塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 79 物語 愛する妃

2014-11-25 23:13:34 | ケサル
物語:愛する妃 その6




 ケサルは、メイサが無理やりに魔王の妃にさせられながら、心の中で自分を忘れずにいたことを知り、何も言わずにインド商人の服を脱ぎ捨て、戦神の鎧姿を現した。
 メイサも魔国の妃の衣装を脱ぎ捨てると、リンの国でケサルに仕えていた時と同じ純白の衣の姿を現し、思わず涙を流した。

 ケサルの心に熱いものがこみ上げ、愛しい女性を胸に抱き寄せた。

 「大王様、早くリンへ連れ帰ってください」

 「それは私の妻をさらった憎き魔王を倒してからだ」

 「すぐに戻りましょう。魔王の体は巨大で、その力は無限です。王様に倒せるかどうか…」

 メイサはケサルを案内してロザンの使う椀、ロザンが眠る寝床、ロザンが武器とする鉄の玉と鉄の矢を見せた。
 その寝床に横になると、自分が子供になったように思えた。
 椀を持ち上げようとしても持ち上げられなかった。鉄の玉と矢は尚更だった。

 思えば天の母が大力忿怒の法を修練させようとしたのは、早くからこのことを予見していたのだろう。
 だが、修練の最後の数日、ケサルは心が落ち着かず、修行を成し遂げることが出来なかった。

 メイサは早く帰ろうと促した。
 魔王が巡視から帰って来たら面倒なことが起こるかもしれないから、と。

 ケサルは言った。
 「ヤツを倒す方法は他にもある。私は、魔王を殺さなければ国に帰らないと誓ったのだ」

 メイサは再び涙をこぼした。
 一つは自分が魔王に屈してしまった恥ずかしさから、一つはケサルの深く変わらぬ愛への感謝からだった。

 彼女は言った。
 「魔王のあか牛を食べると巨大な体になれると聞いています」
 二人はあか牛を殺し、ケサルがすぐさまそれを口にすると、体はあっという間に高く、大きくなった。

 メイサはまたケサルに言った。
 「あの魔物の魂の宿る海は秘密の蔵に隠してある一杯の血です。魂の宿る樹は金の斧でなければ切り落とせません。魂の宿る牛は純金の矢で射なければ殺せません」

 ケサルはすぐさま城を出て魂の血を干し、魂の樹を切り落とし、魂の牛を射殺してから、城に戻って魂を失った魔王に戦いを挑んだ。
 何回か渡り合う内に、魔王ロザンは心も頭も混乱し、ケサルの放った矢が額の真ん中に命中し、力尽きた。

 勝利した後ケサルは思った。
 もし自分が天の母の意を素直に受けていればメイサはこのような苦しみを受けず、ロザンともこのような戦いをしないで済んだだろう。

 そこでマンダラを設けてロザンを得度し、清らかな土地に生まれ変わり善をなすようにさせた。
 更に、チンエンをリン国の新しい領地を管理する大臣に任じた。

 ケサルは、魔国の風景が黒と白の二色だけではなくなり、水が澄み山が緑に萌え、色とりどりの花が辺り一面を埋め尽くし、馬や牛、林の中の鳥の羽根もが豊かな彩を輝かせるまで二年三か月暮らし、それを見届けてから、メイサと新しい妻アダナムを連れてリン国へと戻って行った。

 チンエンは新しい主人がリンへ帰るのを見送った。
 鏡のように静かな湖まで見送り、ケサルがかなり遠くまで行ってしまってから大声で叫んだ。
 「大王様、私の頭はまだ妖怪のままです」

 ケサルは振り向かなかったが、その声はチンエンの耳元に届いた。
 「湖まで行って映してみなさい」

 チンエンが湖面を覗くと、五つ頭の妖怪はもうそこにはなく、もとのロン国の農夫の顔があった。
 更に、その農夫の頭にはリンの大臣が被る羽根の付いた冠が載っていた。

 三人が一路進んで行くと、知らぬ間にアダナムが守っていた辺境の砦に着いた。
 アダナムはすでに手下に言いつけて、ここで三日の宴を設けるよう準備しておいたのである。

 ケサルは彼女に、何故三日も続く盛宴を用意したのかと尋ねた。
 アダナムは答えた。リン国に着けば誰もが、国王に一人妃が増えたと思うだけでしょう。そこで、自分のために盛大な婚礼の宴を設けたのです。

