goo blog サービス終了のお知らせ 

進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

[妄想シリーズ] ハッピー・トレイン計画

2010-01-21 12:45:09 | 経済

妄想シリーズとしてシリーズ化します。
このシリーズは個人的に社会的価値などを無視して、単に思いついたことを表現するものです。
"妄想"というところからわかりますように、これは個人的な願望に近いものと考えていただいてよいかと思います。
「そんなの読まされる側に立って考えろ」と思われるかもしれませんが、テーマに[妄想シリーズ]とつけますので無視していただくでも結構かと思います。

電車内痴漢:39人を検挙 首都圏の新学期集中取り締まり(毎日jp)
http://mainichi.jp/select/today/news/20100121k0000e040035000c.html

どんどんやってくれ。
個人的には、小沢問題よりも警察(検察じゃないけど)はこっちに金かけてもらって構わない。
こっちの方がずっと社会のために役立つから!!

私は、是非政府(JR東and私鉄?)に「ハッピートレイン計画」を遂行していただきたい。
通勤ラッシュを解消するだけでなく、電車内を楽しくして欲しい。
エキュートなんかで駅中を楽しくするのはいいですが、電車内も楽しくしてくれないだろうか。
ただ移動するだけの機関として電車を位置づけるのはとても勿体ないと思うのは私だけだろうか。
iPodやウォークマンなどで時間を潰すだけではもったいないと思うのだ。
これだけ効率化された都市生活において、あの時空間だけは生産性が上がらないのである。
いや、本読みたい人は読めばいいんだ。
電車内に自由があることが生産性向上のために大事なんだ。

例えば、電車というのはいろんな人が行き交うが、まるで出会いがない。
「電車男」ではないが、もっと電車カップルができてもいいと思う。
そのためには、もっと若い女性が楽しく乗れるということが重要だ。
今、若い女性は電車に乗ると男どもからの脅威に耐えなければならず、みな構えている。
若い女性にとって電車にのることはリスクなのである。
そして男も、そういう女性を前にして身構えてしまうのだ。

この状況を是正せずして何が「安心社会」か!!

首都圏800万人の電車通勤者に夢を見させてくれ!!

例えば、女性車両とかセコイことを言わず、もっと妊婦車両とか子供車両とか家族車両とか、出会い車両とかもやって欲しい。
わかった!
例えば15両中の10車両くらいの車両内スペースを車両単位でオークションかけて売却し、各民間企業の創意工夫を導入するというのはどうだろう。
そこに生まれるサービスもあろう。
これまでの輸送量が減ると困るので、幸福実現党ではないが電車を2階建てにしたり、ホームの長さを拡張して車両編成数を増やすというのはどうだろう。
単なる移動手段として電車を位置づけるのはもったいないである。
2階部分を全て売却でもいいだろう。
ビジネスなので痴漢は禁止方向になるだろうし、居酒屋トレイン、バー・トレイン、などがあってもいい。
気づいたら終点でした系の乗り過ごしが増えそうではある。
キャバクラ・トレインを作れば痴漢も減るかも?
わかった、風俗店として痴漢・トレインがあればいいのだ。
やりすぎか・・っていうか絶対禁止されるだろうな。
保育・トレイン、理容・トレイン、カフェ・トレイン、いろいろあると思う。
けど、多分法律かなんかで禁止されてるんだろうな。
もしそうなら、その法律やめてもらえないかな。
でも鉄道会社の人ならこの手のアイディア絶対考えるはずだから、それでも実現されないのは、多分その前段で輸送量が足りていないからなんだと思うんだな。
だ・か・ら、2階建てやホーム拡張やったらいいんだ。
金がない?
コストとのトレードオフ?
だから料金を2階建てにすればいいんだよ。
需要がない?
それはやってみなければわからないよ。

もっと人々が首都圏に集中して都市化するのもいいし、ハッピー・トレインの出現で遠方に住むようになってもいいと思う。
電車が楽しくなったら、もっとみんな遠くに住んでもいいかなって思うようになると思うよ。

----------------------------------

私は毎日通勤に電車を使うのだが、直接痴漢行為を目の当たりにしたことはない。
しかし、痴漢行為に準ずるような行為を見かけることは日常茶飯事である。

私が遭遇する危ない行為は主に2通りある。
1つは、通勤ラッシュ時に若い女性の隣を狙って電車に乗ってくる男が多い。
ラッシュ時には乗車率が高く、体と体の距離がないくらいギュウギュウになる。
隣が若い女性だと嬉しい男がやはり多いらしく、毎日のように狙っている男を見かける。
本人はわからないようにしているつもりだろうが、私なんかは明らかに「こいつ狙ってる」とわかる。
明らかに動きが不審なのである。
普通、ラッシュのように資源を争奪する状況では、参加者は最短経路で目的を達しようとするものであるが、こういう不審者はそうではないのだ。
電車に乗る前の列への並び方が変である。
ラッシュに困ったような顔をして誤魔化している姿が痛い・・。

もう一つは、電車にゆられたふりして若い女性に体を当てる男。
これもわかる。
本人は誤魔化しているが、意識しているのが不自然すぎてわかる。

50くらいの男が女子高生に一生懸命触れようとしているのを見るのが痛い・・
金融日記じゃないですが、もっと性風俗的な規制を緩和して、こういう元気はあるけど発散する先のない男どもに対応して、若い女性に対するリスクを減らした方がいいなじゃないかと思う。
禁欲的なことを是とする時代は、近代の終焉と供に終わったのではないか。
もっと社会全体のために頭を使うべきなんではなかろうかと思う今日この頃である。

先端分野では評判メカニズムが生き残る

2010-01-14 18:37:24 | 経済
かなり適当なエントリです。

どの分野でも先端領域において行政が取り締まるのは難しいので、市場において淘汰される仕組みがないとたまらんですね。
法整備はいつも後追いにしかなりません。
専門家やインサイダーによるブログやツイッターを起点とした評判メカニズムがその役割を担うのでしょうか。
それだけだと時代に逆行しているようですが、信頼メカニズムとの2重構造になるのでしょう。

日本航空については言わねばならぬことがどうしてもひとつある。(ぐっちー)
http://guccipost.jp/cgi-bin/WebObjects/12336a3d498.woa/wa/read/sq_12626e75aa6++6+/#tgl6


これだけ「いんちきファイナンス」を繰り返してきてその上で上場廃止にして既存株主を一気に放り出すという結論が許されるのか? 過去のファイナンスに関わった連中(主幹事証券会社、メインバンク、東京証券取引所および金融庁)は詐欺ではないか??という問題も依然大きいと言わざるを得ません。

