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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

歌の力

2010-03-16 00:52:28 | スピリチュアル

言葉を尽くして想いを語ることの大切さは身に染みている

だけど、世界にはいくら言葉を尽くしても語り尽くせないことばかりが溢れている

自分の想いを十分に語る言葉も知らないで、どうやって人は物語を紡いできたのだろう

たぶん、それは歌があるからだと思う

人類は言葉よりも前に音を手にしたらしい

音楽は言葉ができるずっと前から寄り添ってきた

言葉のように細かくて表面的なものではなくて

音楽はもっと粗くて深いものなんだ

伝えられる情報は少ないけれど、分かり合えることはずっと多い

言葉が通じなくても伝えられるものがあるし

心に直接語りかけることだってできる

人の心に訴えかける力だけを考えれば

考えに考えた長編感動大作も、たった数分の歌にも勝てない

そういえば、偉人と呼ばれる名演説家が大衆に語りかけるその語り口は、

リズムよく、どこか歌に聞こえなくもない

自分がそうなんだが、人間については親や先生や友達より、

歌から学んだって人も多いんじゃないか

合理では語りえない、言葉と言葉の間から零れ落ちる想い

それを語れるのは歌だけだと思うんだ

教科書にはできないし、教えることもできやしない

人が理屈と理屈で伝えきれない、その想い

役に立たないけど、生きていくのになくてはならないそういうもの

人は、人間達は、そういう表現できないものと住み分けれると思ってきた

でも結局、やっぱり人間は不合理でしかなかった

そういう弱さを、そんなことさえうまく表現できない、

そんな弱さを受け入れる時期にきてるんだ



もし、社会を変えたいと願う人達がいたら、

その時は、人の心に直接訴えかけることさ

やっぱり人は感動でしか動かないし変わらないと思う

人が、自分の生に対して答えを出せるその日が来るまで

この答えは変わらないと思うよ。

少なくても私は。

未来

2010-03-13 02:01:15 | スピリチュアル

宇宙に強いも弱いもないけれど

なんとなく人は弱いと思う

少なくてもそう感じることは多い

ほんとかどうかもわからないし

弱さを説明する言葉も知らないけれど


自分にできることといえば

語ることぐらいだ

語ったところで何かを表せるとは思わないけれど

今日も馬鹿みたいに繰り返して

それでもただ黙っているより

その方がずっと気持ちがいいから


何にどれだけ価値があるかなんてことは

結局誰にもわからないんだけど

絶望しなくていいんじゃないかな

希望がある

未来があるから


何が正しいかなんてことに一生懸命になるから

人は自分の間違いから逃げたくなるのさ

でも逃げることができなくて誰かのせいにする

人は本当に不思議だ

今日悲しみに打ちひしがれながら

明日に希望を持ちたがる

わがままさ


いいじゃないか

正しくなくたって

弱さを語ればいいのさ

気が向くままに

歌えばいいのさ

力の限り声を張り上げて

それが他の誰でもなく

自分を感じる唯一の手段さ


絶望するしかなかった世界を

未来が照らしてくれる

ほらすごいじゃないか

全てを突き動かす奇跡さ


神の配剤

2010-02-26 15:07:50 | スピリチュアル
にしても、残念なのは結果よりも、浅田選手が満足する演技ができなかったことだ。
悔しさが滲み出ていた。
キムヨナ、ロシェットの2人が明るい笑顔だったのに対し、浅田だけが暗かった。

彼女はその1点に向かって人生の全てをかけてきた。
オリンピックで金メダルがとれるのは4年に1人しかいないから、皆が目指したとしても限られた人しか目的を達することができない。
それでも彼女は金メダルを目指した。
金メダルをとれる位置にいたからだ。
しかし、獲得できるはずだった、そう思った金メダルを手に入れることはできなかった。
相手は自分よりも前にいた。
本当は自分が前にいるはずだったのに。
何が間違っていたのか、どこでボタンを付け間違ったのか。
それが自分の実力なのか、それとも何かが悪かったのか。
その答えは彼女にはわからない。
彼女はやれることをやってきたからだ。
彼女は何も悪くない。
相手が自分よりも早く走っただけだ。
しかし、彼女は自分を責めるだろう。