 だが、この婚礼の宴は三日では終わらず、まるまる三年続いた。
 砦は日夜歌や踊りで賑わい、肉の香りは十里まで漂い、酒の香りは三、四十里を越えた。

 もともとアダナムは魔国を嫌っていた。最も忌むべきは白と黒の二つの色しかないことだった。
 だが今ここには五彩の花々が咲き誇っている。
 それを目にしてから離れるのが少し惜しくなっていた。

 メイサもまた早く国に帰りたくはなかった。
 ケサルは彼女が捕らえられたことに恥入り、充分に寵愛してくれる。
 だが、リン国へ帰れば、彼が最も愛するのは妃ジュクモである。
 その他にも多くの姉妹が寵愛されるのを待ち望んでいる。

 だがここなら、心の真っ直ぐなアダナムと自分だけで分け合えばいい。

 二人の女性は口には出さなかったが、お互いに相手の心を推し量り、この砦に留まったのである。
 しかもそれは、まるまる三年にも及んだ。









阿来『ケサル王』 78 物語 愛する妃

2014-11-22 02:11:31 | ケサル
物語:愛する妃 その5



 次に出会った妖魔には五つの頭があった。
 その五つ頭は山の中腹で黒と白の羊を放牧していた。

 その時ケサルははっと気付いた。
 魔国に入ってから、二つの色だけしか目にして来なかったことを。
 白と黒である。

 風景も草木も、一つとして例外はなかった。
 アダナムがこの国を嫌うのも無理はない。

 さて、ケサルはアダナムが事前に言い聞かせた通りにして、その五つ頭の妖怪を打ち負かした。

 五つ頭は、元はロン国でつつましく暮らす農民で、名をチンエンと言った。
 多くの村人と共にロザンにさらわれて来て、ロザンの民となった。
 わずかながら神通力を持っていたので、魔王の目に留まり、五つの頭をはやし、ここで通る者を見張っていたのである。

 彼は、もしケサルが神の力を使って人間の姿に戻してもらえるなら、リンに行って真っ当な農夫になりたい、と告白した。
 ケサルは言った。
 「まず、魔王はどこにいるのか、私の妃メイサは何をしているのかを探りに行きなさい」

 チンエンは命を受けて高い尖塔が九つ聳え建つロザンの城へ向かった。
 ロザンは彼の体からいつもとは違う匂いがするのを嗅ぎ当て言った。
 「生きた人間と会ったのか」

 「いいえ、白い羊が病気になったので殺して来たのです。多分その血を浴びたので、大王は血なまぐさい臭いを感じられたのでしょう」

 ロザンは半信半疑だった。
 「妃メイサに食事の用意をさせよう。ワシはやはり見廻に行って来よう」
 そう言うと雲に乗って城を出た。

 こうして、チンエンとメイサが二人だけで話す絶好の機会が訪れた。
 チンエンはこの機を逃すまいと、言った。
 「大王の鼻はなんと敏感なのか。実は昨日インドの商人と会ったのです。そいつはリン国を通って魔国に来たと言っていました」

 メイサはロザンの手下であるこの五つ頭の妖怪と話したくはなかった。
 だが、彼がリンという言葉を口にしたので、関心を掻き立てられ、一瞬目が輝いた。
 「その男はリン国について何か言っていましたか」

 ロザンがこの王妃をさらって来てから、彼女を深く寵愛していたが、美しい衣装も珍しい料理も、歌や踊りも、彼女の憂いを解くことは出来なかった。
 魔国の誰もが彼女がリン国を忘れられないのを知っていた。
 チンエンもそれを知っていて、言った。
 