[中略]

鳩山首相は株主にも責任があるなんて言っているけどそれはある特定の株主であってあれだけの債務超過を隠し続けて株を買わされた個人および中小企業、とくにはめ込み先になったであろうみずほの取引先企業はたまらない。(証言多数あり)

それは彼らの最後のファイナンスがわずか一年前、2008年に1500億円にも及ぶ金額が不正に堂々と行われているということに尽きるのだ。

再生委員の調査によってもJALが数年前から債務超過(つまり倒産企業)であったことが既に明らかになっている。最後のファイナンスは2008年6月。問題が表面化したのが昨年9月、この時点で政府の支援が決定した訳だから、たった1年で5000億以上の債務超過に一気に陥るなんてことはどうみても説明不可能でしょう。2008年6月の段階でアウトだったことは明白です。

ということはこの資金調達は当然債務超過を知っていて、将来の返済が極めて危ういことがわかりながら、関係各社を核に無理やりはめ込んだファイナンスであり東京証券取引所がそれにお墨付きを与えて個人および個人に近い法人各社をだまして膨大な損害を与えたことに他ならない。

これに口をつぐんでいるなら、当時の金融庁、金融機関、東京証券取引所関係者は全員違法取引もしくは詐欺罪で逮捕するべきで、さもなくば税金投入はあまりにも国民をばかにしていると言えましょう。

[中略]

つまりは返せないことがわかっていてファイナンスをした訳だ。

主幹事はみずほとゴールドマン。


当事者からすればそれなりの言い訳もあるだろうけど、結果としてこれは確かに酷い。
政投銀の民営化阻止と関わっているとすると、、。

稲盛氏で大丈夫なのかはわからないが、とにかく健闘を祈る。(他人事)

3人の財界人が語る「稲盛日航」が危ういこれだけの理由(辻広雅文)
http://diamond.jp/series/tsujihiro/10093/

コスト意識はトレードオフを理解する第一歩

2009-12-26 16:57:08 | 経済
世間話レベルのつぶやきです。

マスコミ報道でよく出てくる「2番底」というワード。
いわゆる「W字型」と呼ばれる景気動向予測である。

あるTVキャスターが民主党の政治家にやたら「2番底がくるのか?」と「その対策は?」みたいなことを騒ぎ立てていたのだが、マスコミがこういうノイズに惑わされるからこそ視聴者の財政政策バイアスが強くなるのではなかろうか。

思うに、これを「W字型」と見るのか「L字型」と見るのかで大きく結論が変わるだろう。
W字型と見る人は短期トレンドに着目しているし、L字型と見る人は長期トレンドに着目している。

地球温暖化議論も同じなのであるが、長期変動と短期変動はしっかりと分けて考えるべきである。

長期トレンドの中で短期トレンドは変化し得る。
しかし短期トレンドに対応したやり方では長期トレンドを変えることはできないし、また長期トレンドに対応したやり方では短期トレンドに細かく対応することができない。
(もちろんトレンドを完全にコントロールすることはできないが)
全力で長期トレンドのコントロールに取組む事ためには短期トレンドを無視する覚悟が必要であるし、短期トレンドに全力を費やすためには長期トレンドによってその努力が長期的に無駄に終わる覚悟をしなければならない。

本来、国家の経済財政政策のあり方とは「短期と長期のバランスをどうとるか」に議論が集中されるべきである(本来議論参加者はトレードオフを理解していて、その中でどう結論づけるかが問題だからだ)が、残念ながら現在の日本の政府は短期のバイアスが強すぎてバランスを欠いている。

いや、それが民主党の特徴なのだと言われれば、そういう政府であることはむしろ肯定されるべきなのかもしれない。
左右にふれるのが民主主義で、そこに付きまとうのは「デモクラシーのコスト」である。
コストを認識すればこそ、自分達が手にすべきベネフィットが本当は何か考えることができるのだから。

コスト意識が芽生えるのはトレードオフの理解の第一歩だ。

高速上限2000円にがっくり

2009-12-25 16:27:54 | 経済
ありきたりな話題であるが、高速上限2000円にがっくり。

高速道:実験で新上限制、普通車2000円 ETC不要(毎日jp)
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091225k0000e010081000c.html


政府は25日、高速道路無料化へ向けた社会実験として、10年度から普通車の料金を走行距離がいくら長くなっても最大2000円とする上限料金制度を新設する方針を固めた。軽自動車は1000円、トラックは5000円を上限とする。


私は長期休暇を取ると妻の実家に子供を連れて返る。
個人的には飛行機で帰りたいが、妻の希望でいつも車で高速道路を利用している。
高速料金は片道約12,000円。
8時間から10時間に及ぶ長距離運転だ。

そんな私が高速1000円に賛成しているかといえば、大反対である。
(しかし妻は賛成だ。)

なぜか?

長期連休中はバカみたいに混むからだ。
(首都高付近は毎日混んでいるけれども)
我々は渋滞する高速道路を求めていない。

ここに選択肢(トレードオフ)がある。

1,000円だけど渋滞する高速
10,000円だけど渋滞しない高速

どちらを選ぶかの問題だ。
私は後者を選びたい。
早くなければ高速道路の意味が無い。

国民は一般道よりも少し早いが安い高速を選ぶのか、
それとも一般道よりもかなり早いが高い高速を選ぶのか、
どちらだ?

「高速料金を安くするなら輸送容量を増やす必要がある」とすると、その費用は誰が持つ?
料金を安くするのだから、税金になるのだろう。
結局、トレードオフから逃れることはできない。

一般的な考え方は下記エントリでわかりやすく説明されています。

交通経済学
http://rionaoki.net/2009/10/1180


高速道路は適切な価格付けがなければ適切に使われない、ドライバーが混雑などの社会的費用を全て負担するような価格付けにならない限り、常に過剰な需要が発生し、時間の浪費と言う形で社会的な無駄が発生するという。

これは現在の日本の政策の問題を明らかにしている。道路はその容量に達した途端に極めて非効率的な移動手段となる。しかし、個々のドライバーは自分が運転することで他のドライバーが時間を浪費することにたいし費用を払わないため、放っておくと常に混雑=容量オーバーが発生する。これを防ぐには通行料という形でこの負の外部性を個人に負担させる必要がある。

