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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

桜の木を見よう

2011-02-11 01:14:51 | スピリチュアル

『バカの壁』(養老孟司)

 君たちだってガンになることがある。ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう。

 ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。


これは「知る」ということの本質を物語っている。
人は知ることで変わり、その変化は不可逆だ。
一度知ってしまったことを都合よく知らなかったことにはできないが、
知ることができる限り、人は変わることができる。

見えるものは視点によって変わる。
異なる視点、より多くの視点を持てば、当然見えるものは変わる。
新しきを知り、より多くを知れば、人はより変化することができる。
人生が経験に裏付けられるものだということだ。

だが、人が変わりたいように変われるかといえば、そうではない。

なぜなら、人は知りたいように知ることができない。

これが安易な自己啓発がうまくいかない理由だ。

知るということは、今知らないことを知るということである。
今知らないのに、なぜ知る前に知ることがわかるのか。
わかるわけがない。

知らないから、知ろうとするのである。
知った後に何を知ることができるのか、それは実際に知った後でなければわからない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

多くの人々は幻想を持っている。
「○○をすれば△△を知ることができる。」といった思い込みだ。

しかし、実は多くの人々はそう思い込みたいと思っている。

なぜかといえば、「知る」ということは本質的に人にとって恐いことだからだ。
(正確に言えば、知るということが、新しい知らないということをもたらすからだ。)
一度知ってしまったら今の自分には戻れないのだ。
「知る前の自分」から「知った後の自分」になるためには勇気を振り絞った飛躍が必要だ。
「知った後の自分」は「知る前の自分」とは別人なのだ。
別人になる勇気がなければ「知る」ことはできない。

だから、臆病者は人生の中で様々な意味を模索することを諦める。

だが、知ることでしか、桜の美しさは感じることができない。

余命半年と宣告されて見る桜の木は美しく見えるだろう。

それと同じように、あなたが何かを知ることで、あなたは何かを見ることができるようになる。

何を見ることができるのか、それは知る前にはわからない。

人間は葛藤のうちにしか成熟できない

私は葛藤の中に身を置く。

それが、どれだけ辛く、苦しく、悩ましいものであっても。

私は、桜を見たい。

桜を見たいのだ。

許す力

2011-02-10 16:35:34 | スピリチュアル
自分を嫌になる場面を想像して欲しい。

小さなことに右往左往したり、
些細な出来事に心を痛めたり、
自分の思う通りにならなくて怒ったり、やる気をなくしたり、
といった場面が思い浮かばないだろうか。

そして、そういう場面で自分に言い聞かす言葉も想像して欲しい。

「大人にならなければ。」
「子どもだな自分は。」

というものであったりしないだろうか。

もし、そうであるとするならば、
あなたは、人生を生きる上でとても重要で本質的な鍵に
無意識的に気づいていることを示している。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

逆に、「あの人はいいな」と思う場面を想像して欲しい。

いわゆる「心の広い」「懐の深い」人達がいる。
他の人達が面倒がったり嫌がったりすることに、率先して取り組み人達がいる。
大胆かつ繊細といった相反する性質を両方持ち合わせる人達がいる。


自分を嫌になる場面と、誰かをいいなと思う場面。
実は、いずれにも共通点がある。

「こだわるところが違う」ことだ。

では、なぜ「こだわるところが違う」のか。

その理由は、自分とその人との間で、感じているものが違うからだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

2人の間で同じ出来事が起きたとしても、
片方は怒り、片方は怒らなかったり、
片方は笑い、片方は笑わなかったり、
片方は泣き、片方は泣かなかったりする。

なぜか。

2人の間で見えているものが違うからだ。

想像するのは容易い。

ある画を見て、興味を全く抱かない人と、泣き崩れる人がいるかもしれない。
ある人にはなんでもない絵画が、ある人には最愛の人の形見かもしれない。

ある曲を聴いて、昔の歌だなと思う人と、涙する人がいるかもしれない。
ある人にはなんでもない曲が、ある人には思い出なのかもしれない。

小さな子どもが公園で遊んでいるのを見て、うるさいと思う人と、微笑む人がいるかもしれない。
ある人には騒音でしかない音が、ある人には幸せを奏でる音に聞こえるかもしれない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

では、どうして見えるもの、感じるものが変わってくるのか。

それは、2人の間で、同一の出来事から読み取れる情報量が異なるからだ。

1つの出来事は、ただ単純に1つの出来事であるわけではない。
1つの出来事の背景には、無数の要因と出来事が隠れていて、
そして、それらは相互に結びつき合って、互いに影響し合っている。
そこに原因と結果の区別はない。
全てが原因であり、全てが結果なのだ。

我々が「出来事」だと思っているものは、
我々がそう考えたいと思っているだけに過ぎない。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

