1930年に鎌倉で生まれた野坂昭如は生後すぐ母を亡くし、母の妹の嫁ぎ先である神戸の「張満谷家」の養子になって、神戸市灘区中郷町で育った。
1939年生まれの桂枝雀、本名「前田達」は中郷町のブリキ屋の子として生まれた。
同じ町内の二人は1945年6月の米軍焼夷弾絨毯爆撃市民無差別攻撃を受けてそれぞれの運命が変わった。
枝雀は戦災後、父親の出身地である鳥取県倉吉市に疎開し、小学校1年入学間もなく兵庫県伊丹市に移りすみ中郷町に戻ることはなかった。
同じ町内に住んだ二人が道ですれ違ったことがあるかもと想像すると面白い。彼ら二人は戦災を受けなければ、「火垂るの墓」はなかったし、
前田達は「成徳小学校」に入り、野坂昭如の後輩になっていた。桂枝雀は1960年に神戸大学文学部に入学(一年後退学して桂米朝に入門)しているから
5歳まで育った大学に近い中郷町を訪ねて懐かしく歩いたことが一度くらいあったかもしれない。
しかし町は地形も変わるほどの爆撃を受けたので、桂枝雀が幼時住んだ家がどこにあったか特定はできなかったはずだ。
野坂昭如によると、焼夷弾の直撃を体に受けた養父はついに遺体すら見つからなかった。
昨夜は「成徳小学校」の前を通り、インドネパール料理の「インドラマハール」へ行った。
2013.06.23 ~ 2013.06.29
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6月5日 中郷町(ナダタマアーカイブス)
投稿日時: 2013年8月15日
昭和20年6月5日。神戸、そして灘区が猛火に包まれた日。
8月5日の空襲と合わせて灘区の被害は、死者808人、全焼・全壊家屋18068戸、罹災者74102人とされているが、届け出のあったものだけに限られているので、
実数はさらにこれを上回る凄惨なものだった。
当時、中郷町3丁目に住んでいた野坂昭如はこの時の空襲体験をもとに戦争文学の名作『火垂の墓』を書いたのは、灘クミンならよくご存知のことと思う。
この時、同じ中郷町にもう一人の少年がいた。
野坂の家(養父張満谷家)から目と鼻の先の中郷町2丁目に住んでいた少年が、後の桂枝雀となる前田達少年だった。
神戸空襲のとき、野坂は15歳でが前田少年は5歳。その時の記憶を野坂は小説にしたが、枝雀師匠は落語の枕にした。「貧乏神」という気の弱い神様の話の枕が『上方
落語 桂枝雀爆笑コレクション〈4〉萬事気嫌よく』(ちくま文庫)に収録されている。
エー、昭和20年に大空襲がございます。
神戸は6月でございました。大阪は、エー6月ではなかったのかと思いますが、えらい空襲でございました。
ご承知の方はご承知でしょうが、親父がブリキ職でございまして、まあ、職人でございますから、仕事場にでございますね。神棚がしつらえてございまして…
前田家は灘区中郷町2丁目でブリキ店を営んでいた。
仕事場には神棚があり、朝に夕べに祈りをささげていたという。
近所の徳井神社の氏子だったのかもしれない。
6月5日、中郷町にも空襲警報が鳴り響く。
いつもは警戒警報だったのが、この日は違った。
「今日も大丈夫やろう」言うてましたら、その日に限って
「空襲警報ォ!」
ダルゥドゥズバババババババババァー…
「えらいこっちゃー!お母ちゃん、空襲やー」
言うたらね、そのね、朝晩拝み上げていた神棚の
神さんね、一番にドタッ。
落ちてこられたんでございますねえ。
嘘でもねえ、朝晩拝み上げている神さんでございますから、もーちょっと頑張ってもらいたかたんですが、ねえ…
神様が先に落ちてきて、その後に実の姉が落ちてきて、「姉はようがんばったのに、神様は…」というオチ。
灘区を焦土と化した空襲だから、もっと緊迫感があったに違いないが、枝雀師匠は「頼んない神さんでございましてね。」とおどけてみせる。
悲惨な状況を笑いへと転化するという、彼の落語理論だった「緊張と緩和」の実践。
そして戦時下の「神への妄信」を、軽やかに揶揄する批評精神。
同じ神戸大空襲を描きながら、方や悲劇的な物語を、方や喜劇的な噺を。
灘区中郷町という小さな街の小さな奇跡だ。
桂枝雀の生家があった中郷町2丁目から野坂昭如が暮らしていた中郷町3丁目を望む
(ナダタマ 灘文化堂「6月5日 中郷町」2011.6.6より)
引用元。
フェリシモ > 神戸学校 > 野坂 昭如さん(作家)レポート
僕自身はいつも緊張して生きてるわけなんですけど、その基本のところには55年前に受けた空襲っが根っこのところにあると思うんです。
一部引用・・
野坂さん:
