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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」⑨ 第1章 ラサから始めよう 

2008-04-06 02:12:17 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


4 盤熱将軍

 吐蕃を代表してこの地区を統治した最初の将軍を盤熱という。
 彼はチベット王室の血を引く人物だった。彼の城塞はジアロン地区の中心地帯、現在のマルカム県松崗郷に建っていた。城塞の名は査柯盤果。
 私は何度かこの城塞の実地調査をしたことがある。
 阿壩(アバ)州役場とその下のマルカン県役場の所在地であるマルカン鎮を、大度河の源流の一つである梭磨(サマ)河に沿って15キロ下ると松崗郷に着く。その左岸の直波村の向かいの山を徒歩で登っていくと、約一時間後に林檎園と一面のトウモロコシ畑を通り抜け、山の上の白樺と胡桃の木が生えている草の斜面に着く。そこから、盤熱が千年以上前に建てた城塞の跡を見ることが出来る。

 歳月は容赦なく過ぎゆき、世は移り変わる。かつての権勢と繁栄もすでに荒れ果てた草むらへと化していた。草むらには勇猛な時代への想いを誘うように石壁の残骸がいくつか見え隠れしている。石―この材料は地球上のあらゆる文明によって用いられてきた。永遠の存在を願って用いられた建築材料も、時の手の趣くまま無残にも倒され、傾き、終には草と埃に覆い隠されてしまうのだ。

 私は夏、秋、そして春と冬の合間にこの遺跡を訪れたことがある。そこは美しく、独特な雄々しさを持った場所である。

 梭磨河は東から西に向かって谷の間を奔流し、開けた谷の両側には山々が連なり、毅然として聳え立っている。南に北に、屹立する山々は二つの渓谷と二本の渓流を生み出した。其里と莫覚である。この二本の河は松崗で梭磨河と合流する。大小三本の河は、地を洗い、土を堆積させ、山々の間に点々と大小様々な肥沃な土地を作り出した。地理学で河谷台地と呼ばれる土地である。
 これがジアロンのある大渡河流域と岷江流域の耕作地の概略である。

 これらの肥沃な大地には、海抜の高さに従って、とうもろこし、小麦、ハダカ麦、そら豆、えんどう豆、蕎麦、麻、ジャカランダ、ジャガイモ、白菜、ハマゴウ、マンナンカラスウリ、唐辛子が植えられている。農民たちが暮らす石造りの村の周りに点在しているのは、林檎、梨、サクランボ、ワリンゴ、杏、胡桃である。 そして、もう一種類、広範に栽培されているものがある。それは、果物ではないが、この地の人々の生活にはなくてはならない作物、山椒である

 私は様々な季節にこの地を訪れ、農民たちが耕作し、草を刈り、収穫するのを見てきた。収穫した作物をトラクターで運ぶようになった以外は、基本的なやり方は吐蕃の統治時代とほとんど変っていない。
 地を耕す時は、一人の子供が二頭の牛を引き、その二頭の牛が犂を引く。犂を支えるのは田植え歌を歌うたくましい男性で、その後には種を播く女性、さらに、その後には撒いた種に肥料を施す女性が続く。夏空の下、女たちはゆったりとした声で歌を歌う。激しい日差しを浴びながら田を耕していると、遠くの山の緑の茂みの中からカッコウのゆるやかな鳴き声が聞こえてくる。

 周りの山々は高く切り立ち、敵を防ぐのに適している。山の険しいところほど、高く積まれた石の砦が長い年月を耐えぬいて聳えている。遥か昔、盤熱と彼の大軍はここで要所を守り、高く険しい山に守られた場所から、虎視眈々とこの谷を統治していたのである。

 すでに明白なことだが、どのような時代においても、このように高く険しい場所で権力を振るう者は、すべて一時のものであり、永遠に君臨することはできない。ただ、この台地の畑や村やそこに暮らす人々のみが、永遠に存在できるのである。軍隊による征服や武力による統治は、すべて一時的な現象である。最も強い者はまた最も弱い者でもあるのだ。この土地にひとつの諺がある。大意は次のようである

 「最も背の高いものは、すぐに根元から倒れてしまう」

 目の前の情景がまざまざとそれを物語っている。歴史書に、そして伝説の中にその名を誇っていた城塞は荒れ野のなかに消えてしまった。そして、歴史にも伝説にも記されていない庶民の住居が、代々の権力者が風と共に消えていった峡谷の中に依然として存在し、むしろその数を増やしながら営みを続けているのである。

 盤熱が権勢を振るったのは僅かな時間であり、その前にもその後にも、短命な存在は数多くあった。それでも私が繰り返し彼の事を取り上げるのは、彼と彼が率いる軍隊によって、ジアロンは、吐蕃の統治時代に、チベット文化の中に取り込まれたからである。

 盤熱は軍人である。軍人として、彼は戦争をもたらし、そして戦争の後の平和をもたらした。彼はまた行政長官でもあった。行政長官として、彼は吐蕃から二部の成文化された法律を携えてきた。これがジアロンでの法律の始まりである。
 七世紀中ごろ、盤熱はジアロンを統一し、この地の長期に渡る間の争いを終わらせた。こうしてもたらされた比較的安定した環境のもと、彼は自分が携えてきた二部の法典を施行した。

 その一つがチベット語で「尼称」と呼ばれる、現在の刑法のようなものである。
 この古代の刑法は九律に分けられ全部で八十一条ある。金粉で書かれていて、貴重なものであることが解る。
 その九律とは、逓解法廷律(裁きの場に送る律)、重罪極刑律、警告罰款律(罰金を警告する律)、殺人命価律(殺人した時の償い金律)、狡狂洗心律(狡猾な心を入れ替える律)、盗窃追賠律、親族離異律(離婚律)、奸汚罰款律(強姦罰金律)などである。

 もう一つの法律書は銀で書かれている。ジアロン語で「芒登称侖」と呼ばれる、現代の民法のようなものである。この民法は全部で十六律、百八条ある。
 その十六律とは、仏法僧の三宝を敬う、正しい法を修める、父母の恩に報いる、有徳の人物を敬う、家長と老人を敬う、隣人を助ける、直言を慎む、友人と親族を思いやる、上の人々から学ぶ、高い理想を持つ、節度を持った飲食をする、分にあった財を持つ、昔の恩を忘れない、期日を守って返済する、度量衡を偽らない、戒めを守り羨まない、悪口を気に留めない、自分の考えを持つ、言葉を慎む、勇気を持って責任を負う、寛い心を持つ、などである。

 彼はまた、ジアロンの当時の状況に合わせて、現代の訴訟法にあたる「聴訴是非律」を起草し公布、施行した。この法典は吐蕃王朝に重視され、吐蕃の全域で施行された。

 ここまで述べてきた様々なことに思いをめぐらし、今回故郷の山々に分け入っていこうとする時、私は普通とは逆の路を選んだ。これらの山々を高みへと通じる階段とみなしてはいても、その階段を一歩一歩登って行かずに、まず一気に、海抜の最も高い場所まで昇り、そうしてから、来た道の長さを顧み、行く路の果てしなさに思いを馳せた。

 まず、ラサから、青蔵高原の中心から、大地の階段、歴史の筋道に沿って一段一段降りて行こう。

 力による征服の路に沿って。
 文化の伝わった道に沿って。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)