人によって「1つの出来事にどれだけの事象が相互に影響し合っているか」
という点についての理解が違う。
出来事の背景にあるものへの理解が異なれば、自ずと出来事への感じ方が異なるようになる。

子どもが粗相をする時、未熟な親には怒りの対象になるのかもしれないが
子どもの成長過程を一通り見てきた祖父母には微笑みの対象になるかもしれない。

親が子どもにプロセスの重要性を説いても、
子どもはプロセスの重要性を理解できないのだから短絡的な行動をとってしまう。
親は子どもに対してこう思う。
「どうしてわからないのか。」と。

同じ出来事でも、見えているものが違うのだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

このことを端的に表す言葉がある。

「人間万事塞翁が馬」である。

人は、短期的な利益に集中すると盲目的になる。
なぜなら、利益の向上に繋がらない要素を、負の要素として避けてしまうからだ。
しかし、その要素が"負の要素"であるのは、
短期的な利益に基づく判断だからであって、
長期的な利益に基づく判断の下では"正の要素"になる可能性がある。

現代社会での人々の暮らしぶりは、
とても短期的な利益に集中するようになった。
理由は幾つもあるが、主な理由として
農作物のように結果が直ぐには現れない産業から
産業革命、IT革命と産業が変化していく中で、
結果が出る速度が早くなってきたことがある。
現代人は、とても焦って生きているのだ。

そんな中で、皆が荒波にもまれて今目の前の波をどう避けるかを考えている中で、
星を見ている人がいる。

いわゆる「心の広い」「懐の深い」人達がいる。
他の人達が面倒がったり嫌がったりすることに、率先して取り組み人達がいる。
大胆かつ繊細といった相反する性質を両方持ち合わせる人達がいる。

彼らは短期的な利益ではなく、長期的な利益に基づいた判断をしている。
それは、彼らには、目の前の出来事が長期的な利益に繋がることを理解できるからだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

こだわるところが違う人達がいる。

彼らは「許す力」を持っている。

人間は葛藤のうちにしか成熟しない

2011-02-09 10:13:15 | スピリチュアル
平松邦夫×内田樹「漱石が『坊ちゃん』で書いた教師像に学ぶ」
「教育は誰のためにあるのか」とことん語ろう 第2回 (現代ビジネス)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2050


教育の目的を個別的な知識とか情報の収集ではなく、人間的成熟であると考えると、教育方法についての答えって、わりと簡単に出るんです。それは、子どもを成長させる単一の方法は存在しない、ということです。子どもは葛藤のうちにしか成熟しない。


心が震えた。


「子どもは葛藤のうちにしか成熟しない。」


これは子どもだけに当てはまる言葉じゃない。
大人も同じだ。


「人間は葛藤のうちにしか成熟しない。」


これだ。
これだよ内田先生。
相互に矛盾する関係性の中に身を置いてこそ人は成熟に向かうことができる。

勘違いされたくないのは、これはヘーゲル的な弁証法的アプローチではなく、
まさに禅のアプローチ、絶対矛盾的自己同一だ。

なぜか。

「成熟」が意味するものが何かを考えればわかる。

一般的に「成熟」というと、ある完成形に到達することを意味するが、そうではない。
なぜなら、人間に完成形など存在しないからだ。
「人間の完成」とは、生物学的な成長のピークアウトを言うのではない。
人間は、外形的なものだけで成立している存在ではない。
「成熟」とは、人間を構成するもの全てが完成することをいう。
つまり、人間が成熟することなど有り得ない。

成熟に向かうということは、無限の選択肢から選択をし続けること、道なき道、終わりなき道だ。
昨日よりも今日、今日よりも明日と、より大きな自分を獲得し続ける過程を言う。

