塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

中心

2007-10-19 04:17:46 | Weblog
帰ってからまもなく、横浜駅近くのビルから、ぼんやりと街を見下ろしていた。想いは自然とアバの地へ…

アバには、チベット族の人、漢族の人、普通の服装の人、民族衣装を日常に着ている人、お坊さん…様々な人が一緒に生活していた。
そこから帰ってきたばかりの私の目には、横浜の街を行きかう人々が、みな同じように見えた。同じ民族が、便利さを追求して同じ速さで生活している。

アバは辺境の地といえるだろう。街から街までは、何時間も車に乗らなければたどり着けなかった。そして、横浜は日本の中心に近い都会だ。何気なくそう考えていた時、ふと、不思議な感覚にとらわれた。そう、ここは、本当に中心なんだろうか。そう思い込んでいるだけで、もしかしたら、あるものからは遠く隔たった場所なのではないだろうか…

では、中心とはどこだろう。

アバの草原にじっとうずくまっていた女性のピンク色の点。もしかしてそこが、あるものの中心だったのかもしれない。



一滴の水から

2007-10-18 02:27:51 | Weblog
こうして私の旅は終わった
もう一度アバに行かれるだろうか。行かれたとしても、今回のように心に残るものになるかどうか。
私にとっては、大蔵寺からの帰り道、美しい水との交感がこの旅のすべてだとも言える。

帰ってからもう一度『大地の梯子』を読み直してみた。行く前に読むのと行ってから読むのとではこんなにも違うものかと驚くほどに、一つ一つの言葉が目に見えるものとなって心に響いてくる(読みが浅かっただけ…)

旅の終わりに、阿来は梭磨河の源流を訪ねている。多分、紅原のあたりでその源流と思われる水を探し当てる。その時の阿来の文章が私の想いと重なった。小さな確信がこれからも私を支えてくれるように…

一部を紹介します。

「河の水は昼前の斜めに差し込む強烈な日差しを浴びて、一筋の銀の光をはね返していた。
私はずっと河を眺めていた。一面の湿地が終わると、広い谷間は両側の小高い丘によって狭まり、私は河辺に戻ることができた。水はいよいよ少なくなり、透きとおって浅くなった水を透して、ゆっくりと流れていく細かい砂粒が見えた。穢れのない草の根が房飾りのように水の中を漂っている。私は今、目の前にある情景をいとおしく思った。

もうほんの少し溯っていけばこの流れの始まりを見ることができるかもしれない。それが梭磨河の源流のはずだ。だが、それは私の想像でしかなかった。
谷がもう一度開けた。渓流は輝いたまま、広い湿地の中に隠れてしまった。
………

 それからたっぷり二時間かかって、谷はまた狭まり、細い渓流が足元に戻ってきた。両側の丘陵はほとんど姿を消していた。まだ丘陵があるとしたら、それは二筋の目立たないほどの起伏でしかない。

この時こそ間違いなく、私は梭磨河の源流にたどり着いたのだった。

どこにでもあるような、小さな水溜りだった。水は草の下からゆっくりと滲み出しているが、地面を伝うほどの流れは見えなかった。そこで私は小さな葉を摘み取り、水の上に置いてみた。そうしてやっと、かすかな水の上を草の葉がゆっくりと流れて行くのを確かめることができた。
私の体にも心にも、予想していたような感情の昂ぶりなかった。もちろん、これがチベット文化の中でも独特な、ジアロン文明をはぐくんだ大切な水の源であり、大渡河、長江の支流の最初の一滴なのだ、ということはよく分かっている。それでも私の心は、この草の生い茂る果てしない広野のように、静かだった。かつては、源流の風景を想像し、源流に至った時の情景を思い描いては、激情みなぎる詩句をいくつも書きつらねてきたのだが…

 人生のある日に、このように豊かな瞬間を持てたなら、その後でもし、失意や苦難に出会ったとしても、悠然と向き合っていけるのではないだろうか」




濾定橋から成都へ

2007-10-13 00:55:14 | Weblog
8月11日第7日目

今日は成都へ帰る日。ちょっと寂しい。
途中、濾定橋に寄る。
長征を続ける紅軍は、四川省の山奥まで行軍してきたが、蒋介石の国民党軍に阻まれ、苦戦していた。北上するには大渡河を渡らなければならない。そこに架かっているのが濾定橋。国民党軍は、この鉄の鎖でできた吊り橋の板をはずして、敵が渡って来られないようにしていた。だが、紅軍の中の勇気ある兵たちが、鎖を伝って渡って行った。多くの兵が撃ち落され、犠牲になったが、数人が向こう岸へたどり着き、再び板を渡し、紅軍の一師団すべては河を渡ることができた。
こういういわれのある重要な橋だ。

