塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 152 物語 妖妃乱れる

2016-05-09 09:41:56 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


物語:妖妃乱れる その2



 病の皇后との面会が許される日、公主が宮中に上がり母を尋ねると、寝屋には帳が幾重にも懸かり、甘い薬草の匂いが立ち込めていた。折り重なる帳を通して、父である皇帝が皇后に尋ねているのが聞こえた。

 「そなたの弱った体が回復するようにと、国中に名医を募った。国の蔵から褒美として多くの銀と財物を分け与えた。それなのに、なぜそなたの病は癒えないのだ」

 皇后はすすり泣いた。
 「陛下、私の病は国中のすべての財物を使い果たしても良くはならないのです」

 「もう手立ては無いというのか」

 「私は陛下の民の目と口の魔力を受けてしまいました。ですから、一度は死ななくてはならないのです。もし陛下が本当に私を惜しいと思って下さるなら、私がみまかった後、私の言葉通りになさって下さいますか。そうすれば必ず生き返り、またお仕えすることが出来るでしょう」

 「そなたと結ばれてからは、もう他の女を愛することは出来ない。そなたは本当に生きかえるのだな。夫婦となってまた愛し合えるというのだな」

 皇后は皇帝に伝えた。
 自分の言葉通りに行えば、必ず生き返る、死んだ後、亡骸を上等な絹で包み、僅かな光も入らない密室に置くように、と。
 「陛下は命を下し、太陽を金の蔵に閉じ込め、月を銀の蔵に閉じ込め、星を螺鈿の蔵に閉じ込めるようにして下さい。空に鳥を飛ばさず、水中に魚を泳がせず、風さえも吹かせないようにしてください」
 自分は、九年の間暗く鎮まった場にいなくてはならない。三年の間に再び血が流れ始め、その後の三年で皮膚が蘇り、さらに三年の間に肉と骨が力を取り戻す。生き返った後は、美しさはこれまでに勝り、永遠の命を得て、皇帝と共に終わりのない楽しみを味わえるのだ、と。

 皇帝は尋ねた。
 「そなたは永遠の命を得るが、私はどうなのだ。私は死ぬのだ。そうであれば、永遠にそなたは私のものにならず、他の皇帝のものになってしまう」

 「私がお助けいたします」

 「私に永遠の命をくれるのか」

 皇后の言葉は力なく虚ろだった「心配なさらずに、永遠の命が得られるようお助けいたしましょう」

 それはあり得ないと悟った皇帝の心に、悲しみが込み上げた。皇帝の表情は皇后を不安にしたが、もはやこれだけが一縷の望みと、妖皇后はそのまま語り続けた。
 「私が死んだ後、伽国はリン国とのすべての交通と交易を断ち、リン国へと通じるすべての橋を壊し、渡し場を閉ざさなくてはなりません。私の死は重大な秘密とし、リン国へ伝えてはなりません」

 「何故だ」

 「もしケサルが知ったら、私の亡骸を燃やそうとやって来るでしょう。そうなれば、もう生き返ることは出来ないのです。切に、切に、お願い致します」

 公主アグンツォの耳はこれらすべてをしっかりと聞き取った。

 間もなく、皇后は死んだ。長い間公主は深い悲しみの中にいた。だが、父王の哀しみはその十倍、百倍を超え、毎夜密室の中で皇后の傍らに眠り、自らの体温で皇后の亡骸を温めた。この時から伽国は太陽を失い、月を失い、夜ごとに静かに煌めく星までも失った。
 こうして、国中すべてが暗黒に包まれた。鳥はもはや鳴かず、花はもはや咲かず、人々は歌うことなく、その苦しみは言葉にならなかった。

 公主は、自分を生んだ母は実は人の世を乱す妖怪だったのだと知った。もし意のままに生き返らせたら、この国はこれからどのような災いを受けるか分からない。様々に思いを巡らせ、純真な公主は母の亡骸をこの世から消し去り、民を救い、伽国に再び光をもたらす決心をした。
 最後に、共に成長した姉妹たちに思いを伝え、ハトに手紙を持たせるという方法に思い至り、リン国の国王ケサルの助けを求めたのである。