高速道路無料化ないし上限千円と言った政策はこれに完全に反している。結果は予想される通り大渋滞が発生して利用者がみな無駄な時間を過ごすということだ。このような無駄を省くには、まず高速道路の料金は渋滞をコントロールするためのデバイスであって、道路の建設費用をカバーするためのものではないということへの理解が必要だ(料金が費用をカバーできるかは規模の経済で決まるが、それは二次的な問題だ)。

よくアメリカでは高速道路が無料だと言われる。それは単に高速道路の輸送容量が十分あるためだ。容量が足りないベイエリアのブリッジではどれもかなりの料金を徴収している(残念ながらこの料金も混雑解消というよりも一種の財源として設定されている印象はある)。

利用者にとってみれば混雑している高速道路に料金を上げるというのはどういうことだという意見もあるだろうが、現実には混雑しているからこそ料金を上げる必要がある。高速道路無料化に対する立場は基本的な経済学を理解しているかを示すよい指標になっている。


高速料金引き下げって産業振興政策なのかな。
乗数効果があるようには思えないので、ドメスティックな利益の再分配にしか見えないのだけれども・・。
最適配分としてしっかり計算されているのだろうか。

インターネットは誰のもの?

2009-12-25 11:18:41 | 経済

懐かしい話題だったので、個人的雑感を述べます。
ツッコミどころ満載かもしれませんがご容赦ください。
登場人物に対して悪意を持っているわけではありません。
ここに出てくるエピソードは当Blogの思い込みである可能性があります。


参考HP:

IPアドレスにオークションを(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51334914.html

IPアドレスの市場(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51293948.html

---------------------------

以前ネットワーク・システムの研究に従事していた頃「IPv6(Internet Protocol Version 6)」をかじったことがある。
現在広く使われているIPv4はアドレス空間が32bitであるため割当可能アドレス数は約43億個。
これに対してIPv6はアドレス空間が128bitに拡張されるので、アホみたいに増えて日本語で何と読むかさえわからない桁になる。
(細かいことをいうと128bit中上位64bitがネットワーク識別部で下位64bitがホスト識別部だ)

IPv4でも約40億個のアドレス割当が可能であるが、将来的に地球上の全ての人にアドレスを1つ割当てることや、各電子機器それぞれにアドレスを割当てることを想定すると、アドレスが枯渇する可能性が高い。
そこで登場するのが、アドレス空間を128bitに拡張し無尽蔵に割当てを可能にするIPv6である。

インターネットユーザーからしてみるとIPv4/IPv6のどちらであっても使い勝手にたいした違いがないので、どうでもよいことなのだが、あらゆるものがIP化することができれば、そこにユーザメリットもあるであろうと考えられている。
インフラシステム側観点では機器やソフトウェアの置き換え等が必要なのでIPv4/IPv6では大きな違いがある。

IPv6がその名前を広めるキッカケとなったのは、森喜朗首相(当時)がバブル崩壊後停滞する日本経済の起爆剤としてIT革命を推進すると国会演説したのだが、その中になんと「アイピーバージョン・シックス」なる技術用語が出てきたことだ。
その舞台裏にはIT戦略会議議長(当時ソニーCEO)出井伸之氏の想いがあったらしい。
(さらにその裏には村井氏などがいるのだろう。)
(e-Japan戦略は高速インターネット網の整備に寄与したと認めていいだろう)

※ちなみに出井氏と森氏は早稲田の同窓であり親交があった

出井氏は、ネットワークのブロードバンド化と常時接続(通信インフラ開放)の両方を実現することで、社会的に様々な変化を起こし、日本を覆う閉塞感を吹き飛ばせると考えていた。
そのためには、日本のインターネット網が既存の電話線の上に構築されたものであったので、これをインターネット用に構築しなおす必要があると提案したのだ。
このとき、将来的に起こるIPv4からIPv6への移行を視野に入れる必要もあると同時に確認され、そこから日本では産学連携という形でIPv6に関する様々な研究・開発が行われた。
この背景には、IPv6は日本が世界最先端を走る分野であることもあった。
日本はICT分野で立ち遅れたが、IPv6で諸外国を先回りしたいという気持ちもあるにちがいなかった。
しかし、実情はというと、IPv6は世界中でほとんど相手にされていない技術であった。
日本が最先端を走っていたのではなく、世界が相手にしていなかっただけなのだ。
その点について、当時経済産業研究所上席研究員であった池田信夫氏の論文で説明がなされている。
当時IPv6のデマゴギーに洗脳されていた私は大変な衝撃を受けたのを覚えている。
ずっと疑問に思いながらも無視し続けていた事にについてズバリ答えてくれたのだ。
(私が池田氏を知ったのはこの時が初めてだった)

IPv6は必要か(池田信夫)
http://www.rieti.go.jp/jp/publications/summary/02012500.html

IPv6推進陣のトップといえばミスター・インターネットこと慶大教授の村井純氏である。
私は彼の発する言葉から池田氏の批判に対する有効な反論を求めた。
自分のやってることを正当化したいがためである。
彼の口から出てきた答えは「End to End」と「Connectivity」であった。

これは強力な言い訳だった。
NATやIPマスカレード等の技術では本来的な意味で(サーバを介さずに)「End to End」を実現することはできないからだ。
「End to End」を実現するためには、一つ一つのホストにIPアドレスが割当てられる必要がある。
しかも常時Connectivityを提供するためには、IPアドレスが固定的に割当てられなければならない。

だが、イノベーションと言うのは時に残酷なもので、技術はその言い訳を無効化してしまった。
IPアドレスの固定的割当てを前提としない、アプリケーション・レイヤで「End to End」を実現するプロトコルやP2Pアプリケーション等の開発が進んだのだ。
(サーバを全く介さないわけではないが、そもそもサーバを一切介さないインターネット・アーキテクチャなど存在しない)
同じ「End to End」を実現するにも、IP・レイヤとアプリケーション・レイヤでは技術的に大きな違いが存在するが、ユーザの使い勝手としては差がほとんどなかった。
これでIPv6による「End to End」アプリケーションの必然性が大きく揺らいだのである。
こうなるともはやIPv6の優位性はIP・レイヤで実現した方がパフォーマンスが比較的良い程度しかなく(細かい理由は多くあるがユーザ視点で違いが出せない)、そうなるとコスト・パフォーマンスとして大きく劣るIPv6は後退せざるを得ないのだ。

