塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 165 語り部:ムヤにて

2016-09-23 04:36:30 | ケサル
★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



語り部:ムヤにて


 ジグメは教師が一人しかいない小学校にやって来た。

 教師の傍に生徒たちの姿はなく、校庭の真ん中にはいくつかの水たまりが光を反射していた。水たまりの周りのぬかるみには緑の藻が生えていた。
 教師はつばの広い帽子をかぶり、石段に座って本を読んでいた。

 国が定めた二回の休み以外に山里の小学校に設けられた休み―半月の農繁期の休みだった。
 村の子供たちは家に帰り大人の仕事を手伝う。農家の子供は畑で麦の苗と一緒に次々と伸びる雑草を抜き、牧民の子供は牛や羊を山の草原―夏の牧場へ追って行く。

 教師は足音を聞きつけ、帽子を脱いでジグメのやって来るのを見やり、熱い茶を用意した。

 ジグメは教師になんの本を読んでいるのか聞いた。教師は、世界中の様々な国についての本だと答えた。教師は言った。今世界には二百以上の国がある。

 「仲肯さん、今ある国はあんたの物語よりもっと多いぞ」

 ジグメは教師を悲しませるような言葉を口にした。
 「先生はこの世の中の沢山のことを知っているが、先生がいるこの小さな場所を知ってる人はほとんどいないな」

 教師はつばの広い帽子をかぶり直し、目の辺りを隠した。

 ジグメは話を変えた。
 「オレはある場所を探してるんだ。ムヤという場所だ」

 「伝説の中の場所だな」

 教師はジグメを教室に連れて行き、生徒に字を覚えさせるために使う棒で地図の地名を一つ一つ指して言った。
 「これが今ある場所だ。その中にムヤというのは無い」

 ジグメは学校を去り、その下にある村を訪ねた。
 新しく建てている家があった。職人たちは石を積み重ねて壁を作り、主人は傍らの胡桃の木の下に大鍋を架けて食事の支度をしていた。主人はジグメに少し休んで行けと言った。
 「仲肯の語りは新しい家にとって何よりの祝福になる」

 職人たちは仕事の手を休め、雄大な砦を称賛する華麗な段の語りを聞いた。ジグメの語りが終わるとお互いに祝福し合った。
 ジグメは尋ねた。
 「ムヤを探してるんだ。ムヤという場所を尋ね歩きたいんだが」

 皆は笑って言った。
 「たった今着いた場所、ここを去ってこれから通り過ぎるたくさんの場所、それが古代のムヤだよ」

 「本当か」

 彼らは顔を近づけて来た。
 「俺たちの顔は他の場所の者たちとは違ってるだろう」
 そう、彼らはとがって鉤のような形の鼻、茶色がかった目をしていた。

 彼らは言った。
 「オレたちのしゃべるのを聞いてごらん。他の場所の者たちとは違うだろう」
 そう、彼らの話すいくつかの音は、のどの上の方から飛び出してくるようだった。

 こういったすべては、古代のムヤから続いている痕跡だった。
 古いムヤは広い峡谷を何年も開墾し、林と水辺の土地に、小麦と裸麦を植え、石の家の壁に白い灰で大きな吉祥の図案を書いた。それらの村は胡桃とリンゴの木で囲まれていて、牛の囲いの中は空っぽだった。
 夏、雪銭はどんどん後退していき、牛の群れは白い雪の解けた山の牧場へ連れて行かれる。
 秋はまだやって来ず、麦打ち場の周りには、牛蒡が大きな群れとなって生い茂っていた。

 風が長い帯のような真っ白な雲を押しながら、広い峡谷の空を横切って行った。

 その夜、ジグメは麦打ち場で語った。それから、新しい家を作っている大工たちのテントに泊まった。

 寝る前、彼は唱えた。
 「ムヤよ、ムヤよ」
 彼が言いたかったのは、この平和な地は、本来法術とは縁はなく、それよりも、勝手に禁忌に触れたりするような場所ではない、ということだった。

 その後、彼はまた夢を見た。






阿来『ケサル王』 164 物語:トトン天に帰る

2016-09-17 22:55:28 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:トトン天に帰る その4



 その日王宮にいたすべての人が、タンマとミチオンが持ち帰るのはトトンの亡骸だけだったのを知った。その中の少なくとも半分の者は、死んだトトンが王宮の西側の大きな四角い岩の上に横たわっているのを自らの目で見た。