では、どうすればより大きな自分を獲得し続けることができるのか。

それは、昨日の自分とは違う今日の自分、今日の自分とは違う明日の自分を獲得していくことだ。
新しい自分を発見し続けることである。

新しい自分を発見し続けるためには環境(経験)が必要だ。
それこそ、相互に矛盾する関係性の中に身を置くこと以外に有り得ない。

相互に矛盾する関係性の中に身を置いてこそ人は成熟に向かうことができる。


「人間は葛藤のうちにしか成熟しない。」


おぉ・・なんという宇宙の奇跡

「果報は寝て待て」=「果報を待つくらいなら寝て待て」

2011-02-08 02:59:03 | スピリチュアル
今日は帰宅した後、気づいたら意識を失って寝ていた。

今さっき起きてネットを少し散策。

疲れてるなと感じる。

肉体的にというか、精神的に。

追い詰められている感がある。

考えても考えても結果の出ないことが山ほどある。

気づけば取り越し苦労の連続だ。


最近、「果報は寝て待て」の意味がわかったような気がする。

努力したなら慌てず焦らず事の成り行きに任せて・・

という慰めの言葉だとずっと思っていたが、それだとしっくりこない。

人生には努力し尽くせないことばかりなのに、

あとは天命に任せて・・などと悠長に思っていられない。

むしろ自分の努力不足や、努力すべき点がわからなくて悩むのが普通なのではないか。

「どうしたらよいかわからない。」これだ。

だからわかった。

本当の意味は「寝るほかなし。」なのだ。


「果報は寝て待て」=「果報を待つくらいなら寝て待て」が正しい。

そもそも果報を待っていること自体がおかしいのだ。

努力の当然の結果としての果報を期待しているわけで、それ自体が傲慢な考え方なのだ。

因果応報の意味を本当に理解しているなら、努力の結果としての果報を待つわけがない。

突然哲学的になるが、因果の境界線なんてないんだから。

人生の上で、どうやって原因と結果を分けることができるのか。

できるのは、頭の中だけ、認知的な世界だけの話に他ならない。

「私はこれだけ努力したのだから、これだけの結果を得る資格がある。」

なんて考えている人がいたら、何か変だろう。

寝るほかなしは、日本の伝統、未来と現在と過去の融合、絶対矛盾的自己同一。


さて、寝るか・・

人生いろいろ

2011-02-06 22:46:09 | スピリチュアル
人生には本当にいろんなことが起こる。

嬉しいこと、楽しいこと、愛しいこと

悲しいこと、淋しいこと、切ないこと

何でもないこと、どうでもいいこと、

見たくもないこと、よくわからないこと。

全てに悩んでいたらキリがない。

解決できることとは限らないし、

むしろ答えのないことの方が多い。

圧倒的に。

でも仕方がない。

人生そのものがオリジナルなのだから。

全ての今がオリジナルで、二度と繰り返されることのない今だから

この瞬間にも感じるコト、状況、感情は、この全宇宙でたった1つだけのものだ。

悩んで当たり前だし、悩んだ結果がどうであれ、それは間違いではない。

答えなんてないのだから。


人は誇れる人生を求めがちだが、その問いは間違っている。

全ての今、全ての人生はたった1つしかないのだから、この世には"誇れる"人生しか存在しない。

"誇る"かどうかは、人それぞれが決めることだ。

でも人はついつい条件を付けてしまう。

誇るには何かが必要だと。

誇れる自分になるには何かが要るのだと。

まるで、誇りたくないかのように、悩みたいかのように。

人は本当に悩むのが好きだ。

それが人の愛らしいところでもある。

「僕が僕であるために」は本当か?

2011-02-02 17:19:28 | スピリチュアル
心に染みる。

僕が僕であるために (作詞:尾崎豊)

心すれちがう悲しい生き様に
ため息もらしていた
だけど この目に映る この街で僕はずっと
生きてゆかなければ
人を傷つける事に目を伏せるけど
優しさを口にすれば人は皆傷ついてゆく

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる

別れ際にもう一度 君に確かめておきたいよ
こんなに愛していた
誰がいけないとゆう訳でもないけど
人は皆わがままだ
慣れあいの様に暮しても 君を傷つけてばかりさ
こんなに君を好きだけど 明日さえ教えてやれないから

君が君であるために 勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
君は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで
僕は街にのまれて 少し心許しながら
この冷たい街の風に歌い続けてる


詩が歌い継がれ、半永久的に名曲たり得るためには、1つ条件がある。
それは、「答えのない問いを提示し続けること」だ。
その詩が提示する問いが無限ループする要素が必要だ。

この唄で言えば、

僕が僕であるために


この問題設定が間違っているとしたら?
と考えたことはないだろうか。
私はこの詩を聴くと少し違和感を感じる。

「僕が僕である」必要があるのだろうか?

僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない


勝ち続けなければならないのは、僕が僕であろうとするからだ。

この詩を聴いて感じる違和感は、
空気を掴むように、存在しない敵を作り上げなければならないことに起因する。
勝たなければならないから、対抗すべき敵が必要になる。
でも、もともと敵はいないから、何とどう戦ってよいかわからなくなる。

正しいものは何なのか それがこの胸に解るまで


敵がいないから、敵と戦うための大義名分を探し求めてしまう。
大義名分(正しさ)が何かわからないという問いは正しい。
対抗すべき敵がわからないのに正しさを求めても永久に正しさが求まることはない。

僕が僕であろうとするために、
僕を確固たる存在として築き上げるための基準が必要になる。
それが勝つということだ。
勝つためには相手が必要だから、戦うべき相手を求め探すことになる。
しかし、戦うべき相手が、本当に戦うべき相手として正しいのか、いつになってもわからない。
それは当たり前で、はじめから勝つ必要などないのに戦おうとしているからだ。
結局、僕が僕であろうとするところから、この問題ははじまっている。
僕が僕であろうとすれば、永久にこのループから出ることはできない。