阿来「大地の階段」 ⑧ 第1章 ラサから始めよう 

2008-03-29 02:22:22 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

3 僧と宮廷

 チベット族の歴史上最初の仏教寺院桑耶寺(サムイエ寺)が建立されると、チベット族の歴史上最初の僧はここで修行し出家した。
 修行僧はあわせて七名いたので、歴史書の中では「七覚士」呼ばれている。その中の一人、高い徳を持った僧がヴァイローチャナである。

 ある一時期、ヴァイローチャナは山の洞穴で修行していた。その間よく王宮へ托鉢に行っていた。ヴァイローチャナはふくよかな美しい顔立ちをしていたので、ボン教を信じる妃ツェポンサが彼を愛してしまった。ある日、ツェポンサ妃は国王、王子、下僕たちを外出させ、ヴァイローチャナを部屋に招き入れて誘惑した。
 ヴァイローチャナはチベット仏教ニンマ派の教えを修めた僧である。ニンマ派は特に禁欲を謳ってはいないが、ヴァイローチャナは恐れを抱いてそのまま逃げ出した。

 王妃は恨めしさと恥ずかしさで怒り、国王に向かって、ヴァイローチャナが自分に対して道にはずれた行いをしようとした、とうその告げ口をして、国王の心に懸念を起こさせた。
ヴァイローチャナが次に王宮に托鉢に行った時には、誰も迎えに行かなかった。ヴァイローチャナは即座にすべてを悟り、それ以後王宮には近寄らず、深い山に逃れて修行を続けた。その後国王は過ちに気づき、自ら山に入って大師ヴァイローチャナを訪ねた。最後にはツェポンサ妃も心を改めたという。
 
 もちろんこれは歴史的な出来事が民話化された物語である。多くの場合、民話には庶民の願いが込められている。庶民はそうやって歴史を書き変えるのである。
 もちろん、それで歴史が変るわけではないのだが。

 ツェポンサ妃は保守的な貴族の利益を代表していた。そのため、彼女は飽くことなく、あらゆる策略を尽くして仏教の高僧ヴァイローチャナを迫害した。彼を追い出して後の憂いをなくす必要があったのである。たとえ王であっても、おおっぴらにこの高僧を保護することは出来なかった。そこで仕方なく、あまり利口とは言えない策略を用いた。
まず、どこかの流れ者を捕まえて来て、この男をヴァイローチャナだとふれまわった。そして、ツェポンサ妃たちに見抜かれないうちに、この哀れな流れ者を大きな鍋に入れ、ぴったり蓋をして大河に投げ入れてしまったのである。そうしてから、ヴァイローチャナを死刑に処した、とおふれを出した。
 ところが、ツェポンサ妃は貴族達に国王のはかりごとを暴露してしまった。

 こうして、国王の庇護をもってしてもヴァイローチャナを吐蕃の権力の中心の地に置いておくわけにはいかなくなった。保護策として、国王は彼を吐蕃東北部にある開拓されたばかりの辺境の地へと流すことにした。

 この地こそ私の故郷、現在の四川省阿壩(アバ)州である。
 ヴァイローチャナはチベット語ではジアロンと呼ばれるこの地へ流された。当時このあたり、豊に開けた四川盆地に隣接する山の中には、多くの土着の部族が暮らしていた。吐蕃がチベット本土に国を興して以降、その大軍は向かうところど敵なしで、山の中の土着のを次々と征服してきた。

 チベットの文化に取り込まれる前のこれらの土着のの様子が、歴史書に記載されている。

 『後漢書』に、「その王侯頗る文書に詳しく、その法は厳格である」「気候は寒く、盛夏でも氷が解けない。そのため彼らは、冬は寒さを避けて蜀に働きに行き、夏は暑さをのがれて邑に帰ってくる。山を住処とし、石を積んで室となす。高いものは十余丈ある」とある。

 現代の考古学者の発見したところによると、これら土着のでは石棺葬が盛んに行われていたという。私は以前考古学の研究グループについて石棺の発掘された場所へ行ったことがある。石棺はこの地で採られた天然石で作られており、四つの壁と蓋はあるが、底がなかった。いくつかの棺では、底に柏の枝を焼いた灰が残っていた。埋葬品のある棺もあったが、ほとんどが素焼きのもので、棺の中の遺骨の頭部か足元に置かれていた。これらの石棺葬は岷江流域に多く見られる。岷江の急な流れが切り出した深い谷を抜けていく時、崩れかけた断崖で眼にすることが出来る。

 『隋書』の中にも記載がある。「嘉良夷(西カム地方の強力な部族=ジアロンチベット族)、政令を首領に伝える」「漆を塗った皮を鎧冑とし、弓の長さは六尺、竹を弦とする。義理の母及び兄弟の嫁を妻とする。息子や弟が死ぬと父や兄がその妻を娶る。歌舞を好み、笙を鳴らし、長笛を吹く」「革で帽子を作り形は鉢のように円い。または頭に布頭巾を被っている。衣服は主に毛皮を用いる。牛の皮を剥いで靴にする。首には鉄の鎖をつけ、手には腕輪をしている。王と首領は金の飾り物をしている」「土地は小麦、ハダカ麦に適している」「皮で舟を作り河を渡る」

 政治的には何の統一もないこれらの部族だが、農耕の方法など文化的な面ではかなりの部分で一致している。

 七世紀は、中原で唐王朝の国力がもっとも盛んだった時である。そしてそのある一時期、吐蕃は青蔵高原の中心に興り、数万の大軍が、谷に沿って高原を一気に下り、四川盆地の周縁にまで迫り、大度河上、中流を中心として、岷江上流の一部であるジアロン地区をもその版図に取り込んだのだった。

 最初に成し遂げたのは、軍事的な占領だった。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 ⑦ 第1章 ラサから始めよう 

2008-03-24 23:38:33 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

2 民間の言い伝えと宮廷の歴史 その2

 当時、チベットの宮廷では、仏教とボン教が激しい争いを繰り広げていた。
 
 ティソン・デツェンの母親は、土着の宗教を擁護する勢力の代表的人物だった。だが、王はより一層仏教に傾倒していった。血縁であっても同じ一つの宗教を信じるとは限らない。これは宮廷闘争の物語の永遠に変らないテーマである。ティソン・デツェンは王位を継承すると、地下に潜行していた仏教徒たちを支持し、彼らがもう一度自らの立場をあきらかにできるようにした。また、山奥の洞穴の中に隠されていた仏教の経典を掘り出し、翻訳し、解釈を加えた。

 彼の行動は、朝廷をもしのぐ権力を持っていた、父親の代からの大臣達を敵にまわした。これもまた古今の宮廷闘争によく見られる図式である。若い国王の命令は、反仏教派の大臣マシャントンパケによって幾度となく阻止された。ティソン・デツェンは仕方なく、マシャントンパケを追放しようと計画を練った。王は側近、呪術師、占星術師達を四方に散らして、噂を流させた。噂は予言となって現れた。

 「国家と国王は近く大きな災いを受けるであろう」。

 当時、それはすべての吐蕃人の災難でもであった。そこで、軍人も民衆も、どうしたらこの予期せぬ災いを取り除けるのだろうか、という問題に強い関心を持った。
 王の元にはすでに答えが用意されていた。唯一つの方法、それは位の一番高い大臣を墓に三年間住まわせることだった。ラサ中の人々、吐蕃中の人々には、それはが誰だかわかっていた。大臣マシャントンパケである。
 
