塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来の新作 汶川大地震を描いた『雲中記』

2018-12-26 23:00:47 | 塵埃落定
阿来の新作 『雲中記』

今年は四川省で大地震が起こってから10年目に当たる。5月12日だった。私が初めてチベット地区へ行った次の年である。

震源地の近くを故郷とする作家阿来は、すぐさま妹のいる現地へ向かった。途中の車の中で同郷の作家たちと連絡を取り、壊れた小学校再建を目指すが、政府の政策と合わず叶わなかった。
様々な被災者たちの物語を目にしながらも、それを急いで作品にすることを封印した。次の年、山奥の小さな村の40年を通して地震とは違う現代史の揺れを描き出した『空山』を世に出す。今年、それは『ジル村の物語』として新たな装いで出版された。
作家としての当時の思いをインタビューで語っている。
https://m.thecover.cn/news_details.html?id=1514469&from=timeline&isappinstalled=0

そして今、地震を描いた作品が出来上がった。
なぜ阿来は地震後すぐに書かなかったのか。それは、書くのであればその作品を末長く読まれるに値するものにしたかったからであり、そうでなければ、地震で亡くなった方々に恥じることになると考えたからだという。長い間読まれ続けるにはどうしたらよいか。その題材と共に、どのように書くかが重要だ、よりよい方法が見つからなければ、その時を待とう。阿来はそう考えた。

地震から10年たった今年、2018年5月、阿来の心に一つの小さなエピソードがよみがえり、亡くなった多くの命を想って涙が止まらなくなった。書くべき時が来た、そう感じた阿来は、そのまま、長い間温めて来た作品に取り掛かった。その日、書斎で一人、涙を流しながら筆を進めたという。

題名は『雲中記』。雲中とは地震で消えてしまった村の名前である。雲中記の三文字は、また、清らかで美しい響きを持っている。この世にはたくさんの悲しみがあり、だから我々の魂は美しいものを必要としている。これは阿来の大切にしている美意識であり、必ず作品の中に反映されているだろう。

この作品の始めでこう書いた、と阿来は語っている。
地震で尊い命を失った人々に捧げる、そして、この地震の救済に当たった人々に捧げる、そして、モーツアルトに感謝する、と。
地震直後、阿来は何度も被災地を訪ねた。被災者を取材するためではなく、傷ついた人々と共もにいるためだった。成都から被災地に向かう途中、何度もモーツアルトのレクイエムを聞いた。この作品はその厳粛な哀悼の調べのもとで書かれたのだ。

雲中記は雑誌十月2019年第一期に掲載された。
日本で読める日が早く来ますように。










もう一冊インドベンガルの小説『ジャクモーハンの死』

2018-12-23 23:24:44 | 読書


ベンガルの小説 『ジャクモーハンの死』モハッシェタ・デビ

もっとベンガルの小説が読みたくて見つけたのがこの作品集。
「ジャクモーハンの死」(1970年?)と「千八十四番の母」(1973年)が収録されている。

作者は1926年生まれ。作家であり、不可触民・部族民の地位向上・自立を目指した活動家でもある。
解説にあった彼女の言葉が印象的だった。
「私は(インド独立後)現在の社会構造が変わることを渇望するが、単なる党派性に基づく政治には信を置いていない。インド独立後三十一年の間に…(国民の)解放をもたらさなかった社会構造に対する一点の曇りもない、純白の、太陽にも等しい怒りこそが私のすべての作品を鼓舞する」
かなり激しい人のようだ。

収録されている「千八十四番の母」は、彼女の中では珍しく抒情的な作品だという。
亡くなった息子がナクサライト運動に参加していたことを知った母親が、生前には家族には見せなかった息子の真の姿を見つけていく物語。
息子が運動の当事者として命を落としたと知った時、事業で成功している父親は遺体と会うより先に、その死が公表され仕事に影響が出ることを恐れ、もみ消しに奔走する。そんな家庭に違和感を持つ母親は同じ闘争で息子を失った母親や、息子の恋人を訪ね、息子を理解していく。だが、彼女たちとは心の中では通じ合いながら、やはり階級の差によって、完全には共感し合えないまま物語は終わる。
古い社会と新しい時代の動きの狭間に戸惑う母親と、純粋な若者つながりがせめてもの救いとなる。


