粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

東京新聞の記事

2013-02-12 14:58:17 | ガレキ広域処理問題

11日東京新聞で、震災がれきの広域処理が早期終了することを報道していた。「結局は税金の無駄遣い」「ゼネコン利権に群がる」記事の見出しを見れば広域処理=悪というこの新聞特有の偏った見解がみてとれる。内容を読んでみても、広域処理に反対する議員や市民団体あるいは学者の意見しか載せていない。さらに相変わらずこの問題を放射能汚染と短絡的に結びつけている。

確かに、環境省の震災がれきに対する当初の見積もりが甘かったことは大いに問題があった。しかし、当初、広域処理の是非はともかく膨大ながれきを見て国民の多くが異常事態だから早期に処理しなければ、東北の復興は果たせないと感じただろう。そこから広域処理という政府の発想がでるのも自然なことだ。おそらく、原発事故がなければ、たとえ見積もり量が大きく下がっても、東京新聞の記事のようにトップ記事で大騒ぎするようなこともなかっただろう。

やはり、これが放射能汚染と完全に結びついて論じられたことが問題だった。がれきの広域処理=放射能の拡散=健康被害という図式で完全に考えられた。この問題の不幸はそこに集約されている。そして、さらに本質的には反原発という思想的意図が強く背景にあることだ。これが世論を二分する政治的社会的問題になってしまった。

特に酷いのは、反対派が受け入れを表明した自治体ばかりか、お願いする立場の被災地の自治体まであからさまに抗議行動をしたことだ。東京新聞によれば、被災地の議員たち自身が広域処理に反対しているような書き方をしているが、これは一面的な見方である。おそらく被災地の人々の多くの心には「ここまで他地域から曲解されて、冷淡な目で見られるならば自分たちでやるしかない」という失望と諦めの気持ちが本音にあるものと思う。

広域処理そのものは、たとえ6分の1に減ったとしてその意義はあったと今でも考えている。何より、最大の自治体東京都が東北以外では最初に名乗りを上げて、震災年の年内に実施したのは大きい。これは東北人には大きな励みになったと思う。これまでの一連の自治体の参加が震災がれき問題解決のスピードを速めたことは評価できる。

ただ、被災地と他の地域の間でわざわざ見えないわだかまりを残してしまったことも確かだ。非常に残念な話だ。政府の対応にも今思えば大いに問題があったが、やはり社会問題化した反原発派のグループやメディアも断罪されるべきだろう。


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