しかし、未だに学術分野や一部業界ではIPv6の火は消えていない。
(NGNなんてものに一生懸命な業界もある)
この理由はなんだろうか。
私が思うに、これはある種の原理主義的な思想が根底にあるからなのではないかと思う。
その原理は「インターネットはユーザのもの」である。
ゆえに権威者たるサーバを介することを善しとせず、あくまえも「End to End」にこだわり、そして「インターネットはユーザのもの」を守るために公的機関がIPアドレスを管理しなければならないというものだ。
これは一種の矛盾かもしれない。
権威を排するために権威を使うのだ。
これは社会主義思想そのものである。
(それがダメだと決め付けるつもりはない)
少なくても、私はそういうものを村井純氏をはじめとするその一派に感じた。

などと考えていたら、どうも池田信夫氏の説明が納得的だ。
彼ら科学技術者の原理主義を、自己利益のために後押しする行政機関が存在することが大きな理由なのかもしれない。
「国の後押し」という印籠があれば彼らは安心して研究ができる。
国は彼らの最大のスポンサーだから。


もちろんアドレスを再編成するにはコストがかかるが、それは土地を引っ越すのにコストがかかるのと同じだ。アドレスを2n単位でまとめないと配分できないというのも、土地が一坪単位で取引できないのと変わらない。アドレスだけを特別に市場から除外する理由は何もない。

私はこの点を何度もJPNICに説明したが、「公共的なアドレスを売買するのはなじまない」とか「金のある企業が買い占める」など、電波社会主義を擁護する総務省の官僚と同じような理由で聞いてもらえなかった。欧米で市場メカニズムの採用が決まってからも、JPNICは市場を拒否してきた。彼らがユーザーを無理やりv6に移行させるために流してきた「v6に移行しないとインターネットが破綻する」という宣伝が、嘘であることがばれるからだ。

しかし社会主義が崩壊したように、どんな組織的なデマゴギーも現実には勝てない。私はv6を否定しているわけではないが、ユーザーをあざむいて無意味なv6アドレスを強制するのはおかしい。JPNICは、オークションによってv4アドレスを全面的に再配分すべきだ。その制度設計については、オークション理論の成果が応用できよう。


IP技術を推進する科学技術者は制度設計の専門家ではない。
いくら大物といえど、これが限界なのだ。
制度設計などは経済学者などが入った場で再度やり直したらいい。

もうネットワークから離れてずいぶん経つので、その後の進展については知らない。
ひょっとしたらIPv6陣営に強力な論拠が出てきたのかもしれない。

なので、ここで書いたことはあくまでも個人の戯言なのだが、ふと科学技術の世界にも「原理主義」的な思想が入り込んでいることもあると、そう言いたくなったのだ。
必ずしも科学技術者が論理的であるわけではない。
経済学者が自分のことでは経済学的合理性を追求できないのと同じだ。
このあたりは人間の不合理性を描いた「アニマル・スピリッツ」を参照いただきたい。
(自分の人生を実に合理的に生きている方といえば勝間氏くらいでしょうか・・)

インプリが駄目でもコンセプトが駄目とは限らない

2009-10-29 23:26:49 | 経済
書きたいことが山ほどあるのですが時間と能力が足りず追いつきません。
今日のエントリは途中で終わっています。。
そんな私でも「勝間本」というやつを読むと改善されるのでしょうか・・?

「大きすぎて潰せない」の愚? (ウォールストリート日記)
http://wallstny.exblog.jp/11465813/

今更蒸し返す話題でもないかもしれないが、日本が歩むであろう行く末を考えるとき、使い古された議論を今一度登場させなければならなくなる。
リーマンショックが火をつけた資本主義論争であるが、ここで述べられているJohn Kay氏の認識が真っ当だと思う。


> 金融危機が、規制当局の手落ちで発生したと言う人がいるが、それは、犯罪自体の発生の原因を、警察の怠惰の責任に帰しているに等しい。

> 金融危機を防ぐために、規制当局が国内外で協調して対処することが必要だと言うが、その考えはおかしい。金融危機発生の責任は、一重に、自らの行動のリスクを理解していなかった、金融機関の貪欲で無能な経営者にある。

> 資本主義(市場経済)のアイデアの根本には、強者が生き残り、弱者が敗れるというものがある。そう考えると、Lehman Brothersの破綻は資本主義の敗北ではなく、むしろ勝利であった。同社の経営はお粗末で、従業員は給料をもらいすぎており、事業の社会貢献も極めて限定的であった。

> 「大きすぎて潰せない」という考え方は、金融機関の間でモラルハザードを引き起こし、リスク拡大を助長するばかりでなく、各社のリスクモニタリングへの関心自体を薄めてしまう。その結果、納税者は、コントロール不能で際限のないリスクに、さらされることになる。


日本では評論家や政治家、エコノミストの一部までもが揃いもそろって「新自由主義の終焉」や「市場原理主義の敗北」などを声高に主張しているが、そのように主張するのは彼らが「資本主義/市場原理」について理解していないことを示しており、ゆえにその主張が180度間違っているのは言うまでもない。
太字で引用した部分「Lehman Brothersの破綻は資本主義の敗北ではなく、むしろ勝利であった。」が正しい認識である。
持続不能なビジネスモデルが終焉したのは"市場原理が正しく機能したから"である。
敗北したのは資本主義ではなく、劣悪なビジネスモデルの方である。
(説明するのが面倒なので本エントリでは資本主義=市場原理とする)

細かい話なのだが、資本主義というのは概念であって制度そのものではない
規制当局が資本主義的な制度を構築することはできても、資本主義そのものを構築できるわけではない。
規制当局が行うのはもっぱら資本主義が成立するためのシステム構築である。
わかりやすくいえば、資本主義はコンセプトのことで、プラットフォームではない。(設計仕様書でもない)

規制当局が行うのはプラットフォーム開発の一つなのである。
今回、システミックリスクの問題として言われているのは、このプラットフォームの能力(不具合)の話である。
プラットフォームの不具合を、コンセプトに求めるのはわかりやすい議論だが、コンセプト自体に不具合があるという話をするためには超えなければならない一線がある。
ひょっとしたらコンセプトではなく、仕様書の問題かもしれない。
コンセプトを仕様書に落とし込む段階で入り込んだ不具合である可能性もある。
これは資本主義の理解・解釈の誤りである。
専門家の間で行われている議論がもっぱらプラットフォームもしくは仕様書を問題視しているのに対して、素人はいきなりコンセプトの話をしているのである。
(そのコンセプトの誤解が甚だしいのがもっと問題か)