そういえば、私たちが通ってきた所にはいつも紅軍の影があった。
紅原の紅は紅軍の紅だし、卓克基には毛沢東、周恩来等が立ち寄っている。至るところに記念碑が建っている。そして、濾定橋。
このコースは最近、紅軍の旅、として結構人気があるらしい。

橋を渡ってみる。もちろん入場料を取られる。向こう岸まではかなりの距離がある。下を見ると板の間からゴーゴーと流れる河が見え、大勢の人が渡っているので揺れる。うっかりすると落ちてしまいそうだ。
紅軍やチベット族の衣装を貸し出していて、それを着て渡ることもできる。ちょっと楽しそう。主人は昌列寺の山道より怖いと、顔をこわばらせていたが。

買い物をして豆花を食べた。お湯に入れたしっかりした豆腐に砂糖を入れただけだが、なかなかおいしかった。しょうゆ味もあった。

後はひたすら成都を目指す。
まだ帰りたくない、と思っていたけれど、風景が少しずつ漢の地らしくなってくると諦めがつくものだ。休みもとらず、ひた走る。高速を降りてビルが見え始めると、もう着いたのかと期待してしまう。
4時ごろ到着。さすがに疲れた。暑い。汗がまとわりつく。

そう、お昼を食べた時、一人の男性が車に乗せてくれないか、と言ってきた。宋さんは、外国のお客さんと一緒だからだめだ、と断った(チベット族のおばさんたちを頼まれもしないのに乗せてあげていたのに)。大蔵寺や昌列寺へ行く時、道端の人があそこまで行くのは大変だぞ、と言っても、外国のお客さんが喜ぶから、と答えていた。
ずーっと気を遣っていてくれたんだ、と改めて感激する。明日は車を休ませると言っていたから、成都の友達と思いっきりおしゃべりしてください。
「ウェ~イ! 」「好的、好的(ハオダ、ハオダ)! 」という宋さんのゆったりとした口調は、以後、主人と私の合言葉となった。

私たちは例によって、成都のホテルでもひともめして、眺めの良い部屋を確保した。
最後の夜、成都の夜景を眺めながら、買ってきた惣菜でたくさん飲んだ。もう、高原反応の心配をしなくてもすむ。街へ出て、また飲む。プラスチックの椅子が通りに並び、みんな遅くまで遊んでいる。主人がベトナムとそっくりだと言う。暑い。

あんなに涼しい所にいたなんて、うそのようだ。



康定の広場

2007-10-12 02:41:35 | Weblog
康定には午後2時頃に着いた。
武警賓館。名前のとおり武装警察の宿舎を改造した賓館だ。武警はいろいろなところへ派遣されて、部屋が余ってしまったかららしい。今はインド国境へ行かされる事が多いというが、どうなんだろう。チベットへ派遣されると、肉体的にも精神的にも大きなダメージを受け、戻ってから働けなくなる人も多いそうだ。それでは、特別手当をもらっても割に合わない。
支配人だろうか。なよっとした男が1日中ロビーのソファーに座って、小さなマニ車を回している。
ここは有名な歌「康定情歌」の街。甘孜(ガンゼ)州の州都。今迄で一番大きな街だ。河の両側に街が開けているからだろう。
街の入り口の山肌には、大きな仏像が鮮やかな色で描かれている最中だった。その下をまた、黄土色と青に分かれた河が流れていた。
街ではマツタケを売っている。河沿いにたくさんのテントが並んでいて、すべてがマツタケ売りだ。でも、香りはあまり強くない。
肉は尻尾をつけた塊のまま軽トラックに載せて売っている。子供連れの女性が当たり前のように買って行く。
建物はビルと呼ぶにふさわしく、自由に建てられている。そして、街の中心に巨大な広場があった。片隅には小さな遊園地まである。
今日は子供向けのローラースケート教室が開かれていて、百人はいるだろうか、子供たちが鮮やかな色のヘルメットにプロテクターをつけて、塊になって広場を走り回っている。レースのひだひだのワンピースを着ている女の子もいる。山道を朝から走ってたどり着いた私たちにはとても不思議な光景だ。
ビルの間から、山の中腹に建っているお堂が見える。漢族のお堂に近い木造だ。これも石ちょうに慣れてきた私にはちょっと違和感がある。