 「そのことは尋ねていません。では、戻って彼を連れてきましょう。王妃様が直接彼にお尋ね下さい」

 「では、明日そのものを後宮に連れて来なさい。分かっていますね。大王には見られないようにするのですよ」








阿来『ケサル王』 77 物語 愛する妃

2014-11-20 03:11:46 | ケサル
物語:愛する妃 その5



 アダナムはケサルを宮殿に迎え入れ、近くにいる手下を集めて階下に整列させた。
 それが終わると口を開いた。
 
 「大王様、私は転生の時に間違ってこの地に生まれたのです。この魔国を見まわすと、皆奇妙で恐ろしい姿をしています。おまけに、兄は私を蛙頭の将軍に嫁がせようとしているのです。私は昼も夜も悲しくてたまりません。
 大王様、一生おそばにいられたらと願い、今、この城の主としてお迎えしたのです。
 喉が渇けばよいお茶があります。疲れたら白絹の寝床があります。心が寂しければ私がお慰めしましょう」

 ケサルはすでにアダナムの美しさに虜に心惹かれていたが、この時、より一層彼女の誠実さに心を打たれ、その夜アダナムと床を共にし、夫婦となった。

 この魔女とリンの十二王妃を比べると、穏やかで従順な中にも野性が息づき、ケサルを大いに喜ばせた。
 それは、戦場での命がけの殺戮の後、勝利して陣地に戻った時の感覚に似ていた。
 昼間はくつわを並べて大自然をほしいままにし、山神に命じて追い払わせた猛獣を山の前で殺した。

 だが、楽しく過ごす間にもケサルの眉間には常に悩みの色が浮かんでいた。

 アダナムは、このように彼に着き添っていれば、何時の日か兄を見逃してくれるのではないか、そして兄からメイサを取戻し、二人でリンに帰るのではないかと考えていた。
 だが、ケサルが常に眉を寄せているのを見ると、兄を助けるのはもはや不可能だと思い知らされた。

 その日、アダナムはこれまでにない豊かな宴席を設けさせた。
 ケサルはそれを見て、このような宴を設けるのは何か大事なことがあるのかと尋ねた。

 「ご主人様の送別の宴です」

 「送別?私と一緒にリンへ帰ろうというのか」

 「大王様、あなたはロザンを倒しメイサを救い出さなくては絶対にリンに戻らないのでしょう。それならば、王様、明日ご出発ください。
  私はここで大王様のお帰りを待っています」

 ケサルの心には一瞬の間に様々な感情が行き交った。
 この魔女がジュクモよりも道理をわきまえているとは思ってもいなかったからである。

 宴が終わり、白絹の寝床の中でアダナムは身に着けていた指輪をはずしてケサルに渡し、途中どこをどのように通ったら良いのか、などを詳しく伝えた。

 「大王様、私は兵を連れて兄を殺しに行くわけにはいきません。私に出来るのはただ、あなたを宮殿の前まで導くことだけです。どのようにあの魔物と対すればいいのかは、お伝えするわけにはいかないのです。」

 アダナムの率直な言葉に、ケサルなおさら彼女がいとおしくなった。
 もしアダナムが望んだら、魔王を見逃したかもしれない。

 神の馬ジャンガペイフは一日で普通の馬が半年かかる道を進むことが出来る。
 その日半日走るとアダナムの言ったとおり白い像が横たわっているかのような山が目の前に現れた。

 山の前に河があり、黒蛇が這っているような橋が架かっていた。
 橋を渡るとそこは乳のように白い湖だった。
 ケサルとジャンガペイフはその水を飲んだ。

 更に進むと、イノシシが鉄のたてがみを逆立てたような恐ろしい岩山があった。
 山の前には夜のように真黒な湖があった。馬のヒズメの音が湖に伝わると、湖の中から熊のように大きく黒い犬が跳び出して来た。

 これらすべてはアダナムがすでに伝えていた通りだった。
 そのためケサルはこの犬の名前がググランザと知っていた。
 彼がアダナムの指輪を取り出すと、犬はよく知るものを目にして向きを変え湖に潜っていった。