オリンピックは終わったが、人生はこれからも続く。
我々は今を生きることしかできないが、だが人生には今しかないわけではない。
今は過去になり、未来は今になる。
このプロセスの中で今だった過去は、過去になっても今を支えてくれる。
これから今になる未来は、我々に新しい今をもたらしてくれる。
我々がいるのは常に今だが、我々とともに過去もあり、また未来もあるのだ。
人生は常に過去・現在・未来とともにある。
時間によって人生のある側面を切り出せば、ある瞬間の出来事は結果になるが、過去・現在・未来とともにあれば、因果は人生に溶け込む。

我々には、いつでも新しい今を生きるチャンスがある。
どういう時間軸で人生を考えるかだけだ。

私は少しも悲観していない。

新年を祝うこころ

2010-01-05 14:03:07 | スピリチュアル
「新年あけましておめでとうございます。」

と言っておきながら、いつも思うのだが、今どき年が変わっておめでたいと思っている人はどれだけいるのだろうか。
むしろ、今はおめでたいどころか、嬉しくない人達の方が多いのではないだろうか。

様々な締切りに迫られる人、現状の苦しみが永続的に続くと感じている人、時の流れに漠然と不安にかられる人、などなど「迎えたくない未来を待つ人」にとって時の流れは冷酷なほど厳しい。

不確実極まる大自然によって生活が左右されてしまうような時代には、新たに迎える年における豊穣を願うことに疑問を差し挟む余地はなかった。
願うことしか人間にはできなかったからだ。

しかし、科学時術が発達した近代において人類は中途半端ながらも予見可能性を手にした。
より正確にいえば「予見可能性を保てる生活を支える技術を手にした。」といえるだろう。

明日のことがわからなかった時代、人々は明日を祈った。
今、この時代、人々は明日を否定する。
明日を祈ったりしない。
明日のことは、もうわかっているからだ。
(本当にわかっているかどうかに関わらず)

「決められた自分の人生を歩む絶望」を受け入れることを拒否する者達は後を絶たないが、「自分の考えの及ばないところに自分の明日があるという希望」に気づくものは少数で、そしてその証明は難しい。

私はよくこういう言葉に遭遇した。
(世を悟ったように言うのだ)

「人間は賢くなればなるほど不幸になる。」

確かに、「坂の上の雲」などを見るにつけ、明治時代の人間は昭和や平成時代の人間より明るく前向きだったのかもしれない。
(司馬史観が正しいのかは不明だが)
しかし、その理屈でいえば、それは弥生時代と明治時代の人間の間でも同じであったのではなかろうか。

であるならば、我々は猿になるべきか。

否、それは違う。

我々が「賢くなる」と考えるのは「山登り」と似ている。
登っている途中は先がどのようになっているのかわからない。
その未知さこそ、我々をかり出す。

5合目、8合目、頂上で経験するであろう未知さこそ、我々が山を登る理由だ。
しかし、山を登り切れば「全てが見える」ように思える。
そこから見える景色、全貌、歩いてきた道、それらが見える。
その時、人はこれまでの道を登る快を失うであろう。
これまで楽しんできたものでは、我々は満足できなくなる。
それはもう「未知」ではなく「既知」であるからだ。

では、頂上に辿り着いたなら、全てが「既知」になり、人は不幸になるのか。

それも違う。

なぜなら、それは「頂上」などではないからだ。

人が「頂上」に辿り着くことなど有り得ない。

「結果」とは常に「途中経過」であり、プロセスの一部に組込まれるものである。
プロセスのある瞬間を切り取って「結果」として捉えることはできても、それを「結果」にすることはできない。
全ては永続的なプロセスである。

我々が「頂上」だと思っている「結果」は、全て思い込みに過ぎない。
いや、方便(「ものの考え方」でもよい)というべきだろう。
その思い込みに左右されて「不幸」だと考えることこそ、「真の不幸」であろう。

もし、「頂上についた」と思うのであれば「新たな山」をもう一度定義することだ。
多くの人があなたの「頂上」を決めたがるであろう。
そうでなければならないと、あなたを諭すであろう。
しかし、あなたの「頂上」はあなたが自由に決めていい。
その自由はこの宇宙が設計された段階で埋め込まれた生命の奇跡だ。