この問題は何を問うているのか。

それは「どう考えればよいかわからない状況」というのが我々の前に確かに存在していて、
そして、それにどう対処すればよいのかわからない場合、
我々は自分に何かが欠けているからだと無意識的に考えているということを示している。

自分が確固たる自分になれば、悩まなくて済むという答えを望んでいるのだ。
だが、そうは問屋が卸さない。

残念だが、確固たる自分なるものは、この宇宙に存在しない。
求めても決して求まることのない欲求だ。

だが、私はその欲求が問題だと言っているのではない。
人には、そういう完全無欠の自己への欲求というものが内在しているということだ。
神への渇望とでも言っておこう。

この渇望が消え去ることの無い限り、この世から名曲が消え去ることはない。

「答えのない問いを提示し続けること」

これが歌い継がれる名曲の条件だ。

「人」しか見ない人は不幸だ

2011-02-01 18:09:59 | スピリチュアル
ちょっと内容がいい加減なのだが、
この調子で「AKB48という破壊的イノベーション」シリーズを書き続け、それをまとめていけば、
それなりに厚みのある読み物として面白いモノができるのではないかと思い始めた今日この頃、
そんな私を多くの人はAKB48のファンだと思うらしい。

確かに、私はAKB48のファンだ。
だが、それは皆が使う意味でのAKB48ファンではない。

「推しメンは誰ですか?」と聞かれればこう答える。

「AKB48推しです。」と。

すると「答えになっていない。」とか「逃げないで。」と言われるが(笑)
逃げてるつもりは全く無い。

自分で言うのもおかしいが、私は「人間フェチ」である。
決して「人フェチ」ではない。

「人」と「人」の「間」がごとくと書いて「人間」である。
要するに、人と人の関係性があって初めて人は人間になれる。
人間は関係性に意味を見出す生き物で、関係性のないところに価値は無い。
私が大好きなのはその価値そのものである人と人との「関係性」である。

AKB48あっての各メンバーであり、各メンバーあってのAKB48であるという、
その関係性、メンバーとメンバーの間で起きる波長の交わりが大変に魅力的なのである。

「関係」、そこは意味が、価値が生まれるところなのだから、魅力的でないわけがない。
そこが魅力的でないというなら、どこに魅力があるのか。

我々が感じることのできる、最も優雅で、最も荘厳で、最も甘美で、

そして最も切ない、魅力がそこにある。

うっとりとしてしまいそうなほど魅力的なものが。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「人」しか見ない人は不幸だ。

人生の大半の意味をドブに捨てるような行為だ。

例えば、片思いでも、アイドルでも、恋人同士でも、亡くなった最愛の人でもいい。

その「人」の横にそっと「自分」を置いて欲しい。

それが叶わない想いでも恋でも状況でも構わない。

それだけで人生に華が咲かないだろうか。

それだけで、あなたの人生に意味が湧き出てくる。

雲を掴むような話と思うかもしれない。

だが、人と人とを隔絶する壁を想像するのも、存在しない雲を掴む行為だ。

人生の意味などを求めるのは間違った問題設定に他ならない。

意味は、想像力があればいくらでも湧き出るものだから。


それに、そっと「自分」を横に置くのは自由だ。

自由を謳歌しよう。

もっといえば、この自由を謳歌することでしか、あなたは意味を感じることができない。

物理的な条件は意味を生み出す源泉にならない。

心が、関係性がそこになければ、何も生まれないだろう。

それは、あなた自身が一番よくわかることだ。


そして、この問いのもう一つの大きな意味は、


続きはまたいつか。

富と幸福の関係性について

2010-08-20 13:24:16 | スピリチュアル
久しぶりにスピリチュアル的観点から話をする。
当Blogのコアコンピタンスでありますので。

前回のエントリは時間がなかったので引用に留めていたが、少し私見を述べたい。
なんとことはない、当Blogで何度も繰り返し述べる「相対性」と「知的好奇心」についての議論なのだ。


[当Blogの主張]
生命の根源的欲求は「知的好奇心」であり、その欲求を満足しようとして生命は、この相対的な宇宙において「相対性」を用いる。

相対性の悪魔 再び(進化する魂)
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/107b2e19917ea0866c323c6f30edea2f

ハーバード大学社会心理学部のダニエル・ギルバート氏。
おそらく多くの日本人が彼を知らないが、でも彼を見たことあるだろう。
大和証券のCMだ。

ボブは告白できない。

ジョージは告白を待っている。

ボブは、過去の失恋を忘れられない。

ジョージは、女の子からほめられた事を忘れられない。

滅多に起こらない出来事は 滅多に起こらないのに。

「人は未来を予測する時、最良と最悪の出来事ばかり思い出してしまう」

を説明する博士だ。
他にも「人は未来を予測する時、極端な出来事を想像する傾向がある」版のCMもあった。

そのダニエル・ギルバード氏が提唱するのが「実際の経験によって幸せの尺度が拡張される」という説(experience-stretching hypothesis:邦訳すると・・経験的価値尺度拡張仮説?)だ。
未来を予想しているときは幸せだが、実際に経験すると簡単には満足できなくなるという。
「幸せはいつもちょっと先にある」のだ。