 ケサルが岩の前に来て触ってみると、手足はすでに冷たかった。ケサルは腰をかがめトトンの耳に口を近づけ、目は空に向けたまま言った。
 「叔父上、本当に亡くなられたのですか」

 トトンは何も答えなかった。

 「私には本当に亡くなられたとは思えないのです」

 空を漂っていたトトンの魂は一瞬震えたが、声を上げることはなかった。
 冷たい風が微かに吹き抜けるのを感じ、ケサルはもう一度目を挙げて空を見た。その後、大きな声で言った。
 「叔父上は本当に我々の元を去って行かれたようだ」

 三十人の経を読む者が現われ、岩を取り囲んで座り、亡くなった魂を済度した。三十のトゥンチェン(長いラッパ)と三十の白ほら貝が同時に吹き鳴らされ、巨大な薪の山が積み上げられた。
 ケサルは、明日太陽が昇る前に死者が生き返らなかったら火葬にするよう申し渡した。

 ケサルは言った。
 「叔父上は高い法力を具えている。もしかしてこの足腰の弱った古い体を捨ててアサイ羅刹の元へトルコ石の髪を取りに行ったのかもしれない。そうであれば、明日の朝早く戻って来られるだろう」

 ケサルはトトンが死んだふりをしているのを知っていた。こう言ったのは、トトンに公開の時間を与えるためだった。
 トトンは勿論後悔していた。だが大勢が注視している中で自分の体の中に戻ることは不可能だった。「さあ、皆をアサイ羅刹の元へお連れしよう」と起き上がるわけにもいかなかった。

 その間に、トトンは本当に当時アサイ羅刹と会った赤銅色の山の上へ飛んで行ってみた。だが、冷たい星の光が山の頂から降り注いでいるのが見えただけで、山の上に生命あるものは何もなかった。
 空が明るくなる頃、トトンの魂はまた王宮に戻り、彼の体が火葬のために高々と積み上げられた薪の上に置かれているのを目にしたのだった。婦人たちが悲痛な歌を歌いながら、その体に香りの良い花びらを撒いていた。

 ケサルは言った。
 「叔父上はもう戻られないようだ」

 言い終ると、彼の前に松明が立てられた。
 この“三昧真火”は、この世では硬くて打ち砕くことのできないものをも焼く尽くし、穢れた世に居る間に積み重ねられた一切の善悪も、恩と恨をも断ち切ることが出来るという。

 ケサルは命じた。
 「寅年の者よ、ここに来て薪に火をつけよ」

 タンマが正に寅年だった。彼は前に進み出て松明を受け取った。
 国王はタンマに命じた。火の門は東方から開く。東から火をつけるように、と。

 こうなればもはや何もかまってはいられない。トトンの魂は人々の間を掠めるように急降下し、火を消そうとした。その一瞬、その場にいた人々はみな冷気に襲われたように感じた。だが“三昧真火”はごうごうと燃え続け、いささかも乱れることはなかった。

 焦りのあまり、トトンは魂を肉体に滑り込ませると、肉体はすでに冷たく硬直していて、彼をしっかりと閉じ込めてしまった。
 彼はタンマにやめろと叫ぼうとした。国王に命乞いをしようとした。だが、硬直した口を開くことは出来なかった。目を開けようと思ったが、瞼もすでに硬直していた。

 この時東方の門はすでに開き、炎は狂喜しているかのように高く積まれた薪の山を昇りつめた。タンマは西に開いた煙の門も開いた。すると真っ直ぐだった濃い煙は少し傾きながら空へと昇って行った。
 間もなく、火の山はどうと音を立てて崩れた。

 その時叫び声が聞こえたようだったが、何の変化も見えなかった。ただ炎がひときわ明るく、熱く燃え盛っているだけだった。

 ケサルは静かに座ったまま、目を閉じ合掌し、火の中で葬られる者のために済度の経文を唱えていた。
 彼はトトンの魂が小鳥のように自分の周りでチ、チ、チと啼くのを聞いた。
 