主人は面白い題材を見つけ、夢中で写真を撮っている。
私は広場の隅の大きな階段でぼんやりする。
チベット族のおばさんもやはりぼんやり座っている。
ここはどこだろう。都会だろうか。街中がにぎやかで、何でも有りそうだ。でも、流れる空気には、チベット族の香りが少し混じって、のんびりさせられてしまう。



山水画と山椒

2007-10-10 04:04:24 | Weblog
8月10日 第6日目

朝、丹巴の街を歩く。やはり河に沿った街。やがて長江となる大渡河が黄土色の水を波立たせ、南へと流れている。街の入り口、雪山からの流れが交わる辺りでは、黄土色と青い水がはっきりと色を分けて流れている。目の前が神の山、墨璽多山だ、と阿来が書いていたが、宿の人に聞いてもどれがそうなのか分からない。それほど、たくさんの山が重なっている。
丹巴に近づいてから、山の岩肌がはっきりと見えるようになった。岩の層が、縦や斜めに走っている様子は、宋代の山水画そのままだ。范寛の「谿山行旅図」そのままの迫力ある風景が至るところに見られる。小さな滝もたくさんある。水墨画は単純化、抽象化して描かれたものと思っていたが、この岩を目の前にすると、それは写実の極みだったのだ、と認識を改めざるを得ない。皴法と名づけられた、ひび割れのような線描は、対象の岩肌に迫ろうとして出来上がった技法なのだと分かる。

途中、工事のため道が止められていた。30分くらい動けない。車から降りて一休みする。
農家の横ののんびりとした場所だ。道端に洋ナシを小さくしたような実がなっているので何かと尋ねると、胡桃だという。胡桃について阿来は何度か書いている。山を歩いていて胡桃の木が見えたら村が近づいたと分かるのだ、と。
そういえば、市場で手を真っ黒にして、実を剥きながら売っていた。剥きたての胡桃は、さくさくして少し青臭かった。
山椒の木もこのあたりの特産だ。四川料理のしびれる辛さは、この山椒の香りだ。こちらでは赤く熟してから乾燥させる。岩肌にも自生していて、赤い塊があちこち見られる。
このあたりは梨の木が多く「梨花の里」と呼ばれ、春から夏にかけて白い梨の花が美しいらしい。残念ながら今は花は終わって、もう実をつけている。道の両側はほとんどが梨の木だ。手の届くところにあるのだが、もし、ひとつでも黙ってもぎ取ろうとすると、どこかから家の人が出てきて捕まってしまうとのことだ。家の中でじっと見張っているのだろう。宋さんも、木に近づいただけで犬にほえられた、とあわてて戻って来た。犬もしっかり仕事をしている。

やっと道が開いた。
たまっていた力を吐き出すように、スピードを出して走る。こんなところにも牛や羊がいる。クラクションを鳴らしながら走る。

カーブを曲がろうとすると、目の前にオートバイが!こちらの車線を走って来る!
急ブレーキを踏む。
オートバイの若者がハンドルを切る。河に突っ込むぞ!若者はとっさに、足を地面につけて、ばたばたと足踏みしながら必死でスピードを落とす。何とか道路から飛び出さずにすんだ。すぐに体勢をたてなおすと、あっという間に走り去って行った。
怒鳴りつける暇も、心の余裕もなかった。
ホッとすると同時に恐怖心がよみがえる。宋さんは今迄で一番怖かったと虚脱状態。主人は逆に興奮気味に若者の足の動きを説明する。しばらく心を落ち着けてから、また走り始めた。

道端の木が開け放した窓に触れる。山椒だ!
清涼な香りを乗せて車は元のスピードを取り戻す。




丹巴 千ちょうの国

2007-10-09 02:19:24 | Weblog
車はマルカムを通り抜け、丹巴へとひた走っていく。
私にとってはこれから先は帰り道だ。
だから何の期待もなかったのだが、うれしいことに、丹巴への道でまた様々な石ちょうを見ることができた。