で、今回、ベルギーのリエージュ大学の心理学チームが、ダニエル・ギルバード氏の仮説を確かめるために実験(実験の正当性については横に置くとして)を行ったと。


お金は人が最高に贅沢な喜びを味わうことを可能にする(贅沢なホテルに泊まり、高級な寿司を食べ、素晴らしいガジェットを買える)が、それゆえに、日常のありふれた喜び(天気の良さや冷えたビール、チョコレートなど)を味わう能力を低下させると考えている。そして、われわれが遭遇する喜びのほとんどはありふれたものであるため、贅沢をする能力を得ることは、喜びを味わう能力にとっては、かえって逆効果になるのだという。


右肩上がりの時の幸福感の説明にもなるわけだ。
次から次へ新鮮な経験が待ち受けているから、幸福を感じると。
そして、よく聞くあの言葉に繋がる。

人間、登っている時はいいが、登り切ると後は下るだけで、
そうすると現在位置は豊かにも関わらず幸福を感じれず不満を覚えてしまう。

それに対し、最近、一部の言論人から聞くのは、逆に下り坂を楽しめれば、
下り坂でも幸福を感じれるはずだ。
そういう生き方が大人の生き方ってもんだぜ。というものだ。
内田樹とかね。

さて、この問題、「幸せの正体とは何か?(幸せって何?)」という古典的な問題について
我々はどう考えるべきだろうか。
当Blogの古参読者の方には繰り返しになってしまうが、今一度語ろう。

「幸せ」とは何か。

こんな宇宙の神秘のような難解な問題に、当Blogでは非常に簡単な答えを用意している。



幸せとは、「知的好奇心」の充足である。
道具は無限の「相対性」。



幸せを説明するにはたったそれだけで十分だ。

生命の欲求に「知的好奇心」以外の欲求は存在しない。
全ては「知的好奇心」の派生的欲求に過ぎない。
(ただ、この「知的好奇心」が何者かについては後述する。)

実は、これとマイケル・サンデルらコミュニタリアンがいう
コミュニティ内で自己を確立するための「物語」は、非常に濃密な関係がある。

物語が提供するのは、未来に対する予想および期待(それを時に妄想という)だ。
人間は、その予測に対して幸せを感じるのだとすれば、
その予測を提供する「物語」こそ、幸せの源泉といえる。

当Blog流に言えば、「物語」が提供するのは、予測および期待であり、
その予測および期待の正体は「知的好奇心」である。
そして「物語」の正体は「相対性」だ。
「物語」は人間が相対性によって生み出したもの以外の何物でもない。
「相対性」によって喚起された「知的好奇心」の充足、これが幸せなのである。
この考えは、コミュニタリアンの主張と親和性が非常に高い。

もう少しだけ詳しく説明することとしよう。

知的猛者の人々は、「知的好奇心」の充足というが、では「知的好奇心」とは何か?
ということが気になるだろう。

直感的には理解できるかもしれないが、少し説明が必要だ。
ただ、実はこの「知的好奇心」を完全に説明することはできない。
言葉の範疇を超えているからだ。
言葉で表現できる概念を超えていると言ったほうがいいだろう。
こう話すと、いつもスピリチュアリストの都合のよい現実逃避のように責められるのだが
私は、討論に負けるのが恐くて正確に説明できないと言っているのではない。
単に言葉で全てを表現できると考える方が理性万能主義の危険な発想だと言いたいだけなのだ。
だが、それでも私は説明を試みることにしよう。
これは自分自身への挑戦でもある。
(とかいいつつ既に息切れ気味なので、如何に早くこの文章を終わらせるかしか考えていないが)

「知的好奇心」とは何か・・・はやっぱり後でまた

今疲れて眠いから・・

相対性の悪魔 再び

2010-08-20 00:38:31 | スピリチュアル
お金が人を幸福にしない理由:心理学実験から(WIRED VISION)
http://wiredvision.jp/news/201008/2010081823.html


お金と幸福が単純に比例しないということは、「お金はなぜ人を幸福にしないのだろうか?」という興味深い問いを生む。この問いに対して、先ごろ『Psychological Science』誌に発表された研究が、1つの回答を出した。