 更にしばらく行くと、魔王の仕掛けた迷路があった。
 常に行く手には二つの道が現われる。
 白い道を行けば生きのびる、黒い道へ行ったら死んで、魔物のえじきになってしまう。

 白い道を進み続けるとまた城が現われた。
 赤い三角形の城である。城の中の部屋にはすべて骸骨で飾られた軒があった。

 三つの頭の妖魔が、六つの目で一斉に旅人に向けて殺人光線を放った。

 ケサルは避けようともせず、自分の目からも力に満ちた光を放ちながら顔を上げて登って行った。
 妖魔は更に術を掛けようとしたが、やって来た者がアダナムの指輪をしているのを見て、城へ招き入れた。
 だがそこで、ケサルは一刀の元に三つの頭を切り落すと、後を振る向くことなく馬に鞭打って走り去った。

 アダナムが、もし振り向いたらその三つの頭は何度でも復活するだろう、と伝えてあったからである。







阿来『ケサル王』 76 物語 愛する妃

2014-11-18 00:58:30 | ケサル
物語:愛する妃 その4




 ケサルは返す言葉もなかった。
 そこで山を下り、メイサを救いに行くことにした。

 ケサルの兄ギャツァは知らせを聞くと、兵を招集して駆けつけ、ケサルと共に北へ征伐に向かおうとしていた。

 ケサルは言った。
 「ロザンは自らやって来て私の妃をさらって行ったのです。しかも一人の兵も連れてこなかった。私もメイサを救うに当たって、兵を連れて行くわけにはいきません。
  兄さん兵を兵営に戻して下さい。私がリンを留守にしている間、首席大臣を助けて国をしっかりと治めてください」

 ケサルは山に放ってあるジャンガペイフを探しに行かせた。

 その間に、ジュクモは送別の酒を用意し、国王に勧めた。
 ケサルは壮行の酒のつもりでたて続けに九杯飲んだ。
 あろうことか、ジュクモは王と別れがたく、酒の中に忘れ薬を入れていたのである。

 ジャンガペイフは山から戻り、宮殿の前で出征のための鞍を載せられながら、何時までも主人の姿が見えなかったので、その場でいなないた。
 その声にケサルは目覚め、何かやるべきことがあったように思えてならなかった。
 彼は言った。
 「遠出すべきことがあるはずなのだが…」

 ジュクモは言った。
 「王様、何も考えず安らかにお休みください。ご自分の見た夢に迷ってしまわれたのでしょう」

 ケサルは眠さに堪えきれず、また横になって眠った。

 この時、天の母ランマダムが再び夢に現れ、厳しい表情で言った。
 「妖魔を退治するという大願は嘘だったのですか。人の世に来て酒色におぼれているのが本当の姿なのですか」

 ケサルは驚いて目覚めたが、依然として何も思い出せず、重い気持ちで王宮を出た。

 ジュクモはまた追いかけて来て、出発に臨んでもう一度壮行の酒を飲ませようとした。
 ケサルがその酒を地にこぼすと、草や花はその酒を浴びて太陽の動きを追って向きを変えるのを忘れた。

 ジュクモはひどく後悔し、もはや大王がメイサを救いに行くのを止めようとはしなかった。
 ケサルは、これは自分が天の母の言葉を聞かなかったためにメイサが北の魔王ロザンにさらわれたのだと考え、すぐさま馬に鞭を当てて出発した。

 あっという間にリンの辺境を抜け、魔王ロザンの領地に入った。
 間もなく日も暮れようとする頃、心臓の形をした山の前に着いた。
 四角い城が山の頂に建てられ、城の四方は死体で作られた旗や幟で埋め尽くされている。

 ケサルは、魔の地とはどこも似たようなものだろうと考え、この城で一夜を明かすことにした。

 城の前で馬を降りると、小さな妖怪の群れが襲って来た。
 ケサルはニヤリと笑って、銅で出来た大門を叩いた。
 その音があまりに響き渡ったため、妖怪たちの射った矢は次々と地に落ち、吹きかけた毒はひどい臭いに変わり、妖怪たちはギャーギャー叫びながら一目散に姿を消した。

