなければ、規制が不公平な利益誘導ということになってしまい、国民は規制を認めないでしょう。
古い言葉でいえば「大義名分」なしに国家権力を用いて規制をかけることはできないのです。
※
古い時代に見られた王や貴族などの一部の集団に利益を誘導することは現代において非常に難しくなっています。
なぜ現代において難しくなったのかといえば、国民の知的水準が上がったこと、情報公開が進んだこと、権威者と強制力が分離されたことなどがあります。
もちろん古い時代にも「大義名分」が重要視された時期はあります。
昔も今も人心の掌握こそが政策遂行効果の極大化における最も重要な要因である点は変わらないのです。
ゆえに賢い支配者は「大義名分」を重んじたのです。
では、なぜ今「規制緩和」が声高に叫ばれるのでしょうか。(今ではなくもうずっと前から)
必要があり、皆が納得したから規制がかけられたのにです。
それは、時代とともに国家や社会がおかれている環境が変化し、規制をかけていた対象の状況も変わるからです。
※
ここでよく置き忘れられる議論があるので注釈しておきます。
世論は時代とともに左に右にぶれます。
何かが加熱すれば規制強化論が強くなりますし、その逆の状況では規制緩和論が強くなります。
その分野の専門家同士の議論においては各種具体的項目毎に比較的論理的に規制の是非が論じられるのに対し、一般的な世論は情緒的反応を強く示す傾向があります。(マスコミの影響もあるでしょう)
規制緩和論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ますし、逆に規制強化論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ます。
時として、神学論争などといって揶揄される場合もあります。
しかし、これはとても非生産的な議論です。
なぜなら、人間が不完全である限り、いつの時代においても環境に合わせて規制はかけていくべきものですし、環境に合わせて規制を緩和していくものなのです。
議論の軸が「規制緩和派vs規制強化派」であっては永遠に適切な答えには辿り着けないでしょう。
時代が変われば、古くなり環境に合わなくなった規制は緩和する必要が出てきます。
しかし、規制を緩和するのは容易ではない場合がほとんどです。
ここに「規制」の難しさがあります。
人間に限らず全てにおいて同様なのですが、我々は環境に適応する生き物です。
熱帯雨林を想像してみてください。
自然に自生していた熱帯雨林の中で観光名所になっていた杉が害虫によって弱っているとします。
そこで当局は害虫を駆除するためのシステムを熱帯雨林の中に建造しました。
何が起きるでしょうか?
当局の期待は害虫だけが駆除されて杉が力を取り戻すことです。
しかし、思惑通りに事が運ぶとは限りません。
害虫を駆除すれば、その害虫が存在したことによって成立していた熱帯雨林の生態系が壊される可能性があるからです。
生態系の乱れが小さくおさまり、ほぼ期待通りの結果を得る可能性はありますが、下手をすると生態系を大きく乱し熱帯雨林の形そのものを変えてしまう可能性もあります。
そうすると期待結果であった杉を守ることすらできない可能性すらあります。
本当に杉を守りたいのであれば、害虫の発生要因は、そしてさらにその発生要因は・・・と研究していく必要があります。
そのどこかの時点で、生態系に与える影響を小さく抑えたまま杉を守れると判断できる対策が得られたら、それが目的に照らし合わせて最適な行為(規制)といえるでしょう。
(もちろん、事前的に最適でも事後的に誤りであることは往々にしてあります。)
また、一度対策を行ってしまうと、その対策に依存した生態系ができてしまうことに注意が必要です。
杉に栄養剤を打つと、杉は栄養剤なしには生きていけなくなる可能性があります。
熱帯雨林の中に人造物があれば、その周りをシダ植物がまとわりつき、そこに巣食う動物が出てきます。
動物にとっては安全で暖かくて、とてもよい住まいかもしれません。
ここで杉が元気を取り戻したので人造物を除去することに決めたとします。
その住まいを奪ってしまったらどうなるでしょうか。
(動物に心があるかは関係なく)動物達は可哀相でしょうね。
この熱帯雨林の話の前半部分で「規制を導入する難しさ」を、後半部分で「規制を緩和する難しさ」を表現したつもりです。
話を単純化し過ぎかもしれませんが、わかりやすい説明になったかと思います。
規制を導入する難しさとは、現代社会では利害関係が複雑に入り組んでいるため万人に通用する「大義名分」はほとんどの場合有り得ず(認識を共有することは難しく)、また利権化した政治の力で「大義名分」とは関係なく一部の集団へ利益誘導が行われることにあるのです。