いや、もちろんコンセプト議論が悪いのではない。
テクニカルな内容にならずとも議論はできるはずだ。
「資本主義が悪い」とされたらよろしい。
だが、リーマンショックを原因にしているのに、プラットフォーム・仕様書の問題をすっ飛ばして「資本主義が悪い」という議論をするのは無理というものである。
「リーマンショックで金転がして金を生み出すビジネスモデルは終わった!強欲資本主義は敗北したのだ!」という意見を聞くたびに、恥ずかしい気持ちになる。敗北したのは我々が築き上げたビジネスモデルでありプラットフォームであり、我々の知性だ。
足りぬのは我々の知恵である。

しかし、「不具合のないプラットフォームを構築しよう!」と言う人がいたらビックリするのは私だけではあるまい。
いつもいうように人間の知性が完全でない限り、我々が完全なプラットフォームを構築することは不可能だ。
だから、プラットフォームを構築する場合、不具合の発生を前提とするのが普通である。
問題は、起きる不具合をできる限り小さくおさめることと、影響範囲を小さくおさめることである。
その問題について、どのような方策がとれるかを専門家のみなさんは一生懸命考えているのである。

と、いうようなことを下記ように主張されているわけだ。


> 金融機関には、テクニカルな問題に対するリスク管理システムが存在するが、組織的な破綻に対応するシステムは存在しないのが問題でさる。その対策としては、社内と業界内で、業務間にファイアウォールを設置し、また巨大金融機関を小さく解体することで、一部分の破綻がシステム全体を危機にさらさないようにする必要がある。


他の部分で述べられている「大きくて潰せない」を「小さくして潰せる」ようにするというアイディアは、実装方法は別にして非常に有用であると思われる。
これについて個人的に連想するのは、スパコンからグリッドコンピューティングに移行するイメージだ。
コンセプトを実現するための知恵である。

すると、システム構築に関する根源的な問題に対してある程度の対応もできそうだ。
根源的な問題とは「システムそのものは、そのシステム自体が破綻することに気づけない」ことである。
説明すると、破綻することを理解できるシステムは破綻を逃れることができるので、破綻するということは破綻に気づけないということを意味している。
(「自分がいつ死ぬかは自分ではわからない」という問題だ。)
コンピュータシステムの話であれば、この問題についてはダブリングして対応するのが一般的だ。
スパコンや飛行機、宇宙ロケットなどに使われていて、複数の同様のシステムを同時に走らせて互いを確認する方法だ。
演算結果の誤りを防ぐため結果について多数決をとったり、他のシステムが死んでいないか確かめたりという形だ。
同様なことが、小さく潰せるようにすると同時に影響範囲を市場の狭い範囲に閉じ込めることができれば、複数の市場が並列することで可能かもしれない。


しかし同氏もまた、銀行を解体したとしても、レバレッジ(借り入れ)を使った投資を止めなければ、金融危機を本当に防ぐことは出来ないであろうし、借り入れ自体を禁止するということは、現実的でもなければ国民が欲するところでもないだろう、と言った内容でコラムをまとめています。経済活動が人間が行う行動である以上、完璧なシステムの構築は困難でしょうから、システミックリスク対策の議論は、まだまだ続くのだろうと想像します。


むむむ・・・。
私の知恵が足りないらしい(汗)

いや、ここでよく考えてみよう。
実はここまでが"まえおき"だ。(長い・・)

そもそも、「大きくて潰せない」のはなぜなのか
影響が大きいからだといわれているが、これは現実なのだろうか。
リーマンショック由来の金融危機に対する公的サポートは世界的にモラルハザードを引き起こしたわけだが、政治家も市民も、潰れることによる社会的損失が大きいとき、あらゆるロビー活動を総動員して潰すことを許さない。
しかし、我々は「潰さない」ことが「潰れる」ことを引き起こす可能性についてもっと真剣に議論すべきなのかもしれない。
これは適切な報酬のあり方議論にも繋がる話なのだが、潰れる可能性があるからこそ、我々は慎重になりリスク回避行動をとる。
リスク回避行動へのインセンティブが働くように環境が整えられていなければ、我々はリスク回避行動をとらない可能性があるのだ。

我々はどうなるかわからない未来を不安に思い、恐れ、逃げる
自分のやることの結果があらかじめ見えていたら恐れることはない。
自分のやることの結果がある程度想定できて、そしてそれが許容できることなのだとしたら、我々はリスクを選好するかもしれない。
借金を踏み倒せることがわかっているなら、我々はカジノで借金を使ってわずかな可能性に賭けるだろう。
周囲の人々がみなそうやっている中で、自分だけ我慢することができるのだろうか。
私は泡銭はいらないと言う人もいるかもしれないが、得する人が大勢いるような環境では、周りが豊かになるのではなく、自分が相対的に貧乏になるということだから、そう単純に我慢できる問題ではない。
追加的利益がなくなるのではなく、ゲームに参加しなければ損失を受けることになるからだ。

今日はここでしゅうりょう・・続きはいつかまた・・

台風による鉄道網混乱をネタにトレードオフについて考える

2009-10-09 00:03:45 | 経済
JR最大規模の運休…風速の規制強化が一因
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20091008-OYT1T01106.htm?from=main2

台風18号の影響で首都圏の電車網が混乱し、多くの人々に大きな影響を与えた。
(なんと296万人に影響があった!)
ある程度予想されていたこととはいえ、主要路線が軒並み運転見合わせになり数百万人に及ぶ電車通勤者に影響を与える様子をまざまざと見せつけられると、JRや私鉄会社に文句の一つもつけたくなる。

私は学生の時、ネットワーク理論(鳩山首相の専門分野的なあれ)を少しかじっているのだが、その視点から今回の問題について軽く考えてみたいと思う。
(交通革命の必要性についての続き的なお話だ)
(あくまでも素人視点で)
結論としては、結局「トレードオフ」に行き着くのだが、文句ばかり言わずに考えてみることが重要だ。
(あらゆる問題について同じなのだが、文句を言うだけでは解決策に結びつかない。まず「なぜ」を考えてみよう。)

まず、首都圏で電車を使っている人ならよく経験することだが、ある路線で起きた事故や問題はその路線に限定されずに他路線に影響を与えることが多い
例えば、横浜方面で京浜東北線が人身事故で停止すると、振替え輸送で東海道線や横須賀線、京浜急行に人が流れるので、これらの路線に影響を与える。
振替え量がこれらの路線の輸送キャパを超えてしまうと、今度は東海道線も遅延したり、ひどい場合には停止してしまう。
他にも連結乗入れが行われている鉄道会社同士では、ある鉄道会社の事故が他の鉄道会社の運行に影響を与えることもある。
例えば、電車を使用しない人には笑える話かもしれないが、大雨で地下鉄が運転見合わせる場合もあるのだ。
地下鉄と連結乗入をれしている地下鉄以外の路線の影響を受けているからだ。
また、首都圏に張り巡らされた鉄道網が複雑に関係しているため、リスケジュールが困難だという点もある。
一部の遅延を局所的に押さえ込むことができず、影響範囲が拡大してしまうのだ。