屋根の四隅が三角に尖っているもの、そこを白く塗ってあるもの、窓のひさしの組み木が花の形になっているもの、窓の周りが白く裾広がりに塗られたもの、赤と黄色と白に塗り分けられたもの、壁に月と太陽のシンボルが描かれたもの…それぞれの集落によって微妙な違いがある。地形から見ても、このあたりは集落同士の繋がりがあまりなかったようで、それぞれの集落独自の、象徴的な意味を持った様式で装飾されているからだろう。

その地で産するものを使い、文化と宗教に裏づけられ、その風土に合せて造られた建物は、時を経て美しさを増すものなのかもしれない。

桃坪、卓克基、大蔵寺で実際に触れて来たし、移動の間にもたくさん目にしてきたが、丹巴付近の石ちょう群は規模がちがう。

山の裾が河へと突き出た小さな尾根に、石を積み上げた高いちょう楼が孤独にそびえている。高いものは50mもあるという。次の尾根にも、その次の尾根にも、次々と現れてくる。敵の来襲に備えて建てられ、のろしを使った通信にも使われたという。
山一面に何十という石の家が密集し、大きな集落になっているところがあった。そこにもちょう楼が村を守るように聳えている。
夕闇が迫る中、この山全体が何百年という時の重さに包み込まれ、この世とは切り離された存在のように見えた。

それは私の感傷である。
宋さんはこのあたりで何ヶ月か暮らしたことがあり、石の家に泊まったこともあるという。大きなソファーのようなものが置いてあるだけで、特別趣があるわけではなかったそうだ。そうだよね。このあたりの人にとっては、これは普通の家、生活の場として今も使われているのだから。

暗くなって丹巴に着いた。街のはずれにある賓館。もう文句を言う気力は残っていない。宿の奥さんは、ここは丹巴で一番いい宿よ、という。さすがはジアロンの民、自信に満ち溢れている。
狭いけれどしっかりお湯が出て、結構満足する。
だいぶ低い場所に着たので、暑く感じる。クーラーをつけてもらった。



山が光る

2007-10-06 00:04:10 | Weblog
大蔵寺を出てしばらくすると、雨が降ってきた。山の天気は変わりやすい。

少し先をチベット族の一団が歩いている。おじさんと、おばさん二人と男の子。雨の中どこまで行くのだろう。宋さんが車を止めて声をかける。乗せてあげるようだ。おばさん二人と男の子が乗り込むと、どんなにつめても、もう車はいっぱいだ。おじさんは一人で歩いて行くことになった。
子供が病気がちなので、お参りに来たらしい。マルカムから来たというけれど、そこまで乗っていくのだろうか、あのおじさんはどうするのだろう。チベット族の衣装に、毛布の巻いたようなものを持っている。歩いて疲れたらこの上で休んだりするのだろうか。

しばらく行くと、人が大勢集まっている拓けた場所があった。車も何台か停まっている。おばさんたちはここで降りた。おじさんもここまで歩いてきて、みなで一緒に帰るのだろう。
おばさんたちは盛んにお礼を言う。ザシデレ!チベット語で吉祥如意という意味。両手を少し広げて手のひらを上に向け、腰をかがめる。何度も何度も腰をかがめる。周りの人たちも手を振ってくれた。

車の中が急に静かになった。主人も、うとうとし始めた。

雨はいつの間にか止んで青空になった。砂利道に水がたまっているのだろう、車は水しぶきを上げながら走る。まるで渓流の中を走っているようだ。
見上げると、山頂の岩肌がきらきら光っている。この地方では雲母が採れ、時々空中をキラキラと舞っている、と阿来が書いているから、これはもしかしてその雲母かもしれない。

いや、もしかしてこれは、先ほどの雨が岩の間を通って小さな雫となって滴り落ち、日を浴びて光っているのかもしれない。
今、山は雨水を吸い込んで、それをゆっくりと浄化しているのだ。浄化された清らかな水は、清らかな光の中で、山を輝かせる。
空もまた洗われたように青い。

岩から染み出た水は、一滴一滴と集まって、いつか小さな流れとなり、透明な渓流となり、波立つ大河となる。でも、今はまだ、小石や淡く咲く花々の間を遠慮がちに滴り流れていくだけ。
山奥の、ほとんど人の目に触れない場所で、長い長い道のりを静かに流れていく一滴の水、その輝き…

私たちの車もひたすら山道を下っていく。すれ違う車も追い越す車も見えない。下るに連れて、周りの木々が大きくなり、緑が多くなる。
私は思う。まだ川にならないあの水は、この緑の下を時々輝きながら、人知れず、けなげに流れているのだろう、と。