 だが、王は行動を急がなかった。手下の者に再び別の噂を流させた。まず宮廷で、そしてラサの街で、大臣マシャントンパケは重病である、と触れまわらせたのである。
 
 位人身を極める大臣マシャントンパケも、一度ならずこの噂を耳にした。宮女たちは顔をあわせればこの噂を囁き合い、兵士たちが冬空の下日当たりのよい石垣にもたれて一休みする時もこの話題で持ちきりになり、ラサの街の飲み屋に伝わってくるのもこの噂だった。ついには、黄昏の空で鳴くカラスの声さえ「マシャントンパケは病気だ。マシャントンパケは病気だ」と聞こえた。
 マシャントンパケが家に帰って鏡をのぞくと、そこにあるのは心労のあまり疲れ浮腫んだ男の顔だった。大臣は終に力尽き、寝床に倒れこむと、熊の皮の布団の温くて安全な毛並みに顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。

 「吐蕃中の人間がみなわしを重病だと噂している。わしはもう死ぬのだ、もう終わりだ」

 周りの人間も一緒になって泣いた。マシャントンパケは自分のために、他の人間たちは間もなく失うだろう巨大で堅実な拠り所のために。今、呪の効き目が顕れ、大きな山が揺れ始めた。ただ一人、のろまな賄い女だけが大声で言った。
「噂なんて当てにならないさ」

 マシャントンパケは、できるのならこの言葉を信じたかった。だが、もう一度銅の鏡に映った自分をしげしげと眺めると、深いため息をつくしかなかった。
「民衆の言葉には智慧がある。私が病気だと言うのは本当なのだ」

 これぞまさしく若いチベット王が早くから待ち望んでいた瞬間だった。時は至れり、と見て取った国王はすぐさま御前会議を招集した。大臣の病を討議するためではなく、国家と国王の災難を回避する対策を捜すために。国王との事前の打ち合わせどおり、ある大臣が「自分が墓に入ってこれからやってくるだろう災難を追い払いたい」と申し出た。
 すぐさま別の一人が反対した。「この大臣の僭越な行為は罪に値する。予言では、最も位の高い大臣のみが災いを追い払うことが出来るというではないか。それなら、その大臣とはマシャントンパケ様をおいて他にないではないか」と。

 マシャントンパケもまた、他の者が自分より高い地位につくのを許すことは出来なかった。そこで彼は自ら三年間墓に入ると申し出た。宮中ではあちらこちらに罠が仕掛けられている。女性の腕の中で眠る時も片目はしっかり開けてなくてはならないのだ。彼は考えた。自分は今ゆっくり休まなくてはならない、墓地で三年過ごす間に病気はよくなるだろう、その時こそ、最も激しい竜巻となって捲土重来して目に物見せてやるのだ、と。

 マシャントンパケは頭のよい人間だった。彼は自分の勢力範囲であるナナムザプに地下の宮殿を作り、三年暮らすことになる墓造りを自ら監督した。その三年間への対策も怠りなかった。たとえば、不測の事態に備えて、牛の角を繋いで作った水の管と空気孔をこっそりと設置したり、生活物資を大量に蓄えておいたりした。思ったとおり、彼が墓に入るとすぐに、墓の門は大きな岩で塞がれた。

 密かに恐れていたことが現実になった。

 しばらくしてティソン・デツェンに報告があった。大臣マシャントンパケが牛の角の水道から矢を放った、と。その矢にはこう書かれてあった。「ナナム族の者よ、墓を掘り起こし、我を助けよ」
 チベット王は人々の前にこの矢を示し、マシャントンパケが国王と国家に対して犯した不忠の罪の証とした。こうして、マシャントンパケが密かに作った水道管と空気孔はしっかりと塞がれた。大臣マシャントンパケが死神と向き合った時の絶望の叫びを聞いた者は誰もいない。

 マシャントンパケが死んだ後、若い国王は吐蕃全域で大いに仏教を興すよう通達を出した。

 このような状況の下でも、ボン教はその誕生の地で依然として多くの信徒を擁していた。ティソン・デツェンの母親も敬虔なボン教徒だった。彼の妃ツェポンサもまたボン教徒だった。ティソン・デツェンは多くの妃を娶ったが、ツェポンサ妃だけが王子を三人産んだ。そのため、吐蕃王宮では誰も彼女に刃向えなかった。ティソン・デツェンは権力の及ぶ限りの地で仏教を興したが、身近な妃の信仰を変えることは出来なかったのである。

 そのため、ティソン・デツェンはより多くの愛情をポヨンサ妃に注いだ。後世、仏教徒が編んだチベット史の中で、ツェポンサ妃の振る舞いは横暴を極めている。国王の寵愛がポヨンザ妃に移ったため、ツェポンサ妃は前後八回刺客を放って夫を暗殺しようとしたという。
 ティソン・デツェンは世を去る時、ポヨンサ妃を次の国王に嫁がせるよう遺言した。ツェポンサ妃は、自らポヨンサ妃を殺害しようとしたことがあったが、王子がポヨンサ妃を守ったため果せなかった。そこで、彼女はコックを買収して食事の中に毒を盛らせ、在位僅か一年七ヶ月の自分の息子ムネ・ツェンポを殺害した。

 ムネ・ツェンポは在位中、サムイエ寺で「四阿含経」、「律本事」、「倶舎論」の三蔵を供養する制度を制定した。これが、全チベット族の地で仏典と僧を供養することになった正式な起源である。

 私がこの物語を述べてきたのは、チベット族の宗教史をまとめるという、自分には不向きな仕事を引きるためではない。それは、この物語が、私がこれから書こうとしているチベット東北部の文化の特徴と関係があるからである。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 ⑥ 第1章 ラサから始めよう 

2008-03-15 01:32:30 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


2 民間の伝説と宮廷の歴史

 この地域の歴史をきちんと述べるために、私たちはラサに戻らなければならない。

 私がこの本を書こうと最初に思い立ったのは、この山々の間でではなく、高い山の階段の頂上、チベット文化の中心地ラサでだった。
 
 まず思い浮かんだのは、伝道者の物語である。
 彼らの物語は、私を中世へ連れ戻す。中世のラサへと連れ戻す。

 それはどのような時代だったのだろう。イギリス人F・Wトーマスが収集し整理した『東北チベット古代民間文学』という本の中に引用されている民間の文学は、次のようにこの世紀を表現している
「もはや、神と人が一体になっていた時代のように正直に行動する人間はいなくなった。没落の時代が到来し、人々は徐々に恥を忘れ、勝手な振る舞いにうつつをぬかしている。彼らは恥とは何かを知らず、誓いを守らず、金儲けのことばかり考え、生をも死をも省みない」
「それ以後、人々は恥を知らずのうそつきになった。息子は父より劣り、孫は息子より劣り、一代一代悪くなっていき、ついには肉体的にも、息子は父親より背が低くなった」

 民間の詩人と歴史学者たちは、宮廷生活にも目を向けた。「国王の妻を始めとして、女の方が国王より頭が良いと見なされていた。女たちは国の政治にも関与し、国王と大臣の間に亀裂を生じさせた。このようにして、国王と大臣は分裂した」