このような問題に対処するため、多くの場合に用いられるのが利用制限(輸送制限)である
あらゆるシステムにいえることなのだが、システムは当初想定していたピークを超えた入力が行われると思わぬ挙動をすることがある
これは鉄道でもコンピュータでも銀行の受付でも、あらゆる仕事において同じである。
そのため、想定していたピークを超えた入力を制限し、想定外の問題の発生を回避する施策をとるのだ。

-<>-<>-<>-<>-

思わぬ挙動というのは、想定外の動作や問題が発生するということだ。
あらゆるシステムは、設計時に入力を処理して出力するプロセスを定義するのだが、このプロセスは想定内のことしか処理できない。
当たり前のことであるが、想定外の問題を適切に処理できるのであれば、最初からシステムを構築する必要(プロセスを定義する必要)がない
何らかの問題を処理するためにシステムを構築するのだが、その時に問題だと思っていないことが起きた場合に、どう処理するかは、あくまでも「想定できる想定外」の範囲でしか想定できない
(ブラック・スワンは想定できないからブラック・スワンなのである。)
ゆえに、システムを設計する者は、初めに要求仕様をある意味で割切って(妥協して)決める
「これこれこういう場合にこういう処理をするシステムを構築する」と決めるのだ。
しかし、「それ以外のこと」が起きる可能性については十分に考慮することはできない。
この宇宙には人間の期待通りに動くわけではない。
(詳細はニコラス・ナシーム・タレブ著「ブラック・スワン」を熟読ください)

問題が発生した後で、さも事前に問題が起きることがわかっていたように思えるのは「後付バイアス」と呼ばれる。
その後付バイアスをもとに「なぜ、そのことを想定していなかったのか?」と言われても設計者は「想定外でした」としか答えようがない。
「なぜ想定できなかったのか?」を考察するのは意義深いが「なぜ想定しなかったのか?」を問うのは時間の無駄だ。

-<>-<>-<>-<>-

真っ当なシステムは設計当初にピーク設計が行われているはずである。
入力量が定常的に一定である場合にはさほど重要性はないが、入力量が変動する、それも大きく変動する場合には、平均値のほかに最大値や最低値を想定することが非常に重要である。
しかし、このときに設計者は現実の壁とぶつかる。
ピークを想定できる最大値に合わせると、非常に高コストなシステムになってしまう場合があるのだ。
理想的にはピークに合わせて設計すべきなのだが、例えばその最大値が100年に1度しか発生しないというような頻度である場合、ピークに合わせると99年間は使われない能力を浪費することになってしまう。
これは経済合理性に基づいて考えると非常に無駄で、高コスト構造の温床になってしまう。
もちろん、生命や国家に関わるような非常にセンシティブな事項については低頻度の問題にも配慮しなければならない(100万年に1度しか発生しない問題にも配慮すべきものもあろう)が、全てにおいてそのように設計してしまうと、高コスト構造になってしまい、それは結局、消費者や使用者に跳ね返ってくる

例えば、ある鉄道会社が設備投資をして車両を増設し、便数を増やしたとして「わが社の電車はいつ乗っても席に座れます。グッバイ・ラッシュアワー」とうたったとしよう。
しかし「ただし料金はこれまでの3倍です。」と言った場合に、どれだけの利用者が喜ぶのか。という問題がある。
(もちろん中にはウェルカムな人もいようが、負担する通勤費が3倍になると困る人も多い。)

そこで設計者はあるところで割切る必要性に迫られる。
ここまでは対応するけれど、これ以上は諦める」といった具合だ。
利用者は時々困る事態に遭遇するが、その代わり低コストで便益を享受することができるのだ。
これが「トレードオフ」というものである。
極論すれば「この宇宙に絶対的な解は存在しない。あるのはその時点での最適解だけ。」なのだ。

さて、上記を踏まえた上で「輸送制限」について考える。

今日のように台風によって鉄道網に設計当初に想定したピークを超える入力が起きた場合、どう考えるべきだろうか。
設計者が「ピークを超えているので鉄道網は機能停止します。」といってもよいが、運用者はそういうわけにはいかない
(でも競争が緩いので微妙にそんな雰囲気もあるので、鉄道会社の株主にはがんばってもらいたいが)
運用者は「ピーク設計した範囲内で機能させなければならない。」のだ。
そこで有効なのがシステムにピークを超える入力をさせないことである。


特に、ボトルネックとなるような接続点(主要駅)だけで実施するのではなく、そこに向かう輸送量を制限することが効果的だ。
混んでいるところだけで制限するのではなく、混む要因となる前段で制限することで、全体としてのパフォーマンスは向上する。
(ボトルネックを解消するために、ボトルネックだけに着目するのは目先の短期的な視点なのだ。これはどの問題にも適用できると思う。)


ピークを超えると想定外の問題が発生する可能性があるので、ピークを超える入力を制限し、鉄道網の機能性を確保するということだ。
だから鉄道会社は乗降客に罵詈雑言をあびせられようとも駅のホームへの入場制限を実施し、ピークを守ろうとする。
乗降客からしてみれば目の前の電車に乗れないのだから損失に思えるかもしれないが、しかし鉄道網が完全に停止すれば移動することすらできないのであるから、短期的にはマイナスでも長期的にはプラスなのである。
鉄道会社は、自分達のためだけでなく乗降客のためにもがんばっているのだ。

が、しかし、ここにもしっかりと「トレードオフ」がある。
ピークを超えるからといって入場制限をしようにも、追加人員が必要だ。
しかも電車が遅延している状態では、駅は人で溢れるし、質問客は増えるしで相当の人員追加が必要になる。
が、そんな予備の人員をかかえるのもまた経済合理性を基に考えると無駄なのである。
(鉄道会社が赤字になって、料金が上がり、サービスの質の低下が起きたらほとんどの人が嫌なはずだ。)
非番の職員を全員出社させて対応できるならよいが、全駅に十分な追加人員を配するのは無理だ。
やはり輸送制限にもピーク設計が必要なのである。

