★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304
語り部:ムヤにて
ジグメは教師が一人しかいない小学校にやって来た。
教師の傍に生徒たちの姿はなく、校庭の真ん中にはいくつかの水たまりが光を反射していた。水たまりの周りのぬかるみには緑の藻が生えていた。
教師はつばの広い帽子をかぶり、石段に座って本を読んでいた。
国が定めた二回の休み以外に山里の小学校に設けられた休み―半月の農繁期の休みだった。
村の子供たちは家に帰り大人の仕事を手伝う。農家の子供は畑で麦の苗と一緒に次々と伸びる雑草を抜き、牧民の子供は牛や羊を山の草原―夏の牧場へ追って行く。
教師は足音を聞きつけ、帽子を脱いでジグメのやって来るのを見やり、熱い茶を用意した。
ジグメは教師になんの本を読んでいるのか聞いた。教師は、世界中の様々な国についての本だと答えた。教師は言った。今世界には二百以上の国がある。
「仲肯さん、今ある国はあんたの物語よりもっと多いぞ」
ジグメは教師を悲しませるような言葉を口にした。
「先生はこの世の中の沢山のことを知っているが、先生がいるこの小さな場所を知ってる人はほとんどいないな」
教師はつばの広い帽子をかぶり直し、目の辺りを隠した。
ジグメは話を変えた。
「オレはある場所を探してるんだ。ムヤという場所だ」
「伝説の中の場所だな」
教師はジグメを教室に連れて行き、生徒に字を覚えさせるために使う棒で地図の地名を一つ一つ指して言った。
「これが今ある場所だ。その中にムヤというのは無い」
ジグメは学校を去り、その下にある村を訪ねた。
新しく建てている家があった。職人たちは石を積み重ねて壁を作り、主人は傍らの胡桃の木の下に大鍋を架けて食事の支度をしていた。主人はジグメに少し休んで行けと言った。
「仲肯の語りは新しい家にとって何よりの祝福になる」
職人たちは仕事の手を休め、雄大な砦を称賛する華麗な段の語りを聞いた。ジグメの語りが終わるとお互いに祝福し合った。
ジグメは尋ねた。
「ムヤを探してるんだ。ムヤという場所を尋ね歩きたいんだが」
皆は笑って言った。
「たった今着いた場所、ここを去ってこれから通り過ぎるたくさんの場所、それが古代のムヤだよ」
「本当か」
彼らは顔を近づけて来た。
「俺たちの顔は他の場所の者たちとは違ってるだろう」
そう、彼らはとがって鉤のような形の鼻、茶色がかった目をしていた。
彼らは言った。
「オレたちのしゃべるのを聞いてごらん。他の場所の者たちとは違うだろう」
そう、彼らの話すいくつかの音は、のどの上の方から飛び出してくるようだった。
こういったすべては、古代のムヤから続いている痕跡だった。
古いムヤは広い峡谷を何年も開墾し、林と水辺の土地に、小麦と裸麦を植え、石の家の壁に白い灰で大きな吉祥の図案を書いた。それらの村は胡桃とリンゴの木で囲まれていて、牛の囲いの中は空っぽだった。
夏、雪銭はどんどん後退していき、牛の群れは白い雪の解けた山の牧場へ連れて行かれる。
秋はまだやって来ず、麦打ち場の周りには、牛蒡が大きな群れとなって生い茂っていた。
風が長い帯のような真っ白な雲を押しながら、広い峡谷の空を横切って行った。
その夜、ジグメは麦打ち場で語った。それから、新しい家を作っている大工たちのテントに泊まった。
寝る前、彼は唱えた。
「ムヤよ、ムヤよ」
彼が言いたかったのは、この平和な地は、本来法術とは縁はなく、それよりも、勝手に禁忌に触れたりするような場所ではない、ということだった。
その後、彼はまた夢を見た。
語り部:ムヤにて
ジグメは教師が一人しかいない小学校にやって来た。
教師の傍に生徒たちの姿はなく、校庭の真ん中にはいくつかの水たまりが光を反射していた。水たまりの周りのぬかるみには緑の藻が生えていた。
教師はつばの広い帽子をかぶり、石段に座って本を読んでいた。
国が定めた二回の休み以外に山里の小学校に設けられた休み―半月の農繁期の休みだった。
村の子供たちは家に帰り大人の仕事を手伝う。農家の子供は畑で麦の苗と一緒に次々と伸びる雑草を抜き、牧民の子供は牛や羊を山の草原―夏の牧場へ追って行く。
教師は足音を聞きつけ、帽子を脱いでジグメのやって来るのを見やり、熱い茶を用意した。
ジグメは教師になんの本を読んでいるのか聞いた。教師は、世界中の様々な国についての本だと答えた。教師は言った。今世界には二百以上の国がある。
「仲肯さん、今ある国はあんたの物語よりもっと多いぞ」
ジグメは教師を悲しませるような言葉を口にした。
「先生はこの世の中の沢山のことを知っているが、先生がいるこの小さな場所を知ってる人はほとんどいないな」
教師はつばの広い帽子をかぶり直し、目の辺りを隠した。
ジグメは話を変えた。
「オレはある場所を探してるんだ。ムヤという場所だ」
「伝説の中の場所だな」
教師はジグメを教室に連れて行き、生徒に字を覚えさせるために使う棒で地図の地名を一つ一つ指して言った。
「これが今ある場所だ。その中にムヤというのは無い」
ジグメは学校を去り、その下にある村を訪ねた。
新しく建てている家があった。職人たちは石を積み重ねて壁を作り、主人は傍らの胡桃の木の下に大鍋を架けて食事の支度をしていた。主人はジグメに少し休んで行けと言った。
「仲肯の語りは新しい家にとって何よりの祝福になる」
職人たちは仕事の手を休め、雄大な砦を称賛する華麗な段の語りを聞いた。ジグメの語りが終わるとお互いに祝福し合った。
ジグメは尋ねた。
「ムヤを探してるんだ。ムヤという場所を尋ね歩きたいんだが」
皆は笑って言った。
「たった今着いた場所、ここを去ってこれから通り過ぎるたくさんの場所、それが古代のムヤだよ」
「本当か」
彼らは顔を近づけて来た。
「俺たちの顔は他の場所の者たちとは違ってるだろう」
そう、彼らはとがって鉤のような形の鼻、茶色がかった目をしていた。
彼らは言った。
「オレたちのしゃべるのを聞いてごらん。他の場所の者たちとは違うだろう」
そう、彼らの話すいくつかの音は、のどの上の方から飛び出してくるようだった。
こういったすべては、古代のムヤから続いている痕跡だった。
古いムヤは広い峡谷を何年も開墾し、林と水辺の土地に、小麦と裸麦を植え、石の家の壁に白い灰で大きな吉祥の図案を書いた。それらの村は胡桃とリンゴの木で囲まれていて、牛の囲いの中は空っぽだった。
夏、雪銭はどんどん後退していき、牛の群れは白い雪の解けた山の牧場へ連れて行かれる。
秋はまだやって来ず、麦打ち場の周りには、牛蒡が大きな群れとなって生い茂っていた。
風が長い帯のような真っ白な雲を押しながら、広い峡谷の空を横切って行った。
その夜、ジグメは麦打ち場で語った。それから、新しい家を作っている大工たちのテントに泊まった。
寝る前、彼は唱えた。
「ムヤよ、ムヤよ」
彼が言いたかったのは、この平和な地は、本来法術とは縁はなく、それよりも、勝手に禁忌に触れたりするような場所ではない、ということだった。
その後、彼はまた夢を見た。