 大門が開くと、魅惑的な娘が落ち着いた様子で現われた。
 リンの宮中の十二王妃とは違った豪放で野性的な美しさがあった。

 娘は言った。
 「お見かけしたところ、武将のようですね。それなのに一人の兵士もいないとは。あなたの男らしい姿に、心が引き寄せられました」
 そういうと手を伸ばしてケサルの厚い肩を撫でた。

 ケサルは一瞬考えた。誰もがロザンは無限の力を持っているというが、このような変化の術を使うとは思えない。
 そこで、そのまま娘を地に投げつけ、上に跨ると、水晶の宝刀を彼女の胸口に押し当てた。
 「お前は人か、妖怪か」

 娘は恐れることなく言った。
 「美しい方、名前をお聞かせ下さい。この世を去った後もお姿を忘れないために」

 ケサルは名前を告げた。

 「私はアダナム、魔王ロザンの妹です。ここで辺境を守ってきました」
 言い終ると声が和らいだ。
 「リンと魔国の境にいて、大王のお名前はとうの昔から聞いていました。美しいクジャクが真の龍を愛するように、私は大王を宝物のように愛しています。大王よ、あなたの刀がこの胸を貫く前に、私の心は大王に奪われたのです」

 「命は取らない。ただし、私が魔王ロザンを倒すのを助けるのだ」

 「大王のお言いつけに従います」

 「私が倒そうとしているのはお前の兄だぞ」







阿来『ケサル王』 75 物語 愛する妃

2014-11-12 22:56:30 | ケサル
物語:愛する妃 その3





 ジュクモは戻って国王に告げた。
 メイサは残って太后様のお世話をしたいと望んでいます、と。

 ケサルはそれ以上何も言わなかった。

 メイサはケサルに従順で、十二姉妹の中では最も穏やかで優しく愛らしかった。だだ、ジュクモほどの色香や美しさはなかった。
 それならと、ケサルはジュクモを連れて山へ修行に行った。

 あっという間に最初の七日が過ぎた。
 ちょうどその夜、太后に付き添っていたメイサは不吉な夢を見て、目覚めてからも心が不安でたまらなかった。
 宮廷の占い師が占うと凶と出たがその意味する所は分からなかった。

 メイサはすぐに山を登ってケサルに会いに来た。
 彼女は、国王の加護を得られれば、どのような災いも降りかかって来ないだろうと考えたのである。

 彼女が修業の洞窟の前にある泉に着いた時、ちょうど水を取りに来たジュクモと出会った。
 「ジュクモお姉様、不吉な夢を見たのです。大王様の傍まで連れて行ってください」

 だがジュクモは言った。
 「王様の修業は今が肝心な時です。誰も邪魔してはなりません。でもせっかく来たのだから、ちょっと知らせて来ましょう」

 ジュクモはすぐに戻って来て、不安で心焦るメイサに言った。
 「王様はこうおっしゃったの。夢は真実ではない、皆迷いから起こるものだ、女性の夢は特にそうである、と。やっぱり戻ったほうがいいと思うわ」

 メイサは、悔しさと悲しみで胸が避けそうだったが、仕方なく山を下り、自ら作った甘い菓子を国王に召し上がっていただくよう、ジュクモに託した。
 ジュクモはその言葉は国王に告げず、美しい菓子だけを差し出した。
 ところがケサルが言った。
 「おや、この菓子はメイサでなければ作れない味わいだ。彼女はここへ登って来たのか。下で何か起こったのだろうか」
 
 「大王様、何とおっしゃいました。ジュクモにはこのようにおいしいものは作れないとでも…」

 ケサルは、下で何も起きてなければそれでいい、とだけ答えた。

 修業では、前の七日ほど気が入らなかった。
 心のどこかで、ジュクモは何かを隠しごとをしているように感じていたが、それ以上探求しなかった。
 女たちの間のことは追及しても何の結論も出ず、面倒が増えるだけなのを知っていたからである。