(そのための情報操作も日常茶飯事です)
規制を緩和する難しさとは、規制により利益を受けていた人達が損失を受けるということであり、その損失の正当性が認められない限り緩和できないことにあるのです。
※
一部の方々はこの「規制緩和の難しさ」を重々承知しておいでなので、多少強引にでも一生懸命に思惑を予算に組込もうとします。
予算に組込まれる前には議論を分かつ問題でも、一度予算に組込まれると政治はその予算を削るのが容易ではなくなります。
その予算に助けられている人々が生まれるからです。
予算を削るということは、弱者を救うという政治の大義名分を著しく毀損してしまいます。
この場合「フレーズ」が必要です。
「改革」「痛みに耐えて~」のようなフレーズです。
「規制緩和」の有意性は万人が認めるところ(総論で賛成)でありますが、各集団や各個人が損失を被るとわかったとき、人々は反対に回る(各論反対する)のです。
絡み合った各要因を一つ一つ解きほぐし、万人が納得する「大義名分」を唱えることは非常に難しいことです。
あるとすれば、オバマ米大統領のように利害対立を止揚した理念を唱えることですが、理念を具体的政策に落とし込む際にはやはりこの問題にぶち当たるのです。
このとき、政治に求められるのは「決断」です。
「決断」とは「諦める」と同意です。
一部の利益をとり、一部の損失を諦める。
これが「決断」であり、人々が今政治に求めているものなのです。
誰に対しても好かれたいと思っているようでは「決断」することはできません。
現代の政治家に必要な能力とは「決断の正当性を説明する能力」です。
※
小泉内閣でいうところの「痛みに耐える」ということですね。
だが、やりかたを失敗すると小泉改革のように巻き返しに合うのです。
私はこれこれこういう理由でこういう決断をする。
ただし、これによって損失を受ける人達のことにも十分に配慮しなければならない。
みんなのためとはいえ、誰か1人に痛みを背負わせることがあってはいけない。
その痛みは皆で分け合うべきだし、そのために国家は努力しなければならない。
みなで強きを伸ばし、弱気を助ける。そのための国家である。
だから、こういう条件をつけて、こういう対応をします。
しかし、このことによって、我々はこんな明日を~~
という具合に。
第一部では、政府による「産業政策」の有効性が低く、「競争政策」や「規制緩和」の有効性が高いことについて軽く触れました。
では、彼らが主張する「競争政策」や「規制緩和」とはどういったものなのでしょうか。
少々極端なものですが、そのわかりやすい例が下記ブログで述べられています。
需要サイドの成長戦略とは?(藤沢数希)
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51642847.html
どうも民主党はこども手当などで家計の所得を増やしてやれば、需要が増えるので経済が成長すると思っているようで、そのことに関しては多数の評論家から批判されています。
僕も、そういう手当は、格差を是正するための政府の再分配の機能であって、成長戦略にはなり得ないと思っています。
というのも家計を増やすといっても、その財源は赤字国債の発行で、将来の税金の先食いですし、その先食いした税金以上に再分配された人が付加価値を創出するかといえば大いに疑問です。
しかし、需要サイドの成長戦略というのは、実は、日本経済には非常に重要だと思っています。
[中略]
日本には売春業に対する男性側の需要は非常に高いのですが、このように規制されているし、また、そのような中でいちおう合法的に営業を行っているところも、サービスの質が非常に低い上に国際水準からかけ離れた価格になっているため、あまり利用されていないというのが実情ではないでしょうか。
需要があるところで、それを法律で規制しているのだから、そういったサービスを供給しているのは主に法律を破るのがお仕事の方々ということになります。
しかし、そういったブラック・マーケットの経済活動は、もちろん税収にはつながりませんし、やはり安価で質の高いサービスはどうしても過小供給になりがちです。
そこで、日本で吸収しきれない旺盛な需要は、海外で吸収されることになります。
売春業を合法化し、観光政策の一環として積極的に推進している東南アジアの新興国に、日本の潜在的な需要がすべてうばわれてしまっているのです。
こういった状況を改善して、日本のGDPを成長させ、税収を増やし、きたるべき少子高齢化社会にそなえるにはどうすればいいでしょうか?