他方、これとは違った輸送制限の方法もある。
問題が起きて入力がピークを超えようとしている時に、料金を跳ね上げる方策である。
異常事態時に通常通りサービスを提供するためにはコストがかかるわけであるから、同じコストで最悪のサービスを提供するよりも、コストをかけてサービスの質を維持する方がよい場合がある。
例えば、料金を10倍にする代わりに確実な運行を保証することである。
しかし、これも「トレードオフ」なのである。

結論として、どんな場合にも鉄道網の混乱を回避するのは不可能だ
結局のところ、ピークを超えてサービスを提供することはできない
ということなのだ。

これらは当Blogの下記エントリに繋がる話なのである。
費用負担のない便益など存在しない

(突然飛躍するが、)
やはり我々がこの相対的な宇宙に存在する限り「トレードオフから逃れることはできない」のである

ただ、人間が創ったシステムは不完全なのでトレードオフからの抜け道がある
例えば「コネ」や「賄賂」、「バックドア」といったものだ。



失敗を認める社会に舵を切ろう

2009-10-03 01:15:15 | 経済
エンフォースメントに関する補足--池尾和人(アゴラ)
http://agora-web.jp/archives/763918.html#comments

上記サイトのコメント欄がヒートアップしていたので、議論を落ち着かせるために、勇気を出して私もコメントしてみたのだが、まるで反応がなかった・・。
いや、私のコメントのレベルが低いから反応なしなのかもしれないけれど、それにしても残念です。
コメントで書いたことをこちらにも転記しておきます。


借り手が高金利でも借りるのは資金需要があるからではありますが、その内訳として一過性の資金繰り危機への対応よりも、延命的な(その後の成長可能性の少ない)資金繰りのためが多ければ、上限金利の引き下げは経済活動に本質的な影響を及ばさないという指摘には説得力があります。

話を単純化しすぎかと思いますが、高速道路の法定速度を無制限にすべきか100kmか150kmか、というような議論と類似していると思います。
(隠れて飛ばす人もいますし)150kmで得する人もいますが代わりに事故も増えます。
損失を被る人がいても皆が安心して走れる速度として100kmにしようとする行為は多少社会主義的でも納得できればよいと思います。
(エクイティとの住み分けもありますし)

得する人も損する人もいますが、そこはトレードオフ前提で答え出さなきゃいけませんから。
どのようにバランスをとるかで対立軸を明確化するためか二元論的な議論が目立ちます。

経済規模を見せ掛け上大きくみせるよりも、持続可能性の低い資金繰りを可能な限り抑制することは、淘汰を推し進めるという意味で環境さえ揃えば実はマクロ的にみて正の効果を期待できはしないのでしょうか。
そもそも、なぜ多重債務者が存在するかといえば、これは金利によるものだけではなく、無理な延命せざるを得ない状況が発生しているからです。
つまり資金繰りせざるを得ない環境に個人が置かれてしまうことが根本的な問題です。この問題に対する解決策は、月並みな意見なのですが、債務不履行に伴う倒産コストの引き下げと効率的な破綻処理の構築になるかと思います(再起機会の構築はここでは省略)。

ただ、これは言うは易く行うは難しの問題で、「良いリタイア」のモデルの構築はまだまだ模索段階にあるという認識です。
特に日本の場合は破産すると無形の人的・生活ネットワークも破壊されるという悲惨な状況に身を置くことになります(一方でタコツボ社会のメリットもありますが)ので、余計に難しいというのもわかります。
そういう中で、現状として上限金利の引き下げは、一つの方策として有り得るのだと思います。こういう考えがスピード狂の心に響かないのも知っていますが。


誤解を恐れず言えば、私の主張は「みんな無理してがんばり過ぎずにダメな時はリタイヤしようよ。」ということです。
延命措置ばっかりして生き延びることにどれだけの意味があるのか、それはここでは明確にしないけれど、「新たな命を生きようよ。」私はただそれだけなのです。

ちょっとくだけた表現をしましたが、この問題は、本質的に雇用柔軟化と同じものです。
守ろうとすればするほどシステムは硬直化し失敗者は弾かれるが、守ろうとせずに開放すればシステムは柔軟化し失敗者を許容できる環境が生まれるのです。

多重債務者が多重債務者になる前に解放してあげましょうよ。
他人の作った借金で苦労させられたり、娘を風俗にいれてまで借金返したり、借金返せないから自殺とか、そういうの止めるために必要なのはさ、亀井さんの徳政令なんかじゃなくて、失敗を許容する広い心をもった社会なんだと思います。

もちろん、貸し倒れ増えるかもしれませんね。
貸して責任は今よりも増すことになります。
住宅ローンなんかも金利高くなるかもしれません。
死ぬ気で借金返す日本人の姿見れなくなってしまうかもしれないから。
貸し渋りも増える懸念もありますが、倒産増える分だけ起業が増えれば新陳代謝で経済が活発化されるのではないかと期待もできます
そうするとエクイティ・ファイナンスが増えるのではないかと思います。
株式会社の本来の意味も問い直されるはずです。

人間は失敗をしてしまう生き物です。
日本社会はタコツボ型社会といわれ、失敗を極力抑制する仕組みを重視してきました。
これは病気をしないように生きるのと同じです。
しかし、病気にならないのは不可能です。
うまく病気と付き合っていくことが重要なのです。
同じように、人間社会は失敗とうまく付き合っていくことが重要なのだと思います。

日本は、失敗を極力抑制する文化から、失敗を許容する文化へと大きく舵を切るところに来ているのだと私は思うのです。

リスクばっかり気にしていたら生きていけない

2009-09-14 23:07:04 | 経済
相関のファンダメンタルズ(投資の消費性)
http://d.hatena.ne.jp/equilibrista/20090911/p1

私はこのBlogのファンだ。
彼の主張には実務家特有のリアリズムの匂いが漂っている。

いわゆるリーマンショック以降、ありとあらゆるところから投資銀行を筆頭とする金融業界へ批判がなされた。
世間は、彼らが汗もかかず金を転がすだけで多額の利益を上げていると思い込んだ。
また、数学を応用した金融工学というツールを使ってリスクを覆い隠し消費者を騙したと。
確かに、一部では現実なのだろう。
麻生太郎が「株屋は信用ならない」という失言で世を騒がせたが、そういう一面もある。
金融業界に限った話ではないが、詐欺的なビジネスは何時の時代にも横行している。