 これは、宮廷政治がはるか隔たった場所――庶民の間に届いた後の一種の余韻なのだ。庶民たちは自分たちのやり方でこの余韻を記録してきた。
当時、吐蕃の中心地ラサで国力が勢い良く増強していたその時、吐蕃の宮廷の内側では民間の物語に描かれているような状況がすでに出現していた。
当時のラサはチベット王ティソン・デツェンが政治を執っていた。言い伝えによるとティソン・デツェンは唐が二度目に吐蕃と和親した後、金城公主とティデ・ツクシェンの間に生まれた子である。当時、宮廷の闘争は、上述した民間の物語に見られる幾つかの要素の他に、雪の国と呼ばれるチベットに伝わって間もない仏教と、チベット土着の宗教ボン教との激しい闘争とも、大いに関係していた。
 
 言い伝えによると、ティソン・デツェンが生まれた次の朝、外地にいたティデ・ツクツェンが、公主と生まれたばかりの息子に一目合おうと飛ぶように宮廷に戻ると、なんと、もう一人の妃が生まれたばかりの王子を奪い、自分が生んだ子だと触れ回っていた。民間的色彩の濃いこの物語は続けて語っている。大臣たちはどちらの妃がこの王子を産んだのかをあきらかにするため、王子を別の部屋に寝かせ、二人の妃に同時に抱きに行かせた。金城公主は先に王子を抱くことが出来たが、ナナム氏というもう一人の妃が力任せに王子を奪おうとした。王子の体のことなど一切かまわずに。金城公主は王子の身に何かあっては大変と自ら手を離したのだった。これを見た大臣たちは、王子を生んだのは金城公主だと確信した。

 ところが、信頼できる歴史書によると、ティソン・デツェンは742年の生まれだが、金城公主はそれより前の739年に世を去っている。ティソン・デツェンはやはりナナム氏の生んだ子供なのである。
では、民間ではなぜ、このようにあきらかにねじまげられた伝説を創り上げたのだろう。ある分析家は述べている。これはチベット族が望んでいた漢民族との団結の象徴なのだと。
だがもし、その当時のこの地域の状況と、中原の王朝とチベット政権の間の実際の状況をつぶさに考慮するなら、この説はあまりにも飛躍しすぎている。まるで、農民蜂起の首領を共産主義者だと言っているようなものだ。これは正しい歴史観に基づかない結論であり、結局は無責任で一時的な見方と言われるのが落ちだろう。実は、民間でこのような言い伝えが生まれたのは、外の世界から伝わった仏教と、チベット土着のボン教が、雪深い高原で繰り広げた激しい争いの複雑な状況が反映されたからなのである。

 この言い伝えは後世に伝わったが、そこから読み取れるのはただ、時と共にチベット人が仏教を信じるようになっていったため、当時仏教に傾倒し、仏教を護持していた唐の公主により多くの同情が集まった、ということだけである。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」  ⑤ 第1章 ラサから始めよう  

2008-03-13 01:16:12 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

1 嘉絨(ジアロン)の意味


 そう、ラサから始めよう。

 そうするのは、その方が分かりやすく書けるだろうと考えたからだ。より深い意味から言えば、私がチベットへ行くのはチベットから出て行くためである。チベットと言う地名はすべてのチベットの民族と密接な関係をもっているのだから。

 歴史を見ると、チベット族は現在のチベット自治区の南部を起源とし、吐蕃国を興し、北上してラサの都を作った。そして、そこから青蔵高原の各方面に広がっていった。青蔵高原の東部で、吐蕃の精鋭の騎兵たちはいくつもの山を越え、群がる山々の階段を一段一段と降りていったのだった。
チベットでは、ほとんどの河は最後にはみな南へと向きを変え、ガンジスへ――白衣の国インドへ流れていく。騎兵たちは、青蔵高原を源とする長江と黄河に沿って、そして中国の中心であるこの二本の河の支流が山々や森林の間を穿ってできた巨大な渓谷に沿って、東へ、東北へと向かった。こうして彼らは、ある時は河西走廊に現れ、ある時はチャダム盆地に現れ、関中平原に現れ、成都平原の周縁に現れた。
この時、吐蕃の精鋭部隊が遭遇したのは、最盛期を迎えた強大な帝国だった。このどこまでも続く孤形の土地で、彼らの目の前に現れたのは、どれもみな一つの民族、黒い色を尊ぶ民族だった。そこで、新らしい地名がチベット語の中に生まれた。嘉絨(ジアロン)である。それは、インドと相反する名前であり、黒衣の国を意味していた。

 この遭遇に至る前、彼らはかなり広い中間地帯を通り抜けてきたのだが、歴史書の中にはこの一帯の名称については記述されていない。その一帯とは、今の地図から言うと、青蔵高原東北部の黄河が始めて折れ曲がるゾイゲ草原と、草原の東側の四川盆地に向かって一段一段降りていく岷山山脈と邛峡山脈に挟まれた地域だと思われる。現在、八万平方メートルに及ぶこの地域は阿壩(アバ)と呼ばれている。チベット族を中心とする自治州である。

 阿壩(アバ)という地名は、吐蕃の大軍がこの地を征服してからつけられたという。当時、この軍隊の主要な部隊は今のチベットの阿里(アリ)から来ていた。彼らは長期に渡ってこの地に駐屯し、この地の土着の人々と混血し、この今では意味を失いつつある名前を残したのである。それでも、この地の人々が口伝えに伝えてきた部族の歴史を見れば、この言葉の源に遡ることができる。

 阿壩(アバ)はまた二つの部分に分けることができる。一つは西北部で、うねりながら流れる黄河がはじめて折れ曲がるゾイゲ県を中心とする草原。もう一つは東南部の山岳地帯である。この土地の森林は長江上流のいくつかの重要な支流を育んだ。北から南に向かってそれぞれ、嘉陵江、岷江、大渡河である。そして、その一つ、大渡河上流の中心地帯がこの地理と密接な関係にある農耕地帯、嘉絨(ジアロン)を育んだのである。

 単純に意味だけからみれば、「嘉」は漢民族あるいは漢の地の意味であり、「絨」は河の近くにある農耕地の意味である。二つの文字を組み合わせると、その意味は当然のことながら「漢の地の耕作地」ということになる。吐蕃の大軍が来る以前に、この地域独特の文化はほとんど築かれていた。近頃の民族学者はこの地の地理と結びつけて、この名前に新しい解釈を加えている。それを元に私も、自分の実際の旅を重ね合わせて記述させてもらおうと思っている。

 もし、阿壩(アバ)の地を大まかに分けるなら、草原はほとんど黄河に属している。そして、ジアロンと呼ばれる農耕地域は、大部分が長江水域の大渡河の上流と、岷江上流の北に向かう支流にまたがる、かなり広い地域に集中している。大渡河とその北側の岷江が山々を駆け巡り流れ着くところ、そこは富と人口を誇る、湿潤な四川盆地である。歴史によれば、吐蕃の大軍は河口で馬を止め、煙が立ち込め竹の生い茂る豊な平野を遥かに眺めると、なぜかいつもドラを合図に兵を引き上げ、山奥へと帰って行った。

 では、私も今、彼らと同じように再びラサに帰ろう。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 ④  序 その4

2008-03-10 22:29:54 | Weblog
(阿来の旅行記「大地の階段」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

成人してから、私は心の赴くままに何度も旅にでかけた。自分のために書いた『三十歳、ゾイゲ大草原に遊ぶ』という詩がある。
そのなかに次のような句があったのをおぼえている。

