画像はほぼ当時の北京駅 ネットサイトから引用。
1)北京と天津の往来
昭和50年代当時 北京から天津へはまだ高速道路がなかったので、ほとんど列車で行き来しました。
北京郊外に出ると見渡す限りトウモロコシ畑がどこまでも延々と広がっていました。
途中の農家は電線が引かれている様子もなく、家も粘土で出来ています。
こうして何千年もこの地に住んでいる人達がここで暮らしているのだなと思いました。
北京市域の城壁の中に住む人と域外の人は同じ国ながら生活ぶりが全く違います。
域外や地方の人達は都会に出たくとも、人口抑制のために政府が住民登録の移動を禁じているから、
不法滞在の扱いになりあちこちにスラムが出来て色々問題が出ている時でした。
沿岸部と内陸の貧富の差が広がる一方の最近は、大量の地方出身者が戦後まもない日本と同じで、
職を求め続々と都会地へ移動し、どう対応するかが中央政府の大きな課題のようです。
あるとき旧正月の時期にぶつかり、大きな荷物を持って故郷に帰る人たちで北京駅は大混雑でした。
夕暮れ、駅の構内も構外も、薄暗い電燈の下に沢山の人達が横になったり膝を抱えたりして居て、歩くのもままならないほどです。
汽車の切符が取れるまでこうして過ごすと聞きました。
帰郷する人に加えて住むところの無い人が駅で暮らしているから国の中央駅とは思えない雰囲気でした。
東京のラッシュアワーの凄さが日本でも一部の特殊な地方性の現れと同じで、北京駅の周囲は異常に思えましたが、
東京での会社勤めで経験したラッシュアワーと同じで、北京人にとっては嫌も応も無い当たり前のことの様でした。
2)天津新港は北京の外港になります。ボクが好きな天津甘栗は天津で取れるのではなく天津から船積みされるので、
日本で天津甘栗と言われていると聞きました。つまり天津は貿易港で東京にとっての横浜にあたります。
港の港湾クレーンはどれもソ連の図面で製作された旧式のポートークレーンばかりでした。
ソ連と中国が国交断絶の時に何万人と家族とともに派遣されていた各分野のソ連の技術者が、仕事を放り出して、
技術資料、図面を残らずもって突然本国へ引き上げたために、どれだけ中国人の技術屋が苦労したかという話しを何度か聞かされました。
国境を接した大国どうしの中国人のロシア人に対する屈折した思いの一端を聞かされた思いでした。
(2002年ごろ当時を思い出して記し、友人知人へメールで送った。)