ナシーム・ニコラス・タレブ著「ブラックスワン」を持ち出して、金融業界批判をする人もいる。
格付け会社が「AAA」を連発したことが問題だと。
だが、格付け会社の意見を聞けば、彼らは過去に起こったことからしかリスクを判断できないので、これまで通りなら安全(AAA)だと言うことしかできない。
予測できないブラック・スワンまで考慮にいれろというならば、「AAA」は存在できないことになる
いや、そもそも「AAA」=「最上級の安全で優良な格付けを意味」という言葉に前提をつければよかった。
予想外のことが起きない限りは最上級の安全で優良な格付けを意味します」と。
生命保険だってこういう場合は保証しませんとか書いてるじゃないか。
戦争による死亡は保証しないとか、自殺はだめとか。

まず社会の構成員全員が認識すべきことがある。
我々はリスクを完全に理解することはできない

リスクというのは考えれば考えるほど無限にあり、数えればキリがないものだ。
全てのリスクが見えていたら、我々は恐ろしくて街中を歩けないだろう。
それでも我々人間が普段の生活を前向きに過ごすことができるのは「どこまでをリスクとして捉えるか」という難しい判断を、無意識的に行っているからだ。
考えなくていいリスク」と「考えるべきリスク」の判断基準は人によって異なるだろうが、その判断を生活が成り立つ程度の合理性に基づいて行っていることが重要だ
(仕事ができるマネージャっていうとこの辺りのリスク感度が高かったり逆に自覚的に低めたりできる人ではないだろうか)

タレブは、人間が目先の利益を重視しがちな(長期的なリスクや頻度の低いリスクを軽視する)理由を、人類がそのほとんどの時間を費やした野生的生活の中で身につけた性格だからだと説明する。
極端なことをいえば、我々には、リスクを完璧に判断することはできない。
全ての情報を知ることはできないので限定合理性の中でしか判断することしかできないからだ。
人間というのは、無限の可能性の宝庫である宇宙を、鉄格子ごしにしか見ることのできない存在だ

そんな人間がリスクを過小評価したからって大騒ぎする方がどうかしている。
前述したことを前提とするならば、我々は間違えるということを前提として制度設計するのがセオリーではないか。
間違えたことを責めるのは心情的には理解できるが、論理的な解決策を導いてくれるとは到底思えない。

最も、わかりやすい例が、米国の運輸安全委員会のとる方法だ。
犯人探しが最優先なのではなく、問題の原因を解明し、次なる問題発生を防ぐことが最優先なのだ。
現実を明らかにするために関係者を罪に問わず、本音を聞きだす。

さて、前置きが長くなってしまったのだが、当記事の最初に貼ったリンク先を見ていただきたい。


システムおぢさんにコメントいただいた中で、気になった部分がここでした。
皆が一斉に資金を引き上げるとき、当然のことだが、どのリスク資産も一様に価格は下落するのだと。
それらの相関は高まるのだと。
そもそも相関を一定だと仮定するのが阿呆で、それらは常に変化するのだということを、我々は肌で理解する必要があるいう指摘は、金融危機後によく見られました。
他方で、なぜ相関は変化するのか、どのように変化するのか、その背景は何か、それらをどのように用いるべきか、といった問題について、具体的に言及されたものをあまり見たことがありません。
今日は、そのあたりに光を当ててみようかと。



例えば、トヨタ株と日産株を同時に買うとき、どちらか片方のみを買う場合と比べて、たしかに分散効果を期待できるはずです。
どちらかの経営陣にスキャンダルがあっても、もう片方には普通なら変化はありません。
もちろん分散効果をあまり期待できないような局面もあるはずです。
例えば自動車需要そのものが減退すると予想されるとき、どちらも下落を避けられません。



ポートフォリオの内容によって、意図しているリスクの内容によって、投資している個別のリスク資産の相関が高まることの影響は異なります。
まず、このことを頭に入れておく必要があります。


具体的な説明は本文を見ていただくとして、本質的な問題をあっさりと述べるあたりが彼がプロであることを示している。


あらゆるリスク資産を見渡して、そのすべてに共通するもの、一部に共通するもの、ほとんど共通しないもの。
世の中に動くあらゆる要素を、そのように捉えることができるはずです。
そんなふうに、あらゆる「共通項」を探し出して、大きいものから順に頭の中で階層に積み上げてみる。
それらを、それぞれに揺らしてみる。
相関にかかるリスク管理とは、本来そのようなものであるはずです。


最後は、全部コピペ。


大切なことは、「共通項」の認識に正解など存在しないということです。
今朝の乾いた風が、どのビジネスに影響して、どのビジネスにあまり影響しないのか、その見方は投資家の数だけ存在します。
あらゆるリスク要素にかかる異なる見方は市場で交換され、世界中の投資家の総意として収束するはずで、バーゼルの連中だけがリスクを定義できるだなんて、どうかしてる。
だって今は21世紀だぜ?
銀行ビジネスを見るときも、自分のポートフォリオを見るときも、リスク管理とは、結局のところそうして世界のすべてを見ることで、より具体的には、あらゆるリスク要素を、それが誰と誰の「共通項」なのかイメージしつつ、上下左右にゆさゆさと揺らしてみる。
すべての投資家がそうやってリスクを眺めるとき、世界はより安定するはずです。
少なくとも、僕はそう信じてる。

保守的なリスク管理をしたければ、そのとき悪影響を与えそうなものを探し出す。
ロングのポートフォリオなら、皆を一斉に揺らすリスクを念頭に置くこと、結果として各資産間の相関を高めに見積もることだし、ヘッジファンドなら、あまり共通項を持たない個別のリスクに着目すること、結果として各資産間の相関を低めに割り引いて考えること。



あらゆる相関には理由があるはずで、それらを探し出すことは実は投資の出発点なのだけれども、なぜなら、それらをすべて考慮して構成したポートフォリオのリスクに対して、投資家はプレミアムを要求するわけです。
それに値段をつける。
つまりすべてに。
ああ、またしてもCAPMに戻ってきた。
逆襲シリーズとして書いてもよかったのかもしれない。


彼は最近まで投資銀行でヘッジファンド運用をしていたらしいが、実際の現場の感覚っていうのは、世間で言われているよりずっとリアリズム指向だと思うんだ。

彼らは彼らにできることと、できないことがわかっていて、それでリスク管理している。
リスク管理に絶対があるかのような勘違いを流布しているのは逆の立場の人達なんじゃないか?


なんて記事を書いていたら極東ブログに似たような記事が。

[書評]脳の中にいる天才(茂木健一郎編・竹内薫訳)(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/09/post-cdde.html

う~ん、言わんとしているところはわかるけどむずい・・。