新年を祝おうとするこころとは、人間が明日の不確実性を受入れ、その上で自由という宇宙に組込まれた機能を謳歌するものだ。
我々が新年を祝う気持ちを見出せないとしたなら、それは自由という機能を忘れてしまっているからかもしれない。


さて、永遠の山を登りきった時、つまり全てが「既知」になったとしたら、何が待っているだろう。
それは、このスピリチュアル・シリーズで語っていこうと思う。


結局、いつもの相対性の話と言い回しが違うだけで同じじゃないかと思われたあなたは正しい・・。

タオ 道

2009-12-28 16:57:16 | スピリチュアル
タオとの出会いは、気づかないくらい静かで穏やかで、大きく、そしてやわらかいものだった。

タオは自己主張しない。

存在しないことで、そこに存在している。

気づかされることはない。

しかし、気づこうとして気づけるものでもない。

タオは、ただ静かに穏やかに、そしてそこに在る。

どこに存在するかを言語で表現することはできない。

なぜなら、タオは存在という言葉の意味を超えている。

しかし、タオはそこに在る。

あえていうなら、「ない」ことで「ある」。

これまで幾人かの人達がタオを「究極の哲学」と評したが、
その一方で幾人かの人達が「矛盾に満ちた詐欺だ」といった。

タオは言語でも数式でも完全には説明できないから、矛盾に満ちて見える。

足し算だけで高等な科学理論を説明することが難しいように。

小さいもので大きいものを説明するのは難しい。

そもそも言語や数式とは、相対性を用いた認識手法だから、絶対的なタオは認識できない。

だから結局私のタオに対する理解もまた、中途半端なものでしかない。

それでも私はタオに心を傾ける。

また、そのために逆の方向へも走る。

あらゆるものに「名前」をつける。

今日もまたいろんなものに、こうして「名前」をつける。

それで結局、タオから外れて、またタオに戻る。

タオは静かで穏やかで、大きく、そしてやわらかい

[スピリチュアル対話シリーズ][02] こびとさん

2009-10-10 23:07:31 | スピリチュアル
[スピリチュアル対話シリーズ][01]事前ネタふり
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/902d99898c8f96d893ae1ce8cf6fe885

今回はスピリチュアル対話シリーズ第2回をお送りします。
対話を行うのは前回と同じく硬派ブロガーY氏自称スピリチュアリストS氏です。

今回のテーマは事前ネタふりで取り上げた「こびとさん」についてです。
ではどうぞ。


よろしく。
前回は私が少し細かいところにこだわりすぎて、話が平行線になってしまった。
今回は理解を得るというよりも話を聞くことに少し力点を置いて議論を進めようと思う。



わかりました。
どうぞお手柔らかに。




今回は我々にインスピレーションを与えている「何か」についてお聞きしたい。
ここでは「こびとさん」と呼ぶことにしたい。



「こびとさん」ですか(笑)。



早速だが「こびとさん」とは何だろうか。



あなたは何だと思いますか。



それを知らないから質問したのだが。



あなたは、あなたが知らないことを私に聞いたのですか。



う~ん、いきなり「とんち」でもはじめようということなのか。
質問返しの意図をはかりかねるのだが。



「あなた」が知らないことを「わたし」が知っていると思うのはなぜでしょうか。



・・・。
あなたが知っているかどうかは知らないが、あなたが知っているようだったから質問をしただけだ。
あなたは知っているのか。



突然びっくりする質問をしてしまい申し訳ありません。
ですが、「この問い」こそがあなたの質問の答えに繋がっております。



どのように繋がっているのか説明してくれないか。



その前に、まずあなたに質問させてください。
あなたは「こびとさん」を知っているのではないですか。



知らない。知らないから質問をしている。



なぜ知らないと思うのですか。



「なぜ」と聞かれても答えようがないのだが・・・。
全く見当もつかないのが正直なところだ。



では質問を変えましょう。
あなたは、あなたが何らかのインスピレーションを感じるとき、それはどこから与えられるものだと思いますか。
率直に思うままお聞かせください。