 ケサルはジュクモに言った。
 「お前たちはいつもは仲睦まじい。それなのになぜ、陰に陽に争うのだ。女とはそういうものなのか」

 ジュクモは言った。
 「もし大王様がジュクモ一人だけを想っていてくださったら、私たち仲の良い姉妹はお互いの心を弄ぶことはなかったのです」

 「それは、私が間違っているということか」

 ジュクモはうなだれて悲しげな表情で言った。

 「王様の間違いではありません。それは宮中の決め事が間違っているのです」

 その表情にケサルも心を痛めた。
 十二王妃の内、ケサルは何時もジュクモにより多くの愛を注いでいたのである。

 修業が山場を迎えると、ケサルは時の経つのを忘れた。
 ジュクモには時が来た時でなければ洞窟に入って邪魔をしないようにと伝えてあった。

 だがその日、洞窟の入り口から光が射し、ジュクモが入って来た。ケサルは尋ねた。
 「時が来たのか」

 ジュクモはうなだれて答えなかった。
 ケサルは不安を感じ、何か起きたのかと尋ねた。
 彼女は言った。
 
 数日前、ジュクモが北の魔王ロザンにさらわれました。

 ケサルはその時、天の母が夢に託してメイサと共に修行に行くように告げた深い意味が分かった。
 だが、自分を責めるべきか、ジュクモを責めるべきか分からなかった。
 更には、トトンが背後で策を弄していることなど知るよしもなかった。

 ロザンがメイサに魅せられたのをトトンは早くから知っていた。
 より強い契機となったのは、ケサルが競馬で王になり、賞品であったジュクモを奪っただけでなく、リンで最も美しい十二人の女性を総て王妃としたことを、トトンは歯がみをするほど悔しく思っていたことである。

 今回、ケサルが山に籠って修行すると知るや、すぐにカラスを遣いとして放ち、この知らせをロザンに伝えた。
 すると、ロザンはすぐさま黒い雲に化身し、心に思い続けていたメイサを包み込んで連れ去ったのである。

 ケサルは言った。
 「メイサを連れて修行に行くと私が言った時、お前はわざと行かせなかったな」

 「もしメイサを連れて行ったら、ロザンは私をさらったでしょう」








阿来『ケサル王』 74 物語 愛する妃

2014-11-09 18:22:54 | ケサル
物語:愛する妃 その2





 大臣たちは、国王に新しい妃を用意すべきかどうか再び協議した。
 リン国ではジュクモたち12姉妹が美女を代表していて、もし更に求めるなら、国の外へ行かなくてはならない。

 臣下たちは、この件では国王が自ら口にするのを待つ訳にはいかないのを知っていた。
 そこで、ある日の朝の政務の場で、使者を選び厚い礼を以て各国に妃を求めに遣わすよう、トトンが上奏した。
 ケサルは、これもまた国王としてあるべきことと考え、他の上奏と同じように、規則に従って許可した。

 政務が終わり、宮殿に戻ると、ジュクモが垂れ幕の後ろに隠れて涙を流しているのを目にした。
 ケサルは、国の外に妃を求めに行くという知らせがすでに宮中に伝わり、そのためジュクモが悲しんでいるとは知らず、なぜ泣いているのかと尋ねた。
 ジュクモが砂の粒が目に入ったと答えると、ケサルはそれ以上は尋ねなかった。

 その時ジュクモが以前ケサルが尋ねた問を問いかけた。
 「国王であるとは、こういうことなのですか」

 こう尋ねられて、また心が塞ぎ、ケサルは疲れ果てたように寝台に凭れ、そして、いつの間にか夢の中に入っていった。

 瑞雲が立ち込め、不思議な香りが溢れる中、天の母ランマダムが目の前に立っていた。
 「息子よ、なぜ何もしないでいるのですか」

 「すべきことは臣下の者がすべて執り行いました。そのため私はやるべきことがありません」

 「だからといって、一日中遊びに耽っていてはなりません。そのまま時が経てば、あなたの法力は失われます。再び妖魔がはびこった時、どう対処するのですか。何事も天に頼ろうとしているのではないでしょうね」