ナクサライトとは、1975年に西ベンガル州を中心に起こった、「インド共産党マルクス派(CPI-M)」傘下の農民組織による激しい反地主闘争・極左政治運動の総称。闘争の発生した場所・ナクサバリをとってこう呼ばれている。中国の農民革命をモデルに、農民の武装蜂起により都市を包囲して権力を奪取する革命理論を信奉していたという。
当時中国はこの運動を「インドの春雷」と賛美した。
当時の中華人民共和国政府の支援のもとで進められたナクサライト運動は、インド全体の革命運動から孤立し、インド政府による弾圧も加えられ、インド政治の地図上からは消滅してしまった。
多くの若者―特にベンガルの中産階級の家庭の子弟が参加し、命を落とした。
だが、あまり語られていないようだ。

現代の作家・ジュンパラヒリも『低地』で、ナクサライトに参加して命を落とした若者とその後の家族を描いていて、この運動の悲しさを知らされる。

1925年に結成されたインド共産党だが、ナクサライトの中心となった「インド共産党マルクス主義派(CPI-M)」と袂を分かった穏健派(CPI)はそのまま残り、1980年代以降は、州・連邦議会選挙にも参加している。


もう一つ収録されている「ジャクモーハンの死」は、飼い主に捨てられたジャクモーハンという象の物語。食べ物を求めて西ベンガルの地を彷徨い、行く先々で飢饉や部族間の闘争と出会って行く。






インド・ベンガルの小説 タラションコル・ボンドバッタエ

2018-12-15 00:40:31 | 読書



タラションコル・ボンドバッタエ(1897年生まれ)
『船頭タリニ』 大西正幸 訳  
『ジョルシャコル』 丹羽京子 訳 

ベンガルの小説を読みたくて見つけたタラションコル・ボンドバッタエの短編集。
語られる物語は多彩だが、結末は予想外に過酷だった。

洪水から逃れる途中で妻を置き去りにしてしまう船頭、
周りから魔女だと言われ続け、自らもそう信じてしまう少女、
強盗と殺人を代々受け継ぐ棒使いの一家、
僧と出会い愛し合うが別れて一人生きていく純真なバウル、
蛇使い、炭鉱夫…
美しく厳しい自然に囲まれ、辛辣ながら親密な会話を楽しみ、それでも、抜け道のない暮らしに捕らわれ悲しい結末を招くことになる。

出口のない辛さはバラモンである領主の華麗な生活の中にもある。
ヒンドゥー教にはシヴァ神を信仰し性器崇拝をする性力派と、ヴィシュヌ神を信仰しクリシュナへの信愛を説く信愛派がある。司祭であるバラモンは、それぞれの信仰を守ろうとして、家族や領民を傷つけ苦しめて悩む。その姿は、より悲愴と言えるかもしれない。

表題の「ジョルシャコル」は、七代にわたり領主として権勢を誇ったラエ家の終末を描いている。
新興の資産家に領主の地位を奪われ、崩れかけた屋敷で無聊の日々を送る末代のラエは、最後に意地と誇りをかけて音楽の宴を開く。代々の領主は音楽を通して文化を受け継ぐ者としての役割も果たして来た。だが、成り上がりの新領主はそれを理解できず、礼節は無視され、宴は哀しい幕切れとなり、音楽堂(ジョルシャコル)の扉は末代ラエの命で固く閉じられる。

そのラエ家の四代目を描いた「ラエ家」は、洪水の夜、妻子を失った領主が音楽堂に灯る明かりを見て、再び生きる決意を下すまでの心の葛藤が壮大に描かれている。この作品はタゴールが絶賛し、その詩にも影響がみられると言われている。

タラションコルはタゴールより少し年下の同時代の作家であり、作品を通してお互いに刺激を与えあった。

訳者による解説に、運命的とも言える二人のつながりが書かれていた。

1905年、ベンガル分割令が発令された年、「ラキ・ボンドン」という儀式がベンガルで行われた。「ラキ・ボンドン」は兄弟姉妹間の絆を祝うため、女性が兄弟の腕に紐を巻き付ける行事で、「兄弟姉妹祭り」とも呼ばれる。
本来は8月に行われ、夏にインドに行くと、この時期道端の差し掛け小屋で様々に意匠を凝らした紐が売られている。
タゴールは、宗教の違いを超えた同胞意識を高めるための象徴的な行為として、この年の10月16日に全ベンガルでこの祭りを行うことを提唱した。
幼いタラションコルも活動家である知人の女性から紐を結んでもらい、その時の感動が民族主義運動にかかわりを持つ出発点となったという。特に目立った運動には参加しなかったが、その想いは彼の作品の中に流れ続けている。