 ケサルは言った。
 「今回、叔父上は真に解脱されるでしょう」

 ケサルは、小鳥が肩に止まり、人の声で何か言ったのを感じた。ある人物の名前、ズウォグウォ・タンザンと告げていた。

 「昨夜、天の母がすでに夢で託された。だが私はやはり叔父上が自ら口にされるのを聞きたかったのです」

 「チ、チ、チ」

 「本当なら、叔父上の罪は地獄に落ちるに値します。それでも、臨終に際して生まれた悔いの心が叔父上の魂を浄土へと導くでしょう。欲もなく憂いもない西方浄土へと」

 トトンの魂は喜びの声をあげた。

 彼は暫くの間火葬された灰の上に留まり、人々が骨を拾い甕に収めるのを見ていた。ついに甕の口が閉じられる時、人々の祝福を受けた。

 息子トンザンは列をなした人と馬を率いて、ダロンの魂の鳥が棲む高い山へと甕を送り届けた。







阿来『ケサル王』 163 物語:トトン天に帰る

2016-09-10 14:25:44 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:トトン天に帰る その3




 秘密の部屋から出て寝床に横になると、トトンはひどく弱っているのを感じた。邪神が病を与えてくれたのだろう。
 そこで目覚めるとすぐ、苦しそうなうめき声をあげた。二回目のうめき声をあげようとした時、自分には病の兆しが微塵もないのに気付いた。心臓はパクパクと音を立て、脈はドクドクと湧きかえっている。股間の物は屹立し、旗竿の先端に突き出した鉾のようだっ。

 妻が朝の挨拶に来ると彼は言った。
 「ワシは病気だ」

 妻は夫の血色がよく、眼光も鋭いのを見て、笑いながら口をゆすぐための茶を捧げた。
 すると、トトンは椀を壁に投げつけ、叫んだ。
 「ワシが病気だと信じられないのか」

 こうして彼はずっと寝床に横たわっていた。昼になると、息子トンザンを呼びに行かせた。

 息子の堂々とした体を見て、トトンは本当に泣いた。
 「お前を見て、戦死したお前の弟を思い出した」

 この言葉にトンザンも心を痛めた。

 トトンは悲し気に息子に言った。
 「ワシは病気だ、間もなく死ぬだろう」

 「父上の顔には病の相は見えません。昨夜悪い夢でも見たのではありませんか」

 「ワシが患っているのは体ではない。心の病がワシを苦しめるのだ」
 トトンが怒りを込めてこう叫んだ時、その声は甲高く、まるで女性のようだった。「ケサルがワシを死に追いやるのだ」

 トンザンは眉を顰め、言った。
 「父上、国王は父上を許したばかりです。また国王を敵にするおつもりですか。国王は神に降された子です。誰も勝つことは出来ません」
 
 「出て行け」

 「父上…」

 「出て行くのじゃ」

 瞬く間に十五日になった。

 ケサルは、トトンが自らやって来ることはないと見越して、迎えの者を遣わせた。だがダロンの宮殿の前にはもの忌みの石が積みあげられ、入り口を塞いでいた。
 リン国の習慣では、入り口に石が積まれているのは、家に重病人がいて面会を謝絶していることを表わす。
 彼らはすぐに王城に引き返して国王に報告した。

 トトンがまた何か策を用いているだろうことは、ケサルには分かっていた。そこで再びタンマを付き添わせて医術に通じたミチオンに会いに行かせた。
 
 トトンは入り口のもの忌みの石で訪れた者が帰って行くのを見て、策略が成功したと喜び、寝床を降りて好物をぱくついていると、下僕がやって来て、タンマとミチヨンが門の前まで来ていると報告した。
 トトンはすぐに寝床に潜り込み、茶を用意して客人を迎えるよう妻に言いつけた。

 妻は客に丁寧に茶を供し、夫は帰宅してから病に倒れ、お二人に病が移るのを恐れ、お会い出来ずにおります、お二方は国王様に、トトンは国王のお伴をして遥かな伽国へ行くことは出来ないとご報告下さい、と告げた。

 タンマは答えた。
 「国王は、ダロン長官は病と称しで臥せっておられるのではと考えられ、医術に優れたミチオンに脈を拝見するよう申し付けられたのです」

 トトンはよけいに二人と会うわけにはいかなくなった。

 ミチオンは言った。
 「ご心配なく。我々は糸を通して脈を見るだけです」

 そこで、部屋の扉の隙間から赤い絹の糸を張り、ミチオンはその微かな振動で病人の脈を細かく観察した。
 トトンは部屋の中で糸の端をオウムの首に結んだが、その律動はあまりにも早く、すぐにミチオンに見破らた。
 「ダロン長官殿、脈はゆっくりと繰り返されるものなのに、どうしてこのようにせわしいのでしょう」