ベルギーのリエージュ大学の心理学チームが行なったこの研究は、[ハーバード大学の]心理学者Daniel Gilbert(ダニエル・ギルバート)氏が提唱した「実際の経験によって幸せの尺度が拡張される」という説(experience-stretching hypothesis)を検証したものだ。[未来を予想しているときは幸せだが、実際に経験すると簡単には満足できなくなるという説。ダニエル・ギルバート氏の邦訳書は、『幸せはいつもちょっと先にある―期待と妄想の心理学』(早川書房)]

お金は人が最高に贅沢な喜びを味わうことを可能にする(贅沢なホテルに泊まり、高級な寿司を食べ、素晴らしいガジェットを買える)が、それゆえに、日常のありふれた喜び(天気の良さや冷えたビール、チョコレートなど)を味わう能力を低下させると考えている。そして、われわれが遭遇する喜びのほとんどはありふれたものであるため、贅沢をする能力を得ることは、喜びを味わう能力にとっては、かえって逆効果になるのだという。

[中略]

楽しいことを経験できるという認識を持つことは、それだけで、日常の楽しみを損なうのに十分な効果があると考えられる。言い換えれば、人間の楽しむ能力を低下させるために、実際にエジプトのピラミッドを訪れたり、有名なカナダのバンフの温泉に1週間滞在したりする必要はないということだ。そのような最高に楽しいことはたやすく経験できるという認識を持つだけで、日々の小さな喜びは、あって当然のことと捉える気持ちが強まる可能性がある。



なぜ天使は堕落せねばならなかったか

2010-05-11 11:04:22 | スピリチュアル
GW中はネットからもTVからも遠ざかっておりました。
休暇前に買い込んだ書籍を読むこともなく、完全にパープリン状態です。
ただ、休暇前は体調が優れなかったのですが、回復したので意外に社会復帰はスムーズにいきました。
別に原始的生活をしていたわけではありませんが、生活に支障がない限り都市生活環境から離れることで人間が潜在的にもつ自然治癒力が発揮されやすくなるのかなと、しみじみ感じ入りました。

いろいろと書きたいことはあるのですが、まず今朝ふと気になったことから書くことにします。

天使はなぜ堕落するのか(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51419299.html

ちょっとリンク先のブログの内容を矮小化してしまうかもしれませんが、私は「天使はなぜ堕落するのか」というタイトルにインスパイアされるものがありました。
というのは、私は一時期この問題について、キリスト教を基礎とする組織の方々と神学論争を繰返していたことがあるからです。
NHK「ハーバード白熱教室」のサンデル教授の講義を視聴している関係で、人間の道徳性について注意が向いていることにも少し影響を受けているかもしれません。


近代科学がキリスト教に反抗して生まれたというのは誤解で、むしろ近代科学はキリスト教から生まれたといったほうがいい。宇宙に普遍的な法則が存在するという信念は、キリスト教以外の文明圏にはないもので、現代の科学でも証明されてはいない。今まで観測されたすべての宇宙は物理学で説明できるが、説明のつかない宇宙がどこかに存在する可能性は否定できない。

このような普遍=神への信仰が近代科学を生んだ。加速度運動を初めて数量的に観測したのは、ガリレオでもニュートンでもなく、オクスフォード大学のスコトゥスの弟子だった。彼らはすでに14世紀に、加速度と到達距離の関係を数学的に理解していた。最近のインテリジェント・デザインも主張するように、自然の規則性は神が宇宙を完璧に設計した証拠だったのである。


彼らは言う「神が宇宙を創造した」と。
実は、私と彼らは、この点について認識を共有している。
(宣言することに意味はないが、私は決定論信奉者だ。)
が、違うのはこの続きだ。
その辺の床屋談義でも聞くことのできる話題だ。

神が宇宙を創造した。
で、あるならば、なぜ人間は不完全なのか?
もし神が全知全能なら、どうして人間のような不完全なものを創造する必要があるのか?

誤解を恐れず、この疑問をある1つの質問に集約することにしよう。
サンデル教授ではないが、これ一つで講義ができるほど深い質問だ。
この質問に答えるために、これまで数多くの宗教家や思想家が理屈をこねくり回してきた。
その質問とはこれだ。

「なぜ、この世には悪が存在するのか?」

キリスト教には「最後の審判」という「悪」を裁く概念が存在する。
だから、人間は天国に行くためには「善」でなければならないと。


ここで一つ注意しておく必要がある。
当Blogでは、いつも「善悪は相対的価値であり絶対的価値ではない」と主張している。
その観点からすれば「悪を定義するから悪が存在する」といえるが、ここでいう「悪」とは、キリスト教の観点に乗った上での「悪」である。
キリスト者が「悪」という場合に、ではなぜその悪は存在するのか、という問題意識である。
また、「なぜこれが善なのか」という問いについて、これまでキリスト教会がこねくりまわしてきた理屈の歴史は非常に面白いのだが、ここでは本題ではないので省略する。

