GW中はネットからもTVからも遠ざかっておりました。
休暇前に買い込んだ書籍を読むこともなく、完全にパープリン状態です。
ただ、休暇前は体調が優れなかったのですが、回復したので意外に社会復帰はスムーズにいきました。
別に原始的生活をしていたわけではありませんが、生活に支障がない限り都市生活環境から離れることで人間が潜在的にもつ自然治癒力が発揮されやすくなるのかなと、しみじみ感じ入りました。
いろいろと書きたいことはあるのですが、まず今朝ふと気になったことから書くことにします。
天使はなぜ堕落するのか(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51419299.html
ちょっとリンク先のブログの内容を矮小化してしまうかもしれませんが、私は「天使はなぜ堕落するのか」というタイトルにインスパイアされるものがありました。
というのは、私は一時期この問題について、キリスト教を基礎とする組織の方々と神学論争を繰返していたことがあるからです。
NHK「ハーバード白熱教室」のサンデル教授の講義を視聴している関係で、人間の道徳性について注意が向いていることにも少し影響を受けているかもしれません。
近代科学がキリスト教に反抗して生まれたというのは誤解で、むしろ近代科学はキリスト教から生まれたといったほうがいい。宇宙に普遍的な法則が存在するという信念は、キリスト教以外の文明圏にはないもので、現代の科学でも証明されてはいない。今まで観測されたすべての宇宙は物理学で説明できるが、説明のつかない宇宙がどこかに存在する可能性は否定できない。
このような普遍=神への信仰が近代科学を生んだ。加速度運動を初めて数量的に観測したのは、ガリレオでもニュートンでもなく、オクスフォード大学のスコトゥスの弟子だった。彼らはすでに14世紀に、加速度と到達距離の関係を数学的に理解していた。最近のインテリジェント・デザインも主張するように、自然の規則性は神が宇宙を完璧に設計した証拠だったのである。
彼らは言う「神が宇宙を創造した」と。
実は、私と彼らは、この点について認識を共有している。
(宣言することに意味はないが、私は決定論信奉者だ。)
が、違うのはこの続きだ。
その辺の床屋談義でも聞くことのできる話題だ。
神が宇宙を創造した。
で、あるならば、なぜ人間は不完全なのか?
もし神が全知全能なら、どうして人間のような不完全なものを創造する必要があるのか?
誤解を恐れず、この疑問をある1つの質問に集約することにしよう。
サンデル教授ではないが、これ一つで講義ができるほど深い質問だ。
この質問に答えるために、これまで数多くの宗教家や思想家が理屈をこねくり回してきた。
その質問とはこれだ。
「なぜ、この世には悪が存在するのか?」
キリスト教には「最後の審判」という「悪」を裁く概念が存在する。
だから、人間は天国に行くためには「善」でなければならないと。
※
ここで一つ注意しておく必要がある。
当Blogでは、いつも「善悪は相対的価値であり絶対的価値ではない」と主張している。
その観点からすれば「悪を定義するから悪が存在する」といえるが、ここでいう「悪」とは、キリスト教の観点に乗った上での「悪」である。
キリスト者が「悪」という場合に、ではなぜその悪は存在するのか、という問題意識である。
また、「なぜこれが善なのか」という問いについて、これまでキリスト教会がこねくりまわしてきた理屈の歴史は非常に面白いのだが、ここでは本題ではないので省略する。
「なぜ、悪が存在するのか?」
神が宇宙の創造主であるなら、なぜ後で裁く必要性のある悪を創造したのか。
人が生きて善行を行わねばならぬのなら、なぜ悪を創ったのか。
アダムとイブがリンゴを食べて知恵がついたからなのか。
ではなぜ、リンゴを食べたのか。
悪魔にそそのかされたからなのか。
しかし、その悪魔は何者だ。
神は悪魔などを創ったのか。
組織によっていろいろと理由が異なるのだが、ある一部の組織はこう教える。
「天使が堕落したから」である。
天使は神の使い、つまり部下であるが、これがなんと堕落することによって神を困らせるのである。
堕天使の登場である。
なぜ天使が堕落するのかについては、これを述べると特定の宗教団体を批判することになり兼ねないのでやめておく。(こわいからね。)
もともと善であった天使が、ある理由でひねくれて悪の堕天使になったのである。