非常に簡単です。
売春を合法化すればいいのです。
[中略]
合法化することによって、ブラックマーケットの経済活動がすべて表に出てくるので、GDP統計にも反映されますし、もちろん国家の税収にもなります。
さらに、就職氷河期で就職先がなくなってしまった女子の有望な雇用先にもなるので、若年層失業率の大幅な改善も期待できるでしょう。
日本の売春業は、一部の既得権益層を守るために、潜在的な需要が抑えつけられ、国民全体の利益が損なわれているいい例ですね。
潜在的に大きな需要があるのに、それがグローバリゼーションやIT革命についていけない規制によって、抑えられていることがたくさんありません。
また、そういった抑えられた需要にサービスを供給するのは、ブラック・マーケットやオフショア業者で、顧客は安心してサービスを受けられないし、国の税収にもならないのです。
[中略]
つまり、需要サイドの成長戦略とは、ひとことでいえば戦略的な規制緩和なのです。
規制緩和をして、新たな需要をつくり出すのです。
規制をうまく取り除けば、需要がすぐに生まれる分野に、「医療」、「教育」、「介護」などがあります。
こういった分野は、政府の規制によってがんじがらめに縛られているため、ちょっと規制を緩和するだけで、大きな成長が期待できるでしょう。
ところが、規制によって守られている既得権益層の政治活動はかなり熾烈なものになるので、実際に意味のある規制緩和を実行するのはなかなかむずかしいのです。
「規制をかける」ということは、誰かの活動を抑制するということですから、国家が規制をかけることのできる場合というのは、その活動が国家や社会、または個人に対して損失を与える可能性がある場合に限られます。
規制とは、誰かが利益を得ようとする行為を禁止したり抑制したりすることです。
つまり、規制をかけるということは、その人に損失を与える(利益を得ることを禁止する)ことを意味します。
これを国家が正当化するためには、その規制によって得る損失回避という利益が、規制による損失を上回る必要があります。
実態がどうかは置いておいて、少なくても名目的に上記の条件を満たしていることが表明されなければなりません。
でなければ、規制が不公平な利益誘導ということになってしまい、国民は規制を認めないでしょう。
古い言葉でいえば「大義名分」なしに国家権力を用いて規制をかけることはできないのです。
※
古い時代に見られた王や貴族などの一部の集団に利益を誘導することは現代において非常に難しくなっています。
なぜ現代において難しくなったのかといえば、国民の知的水準が上がったこと、情報公開が進んだこと、権威者と強制力が分離されたことなどがあります。
もちろん古い時代にも「大義名分」が重要視された時期はあります。
昔も今も人心の掌握こそが政策遂行効果の極大化における最も重要な要因である点は変わらないのです。
ゆえに賢い支配者は「大義名分」を重んじたのです。
では、なぜ今「規制緩和」が声高に叫ばれるのでしょうか。(今ではなくもうずっと前から)
必要があり、皆が納得したから規制がかけられたのにです。
それは、時代とともに国家や社会がおかれている環境が変化し、規制をかけていた対象の状況も変わるからです。
※
ここでよく置き忘れられる議論があるので注釈しておきます。
世論は時代とともに左に右にぶれます。
何かが加熱すれば規制強化論が強くなりますし、その逆の状況では規制緩和論が強くなります。
その分野の専門家同士の議論においては各種具体的項目毎に比較的論理的に規制の是非が論じられるのに対し、一般的な世論は情緒的反応を強く示す傾向があります。(マスコミの影響もあるでしょう)
規制緩和論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ますし、逆に規制強化論者が声を上げると必ずそれに総論として反発する勢力が出ます。
時として、神学論争などといって揶揄される場合もあります。
しかし、これはとても非生産的な議論です。
なぜなら、人間が不完全である限り、いつの時代においても環境に合わせて規制はかけていくべきものですし、環境に合わせて規制を緩和していくものなのです。
議論の軸が「規制緩和派vs規制強化派」であっては永遠に適切な答えには辿り着けないでしょう。
時代が変われば、古くなり環境に合わなくなった規制は緩和する必要が出てきます。
しかし、規制を緩和するのは容易ではない場合がほとんどです。
ここに「規制」の難しさがあります。
人間に限らず全てにおいて同様なのですが、我々は環境に適応する生き物です。
熱帯雨林を想像してみてください。
自然に自生していた熱帯雨林の中で観光名所になっていた杉が害虫によって弱っているとします。
そこで当局は害虫を駆除するためのシステムを熱帯雨林の中に建造しました。
何が起きるでしょうか?