どのようなものを「インスピレーション」と呼ぶのかは定義が曖昧だし、人それぞれなのだと思うが、私自身の経験からすると、たまに自分ではない何かからの力が働いているような気がする時はある。
自分だけではどうしようもない問題が運が良く解決された時や、何らかの因果を感じる偶発的な出来事、何かの作業中に感じる閃きなど、少なくても自分が意図していないけれど自分にとって意味のあることは起きる。
ただ、「そう感じる」というだけであって、それが何かの勘違いかもしれないし、偏見かもしれないと思う。
意味のない単なる偶然を「後付バイアス」と呼ばれる人間の習性で意味づけている可能性は否定できない。
私はそう考えている。



非常に率直にお話いただきました。ありがとうございます。
あなたはとても冷静にご自身のことを分析されているようです。
「自分の力だけでは物事を成し得ない」という謙虚さもお持ちです。
ですが、あなたは「あなた自身」のことをよく知らないようです。



なんだか騙されている気もするが、話の流れはわかった。
だが、「あなた」自身とは何のことをいっているのか。
意図をつかめていない。



あなたにとっての「私」のことです。



・・・あなたにとっての私?



そうです。
あなたは「私」のことをどの程度知っていますか。



まだ意味がわからないのだが、私は私のことを十分には知っていないのかもしれないが、私のことは私が一番よく知っていると思う。



そういう意味ではありません。
あなたのいう「私」というのは何ですか。



・・・。



あなたが「私」と考える時、「私」というものをどのように定義していますか。
という意味の質問です。



なるほど。つまり「自我とは何か」という問いか。



そうです。



そんな哲学的、いや形而上学的なことを言われてもね。
それがわかれば今頃私は大哲学者になっているよ。



私は別に哲学的な話がしたいわけではありません。
あなたの質問に答えようとしているだけです。



なぜそんな回りくどい言い方なのかわからないが、自我論のような話をすることと「こびとさん」のことと何の関係があるのか。



あなたが「こびとさん」とは何かと質問されたので、その答えを述べているだけです。



ちょっと待ってくれ。
あなたのその論理に従うと「自我」と「こびとさん」とに関係があるということになるが、そういうことをあなたは言いたいのか。



さすがです。素晴らしい理解力ですね。



どういう関係があるというのか。



「こびとさん」は「あなた」です。



予想にも期待にも反する。その答えは。
「後付バイアス」のことを言っているのではないだろうな。



もちろん。違います。



あなた自称でもスピリチュアリストだろう。
そこは守護霊とか神とか言うべきではないのか。



お気を使っていただけるのはありがたいのですが、それではないとも言ってません。



あぁ・・相変わらず話が読めない。
単刀直入に言ってくれ。
「こびとさん」は何なのだ。



だから「あなた」です。



私は私自身にインスピレーションを与えている。
そういうことか。



そこは表現の難しいところですが、間違ってはいないと思います。



私にそのつもりはないのだが。



でも、インスピレーションを与えてもらった感じがしたことありますか。



言われてみると、誰かから与えてもらった感じはしないが、しかし自分ではない何かの力が働いている気もする。
単なる偶然のような気もするのだが・・・。



スポーツ選手が体調を整えるために、心身ともに充実することを目指すのはなぜでしょう。



心と体が関係しているからでは。



インスピレーションが誰かから与えられるなら、自分を磨く必要はないのでは。



それは違う。
インスピレーションだけで仕事するわけではない。
あくまでも自分自身の力を向上させて、基本的にはそこで勝負するのだと思う。
追加的なところでインスピレーションを期待しているのではないか。
それに、スピリチュアル的には「インスピレーションを受けやすいように器を磨くため」とか言ったほうがよいのではないか。



またまたお気を使っていただきありがとうございます。
しかし、あなたはさきほど無意識のうちに答えを口にしています。
「心と体が関係しているから」と。
インスピレーションを得るには関係をよくしておかないとですね。



なるほど。
あなたが「心」がインスピレーションの源だといいたいわけか。



それもまた表現として難しいところですが、間違っていないと思います。



近年、心身二元論は否定される勢いだが。



私が主張しているのは、心身二元論ではありません。



ついさっき、間違っていないと言っていたじゃないか。



「表現の難しいところ」とまえおきをしておきましたし、それにまだ心が何かについて何も言及していません。



では心とは何なんだろうか。
私は「心」に神秘的な構造があるとは思っていない。



その問いを解くには「自我」について考えなければなりません。


(...第3回へつづく)