おかげで、人間様は神様と堕天使との間で揺れ動く存在になってしまった。
人間は悪の誘惑に耐えて善を行わねばならなくなったのだ。
さて、この議論の限界がどこにあるかわかるだろうか。
池田氏のブログから次の節を引用することにしよう。
しかしスコトゥス学派は、自然の規則性を観測しても、その背後に個物を超えた<実在>が存在することを証明できなかった。神は自然を超えた存在なので、いくら自然を観測しても神には到達できない。それなら、そんな実在(神)は想像の産物ではないのか、と考えたのがオッカムである。この意味で彼はデカルト以降の近代哲学の始まりであり、ヒューム的な懐疑論の元祖でもある。
「神は自然を超えた存在なので、いくら自然を観測しても神には到達できない。」の部分が重要である。
人間が神や善悪を定義する行為そのものが、神を肯定する立場からして矛盾しているのだ。
神が宇宙の創造主で、神が宇宙(自然)に対して超越的な存在であるなら、神は宇宙の住人である人間の範疇を遥かに超えているはずだ。
人間が神や、その善悪を定義しようとすれば、当然ながら、不完全なものになる。
不完全なものが完全なものを表現し切ることはできないからだ。
ここに宗教的組織が抱える内部矛盾が存在するのだ。
私は善悪を認識しようとすること、それ自体は尊いものだと考えている。
しかし、認識するために善悪を定義しようとすれば、その善悪は嘘になる。
これを当Blogでは「相対性の悪魔」と呼んでいる。
相対性を用いて絶対性を表現することはできない。
相対的な宇宙にいて、絶対的な神を表現できるわけがない。
我々に出来ることは無限に相対性を用いて絶対に極限的に近づくことだけだ。
これは、偶像崇拝を禁止している宗教組織が存在している理由でもある。
神や善悪は定義できるものではないことがわかっているからだ。
では、どうすればよいのか。
東洋においては、この矛盾を乗越える方法として「悟り」という概念が存在する。
悟りとは、あらゆるシガラミから解脱することよって至る。
この意味は、あらゆる相対性から脱却することで、絶対性に至るという意味である。
例えば、仏というのはわかりやすい。
人間は生きている限り、無数の物理的な相対性の束縛を受ける。
が、もし生きていなければ、物理的な制約から解放される。
これによって絶対性に近づけるわけだ。
このような発想を実現する方法論としては「禅」が有名だろう。
「私」というものは自分の中に潜む最大の相対的価値だから、「無私」は悟りに至る大きな一歩である。
おっと、話が深みにはまる前に話を戻そう。
最近、流行った「スピリチュアル」というのは多義的な言葉ではあるものの、そもそもは上記で説明した「悟り」、神道でいうならば「かん(神)ながらの道」の方法論である。
占いや自己啓発的なものとして捉えられがちなものではあるが、本来は、相対性と絶対性への理解を前提に、相対性の有効活用が主旨であると個人的には理解している。
「霊性」というのも、人間が生きる上で囚われがちな相対的価値を絶対視せずに生きるための「観点」を提供しているのだ。
我々が社会的に、また道徳的に信じている価値が、実は相対的価値なのであり、絶対的価値などではないという視座を提供するものがスピリチュアルの本懐なのである。
これは政治の世界において何よりも重要な考え方でなければならない。
「法律をどう策定せねばならないか」などという問題はまさに相対的価値の問題であるからだ。
そういう意味で、神が、天使が、善が、悪が、という前に、自分達を束縛している価値観を考え直してみようという発想が重要だといいたいのである。
とてもありきたりな言葉に帰着してしまったのだが、そういうものなのである。
終わりに次の文章を引用して終わりにすることとしよう。
普遍論争は唯名論の勝利に終わったと思われているが、現代的にみて興味あるのは実在論のほうである。クーン以降の科学哲学(これはオッカムの直系だ)が明らかにしたように、科学と宗教に本質的な違いがないとすれば、人々が特定の宗教(あるいは理論)を信じるのはなぜなのか。それは単なる慣習ではなく、何かの必然性があるのではないか。パースは「アブダクション」と名づけた発見の論理の元祖をスコトゥスに求めたが、それは今も科学哲学のフロンティアなのである。
実は必然性はあるのである。
これについては、物語にしかならないが、いつか語ろうと思う。