当局の期待は害虫だけが駆除されて杉が力を取り戻すことです。
しかし、思惑通りに事が運ぶとは限りません。
害虫を駆除すれば、その害虫が存在したことによって成立していた熱帯雨林の生態系が壊される可能性があるからです。
生態系の乱れが小さくおさまり、ほぼ期待通りの結果を得る可能性はありますが、下手をすると生態系を大きく乱し熱帯雨林の形そのものを変えてしまう可能性もあります。
そうすると期待結果であった杉を守ることすらできない可能性すらあります。
本当に杉を守りたいのであれば、害虫の発生要因は、そしてさらにその発生要因は・・・と研究していく必要があります。
そのどこかの時点で、生態系に与える影響を小さく抑えたまま杉を守れると判断できる対策が得られたら、それが目的に照らし合わせて最適な行為(規制)といえるでしょう。
(もちろん、事前的に最適でも事後的に誤りであることは往々にしてあります。)
また、一度対策を行ってしまうと、その対策に依存した生態系ができてしまうことに注意が必要です。
杉に栄養剤を打つと、杉は栄養剤なしには生きていけなくなる可能性があります。
熱帯雨林の中に人造物があれば、その周りをシダ植物がまとわりつき、そこに巣食う動物が出てきます。
動物にとっては安全で暖かくて、とてもよい住まいかもしれません。
ここで杉が元気を取り戻したので人造物を除去することに決めたとします。
その住まいを奪ってしまったらどうなるでしょうか。
(動物に心があるかは関係なく)動物達は可哀相でしょうね。
この熱帯雨林の話の前半部分で「規制を導入する難しさ」を、後半部分で「規制を緩和する難しさ」を表現したつもりです。
話を単純化し過ぎかもしれませんが、わかりやすい説明になったかと思います。
規制を導入する難しさとは、現代社会では利害関係が複雑に入り組んでいるため万人に通用する「大義名分」はほとんどの場合有り得ず(認識を共有することは難しく)、また利権化した政治の力で「大義名分」とは関係なく一部の集団へ利益誘導が行われることにあるのです。
(そのための情報操作も日常茶飯事です)
規制を緩和する難しさとは、規制により利益を受けていた人達が損失を受けるということであり、その損失の正当性が認められない限り緩和できないことにあるのです。
※
一部の方々はこの「規制緩和の難しさ」を重々承知しておいでなので、多少強引にでも一生懸命に思惑を予算に組込もうとします。
予算に組込まれる前には議論を分かつ問題でも、一度予算に組込まれると政治はその予算を削るのが容易ではなくなります。
その予算に助けられている人々が生まれるからです。
予算を削るということは、弱者を救うという政治の大義名分を著しく毀損してしまいます。
この場合「フレーズ」が必要です。
「改革」「痛みに耐えて~」のようなフレーズです。
「規制緩和」の有意性は万人が認めるところ(総論で賛成)でありますが、各集団や各個人が損失を被るとわかったとき、人々は反対に回る(各論反対する)のです。
絡み合った各要因を一つ一つ解きほぐし、万人が納得する「大義名分」を唱えることは非常に難しいことです。
あるとすれば、オバマ米大統領のように利害対立を止揚した理念を唱えることですが、理念を具体的政策に落とし込む際にはやはりこの問題にぶち当たるのです。
このとき、政治に求められるのは「決断」です。
「決断」とは「諦める」と同意です。
一部の利益をとり、一部の損失を諦める。
これが「決断」であり、人々が今政治に求めているものなのです。
誰に対しても好かれたいと思っているようでは「決断」することはできません。
現代の政治家に必要な能力とは「決断の正当性を説明する能力」です。
※
小泉内閣でいうところの「痛みに耐える」ということですね。
だが、やりかたを失敗すると小泉改革のように巻き返しに合うのです。
私はこれこれこういう理由でこういう決断をする。
ただし、これによって損失を受ける人達のことにも十分に配慮しなければならない。
みんなのためとはいえ、誰か1人に痛みを背負わせることがあってはいけない。
その痛みは皆で分け合うべきだし、そのために国家は努力しなければならない。