唇は土、歯は石、舌は水、
いまだ、私の口からは蓮の花は現れません。
青い空よ、いつ私に最上の言葉を下されるのですか。


今、深く生き生きとした表現を自分に課そうとする時、そのためには自我を超えた力を仰ぐほかないと感じている。これまでも、学識ある僧はみな著述を始める前に四方の神々に最上の祈りを捧げている。
たとえば、チベット族の歴史上最も批判的精神を持っていたケンドン・チュンベイは『智遊仏国漫記』の中で、その巻頭に「つつしんで正等覚世尊の足蓮に額づきます」と書いている。この足蓮とはチベット語の一種の修辞方式で、世尊の足を蓮の花に喩えたものである。このように額づくのはただ一つ「お守りくださいますように」と願うからである。その願いとは――


奥深い智慧の光が世俗の迷いを取り除き
静かな解脱の心が三界の迷いを鎮め
法にたがうはかない理論に染まらない、澄み切った志を持ち
衆生の瑞兆である太陽が、わたしたちに円満の雨露をくだされますように



高い位と権力を持っていたダライラマ五世は、その大著『西蔵王臣記』の始まりで次のような祈りの心をあらわしている。


整った花の芯は、青年の智慧に似て、鉄の鉤の如き鋭さをもって、美女の心を刺しつらぬく
自在の洞見、諸法の法性は大円鏡に現れる
あきらかな霊験は、仏法が清らかに歌い舞うさまを立ち顕せる
このような加護の力を持つ者――文殊師利よ、私の重い舌が語自在王となりますように


続けて彼は詩歌と文芸の女神に向かって祈りを捧げる。


美しく喜びに溢れたお顔を目の前に拝し、白く耀く月が現れたのかと疑うほどでした
一切の錯乱と不安を除く御旗
瑠璃のように耀いて長く垂れる髪
妙音天女よ、私を速やかに語自在王のような智慧尽きることのない者とならせて下さい


「語自在」。昔も今も、言葉をなりわいとするものにとって常に理想としていながら、遥かに及ばないのではと恐れている境地である。
現在世界中の人々が、チベット族とは教義を深く信じ、数多くの偶像を崇拝している民族であると考えているが、チベット族である私から見れば、教義は法力を失いつつあり、偶像はすでに黄昏を迎えてしまった。

では、何故私は自我を超えた力に祈願するのだろうか。

一人の放浪者にとって、たとえこれから描き出そうとするこの土地にはっきりとした境界が定められたとしても、一冊の本にとっても、また、一人の人間の智慧にとっても、この土地はあまりにも深く広い。河は日夜を分かたず奔流し、四季は自在に入れ替わり、人々は絶えず生まれ変わる。それゆえこられら全てが、表現しようとする者たちに恐れを抱かせ、時には絶望をさえ抱かせるからである。

もう一つの問題は、もし神や仏でないのなら、自我を超えた力とは何を指しているのだろう。たぶんそれは、永遠に黙したまま遥か上へと登っていく階段のような山並みであり、そして、創造し、耀き、零落し、哀しんだ人々と、彼らが苦しみや楽しみの中で休むことなく続けていく日々の営みなのではないだろうか。

ここに、私の旅の記録と、それ以上にたくさんの旅の思い出を皆様に捧げます。


(阿来の旅行記「大地の階段」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」  ③  序 その3

2008-02-23 01:21:18 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


それから二年ほど経って、テレビドラマの撮影のため、秋も深まった十月、「蜀山皇后」と呼ばれる四姑娘山に登った。海抜六千メートル以上あるこの高い山は、四川盆地から直線距離で百キロに満たない邛崍(きょうらい)山脈の中央に聳えている。私達が行った時は、すでに水が冷たく枯葉の落ちる時期だった。雪線は一日ごとに下降し、河の流れる谷まで近づいて、山に入る観光客も途絶えていた。ただ、山のふもとの小さな町、日隆の旅館の壁に、「四姑娘山花の旅」というロマンチックな宣伝文が残っているだけだった。

山に入って四日目、私たちは森林限界より高いところに立っていた。巨大な岩の陰には、何年も溶けることのない氷雪が残っていた。そこから上は、切り立った氷河と青い空。振り返って眺めるとカラマツの金黄色の樹々がひときわ明るく耀いていた。今回の登山は頂上を目指しているのではなく、ただ、できるだけ高いところへ登ってみよう、というものだった。その夜、私たちは少し戻って、あの美しいカラマツの下で寝た。深夜に大雪が降った。朝、目を覚ますと、雪があらゆるものを覆っていた。樹、岩、そして草原の細長い湖までも。
雪をかぶった山脈が一つ一つ折り重なって遥か彼方まで連なり、そのまま空と溶け合うのを、もう一度眺めていた。

その時、日が昇った。

はじめに太陽が現れたのではなかった。にわかに起こった鳥達の晴れやかに澄み切った鳴き声が、遥か昔そのままの静けさを破ったのだった。それから、目の前がすーっと明るくなった。太陽が山の尾根から顔をのぞかせる。と、その瞬間、黄金の光の矢が空一面に放たれた。
ほんの少し前までは、まるで世界中の静寂がこの雪の止んだ早朝に集まっているかのようだった。そして今、この透きとおった場所に世界中の光と喜びの歌が集まっている。

「太陽が山々の音階を奏でている」

その時の感動を詩に表そうと試みた時、私はこの句を始めの一行とした。

それ以後私は、成都平原から一段一段と青蔵高原の頂へと向かっていく一連なりの山脈を、大地の階段と見るようになった。

純粋に地理的な観点から見ると、ここは海抜の低い江南の地を、世界の最も高い場所にある果てしない自然の広野へと隆起させた場所である。
そして、地理は本来文化と関係がある。複雑で変化に富んだ地理は、別の生存方式、別の生活が作り出す多種多様な文化の存在を予感させる。
異なる地理と文化は、一人の人間にとって、新しい精神の啓示とそれへの希求を意味する。

私は大地の階段を構成している山の中で生まれた。そこで生活し、成長し、三十六歳になってやっとそこを離れた。なぜ、その年にになってこの地に別れを告げたのか。それには二つの理由がある。まず、常々自分の視野を広げようと企んでいる人間にとって、山々に囲まれたこの場所は、狭苦しく古びた場所としか見えなかったからである。だが、それ以上に重要な理由は、その時になってやっと、この大地が私に与えてくれた全ての大切な部分が、これから私がどんなに波乱に富んだ日々を送ったとしても、変わってしまうことはないだろう、と信じられたからである。

時には、別離は、更に本質的な意味での接近であり、回帰であると言えるだろう。
私の回帰の方法は金持ちになって寺や学校を寄付することなどではありえない。私の回帰の方法とは本を書くことである。その中で私が述べるのは、独立した思考と判断である。私の想いはその本のすべての言葉の中に込められる。そうやって私の想いは、全ての章の中で絶えず別離し、絶えず回帰するのである。

一人の放浪者として、成都平原から青蔵高原に登りつくと、地理的な階段を上ったと感じると同時に、精神的にも高められたように感じるかもしれない。だが、河の谷間の傾斜地に深々と埋もれた村落、麦や小麦やとうもろこしや林檎や青稞麦や梨を育てている村々に入り、山間にあるチベット仏教のそれぞれ異なった宗派の大小様々な寺に近づくと、時の変遷に思いをとめ、時代が進んでいく中で、時間が欠落してしまった場所があるのを知るだろう。