[スピリチュアル対話シリーズ][02]事前ネタふり

2009-10-05 00:05:58 | スピリチュアル
こびとさんをたいせつに(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/10/03_1726.php

今日も内田樹ネタです。


「ゼミとは何か」ということについてお話しする。
でも、実は私にも「ゼミとは何か」ということがよくわかっているわけではない。
だから、毎年言うことが変わる。
今回はふと口を衝いて「ゼミの目的は自分の知性に対して敬意をもつ仕方を学ぶことです」と申し上げてしまう。
言ってみてから、そういえばそうだなと思う。
ポランニーの「暗黙知」(Tacit Knowing)も、カントの「先験的統覚」も、フッサールの「超越論的直観」も要するに、「私は自分の知らないことを知っている」という事態を説明するためにつくられた言葉である。
古来賢人たちは必ず「どうして私はこんなに賢いのか」という問いに遭遇した。
遭遇するに決まっている。
自分の賢い所以をすらすらと自力で説明できる(「やっぱ、子どものときにネギぎょうさん喰うたからやないですか」とか)ような人間は「賢者」とは言われない。


彼(内田樹)がいつもいう「学力とは何か?」という説明と全く同じだ。
「人間が人間たらん所以はなにか?」という問いに対して、彼は時として「学力」という言葉を持って説明するし、違うところでは「暗黙知」や「先験的統覚」を使って説明する。
要するに、人間が賢くて、また人間の賢さを決めるのは「自分の知らないことを知る」ことに尽きるということだ。
(厳密にいえば人間以外にも当てはまるであろうが、人間が他の生物と比較して突出して優れているところは何かと考えると「自分の知らないことを知る」能力だということだ。
物事を1次元上の視点から捉える能力のことで「メタ認識」能力ともいう。
(メタファーを提示する能力というのは、西欧人に比べて日本人が不得手なところでもある。)

まず考えて欲しいのだがもしあなたが全てを知っているとしたら、世界はどんなふうに見えるだろうか。
おそらく(いや間違いなく)、非常につまらなくみえる。
全ての因果が見えて、全ての結果がわかるなら、あなたは何にも興味を持つことができなくなるはずだ。
人間は、知らないことがあるから、物事に興味を持ち、それを知りたいと思い、考え、悩み、発し、行動する
あなたが、冒険に出るとき、恋の告白をするとき、罪の告白をするとき、新たなチャンレンジをするとき、何を得ようと思うのだろうか。
何か物質的なモノを得ようとしているのか。
果たして「幸せになるため」なのだろうか。
そうではなく、何かを知りたいからではないだろうか
これはあなたが幸せを感じるときと深い関係がある。
(この話題は極めて深遠だ。簡単には語れないし理解もできない。当Blogで長い時間をかけて説明していきたいと思う。)

あなたが何かを始めたり挑もうとしたりするのは、知らないこと(=知りたいこと)があるからだ。
あなたは自分が無知であることを悲しむかもしれないが、それならあなたが賢いということを示している。
逆にいえば、もしあなたが何もしたくないような状態にいるとするならば「知りたいことがない(無知か傲慢かのどちらか)」か「知ろうとすることを諦めている」かのどちらかだ
人間社会を動かしてきたのは、いつの時代も「私はそれを知りたい」と思う気持ちからだ。
これは進化の基礎である。
そんなことを踏まえて続きを読む。


真の賢者は恐ろしいほどに頭がいいので、他の人がわからないことがすらすらわかるばかりか、自分がわかるはずのないこと(それについてそれまで一度も勉強したこともないし、興味をもったことさえないこと)についても、「あ、それはね」といきなりわかってしまう。