『火垂るの墓』、あれはいかにも僕自身が主人公みたいだけれども、僕自身が主人公だったら、あの主人公は死んじゃうわけですから、そのままじゃないわけで……。当時1歳4ヵ月だった僕の妹は確かに飢え死にしましたけども、1歳4ヵ月じゃ話にならないっていうか、会話が成り立たないから4歳って設定にしちゃったけど、ほぼあんなふうな経験に近いことを僕はやりました。ひとつだけ違うのは僕は、主人公のお兄さんみたいにやさしくはなかったですね。配給のとき1歳4ヵ月のこどもの口にはとても合わないようなものしかないんです。だし大豆のとかなんとかね。だし大豆ってのは煎って食べるんですけれども、とても1歳ちょっとのこどもの食べられるもんじゃないわけで、大人が食べたって下痢しちゃうわけですから。例えばそれを口の中で柔らかくしてやろうと思って口の中に入れて妹にやろうと思うんだけど、僕はやっぱり腹が減っているときはひゅっと飲み込んじゃうんですよ。結局は妹の食い物を僕自身が食ったという結果になっちゃったってところは、僕自身ずいぶん一種の負い目みたいな格好でいまも残っていますけどね。
それを話の上で穴埋めするみたいな格好で妙にお兄さんをやさしい兄に書いたんです。でも、本当に飢えに追い込まれてしまうと親とこどもでも親はこどもの食い物を食べますよ。つまりこどものためなら親は命はいらないっていうのは瞬間的にはぱっと思う。だけど恒常的になると、親とこどもの間において言うならば親はこどもの食べ物を食べて自分は生きぬくっていうのは、これは生物の理にかなっているわけです。親がもしも飢え死にしちゃったらこどもも飢え死にしますからね。親が生き残れば親はまた新しく生殖行為をしてこどもを産めばいいんです。だから親が生き抜く方が大事なんですね。弱い者と強い者がいて、どっちをなんとかするっていったら強い者が生き残ることがいちばんなんです。
例えば飢えてる国へ援助しますね。あの援助ってのもなかなかむずかしいんだけれども、3人飢えてるこどもがいると。そこにふたり分の食料しかないときにふたり分の食料はあくまでふたり分の食料であって、3人で分けたら3分の2ずつになるわけでしょ。3分の2ずつだったら3人とも栄養失調で死んじゃうわけですよ。だから3人の中でもってふたりを選ばなきゃしょうがない。そういう時、現実に木登りさせて、ちゃんと木が登れたスピードの順に食物を与えて、最後のひとりには食物を与えないっていう……、それくらいにきびしいもんなんです。
だから飢えというものについて言うならば、質問してくださった方には想像もできないだろうし、まったくマリー アントワネットみたいなもんで、パリ革命が起こったときに「パンが食べられないならお菓子を召し上がればいいのに」と言ったというそんな世間知らずのひとつの例として言われますが、いまの皆さんも多分米がなくなればラーメン食えばいいだろうとか簡単にそう思っちゃうかもわかんない。だけどなくなるときには1発で全部なくなりますから。アメリカがいくらこっちに輸出しているといったってアメリカがもしも取れなかったら輸出のしようがないわけで、自分の国の国民が飢えているときに日本を助けるわけがない。日本がいくら金持ちだってね。
そういう状態といったものは、当然次の世紀には来るわけで、そのためにどういう覚悟を持っておかないといけないかっていうと、結局はやっぱり自分のことは自分で考えるってこと。ほんとに食い物がなくなったら自分だけ食えればいいっていうふうに、そりゃ世の中いろいろ人がいますから、そんなふうに極端に言っちゃいけないかもわかんないけど、基本的には自分だけ食えりゃいいと。それくらいに飢えってものはすさまじいもんで、だから人間てのはこうやって生き延びてきたんですね。そんなみんなが慈悲深く自分が食わなくても他人が食ってもいいみたいな格好でもってお互いが融通し合っていたら、人類なんてこんなふうにはたくさん生き延びられなかったわけで、弱肉強食の世の中になってしまうのが飢えの時代です。
僕は、その中に放り込まれたわけで、現実問題としてこうやって生き延びています。でも、豊かな世の中になってくると僕はいわゆるご馳走っていうものを食べられないです。対談とか座談とかっていうとよく料理屋に行くんですけれどね。料理屋に行ってこれ見よがしな料理が出てくると食べられないですね。それから僕のこどもが小さいときに、クッキーをもらって、半分だけ食べてポッと捨ててるのを見ると、ものすごい憎しみを覚えましたね。あの世っていうものがあるんだったら自分の妹にこのクッキーを持っていってやりたいって気持ちは痛切にあったんですね。
そういう気持ちが『火垂るの墓』であのお兄さんをやさしくしちゃって、あれが戦争によってもたらされた悲しいお話かもしれないけれど、一方において兄弟愛みたいな形で受け取られています。
引用元。