粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

哀しい?古館降板

2016-04-02 17:18:31 | 反原発反日メディア

ニュースキャスターというのは本当に孤独ですからね、

私は今こんな思いでいます、「人の情けに掴まりながら折れた情けの枝で死ぬ」浪花節だよ人生の一節です。死んでまた再生します。

テレビ朝日「報道ステーション」で3月31日、当日をもって降板する古館伊知郎が番組最後の挨拶で締めとして発した退任の言葉だ。言わんとしていることがよくわからないが、(本人は否定しているものの)降板理由にどこか局からの「圧力」乃至「裏切り」が働いていた印象をもつ。

局上層部の「人の情けに掴まって」いたが、その枝はもろかった。局が結局、古館を支えてくれなかったという「恨み節」がつい出てしまった?いや、「ニュースキャスターは孤独」というくらいだから、番組スタッフからも疎外されていたのではないかとさえ思える。だから、この夜、最後の挨拶をする古館がひどく哀れにさえ感じる。

古館は挨拶でこうもいっている。

人間がやっているんです。人間がやるんだから少なからず偏っています。だから情熱をもって番組をつくれば多少番組は偏るんです。しかし、全体的に程よいバランスに仕上げ直せばそこに腐心をしていけばいいのではないかと私は信念をもっています。

こんなのは、偏向報道のいい訳にしか思えない。古館の哀しいところは、情熱をもってすればそこには偏りを超えた真実があると人々が理解し共鳴してくれるはずだ、という思い込みがあることだ。

その点では古館本人には人を意図的にたぶらかそうというところはなく、ある意味純粋かもしれない。しかし、純粋な動機であっても、いや純粋だからこそ、情熱が伴えば偏りが余計に増幅する。それが暴風となって人を煽動する一方で人を傷つけたりもする。

本人は「死んで再生する」つもりかもしれないが、この12年間人々を煽動し日本国内に拡散したデマという「廃棄物」は簡単に消えることはない。たとえば、原発報道。あれだけ福島県民を始めとして日本国民に放射能の恐怖を喧伝した責任は重大だ。死んで再生すれば免罪されるというものではない。


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