そして、賢い人は助けを得ることが出来る。
彼なりの解釈として「こびとさん」なるものが出てくる。


どうやらわれわれの知性というのは「二重底」になっているらしいということに思い至る。
私たちは自分の知らないことを知っている。
自分が知っていることについても、どうしてそれを知っているのかを知らない。
私たちが「問題」として意識するのは、その解き方が「なんとなくわかるような気がする」ものだけである。
なぜ、解いてもいないのに、「解けそうな気がする」のか。
それは解答するに先立って、私たちの知性の暗黙の次元がそれを「先駆的に解いている」からである。
私たちが寝入っている夜中に「こびとさん」が「じゃがいもの皮むき」をしてご飯の支度をしてくれているように、「二重底」の裏側のこちらからは見えないところで、「何か」がこつこつと「下ごしらえ」の仕事をしているのである。
そういう「こびとさん」的なものが「いる」と思っている人と思っていない人がいる。
「こびとさん」がいて、いつもこつこつ働いてくれているおかげで自分の心身が今日も順調に活動しているのだと思っている人は、「どうやったら『こびとさん』は明日も機嫌良く仕事をしてくれるだろう」と考える。
暴飲暴食を控え、夜はぐっすり眠り、適度の運動をして・・・くらいのことはとりあえずしてみる。
それが有効かどうかわからないけれど、身体的リソースを「私」が使い切ってしまうと、「こびとさん」のシェアが減るかもしれないというふうには考える。
「こびとさん」なんかいなくて、自分の労働はまるごと自分の努力の成果であり、それゆえ、自分の労働がうみだした利益を私はすべて占有する権利があると思っている人はそんなことを考えない。
けれども、自分の労働を無言でサポートしてくれているものに対する感謝の気持ちを忘れて、活動がもたらすものをすべて占有的に享受し、費消していると、そのうちサポートはなくなる。
「こびとさん」が餓死してしまったのである。
知的な人が陥る「スランプ」の多くは「こびとさんの死」のことである。
「こびとさん」へのフィードを忘れたことで、「自分の手持ちのものしか手元にない」状態に置き去りにされることがスランプである。
スランプというのは「自分にできることができなくなる」わけではない。
そうではなくて「自分にできるはずがないのにもかかわらず、できていたこと」ができなくなるのが「スランプ」なのである
それはそれまで「こびとさん」がしていてくれた仕事だったのである。
私が基礎ゼミの学生たちに「自分の知性に対して敬意をもつ」と言ったときに言いたかったのは、君たちの知性の活動を見えないところで下支えしてくれているこの「こびとさん」たちへの気遣いを忘れずに、ということであった。


彼の言っていることは人間の知性を支えているものが何かということで、彼はそれを「こびとさん」と呼んでいるのです。
「こびとさん」に対して様々な意見があるでしょう。
次回のスピリチュアル対話シリーズではこの件について取り上げてみたいと思います。

[スピリチュアル対話シリーズ][01] 人生に真剣に向き合う

2009-09-28 23:31:53 | スピリチュアル

 当Blog初のスピリチュアルネタは、自称スピリチュアリストであるS氏と、硬派BlogerであるY氏との対話シリーズでお送りする「スピリチュアル対話シリーズ」と冠ってお送りしたいと思います。
 相当脱線しておりますので、これは物語としてお読みください。

 さて、復帰後第一発目ですが、当Blogのコメンテーターとしてご活躍のttosiさんのBlogをヒントにします。

Overcome past (ttosi's English Journal)
 http://ttosi.blog.so-net.ne.jp/2009-09-25

人間の不自由さについて、坂口安吾の「堕落論」にこういう一説があります。

我々はあらゆる自由を許されたが、
人はあらゆる自由を許された時、
みずからの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。
人間は永遠に自由ではありえない。
なぜなら人間は生きており、また死なねばならず、そして人間は考えるからだ。

実に本質を突いた表現であると同時に、妙に納得させられます。が、しかし、不自由であることこそが人生の最大の意義なのです。 (このことの意味については後日) そうすると「真面目一辺倒よりも少しふざけて生きた方が気楽でよい」ということになるのでしょうか。いわゆる「人生楽しんだもの勝ち」というやつです。それも一つの有意義な人生哲学でしょう。しかし、私はそうは考えていません