問題は、このような上昇と欠落を、私が描き出せるかどうかである。

雲南人民出版社による、今回の走進西蔵の活動が終わるにあたり、様々な地へ行っていた仲間がラサで合流し、記者会見を開いた。その時、会場として借りた場所に、なんと、仏教の中でも文芸をつかさどる女神、央金瑪の像が置かれてあったのだ。このようなことは、もちろんチベットでのみ起こることだろう。
それならば、女神に加護を願い、インスピレーションと智慧を賜って、私の目標を達成させよう。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





大地の階段 ②  序 その2    

2008-02-16 01:44:54 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


一時間後、山の麓に着いた時、辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。
ジープに乗りこむと、かかり始めたエンジンの振動が車の隅々にまで伝わり、私の体にも伝わってきた。ジープの窓から山の中腹にある小さな寺を振り返った。そこに見えたのは、星の瞬く下の黒い影だけだった。なぜか私は、そこに小さな灯りが見えるのを期待していた。だが、私の期待に反して、灯りは灯ることはなかった。

この小さな寺の建立には面白い話がある。
数百年前のある日、畑を耕していた農民が突然、切り立った小さな斜面に仏像らしきものが浮き出ているのに気づいた。秋の収穫の頃になると、ぼんやりしていた陰影が、はっきりと仏の坐像の姿を現すようになった。そこで、村人達は放浪の僧を留めて、このあまり高くない斜面に宝殿を建てた。石工が、現れた輪郭に沿って自生の仏を剥がした。それから何百年に渡って、人々が少しずつこの自生仏に飾り物を捧げていったので、今では誰も元の岩肌を見ることは出来なくなり、勿論、本来の姿を想像することも出来なくなった。
チベットでは、これは偶然の出来事ではない。
ポタラ宮の数ある仏像の中で、信徒達に最も崇拝されているのは観音像である。それは、偉大な人物、例えば吐蕃の歴史上有名な国王ソンツェンガンポが観音の化身とみなされているからではない。それはこの観音像が、切り出された白檀の中から自然に生まれてきたからである。ただし、ポタラ宮で見る自生観音像も元々の姿のままではなくなっている。
この自生観音は更に大きな仏像の中に包まれたので、その中がどうなっているのか、それは各々が判断するか想像するしかなくなった。

その時から私は、山の中を歩き回り、高い場所に遊び、遥か彼方をみはるかす時、目の前の山々が、空に向かって聳え立ち、幾重にも重なって西へと連なり、終にはその険しさを失って青蔵高原の雄大な広がりに溶け込むのを望むたびに、この階段の喩えを思い出すのである。

これは素晴らしい喩えである。

チベット語の詩歌の修辞に関する本の中に次のような言葉がある。
「よい喩えは首飾りの中の一番美しい宝石である」
但し、普通の人々の日常の会話の中からにこのような宝石を探し出すのは難しい。私は幸運にも探し出すことができたのだ。だからいつも、このような美しい風景を目の前にした時には、あたかも宝石を慈むように、この喩えを噛みしめてみる。このように慈しむことで、本当の宝石は更に魅惑的な輝きを放つだろう。

もちろん、もしこの一つの理由だけでこの本の題名をつけたのなら、私自身の創造性があまりにも弱々し過ぎると言われてしまうだろう。
この題名の中に、私の体験が深く確かに刻み込まれているようにと願っている。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




大地の階段  ①  序

2008-02-12 01:35:13 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


    序


 この題名を思いついてから長い時がたった。

 七、八年前のこと。私は小さな寺から出て来たところだった。寺の主は、ただ一人の弟子である若いラマ僧に、私を送るように言いつけた。若いラマ僧は私を門から送り出し、門番小屋に預けておいた小さなライフル銃を返してくれた。
 午後の日差しが、青い山々を耀かせ、延々と連なる山並みが目線をはるか遠くへと導いていく。山のふもとをひた走る大度河の水も陽を受けて、キラキラと耀く光の粒を一面に浮かべていた。
 私は若いラマ僧に言った。「ここでお帰りください」
 彼の顔には名残惜しそうな表情が浮かんでいた。「もう少し送らせてください」
 四、五時間の訪問で私達の間に厚い友情が芽生えたから、というわけではない。それは不可能なことだ。彼の寺で過ごした大部分の時間、私は彼の師である山の小さな寺の主と論争していたのだから。なぜなら、私が訪ねるとすぐに師は、この小さな寺には一万年を超える歴史がある、と言ったからだ。宗教は誕生したその時から日常生活に対して超越した力を持っていた。だが、歴史の流れの中で生まれた宗教が歴史を超えられるとは、私にはどうしても考えられなかった。そこで、私達は論争を始めたのである。この論争は一時間以上続いたが、何の結論も得られなかった。
 その時、この若いラマ僧は傍らに座っていた。敬虔な態度で絶えず熱い茶を満たしてくれていた。だが、その目はそのほとんどの時間、小さな窓の外界に注がれていた。

 私と彼は、陽光のもとにいた。強烈な光が刺すように降り注いでいた。私たちは刈り取りを終えたばかりの麦畑へと足を踏み入れた。刈り残された麦の根元がさくさくと音を立てた。若いラマ僧はまだ私の後を歩いている。少しむっとしたような寺の主が、二階の経堂の窓から私をじっと見つめているのが目に入った。彼からみれば、私は全くの異端なのだろうか。
 私はもう一度、後にいる若いラマ僧に言った。「もうお帰り下さい」
 彼はきっぱりと言った。「もう少し送らせて下さい」

 私は刈り取られたばかりの麦畑に腰を下ろした。
 麦は小さな山に積み重ねられ、畑のあちこちに散らばって置かれていた。麦の山はみな家の形をしている。この地方の伝統的な建築物は平屋根で物見やぐらのような形をしている。だがこの麦の山のてっぺんには、水を分けるために棟木のようなものがあり、その両側は傾斜した屋根のようになっている。
 果てしなく続く山間の麦畑には、それとはまた別な小さな家が点在している。同じように背が低く、入り口はあるが窓がなく,やはり水を分ける棟木と傾斜した屋根がついている。これらの家には、ツァツァと呼ばれる土でできた供え物がいっぱいに収められているのである。このツァツァと呼ばれるものには、一つは宝塔型、一つは型押しされた四角いもの、の二種類があり、両方とも木型で押して作られたレンガのようなものである。このレンガのようなものは、あちこちに置かれている。様々な宗派の様々な神々への供え物である。
 麦畑の近くの林と草地の境目には、このような供え物でいっぱいになった小さな家が、必ず一つか二つ建っている。
 そして、畑には家の形に積み上げられた麦が、無数に並んでいる。

 その時、私の隣に座っていた若いラマ僧が突然口を開いた。「あなたのおっしゃった事の方が私の師の言葉より正しいと分かっています」
 私も言った。「あなたの師と論争などするんじゃなかった」だが、私は既に論争してしまった。
 若いラマ僧は言った。「それでも、私たちはこれからも信じていくのです」
 もちろん私は、彼がそうする理由を聞こうとはしなかった。ほとんどの場合、理由を言葉にするのは難しいものだ。

 この時、夕日が河の水を煌めかせ、遠くの山々を耀かせた。連なる青い山々の峰は私の視線をはるか彼方まで導いていった。
 若いラマ僧は、目を細めた。彼と同じようにすると、目の前の景色がゆらゆらと漂いはじめ、夢幻の世界が出現した。
「本当を言えば、師の言葉より、目の前の山や水から学んだことの方が多いのです」