「なぜ、悪が存在するのか?」

神が宇宙の創造主であるなら、なぜ後で裁く必要性のある悪を創造したのか。
人が生きて善行を行わねばならぬのなら、なぜ悪を創ったのか。
アダムとイブがリンゴを食べて知恵がついたからなのか。
ではなぜ、リンゴを食べたのか。
悪魔にそそのかされたからなのか。
しかし、その悪魔は何者だ。
神は悪魔などを創ったのか。
組織によっていろいろと理由が異なるのだが、ある一部の組織はこう教える。

「天使が堕落したから」である。

天使は神の使い、つまり部下であるが、これがなんと堕落することによって神を困らせるのである。
堕天使の登場である。
なぜ天使が堕落するのかについては、これを述べると特定の宗教団体を批判することになり兼ねないのでやめておく。(こわいからね。)

もともと善であった天使が、ある理由でひねくれて悪の堕天使になったのである。
おかげで、人間様は神様と堕天使との間で揺れ動く存在になってしまった。
人間は悪の誘惑に耐えて善を行わねばならなくなったのだ。

さて、この議論の限界がどこにあるかわかるだろうか。
池田氏のブログから次の節を引用することにしよう。


しかしスコトゥス学派は、自然の規則性を観測しても、その背後に個物を超えた<実在>が存在することを証明できなかった。神は自然を超えた存在なので、いくら自然を観測しても神には到達できない。それなら、そんな実在(神)は想像の産物ではないのか、と考えたのがオッカムである。この意味で彼はデカルト以降の近代哲学の始まりであり、ヒューム的な懐疑論の元祖でもある。


「神は自然を超えた存在なので、いくら自然を観測しても神には到達できない。」の部分が重要である。
人間が神や善悪を定義する行為そのものが、神を肯定する立場からして矛盾しているのだ。
神が宇宙の創造主で、神が宇宙(自然)に対して超越的な存在であるなら、神は宇宙の住人である人間の範疇を遥かに超えているはずだ。
人間が神や、その善悪を定義しようとすれば、当然ながら、不完全なものになる。
不完全なものが完全なものを表現し切ることはできないからだ。

ここに宗教的組織が抱える内部矛盾が存在するのだ。
私は善悪を認識しようとすること、それ自体は尊いものだと考えている。
しかし、認識するために善悪を定義しようとすれば、その善悪は嘘になる。
これを当Blogでは「相対性の悪魔」と呼んでいる。
相対性を用いて絶対性を表現することはできない。
相対的な宇宙にいて、絶対的な神を表現できるわけがない。
我々に出来ることは無限に相対性を用いて絶対に極限的に近づくことだけだ。

これは、偶像崇拝を禁止している宗教組織が存在している理由でもある。
神や善悪は定義できるものではないことがわかっているからだ。

では、どうすればよいのか。
東洋においては、この矛盾を乗越える方法として「悟り」という概念が存在する。
悟りとは、あらゆるシガラミから解脱することよって至る。
この意味は、あらゆる相対性から脱却することで、絶対性に至るという意味である。
例えば、仏というのはわかりやすい。
人間は生きている限り、無数の物理的な相対性の束縛を受ける。
が、もし生きていなければ、物理的な制約から解放される。
これによって絶対性に近づけるわけだ。
このような発想を実現する方法論としては「禅」が有名だろう。
「私」というものは自分の中に潜む最大の相対的価値だから、「無私」は悟りに至る大きな一歩である。

おっと、話が深みにはまる前に話を戻そう。
最近、流行った「スピリチュアル」というのは多義的な言葉ではあるものの、そもそもは上記で説明した「悟り」、神道でいうならば「かん(神)ながらの道」の方法論である。
占いや自己啓発的なものとして捉えられがちなものではあるが、本来は、相対性と絶対性への理解を前提に、相対性の有効活用が主旨であると個人的には理解している。
「霊性」というのも、人間が生きる上で囚われがちな相対的価値を絶対視せずに生きるための「観点」を提供しているのだ。
我々が社会的に、また道徳的に信じている価値が、実は相対的価値なのであり、絶対的価値などではないという視座を提供するものがスピリチュアルの本懐なのである。

これは政治の世界において何よりも重要な考え方でなければならない。
「法律をどう策定せねばならないか」などという問題はまさに相対的価値の問題であるからだ。

そういう意味で、神が、天使が、善が、悪が、という前に、自分達を束縛している価値観を考え直してみようという発想が重要だといいたいのである。
とてもありきたりな言葉に帰着してしまったのだが、そういうものなのである。
終わりに次の文章を引用して終わりにすることとしよう。


普遍論争は唯名論の勝利に終わったと思われているが、現代的にみて興味あるのは実在論のほうである。クーン以降の科学哲学(これはオッカムの直系だ)が明らかにしたように、科学と宗教に本質的な違いがないとすれば、人々が特定の宗教(あるいは理論)を信じるのはなぜなのか。それは単なる慣習ではなく、何かの必然性があるのではないか。パースは「アブダクション」と名づけた発見の論理の元祖をスコトゥスに求めたが、それは今も科学哲学のフロンティアなのである。