 トトンは次に糸を猫に繋ぎ、またミチオンに見破られ、仕方なく自分の体に繋いだ。
 だがトトンまだあきらめきれず、糸を脈を見るべき場所には繋がず、小指に巻き付けた。ミチオンは笑って言った。
 トトン殿の脈拍は変わった所はなく、病の兆しは見えません。もしや病を装っているのではありませんか」

 トトンの妻も、夫が仮病を使っていることは分かっていて、小賢しい手口を見破られたのを見て恥ずかしくてたまらず、部屋に入り、夫に寝床を出るよう勧めた。
 トトンはこの時すでにもう後には引けないと知り、どう頼んでも起き上がらず、逆に、妻にこのまま嘘をつきとおして、タンマとミチオンに、夫は上半身は火のように熱く、下半身は氷のように冷たく、間もなく命は尽きるだろう、と言わせようとした。

 妻は夫が何を言っても聞き入れないのを知り、夫を手伝った。
 夫を日向と影との境目に連れて行き、上半身は激しい日差しに晒し、下半身は冷たい影の中に来るよう寝かせた。

 タンマとミチオンはついに待ちきれず、断りなしに奥の間に駆け込むと、トトンが自分の体を弄んでいるのを見て、馬鹿々々しくもありおかしくもあり。
 トトンは二人が踏み込んで来たのを見ると、息を止め目を剥き、両足を伸ばして死んだふりをした。

 タンマは実直な性格で、トトンは本当に死んだと思った。
 だが、ミチオンは医術に通じており、一目見て死んだふりだと分かり、タンマに目配せすると、タンマもすぐに理解して、トトンを担ぎ、馬の背に乗せ、ミチオンと共に真っすぐ王宮へと駆け戻った。

 トトンは思った。ミチオンはきっと自分が死んだふりをしているのを見破っただろう、でなければ、このように長い道のりを急ぎ、亡骸を国王の前に運ぶはずはない。こうなればもはや本当に死ぬしかなく、そうすれば洞察力に優れたケサルも騙すことが出来るだろう。

 そこで彼は体中の呼吸する門をすべて閉じ、血を凍らせて流れを止めた。そうしてから、馬の背に横たわる肉体から魂を抜け出させた。
 魂が肉体を抜けると、冥途の使者がやって来た。
 トトンは二人の使者に山の中の宝の蔵を賄賂として、冥途へ行くまでに三日間の時間の猶予を手に入れ、自分の魂にタンマとミチオンの後を付いて行かせた。

 トトンは、ケサルは冷たくなった亡骸をを取り上げたりはしないだろうから、ダロン部の者が自分の死体をに持ち帰えったその時に、魂を戻しても遅くはない、と考えていた。







阿来『ケサル王』 162 物語:トトン天に帰る

2016-09-07 00:39:18 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304




物語:トトン天に帰る その2




 首席大臣は下を向いたまま何も言わなかった。
 そこでトトンは口を開いた。
 「もし国王がワシの命を召し取っていたら、今日、アサイ羅刹の居場所を伝える者はいなかっただろう。そしてもし国王がアサイ羅刹の行方を知る手立てがなければ、伽国の妖皇后を消滅させることは出来ないのじゃ。もしあの妖怪を生き返らせたら、伽国が暗黒に陥るだけでなく、リン国もまた…」

 ケサルが冷たく笑っているのを見て、トトンは得意の饒舌を収めて言った。
 「国王よ、リン国とムヤの交わる辺りに赤銅色の大きな山がある。アサイ羅刹はそこに隠れ住んでいる。当時、ホルとリンが戦った時、ワシは野の馬の群れを追ってうかつにもその辺りを通り過ぎ、そこでアサイ羅刹に出会ったのじゃ。我々は戦った。頂上から麓まで戦い続け、半日経っても決着がつかず、ついには互いの力を認め合い、香を焚いて誓いを結んだ。この世で苦楽を分かち合い、命を供にしようと。ところが、国王はみなと同じように、ワシがヤツの所からトルコ石の髪を手に入れられるとは信じてはおられないようじゃ」