吉祥のシンボルたち

2007-10-02 23:59:59 | Weblog
いくつかある宝殿には、正面に大きな幕が掛かっている。黒い地に白く模様が描かれている。デザイン化されたシンボルなのだろうか、遠くからでもはっきりと見える。これは、チベット語でシャムプと呼ばれている、ヤクの毛で織られた幔幕で、本来の役割は、強烈な日差しを遮り、木の部分を守るためだそうだ。そういえば、土司の官寨にも同じようなものが下がっていた。
適当に好きな模様を書いているのかと思ってたけど、何か意味があるみたいね、と私が言うと、主人が答える。
世の中に意味のない模様はないのだ!
うーん、なかなかいいことを言うな。それでは少し調べてみよう。
大宝殿のシャムプに描かれたものと、それが象徴しているものを順に挙げていくと…

上の段・八瑞物のいくつか(それぞれに八正道も象徴している)
[黄丹(像の結石?)=護財象神、抗毒]、[ヨーグルト=体液、水の分子]、[茅の葉=長寿と強靭さ]、[鹿=自然の調和、浄土]、[法輪=仏の教え]、[鹿]、[パパイヤ=すべての善行]、[右巻きの法螺貝=教えの言葉]、[朱砂(額につける赤い点の材料)=三昧の境地]

下の段・八大吉祥物
[傘蓋=仏法の守護と高貴さ]、[金魚=魂の開放、幸福と自主]、[宝瓶=聖なる財宝、財神]、[蓮の花=慈悲の清らかな心]、[右巻き法螺貝]、[吉祥結び=無限の慈悲と知恵]、[勝利幡=仏法の勝利]、[法輪]

となりの護法殿のシャムプに、耳飾、犀の角、象牙、珊瑚、お金などが描かれている。転輪王の宝を象徴している。

いろいろな説があって、ここに書いた以外の解釈もある。調べだすときりがないけれど、楽しい。

下まで戻ると、やはりお参りに来ていたチベット族の家族が馬茶を飲もうと誘ってくれた。寺で振舞ってくれるものだ。味はほうじ茶のようだ。この地で採れるお茶ではないが、好まれて飲まれているようだ。馬と交換したので、馬茶と名づけられたのかもしれない。
お母さんはとても優しそうで、普段でもチベット族の衣装を着ているそうだ。三人の娘はみな大学を出て結婚し、今回はそれぞれの家族と一緒にこのあたりを回っていて、これから土司の官寨にも行くとのこと。娘さんたちはみなとても堂々としていて、遠くを眺めながらお茶を飲んでいるすがたは、難しい問題に取り組んでいる学者のような風情がある。チベット族の力強さがみなぎっている。

残念だが、そろそろ帰らなくては。そういえばお昼を食べていなかった。
山門の外に食堂があり、5元の定食があった。外の軒先で食べることにする。大きな大きなどんぶりにご飯と好きなおかずを乗せる。なかなかおいしい。台所に入って勝手にお代わりまでしてしまう。山を目の前にして食べられるなんて、それだけでも幸せでだった。



大蔵寺のひかり

2007-10-02 02:21:41 | Weblog
山の頂上は草原で、大きなテントも張られている。チベット族の女性が数人、青空を背景に歌いながら尾根伝いに歩いていく。これが彼女たちの日常なのだろう。お参りの人たちは、ほとんどが親族からなる一団で、にぎやかにおしゃべりしながら一つ一つお堂を回っている。私たちが日本人だとわかると「アリガトウ!」と何度も何度も挨拶し、明るく笑う。

ここで働いている若者がそれとなく後をつけてきて、話しかけられるのを待っている。
ニーハオ!ここに住んでるの?
そうだよ。どこから来た?
日本から。日本て知ってる?
知ってる。テレビで見た…

のんびりと歩いていたら、いつの間にかかなり上まで登っていた。木陰で一休みする。でも、気をつけないといけない。あちこちに牛のフンが落ちている。
門を入った時はとても行けそうもないと思ったお堂を、今は見下ろしている。

海抜3,800m。小さな起伏を利用して、たくさんのお堂が建てられているのがわかる。ひとつの僧房の前の植え込みに僧衣が干されている。日を浴びて鮮やかな色が一層際立つ。

山中に澄み切った光が満ち溢れている。