実は必然性はあるのである。
これについては、物語にしかならないが、いつか語ろうと思う。

利他とは自己利益のことなり

2010-04-27 20:05:23 | スピリチュアル

こころの保険「ゆるす言葉」(わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる)
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2010/04/post-45b4.html


 怒りについて、考えなおしているいま、ダライ・ラマ14世の「ゆるす言葉」を読み直す。

[中略]

 いちばん響いたのは、次のことば。


     ゆるしの気持ちを身につければ、
     その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。

     ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、
     「自分を自由にする手段」です。


あぁ、その通りなんだ。


    ほんとうの意味の思いやりは、
    まず自分自身に対して向けられるべきものだと思います。

    まず自分自身に思いやりを持ち、
    それを周りの多くの人たちに向けて広げていくのです。

    つまり、自分自身を忌み嫌い、嫌悪しているような人は、
    他者を思いやることなど不可能なことだからです


この説明では言葉足らずだけれども、私がこのブログで訴えてきていることは、つまりそれなんだ。
利他とは自己利益の追求なのだよ。

これについてはいずれ述べるつもりだ。

[つぶやき] 血は出会いを求める

2010-04-25 00:50:53 | スピリチュアル
生物は高度化するほど、外部に出会いを求めさまようものなのです。
そこにいつづけることは許されないからです。
変容こそが宇宙の本質なのです。

免疫耐性あれこれというのは一側面でしかないのです。

ついに解明されたハプスブルク家滅亡の原因(YUCASEE MEDIA)
http://media.yucasee.jp/posts/index/2953?la=0008

[つぶやき] やっぱ歌だよ

2010-03-27 01:02:57 | スピリチュアル
何回同じ話をしてんだよって感じですが・・人間酔っ払うと同じ話を何回もしちゃうじゃないですか。酔っ払ってないけど・・

人は本当に不思議だ

世界平和を願ったその後で、明日の100万人の命より、今日の愛する人の命が優先する

もし明日世界が滅んでも、今日を生きるのだろう

そのくせ、溢れんばかりの未来があるのに、今日命を絶つ


人は矛盾を内包していて、その矛盾を言い表すことができないという本態的な弱さを持っている
人は、人自身を完璧に語ることができないのだ
だから、あらゆることが無限循環する
生まれながらにして七転び八起きが宿命付けられている
絶望せずに済むのは、その循環がらせん構造であるからだ
当Blogのあらゆる議論の根底にある「進化」だ

弱さを語れるのは物語だけだと文学者はいうが、
私は、弱さを一番上手く表現できているのは歌だと思う
言葉を使っては表現できない心の奥に潜む想い、
人は存在しているだけで言語を遥かに超えている
現に音楽は国境も言語も人種も文化もあらゆるものを飛び越える
音が言語よりもっと根源的なものだからだ

歌手にならなきゃって意味じゃなくて、
歌のように語るべきなんだと思うんだ
共感経済とか贈与経済とか
それはもう物語ではなくて、歌なんだと思う
意味不明かもしれないけど
そういうことなんだと思うだな


一時期、私は合理で世界を変えられると信じていた
いくつかの宗教関係者に道場破りのように討論を申し込んでは
打ち負かすことばかりを考えていた
精神改革によって世界は変えられると、
馬鹿みたいだが、本気で考えていたのだ

でも、ある時に気づいた
誰もそんなこと望んでいやしないと

自分が何時間かけても理解してもらえないことを、
TVから流れてくるたった数分の歌が、理解どころか感動まで生んでやがる

これは笑うしかないだろう

そしてようやくわかったのだ
誰かを理解させることなんてできないんだと

その時に、ヴィクトール・フランクルの言葉が突き刺さった

人は、人に対して財産を剥奪し、尊厳を喪失させ、命を奪うことも、人に過酷な環境を与えることはできるが、しかし、その環境の中で、その場でどうふるまうか、という最終意思決定について強制することはできない。

自分の人生を決めれるのは自分しかいない
「自由」だ
それは全ての人にとって同じことなんだ
ある程度制限できても全ての「自由」を奪う事はできない

そこで思った

やるべきことは、この「自由」を開花するお膳立てをすることではないか
「自由」とは「可能性」のことに他ならない
それは制限され、狭く、小さく、暗い可能性かもしれないが、
人それぞれの「自由」を精一杯行使できるよう、支援することなのではないか

よく考えてみれば、人が快を得る時というのは、
この「自由」を謳歌している時ではないか
自由意志があるから、知的好奇心を満足することができるのだ

深入りすると決定論と非決定論との論争にはまるわけだが