 私の目にいぶかしげな色が浮かんだのだろう。
 彼はためらいがちに微笑んだ。
「私は、この山々の一つ一つが、階段の一段一段のように見えるのです。私の魂はいつか、この階段を踏みしめて天へ昇っていくのでしょう」
このラマ僧がもし私と同じ教育を受けていたなら、きっと詩人になっていただろう。

 これは特に、議論するような問題ではない。彼もただ自分の感じたままを言葉にしただけで、私と討論しようとは思っていないはずだ。山間にひっそりと建つ小さな寺のラマ僧たちは、長い間静けさの恩恵を充分に受けてきたので、誰かに向って何か教えを注ぎ込もうなどとは考えなくなっているのである。
 だが、彼のこの言葉は私の心の中に深く長く間刻み込まれた。
 
 私は立ち上がり、彼に別れを告げた。
「あなたの師に謝っておいて下さい。私は論争などすべきではなかった。人はそれぞれ自分の信じるものを信じればいいのです」
私が山道を下りながら振り返ると、師が出てきて、彼と肩を並べて立っていた。この時、夕ぐれの中にたたずむ二人の背の高いラマ僧の影は、まるで、一万年よりも前から変わらずにそこにあるもののように見えた。


(阿来の旅行記を、かってにご紹介しています。阿来先生、請原諒!)


旅の続きを

2008-02-12 01:30:43 | Weblog
この旅の続きをどう書いていこうか、ずっと考えていました。
そして、阿来の旅行記『大地的階梯』を少しずつ訳してご紹介することにしました。

小説『塵埃落定』の舞台の地であり、風景、生活、宗教、歴史等が阿来の目を通して描かれているので、これより素敵な指南書は他にないでしょう。

もう一つの理由は、これを訳してみたらと薦めてくれる方がいたから。ついついその気になってしまいました。ありがとうございます。

私のできる範囲で、背伸びせず、ゆっくり続けていけたらと思っています。
が、力不足で原作の美しさが伝えられるかどうか…阿来先生すみません。日本のおばさんの楽しみとして、お許しください。

この『大地的階梯』(大地の階段)は、2000年に出版された旅行記です。チベットのラサから始まり、康定、丹巴、馬爾康、臥龍へと、山の中をほとんど歩いてめぐり、過去現在と時をも行き来した、美しい詩のような作品です。

中心

2007-10-19 04:17:46 | Weblog
帰ってからまもなく、横浜駅近くのビルから、ぼんやりと街を見下ろしていた。想いは自然とアバの地へ…

アバには、チベット族の人、漢族の人、普通の服装の人、民族衣装を日常に着ている人、お坊さん…様々な人が一緒に生活していた。
そこから帰ってきたばかりの私の目には、横浜の街を行きかう人々が、みな同じように見えた。同じ民族が、便利さを追求して同じ速さで生活している。

アバは辺境の地といえるだろう。街から街までは、何時間も車に乗らなければたどり着けなかった。そして、横浜は日本の中心に近い都会だ。何気なくそう考えていた時、ふと、不思議な感覚にとらわれた。そう、ここは、本当に中心なんだろうか。そう思い込んでいるだけで、もしかしたら、あるものからは遠く隔たった場所なのではないだろうか…

では、中心とはどこだろう。

アバの草原にじっとうずくまっていた女性のピンク色の点。もしかしてそこが、あるものの中心だったのかもしれない。



一滴の水から

2007-10-18 02:27:51 | Weblog
こうして私の旅は終わった
もう一度アバに行かれるだろうか。行かれたとしても、今回のように心に残るものになるかどうか。
私にとっては、大蔵寺からの帰り道、美しい水との交感がこの旅のすべてだとも言える。

帰ってからもう一度『大地の梯子』を読み直してみた。行く前に読むのと行ってから読むのとではこんなにも違うものかと驚くほどに、一つ一つの言葉が目に見えるものとなって心に響いてくる(読みが浅かっただけ…)

旅の終わりに、阿来は梭磨河の源流を訪ねている。多分、紅原のあたりでその源流と思われる水を探し当てる。その時の阿来の文章が私の想いと重なった。小さな確信がこれからも私を支えてくれるように…

一部を紹介します。

「河の水は昼前の斜めに差し込む強烈な日差しを浴びて、一筋の銀の光をはね返していた。
私はずっと河を眺めていた。一面の湿地が終わると、広い谷間は両側の小高い丘によって狭まり、私は河辺に戻ることができた。水はいよいよ少なくなり、透きとおって浅くなった水を透して、ゆっくりと流れていく細かい砂粒が見えた。穢れのない草の根が房飾りのように水の中を漂っている。私は今、目の前にある情景をいとおしく思った。

もうほんの少し溯っていけばこの流れの始まりを見ることができるかもしれない。それが梭磨河の源流のはずだ。だが、それは私の想像でしかなかった。
谷がもう一度開けた。渓流は輝いたまま、広い湿地の中に隠れてしまった。
………

 それからたっぷり二時間かかって、谷はまた狭まり、細い渓流が足元に戻ってきた。両側の丘陵はほとんど姿を消していた。まだ丘陵があるとしたら、それは二筋の目立たないほどの起伏でしかない。

この時こそ間違いなく、私は梭磨河の源流にたどり着いたのだった。

どこにでもあるような、小さな水溜りだった。水は草の下からゆっくりと滲み出しているが、地面を伝うほどの流れは見えなかった。そこで私は小さな葉を摘み取り、水の上に置いてみた。そうしてやっと、かすかな水の上を草の葉がゆっくりと流れて行くのを確かめることができた。
私の体にも心にも、予想していたような感情の昂ぶりなかった。もちろん、これがチベット文化の中でも独特な、ジアロン文明をはぐくんだ大切な水の源であり、大渡河、長江の支流の最初の一滴なのだ、ということはよく分かっている。それでも私の心は、この草の生い茂る果てしない広野のように、静かだった。かつては、源流の風景を想像し、源流に至った時の情景を思い描いては、激情みなぎる詩句をいくつも書きつらねてきたのだが…

 人生のある日に、このように豊かな瞬間を持てたなら、その後でもし、失意や苦難に出会ったとしても、悠然と向き合っていけるのではないだろうか」




濾定橋から成都へ

2007-10-13 00:55:14 | Weblog
8月11日第7日目

今日は成都へ帰る日。ちょっと寂しい。
途中、濾定橋に寄る。
長征を続ける紅軍は、四川省の山奥まで行軍してきたが、蒋介石の国民党軍に阻まれ、苦戦していた。北上するには大渡河を渡らなければならない。そこに架かっているのが濾定橋。国民党軍は、この鉄の鎖でできた吊り橋の板をはずして、敵が渡って来られないようにしていた。だが、紅軍の中の勇気ある兵たちが、鎖を伝って渡って行った。多くの兵が撃ち落され、犠牲になったが、数人が向こう岸へたどり着き、再び板を渡し、紅軍の一師団すべては河を渡ることができた。
こういういわれのある重要な橋だ。

そういえば、私たちが通ってきた所にはいつも紅軍の影があった。
紅原の紅は紅軍の紅だし、卓克基には毛沢東、周恩来等が立ち寄っている。至るところに記念碑が建っている。そして、濾定橋。
このコースは最近、紅軍の旅、として結構人気があるらしい。