私は「人生の中で起きる出来る限り多くの物事について、真剣に解答を出していくこと」には、大きな意味があると考えています。欲をいえば、その一つひとつの取り組みについて楽しめる方がよいのですが、「楽しめるかどうか」というのは第一義的な意味ではありません。人生の中で起きることには楽しめないことの方が多いのが普通ですし、それを無理に楽しむ必要もないのです。楽しめないことを楽しむ処世術というのは有意義な技術ですが、それが真剣さをぼかす技術なのだとしたら不要なものです。病巣を手術することを恐れ、痛み止めで一時期に忘れることができても、いつか病気そのものと向き合わねばならない現実から逃げることはできないのです。最も重要なことは「一つひとつの出来事に真剣に向き合えるか」どうかです。

ここから先は、私の語彙と文才では表現しにくいので、問答形式で説明します。登場人物は2人です。先に説明した自称スピリチュアリストであるS氏硬派BlogerであるY氏です。

(なぜ問答形式かって?それは後日)

真剣に向き合うことが重要なのは、なぜか。

それは、そのことが最も人生を有意義に過ごすために重要なことだからです。

なぜ、それが有意義だといえるのか。

それは、それが人生から求められていることだからです。

求められることに的確に解答すること、つまりそれがあなたの役割(生きるということ)だからであり、そこに目的を果たすという意味での生き甲斐があるのです。生き甲斐とはそういうことで、他に道はありません。

人生から求められている役割とはどういうことか。

自分自身が自分自身に与えたカルマを果たすということです。

急に論理が飛躍しているが、人生というのは自分自身に与えたカルマなのか。

そうです。

確証は?何らかの根拠があって言っているのか?

ありません。ありませんが、その気になれば理解することは可能です。

理解するためには、何らかの根拠が必要だろう。

それがあるのならば、人類は今日までの道を迷ってはいないでしょう。それに、理解することがあなたの目的ではなく、役割を果たすことこそあなたの目的です。

理解することが、重要なのではないのか。

真剣に向き合うことが最重要だと述べたのであって、理解することが最重要だと述べたのではありません。もちろん、理解度を深めることも重要ではあります。

根拠がない話を信じろというのは無理な話だ。

信じろと言った覚えはありません。信じるも信じないもあなたの勝手であり、好きになさったらよろしい。ただ、私は私の考えることを述べただけです。

・・・。理解を求めないのなら、主張をする意味も怪しくなるのではないか。

理解するかどうかはあなた方の自由です。ただ、私の述べたことが誰かの心に届くなら、私のやることにも意味があるというものです。

もう少し学際的な議論をすべきではないのかな。哲学ですら、あなたの議論より理論的だと思う。

あなたは根拠がある方が、それもより多く深い根拠がある方が信じるに値するというが、その根拠の根拠、またその根拠の根拠といって追求していけば、どこまでいっても際限がありません。あなたのいう根拠というのは、結局のところ、どこで妥協して納得するのか、という類の異なった表現でしかないと思います。

いや、あなたの話に反証可能性があるのかないのか、という問題提起だ。あなたの話は正しいのかもしれないが、正しくない可能性を十分にはらんでいる。そこを判断するためには反証可能性を基に議論をする必要がある。でなければ、いつまで立っても話が平行線だな。神学論争で終始するだけだ。

私には神学論争をするつもりはありません。私は、時がくればあなたにも理解できることを、ただ説明しているだけで、この話を聞けば理解できるとは述べておりません。ただ、理解するときがくれば、あなたは根拠など必要なく理解するはずです。この説明が正しいことは、あなたの人生経験が直感的に教えてくれるはずです。

そういう説明は詐欺に近いと思う。後付バイアスともいう。

あなたが今、信じていることが詐欺ではないという保証はありますでしょうか。あなたがたはよく信じることを間違える。それはあなたの人生も、人類の歴史も証明してくれているではありませんか。

ニヒリズムに立脚した、哲学のフリをした詐欺である可能性がある。

私の主張が詐欺ならば、あなた方のみる夢というものも自分自身に対する詐欺になりますね。あなたは希望を抱かないのですか。詐欺と詐欺でないものの違いは何なのでしょうか。

騙す意図があるかないかというのも一つの指標だろう。

騙す意図がなくても、結果として騙すことがあることはあなたもよく知っているでしょう。あなたはあなた自身を騙していないとはいえないのではありませんか。私はあなたを騙すつもりはありません。