みなで強きを伸ばし、弱気を助ける。そのための国家である。
だから、こういう条件をつけて、こういう対応をします。
しかし、このことによって、我々はこんな明日を~~
という具合に。
コメントありがとうございます。
なるほど、「第3の道」と「子供(政策としての教育)」がどう結びついてくるかという問題意識ですか。
(著作を読んだことがないのでご指摘の内容から少しズレた回答になるかもしれません。)
既に幾人かの識者が提言されている内容と重複してしまうのですが、私の考えを述べさせていただきます。
まず、私は「学校教育のあり方」を変えようとすることは文科省だけではできないと考えています。
(これについては反論もあろうかと思いますが、むしろ文科省にできることは小さいと考えています。)
なぜなら、教育とは「理念的なもの」ではなく「現実的なもの」であり、我々が教育を必要とするのは「現実がそこにあるから」です。
もし、我々が世界をいくらでも自分達の好きなように変える事ができるなら、また、自分達には全く変える事のできないものなら、我々は教育を必要としないはずです。
我々が教育を必要とするのは、変えがたい現実を自分達の望む未来へ向かって変えていこう願うからです。
我々が認識している社会や国家というものが、現在だけで終わることのない連続的なものだと信じる限り、その想いが消えることはないでしょう。
(刹那的な生き方をする人や、自分だけよければいい人に教育なんてどうでもいいことなのです。)
しかし、ここで問題となるのは、我々が望む未来が一人ひとりによって違ってくることと、何が正しいことなのかを定義することが難しいことです。
(もし、画一的に正義を定義できるなら教育について誰も苦労しないです。)
(当ブログのこれまでの主張と重複するので、かなり説明をはしょりますが)
結局、我々にできることは現実に即して教育を考えることだけです。
現実から遠く離れた考え方で教育を考えたところで、誰も納得しないし、誰も求めてないのです。
たとえ、野蛮でも低レベルでも、生きていくために努力するのは当たり前の権利として認められてもいいと思います。
生きていくために、それが必要なら今の教育が最低でも、それを受け入れようとする人達がいるのはある意味で当然です。
だから、我々が教育を変えたいと思うなら、まず現実を変えようとすることです。
国家を社会、産業界、都市、町、村、サークル、会社、家族、etc...そして自分を。
産業界の労働市場環境が変わらずして大学が変わるわけもなく、すると入試が変わるわけもなく、すると学校教育のあり方も変わるわけがありません。
労働市場環境を変え、生活環境を変え、人々の意識を喚起する、そのことによって社会を変えようとすることこそ「第3の道」のコンセプトであると私は思います。
その中で教育も変わっていくのです。
文科省にその現実を変えていく力があるとは思えません。
これは、国家戦略的に進めていくべきものです。
ちなみに、民主党の方法論が正しいとは思っておりません。
今後も適宜ご指摘いただけると嬉しいです。
不登校、退学者20万人、精神疾患休職教員5400人。こんな学校に通えば、ひきこもり、ニート、失業者となり、4万人の自殺者が出るのは当然です。
日本国民は、なぜこんなデタラメ教育を許しておくのですか。子供の不幸を見て見ぬふりする堕落した日本人こそ、自民党・官僚政治の愚民化政策が作り出した愚民です。
教育現場から、愚民化教育のおぞましい実態を詳細に暴露したのが「『おバカ教育』の構造」(阿吽正望 日新報道)です。時代錯誤の文科省官僚は、この知識時代に愚民化教育を行い、若者を貧窮させ、犯罪に走らせ、国家衰退を作り続けています。
受験競争で時代遅れの知識を詰め込ませ、世界最低となった大学に進学させ、外国語もIT能力も金融や法知識もない若者を育てれば、国が滅びます。これは、薬害エイズや薬害肝炎を起こした厚労省を越える官僚の大罪です。
今年こそ親たちは、子供を救うために立ち上がるのでしょうか。それとも、薬害肝炎やエイズ、原爆症患者、沖縄と同じに、子供を見捨てるのでしょうか。