橋を渡ってみる。もちろん入場料を取られる。向こう岸まではかなりの距離がある。下を見ると板の間からゴーゴーと流れる河が見え、大勢の人が渡っているので揺れる。うっかりすると落ちてしまいそうだ。
紅軍やチベット族の衣装を貸し出していて、それを着て渡ることもできる。ちょっと楽しそう。主人は昌列寺の山道より怖いと、顔をこわばらせていたが。

買い物をして豆花を食べた。お湯に入れたしっかりした豆腐に砂糖を入れただけだが、なかなかおいしかった。しょうゆ味もあった。

後はひたすら成都を目指す。
まだ帰りたくない、と思っていたけれど、風景が少しずつ漢の地らしくなってくると諦めがつくものだ。休みもとらず、ひた走る。高速を降りてビルが見え始めると、もう着いたのかと期待してしまう。
4時ごろ到着。さすがに疲れた。暑い。汗がまとわりつく。

そう、お昼を食べた時、一人の男性が車に乗せてくれないか、と言ってきた。宋さんは、外国のお客さんと一緒だからだめだ、と断った(チベット族のおばさんたちを頼まれもしないのに乗せてあげていたのに)。大蔵寺や昌列寺へ行く時、道端の人があそこまで行くのは大変だぞ、と言っても、外国のお客さんが喜ぶから、と答えていた。
ずーっと気を遣っていてくれたんだ、と改めて感激する。明日は車を休ませると言っていたから、成都の友達と思いっきりおしゃべりしてください。
「ウェ~イ! 」「好的、好的(ハオダ、ハオダ)! 」という宋さんのゆったりとした口調は、以後、主人と私の合言葉となった。

私たちは例によって、成都のホテルでもひともめして、眺めの良い部屋を確保した。
最後の夜、成都の夜景を眺めながら、買ってきた惣菜でたくさん飲んだ。もう、高原反応の心配をしなくてもすむ。街へ出て、また飲む。プラスチックの椅子が通りに並び、みんな遅くまで遊んでいる。主人がベトナムとそっくりだと言う。暑い。

あんなに涼しい所にいたなんて、うそのようだ。



康定の広場

2007-10-12 02:41:35 | Weblog
康定には午後2時頃に着いた。
武警賓館。名前のとおり武装警察の宿舎を改造した賓館だ。武警はいろいろなところへ派遣されて、部屋が余ってしまったかららしい。今はインド国境へ行かされる事が多いというが、どうなんだろう。チベットへ派遣されると、肉体的にも精神的にも大きなダメージを受け、戻ってから働けなくなる人も多いそうだ。それでは、特別手当をもらっても割に合わない。
支配人だろうか。なよっとした男が1日中ロビーのソファーに座って、小さなマニ車を回している。
ここは有名な歌「康定情歌」の街。甘孜(ガンゼ)州の州都。今迄で一番大きな街だ。河の両側に街が開けているからだろう。
街の入り口の山肌には、大きな仏像が鮮やかな色で描かれている最中だった。その下をまた、黄土色と青に分かれた河が流れていた。
街ではマツタケを売っている。河沿いにたくさんのテントが並んでいて、すべてがマツタケ売りだ。でも、香りはあまり強くない。
肉は尻尾をつけた塊のまま軽トラックに載せて売っている。子供連れの女性が当たり前のように買って行く。
建物はビルと呼ぶにふさわしく、自由に建てられている。そして、街の中心に巨大な広場があった。片隅には小さな遊園地まである。
今日は子供向けのローラースケート教室が開かれていて、百人はいるだろうか、子供たちが鮮やかな色のヘルメットにプロテクターをつけて、塊になって広場を走り回っている。レースのひだひだのワンピースを着ている女の子もいる。山道を朝から走ってたどり着いた私たちにはとても不思議な光景だ。
ビルの間から、山の中腹に建っているお堂が見える。漢族のお堂に近い木造だ。これも石ちょうに慣れてきた私にはちょっと違和感がある。

主人は面白い題材を見つけ、夢中で写真を撮っている。
私は広場の隅の大きな階段でぼんやりする。
チベット族のおばさんもやはりぼんやり座っている。
ここはどこだろう。都会だろうか。街中がにぎやかで、何でも有りそうだ。でも、流れる空気には、チベット族の香りが少し混じって、のんびりさせられてしまう。



山水画と山椒

2007-10-10 04:04:24 | Weblog
8月10日 第6日目

朝、丹巴の街を歩く。やはり河に沿った街。やがて長江となる大渡河が黄土色の水を波立たせ、南へと流れている。街の入り口、雪山からの流れが交わる辺りでは、黄土色と青い水がはっきりと色を分けて流れている。目の前が神の山、墨璽多山だ、と阿来が書いていたが、宿の人に聞いてもどれがそうなのか分からない。それほど、たくさんの山が重なっている。
丹巴に近づいてから、山の岩肌がはっきりと見えるようになった。岩の層が、縦や斜めに走っている様子は、宋代の山水画そのままだ。范寛の「谿山行旅図」そのままの迫力ある風景が至るところに見られる。小さな滝もたくさんある。水墨画は単純化、抽象化して描かれたものと思っていたが、この岩を目の前にすると、それは写実の極みだったのだ、と認識を改めざるを得ない。皴法と名づけられた、ひび割れのような線描は、対象の岩肌に迫ろうとして出来上がった技法なのだと分かる。

途中、工事のため道が止められていた。30分くらい動けない。車から降りて一休みする。
農家の横ののんびりとした場所だ。道端に洋ナシを小さくしたような実がなっているので何かと尋ねると、胡桃だという。胡桃について阿来は何度か書いている。山を歩いていて胡桃の木が見えたら村が近づいたと分かるのだ、と。
そういえば、市場で手を真っ黒にして、実を剥きながら売っていた。剥きたての胡桃は、さくさくして少し青臭かった。
山椒の木もこのあたりの特産だ。四川料理のしびれる辛さは、この山椒の香りだ。こちらでは赤く熟してから乾燥させる。岩肌にも自生していて、赤い塊があちこち見られる。
このあたりは梨の木が多く「梨花の里」と呼ばれ、春から夏にかけて白い梨の花が美しいらしい。残念ながら今は花は終わって、もう実をつけている。道の両側はほとんどが梨の木だ。手の届くところにあるのだが、もし、ひとつでも黙ってもぎ取ろうとすると、どこかから家の人が出てきて捕まってしまうとのことだ。家の中でじっと見張っているのだろう。宋さんも、木に近づいただけで犬にほえられた、とあわてて戻って来た。犬もしっかり仕事をしている。

やっと道が開いた。
たまっていた力を吐き出すように、スピードを出して走る。こんなところにも牛や羊がいる。クラクションを鳴らしながら走る。

カーブを曲がろうとすると、目の前にオートバイが!こちらの車線を走って来る!
急ブレーキを踏む。
オートバイの若者がハンドルを切る。河に突っ込むぞ!若者はとっさに、足を地面につけて、ばたばたと足踏みしながら必死でスピードを落とす。何とか道路から飛び出さずにすんだ。すぐに体勢をたてなおすと、あっという間に走り去って行った。
怒鳴りつける暇も、心の余裕もなかった。
ホッとすると同時に恐怖心がよみがえる。宋さんは今迄で一番怖かったと虚脱状態。主人は逆に興奮気味に若者の足の動きを説明する。しばらく心を落ち着けてから、また走り始めた。

道端の木が開け放した窓に触れる。山椒だ!
清涼な香りを乗せて車は元のスピードを取り戻す。