では言葉を返そう。あなたに嘘をつくつもりはなくても、あなたの勘違いである可能性はあるのではないか。

そうですね。それはあります。私の主張は勘違いであるかもしれません。

支離滅裂だ。だったらそこまで主張することないではないか。

あなたは自分が理解しているつもりのことを人に教えたりしませんか。あなたは理解しているつもりでも、本当は間違っているかもしれない。だが、あなたはその可能性を無視して説明する時があります。自分に間違っている可能性がある時、何も主張してはいけないのなら、誰も何もいえなくなります。

やはり平行線になってしまう。そんなことを言い出したら何もいえなくなるではないか。議論する際には、共有可能な知識を基にしたある程度のバランス感覚が必要だと思う。

見えている世界が違うのだから話が平行線になるのは仕方が無いが、お互いが真剣に向き合う中で少しずつでも相互理解を構築できると思います。

相互理解は今後の課題として、話を戻そう。人生の中で起きる一つひとつの出来事に真剣に向き合うことが、生き甲斐になるという話しであった。また、それが自分自身に与えたカルマを果たすことになると。そうすると、人の一生というのは、生前にある程度決まっていることにならないか。

そうです。決まっております。

身も蓋もない意見だな。その時点でもう議論にならない。

さきほどと同じことです。

では、また話を戻そう。カルマを果たすことが生き甲斐になるから、真剣に向き合うことに意味がある。そういうことか。

そうです。

だが、それは直感に反する。なぜなら、私はやり甲斐を感じるときにカルマなどというものを全く意識していないし、偶発的な出来事にやり甲斐を感じるときもあるし、何よりも私は些細なことに喜びを感じるときがある。人生の中では、カルマ以外に生き甲斐はないのか。

厳密な意味をお伝えすることは非常に難しいのですが、回答するとなると、ありません。という他ありません。全て人生の中で役割を果たすかどうかにかかっています。小さな役割もあれば、大きな役割もあります。それに、あなた自身の役割をあなた自身が自覚しているとは限りません。

それは、役割の定義次第で、なんとでもいえると思う。私が聞きたいのは、私が喜びを感じる瞬間は、必ずしも良いものとは限らないということだ。何らかの背徳的な行為や、非社会的な行為、貧欲的な行為に喜びを感じるときもあるだろう。それらも全て役割というのか。

非常によい質問をなされます。全てあなたがあなたに与えた役割です。あなたはカルマについて勘違いをしています。カルマというのは慈善事業のことをいうのではありません。あなたが学ばなければならないことです。あなたは一つの問題を解く度に喜びを感じることでしょう。

いや、人間の感情というのはそんなに単純なものとは思えない。私は、背徳的な行為をするとき、罪悪感を感じながら喜びを感じている。この相反する矛盾した感情は、人間の脳機能の進化過程に依存する問題であると理解している。「これをすれば、こう喜びを感じる」という単純なお題目設定に人間の感情が支配されているとは思えない。

それも非常によい質問です。あなたがおっしゃることは、脳機能を使った解釈の問題で、喜びそのものの説明ではありません。喜びを感じるための条件を述べたのであって、喜びをどう感じるかは、人それぞれ固有なのです。人間が顕在意識として喜びを認識するために脳機能を活用しているという点においては、おっしゃるとおりです。

喜びを感じるのは脳の機能ではないということか。

そうです。解釈をしているのが脳です。それは人間以外の生物においても同様です。

よくわからない。では解釈の元となる感情はどこからやってくるのだ。魂とでもいうつもりか。

なんと呼ぶかはあなた方の自由ですが、そういう呼ばれ方をするときもあります。

結局、これも神学論争ということか。

私は神学論争をするつもりはありません。

・・・。

・・・。

結局、何も明らかになっていないではないか。

初めから明らかなのですが、あなたが理解するかどうかの問題です。

本当は理解させる気がないのではないか。反証不可能な立場で議論すれば、議論に負けることがない。いくらか支持してくれる人がいれば、ある程度の満足感は得られるだろうね。どこかの宗教団体みたいに。

それは相当の偏見というものです。そんなことをいえば、科学史に燦燦と輝く科学者達はみな現在において詐欺師になるのでしょうか。そもそも、自分を理解させろ、理解させれなければそちらが悪いというのは実に都合のよい主張にも思えます。

今日はこの程度にしておこう。次回はまた違う視点で議論する。