 ケサルは即座に、妃を求めに使者が出発するのを止め、自分は妃たちと離れて古熱神山の洞窟に行き、一人籠って修行する、との思いを伝えた。

 天の母は言った。
 「それならば、メイサを連れて行きなさい」

 「なぜジュクモではないのですか」

 「メイサを連れて行けば悪いことは起こらないでしょう。私は天の神々の意志を伝えに来たのです。覚えておきなさい。
  修業は必ず三七、二十一日間しなくてはなりません。

 ケサルは天の母が訳あって来たのを知らなかった。

 元々、北にはヤルカンという魔の国があった。
 その魔王ロザンはケサルの12人の妃の美しさを聞いて、雲に載ってやって来て、リンの国を一巡り見て回ったのだった。
 その時、魔法にかかったように、リン国の王妃メイサのことが忘れられなくなった。

 神は、ロザンが常には自分の地盤を守り、周りに悪事を働くことがないのを見ていたので、思いのままに動き回るに任せていた。
 だがこの時は、食べ物も喉を通らないほどに、ただ一目見ただけのメイサで頭がいっぱいになり、今にも事を起こしそうに見えた。

 ならば、ランマダムに夢に託してケサルにメイサを連れて洞窟へ修行に行かせ、暫く姿を隠し、魔王のよこしまな想いが収まってから処分を施そう、と考えられたのである。

 ロザンは巨体で、超人的な体力を持っている。
 そこで神は、ケサルに忿怒大力の法を修行させようとした。

 ケサルはこのいきさつを知らなかった。

 短い眠りから醒めても、部屋中に不思議な香りが残っていてた。
 ジュクモは訳を知らず、ケサルに纏わりついて、香料師が新しい発明をしたのか聞き出そうとした。
 
 ケサルは天の母が夢に託したことには触れず、ただこう言った。
 自分はメイサを連れて宮殿を出て、古熱山の洞穴に籠って大力忿怒の法を修行する、と。

 ジュクモは不機嫌に言った。
 「12姉妹では私が一番上なのに、どうしてメイサが王様の修業のお供をするのですか」

 そこでケサルは言った。
 「天の母が神の考えを伝えに来たのだ」

 そこでジュクモはメイサを訪ねた。
 「王様は山に籠って修行されるようよ。あなたを連れて行こうとしているけど、姉妹の中であなたが一番心が細やかでしょう。だから、あなたには残ってメドナズお母様の面倒を見て欲しいの」

 メイサはジュクモが言うのも尤もだと思い、頷いて承諾した。









阿来『ケサル王』 73 物語 愛する妃

2014-11-03 02:12:37 | ケサル
物語:愛する妃 その1



 リンが国として興ってから、ケサルは、国王とはなすべきことが少ないものだと感じていた。
 国家として整った構造は、これまでを一つの政の単位としていた纏まりのない状況よりはるかに優っていた。

 この状況について宮廷の医師はうまい喩えをした。
 それはあたかも人の体のように、経絡と血脈がきちんと通じていれば、活力にあふれた命の気は一巡りしては元に戻り、それを繰り返しながら、自然に流れていくのです、と。

 医師は言った。
 「文では首席大臣ロンツアチャケンがすべてを執り行い、武では将軍たちが辺境を守っております。王様は安心して国王としての楽しみを味われますように」

 「では国王としての楽しみとは何だ」ケサルは尋ねた。

 ケサルは、国王であるということは、毎日楽士の奏でる優雅で魅惑的な音楽を聴きながら金や玉の杯で酒を飲み、寝てはまた醒め、美しい女たちの間を行き来することであるはずがない、と言いたかった。
 日毎行われる朝の政務で上奏されるのはすべて、作物はよく実り、辺境の治安は良く守られ、国は太平、民は平安、というものばかりである。