以前、映画「英国提督 最後の家」を見て、印パ分離独立の時タゴールが生きていたらどうしただろう、と考えずにはいられなかった。
祖国の分裂と虐殺という悲惨な状況を嘆き悲しみ、憤りのあまり憤死したかもしれない。いや、だが、タゴールならきっとそれを未然に防ぐ方法を用意しただろう。この「ラキ・ボンドン」のように、戦いではなく美しい行いによって。
タゴールの深い洞察力と詩に裏付けされた精神は人々に大きな影響を与えている。

タラションコルの作品は悲しみに満ちている。だが、その先にあるものを見つめる強さが、読む者に清々しい印象を残す。


「ジョルシャコルজলসাঘর」はサタジット・レイが映画化し、今でもYouTubeで見ることができる。
https://www.youtube.com/watch?v=9dCYfC1g_QQ
https://www.youtube.com/watch?v=6QAg1ga1z2A

日本では「音楽サロン」という題名で2008年に銀座エルメスで上映された。









阿来初期短編『寐(眠る)』

2018-12-06 01:15:56 | 塵埃落定
「眠る」(要約)


予感は存在すると確信しなくてはならない。
「私」が羊飼いが自分の想像の世界に入って来るのを予感したのと同じように。

私はジープに乗って甘村にやって来た。かつての右派で自分は反逆者だと誇っている同乗の男が、小説を書く時に守らなくてはならないことを私に語っている。私は文学の世界と現実の世界の違いを考える。そして、羊と羊飼いの姿を見る。羊飼いは「来いよ」という。私は「来たよ」と答える。


12年前、流れ者の暮らしをしていた私はこの村で足を脱臼し、土地の医者の手当を受けた。医者は白楊の木の皮を私の足に巻き脱臼を直してくれた。医者は白楊の木が枯れるごとに、新たに木を植えて補充していた。

私はここで羊飼いに出会う。彼は十年間木を植えるための穴を掘り続けている。羊が木の葉を食べて枯らしてしまうからだ。山には七百個の小さな穴がある。なぜか分からないが、私はそのすべてをはっきりと分かっていた。それを想像力と呼ぶ。そして、羊飼いがこの日私がここに来るのをぼんやりと予感しているのも分かっていた。

あの医者はすでに亡くなっていて、私は一晩羊飼いの家に泊まる。羊飼いは父親の残した宝――磁器の瓶を写真に撮らせようとする。

その時羊飼いは突然私に言う。「あの時来たのはお前だろう」。十二年前、一人の少年がこの宝を盗みに来たが見つかってしまい、壁を超えようとして足を脱臼した。村の医者は親切にその子の傷を治した。その後、その子はこっそりと出て行った。「あの時お前はこの宝を盗りに来たのだ」。
よく覚えていない、と私は答える。「その子は宝を盗もうとしたのではなく、トウモロコシを盗もうとしたのかもしれない」。羊飼いはしばらく黙ってからうなずく。私は「帰るよ」という。羊飼いは「寝て行け」と言う。だが、私は寝付けない。私はすべてを忘れてしまったのかもしれない、そして、何も忘れていないのかもしれない。
その夜、私は医者の植えた木の夢を見た。この小説の作者が木の葉の間でイェイツの詩を暗唱していた。

青春のはじめての恍惚の後、私は
日々考え、ヤギを見つけたが
道筋は見つけられなかった
歌おう。もしかして、お前が考える間に
いくらかの薬草を抜き取ることが出来て、私たちの悲しみは
もうあのように苦くはなくなるかもしれない。



*****


想像と現実が入り混じる不思議な物語だ。現在の自分と過去の自分。過去に出会った羊飼い。お互いがお互いを予感し、それらが一つに重なっていく。それが創作であり、現実を超えた確かで同時にあやふやな想像を孕んでいる。
イェイツ。ヨーロッパ大陸に遍在していた古い民族・ケルトの詩人に阿来は惹かれたていた。その詩に触発された実験的作品と言えるかもしれない。