 首席大臣は言った。
 「もしそなたがその法物を取ってきたら、誰もが自ずとそなたを信じるだろう」

 トトンは目をぎょろぎょろさせて言った。
 「そなたが信じようと信じまいとこのトトンにはどうでも良いことだ。ただ国王だけが…」

 国王は高らかに笑った。
 「さすがダロン部の長官だ。私はまだ叔父上の謀叛の罪を罰していないのに、叔父上は恨みを抱いているのですか。よく考えてみなさい。競馬で王となった時、我々母子を荒野に追い払った罪に罰を与えなかった。ホルリンの戦いで敵に内通した罪も罰しなかった。その上でまた叔父上を信じろと言うのですか。さあ、言いなさい。どうしたらその羅刹の手からトルコ石の髪を手に入れられるのか」

 トトンは国王が自分の罪を次々と並べるのを聞いて、あっという間に額に冷汗を滴らせた。
 「死を賜らなかったこと、感謝に堪えず、必ずや誠心誠意、妖怪を倒す法具を手に入れる助けを致しましよう」

 「ではいつ出発するのですか」

 「国王よ。あの妖怪と会うには、ある特別な時間でなくてはならないといわれておる。おまけに、ワシは牢に繋がれていた体がまだ癒えていない、長い旅は無理じゃ」

 「では、いつなら行けるのか」

 「次の月の十五日、それが出発にふさわしい日じゃ」

 「そうであれば、帰ってお休みなさい。叔父上の言葉に従って次の十五日、月の満ちるのを待ちましょう。ダロンの長官よ、覚えておきなさい。あなたを信じて大任を与えるのはこれが最後だと」

 家に着くより先に、トトンは後悔し始めていた。
 ケサルはこれまでに幾度も自分の罪を許して来た。だがもしかして今回、自分は自ら死地に赴くことになるのかもしれない。

 羅刹とは一度会ったという縁はあるが、先ほど言ったように生死の交わりを結んだ訳ではない。しかもかなり昔のことだ。アサイ羅刹は敗軍の将など覚えていないだろう。
 あの時、二人は赤銅色の高い山の頂で法術を戦わせ、峡谷まで降りて更に戦った。一帯に砂を巻き上げ石を動かし、夏の大地に冷たい氷を降らせ、湿った沼地から激しい炎が噴き出させた。最後に自分が負けた。アサイ羅刹は多くを語らず、大声で笑い、衣を翻して山の上へ飛んで帰ったのだった。

 トルコ石の髪は羅刹を守る法具であり、簡単に人に渡すはずはない。もし今回訪ねても、羅刹は必至で法具を守るだろう。
 そして思った。前回国王抹殺を企てた罪はまだ処罰されていないのに、さらに君主を欺くという罪を重ねたら、リン国で生きる道はなくなるだろう。こう考えると不安でなまらず、深夜に起き上がり、自分の頬を思いきり叩いた。

 「よけいなことばかり口走る傲慢な奴め!」

 「虚勢ばかり張りおって!」

 「自ら王になりたがるとは!」

 こうするうちに、若い頃自分があまりに無鉄砲で狂暴であったため、家の者が法術によって気弱で疑り深く、だが野心を抑えられない人間に変えたことを思い出した。そう思い至ると彼は泣いた。
 アサイ羅刹を探し出せなければ自分にはもはや生きる道がないことも分かっていた。そこで、彼はまたひとしきり泣いた。

 「ワシは自分のために泣いているのではない。ワシはすでに年老い、死期は近いのだから。わしは息子トングォを想って泣いているのだ。もしわしが野心を持たなければ、息子はこの世で幸せに生きていけたはずだ、と。そして強大なダロン部のために泣いているのだ。人々から敬われていたのに、それは軽蔑に変わるだろう」

 ケサルが王になり、特に仏法が伝わってから、リン国は様々な邪神を祭ることはなくなった。だがトトンは宮殿に特別な秘密の部屋を作り、邪神の偶像を祭っていた。
 この夜、彼は秘密の部屋を開け、邪神の前に跪き、祈った。
 「もし叶うならば、一切の苦しみに打ち勝つ力をお与えくだされ」

 偶像は何の反応も示さなかった。おどろおどろしい目に煌めきはなかった。数十回目の祈りが終わると、手にした灯明が燃え尽き、微かな炎が数回揺れて消えた。最後に邪神の見開かれた目がゆっくり閉じていくのを見たような気がした。

 トトンは暗黒の中で跪いた。
 「もし他の望みが無理ならば、せめて十五日の月が丸くなる時にワシを病に臥させて下され」