 国王は何か事が起こるのではないかと思えてならなかった。
 「お前たちが言うことはすべて本当なのか」

 こう尋ねられて、全身全霊を捧げ責務を果たしている大臣たちは深く傷つき、首席大臣であるロンツアでさえも悲しげな表情で言った。
 「王よ、国を上げての安泰を、お喜びになるべきです」

 こうしてケサルは、一国の王であっても心のままを口にしてはならないのだと知った。

 彼は、朝の政務を終え宮殿に帰ると、重い朝服の着替えを手伝うジュクモに言った。
 「なぜ、瞬く間に何もすることがなくなってしまったのだろう」

 ジュクモはいぶかしげな表情をした。
 「国が安らかだというのはそういうものです。天が王様を下界へ遣わされたのは、リンを一つの国とし、英明な国王によって民に穏やかな日々を与えるためではありませんか」

 ケサルの笑顔には疲れの色があった。
 「国王になるとはこういうことだとは思ってもいなかった」

 そこでジュクモはケサルに寄り添い、体の中にある深い愛で国王を慰め、楽しませた。
 だが、ケサルの目には、空に黒い雲が漂うように、けだるさが浮かんでいた。

 ジュクモは御殿医を呼び、国王がこれまでのように生気を漲らせる方法を考えるよう命じた。
 医師が示したのは一種の媚薬だった。

 首席大臣はこれを知り、言った。
 「我が国王は神そのものである。そのようなつまらぬ処方は必要ない」

 またしてもトトンが一つの策を上奏した。
 「王妃はリン一番の色香をお持ちだが、毎夜のお相手には無理がある。国王は女に飽きたのではなく、毎日同じ方と過ごしたために、その感覚が鈍くなったのではないか」

 「お前の考えとは…」

 「ワシだけの考えではない。尋ねてみれば分かるだろう。この人の世のどの国でも、国王の周りには妃が雲のように集まり、後宮が並んでいるのだぞ」

 このことをジュクモに相談するのは憚られた。
 ロンツァは文の大臣を引き連れて、太后となったメドナズに相談した。

 メドナズは剛毅な龍の宮の出であり、当然のようにそれを良しとした。
 「ジュクモは生まれながらに勝ち気な性格です。もし他の国から妃を娶ったら彼女は受け入れないでしょう。
  息子が王になる前、彼女はリンの美しい娘と共に12姉妹と呼ばれ、お互いに慈しみ合ってきました。
  いっそのことその11人の娘をみな宮中に入れ、12王妃としてはどうでしょう」

 そこでまた盛大な宴が催され、楽隊は技の限りを尽くし、武人は宮殿の前で矢を競い合った。
 11人の姉妹は国王の前で喜びの表情を見せた。

 ジュクモは心の内で涙を流したが、皆の前では姉妹たちと睦まじくしていた。

 国王は妃たちと楽しそうに打ち融け合い、心の中にあった憂鬱は消えたかのように見えた。

 ある日、朝の政務を終え、国王は特別に首席大臣の労を慰め、温かくねぎらった。
 ロンツァは胸の前の白い髭を撫で、朗らかに答えた。

 「私は齢八十となりました。これからの80年も王さまに仕えたく存じます。
  我が国が安らかで繁栄しているのは、国王が天の意を受けもたらした賜物であります。
  どうぞリンの磐石な国土をいつまでもお治め下さい」

 臣下たちはみな国王の安穏が国の安穏と信じていた。
 ケサルも彼らの想いに従い、暫く静かな時を過ごした。

 この夜は妃メイサが王の世話に当たっていた。
 朝起きると、ケサルはまたジュクモに言ったと同じ言葉を口にした。
 「これが国王になるということか」

 メイサは言った。
 「今日は小国の者たちが珍しい宝を献上するそうです。王様もいらっしゃったらいかがですか」

 ケサルはけだるい表情で言った。
 「数日前、首席大臣が、新たに貢物を収めるための蔵を建てるよう上奏していた。
  それ程多くの貢物をすべて見尽くすことは出来ないだろう」