 こうして、暗闇の中で黒い絹に金の糸で刺繍された手紙がケサルの下に届いた。

 難題は、手紙に書かれている、亡骸を消滅させるために無くてはならないという緑、白、赤、黄、青各色のトルコ石で編まれた組紐のことだった。
 この組紐はアサイという羅刹の頭に飾られていた。トルコ石は組紐として編まれ羅刹の頭に結ばれ、彼と共に長い年月修行して来たという。ケサルが、一体何年になるのかと尋ねると、少なくとも三百年は経っているとのこと。さらに不思議なのは、誰もが羅刹の存在を知っているのに、どこへ会いに行けばよいのかは誰も知らないのだった。

 この時トトンが地下の牢で意気揚々と自作の歌を歌うのが聞こえた。

   雨が降る時を知りたくば、天の雲に尋ねるがよい。
   雲は鷹よりも空高く昇るのだから。
   だが、アサイの行方を知る者は 地下の牢につながれたまま


 トトンが最初に歌った時、誰もがあざ笑った。彼が何度も歌い続けると、国王の探るような真剣なまなざしに、笑った者たちはみな気まずくなった。誰もその羅刹と話したことはなく、彼がどこにいるかはもちろん分からなかった。

 トトンはまだ自分で作った歌を歌い続けていた。
 ケサルはニヤリとした。
 「死んでしかるべき罪人を殺さなかったのは、この時に役立たせるためだったのか」
 言い終ると暗い牢に繋がれている叔父を連れて来させた。

 「罪人よ、その羅刹は本当にトルコ石の組紐を頭に飾っているのか。今どこに隠れ住んでいるのか」

 「尊敬する国王よ、手を縛っている縄があまりにきつく、舌がこわばってしまったぞ」

 「死を前にしてそれだけ口が回れば十分でしょう。叔父上は気が弱かったはず。なぜ今は恐れないのですか」

 「真に死に臨めば、恐れて何になろう。ましてや、甥が伽の地へ行って妖魔を倒そうとしている時に、ワシが役に立つと思えば、もう恐れる理由は無いではないか」

 「叔父上がおっしゃりたいのは、叔父上がいなければ、私は偉業を成し遂げられないということですか」

 トトンの目は音を立てるほどにグルグルと回った。
 「ワシはただ、このトトンがいれば事は容易い、と言っているだけじゃ」

 「誰か、縄を解け」

 縄が解かれると、トトンは拝伏した。
 「再び生かされた恩に感謝する」








阿来『ケサル王』 151 物語 妖妃乱れる

2016-05-01 16:33:01 | ケサル
 ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:妖妃乱れる




 手紙を書いたのは伽国の公主だった。

 「わたくし大伽国公主は、天から降った英雄ケサル大王の御前に、拝伏してご挨拶を申し上げます。お願いしたきことにつき細かく述べますことをお許しください」

 もともと、広大な領土と多くの民を有する伽国皇帝もまた天によって封じられた者だった。国内の大臣は万を超え、辺境に封じられた首領は数え切れなかった。宮中の妃は1500人にも昇ったが、どの妃も皇帝ガラガンゴンの心を満たすことは出来ず、そのためこれまで皇后を立てられなかった。長い間皇后を頂かない世は、国中の人々を不安にしていた。

 だが、宮中のあれほど多くの妃たちもみな女性としての輝かしい時をとうに過ぎ、大臣たちは仕方なく他の手立てで皇后を探す画策をしていた。年ごとに貢物を納めに訪れる近隣の属国をあまねく訪ね歩いたが、やはり皇帝の意に沿わなかった。竜の国まで行けば高貴な家柄の美しく聡明な女性を迎えることが出来るかもしれない。大臣たちがそう思いついたところに、知らせが届いた。

 東海の竜宮に比類なく美しいニマチジという姫がいて、ちょうど嫁ぐべき年頃となり、その麗しさは言葉では言い尽せず、もし姫を妃に迎えれば皇帝は必ず満足されるだろう。

 伽国はこの時、これまでになく内向的な、自らの心と感情に耽溺し、政を顧みない皇帝を頂いていた。
 大臣たちは協議の末、皇帝には報告せずに、花嫁を迎えに行く使者の隊伍を整え、黄金、宝石、白銀、銅器、香木、象、孔雀、竜、鳳凰を持たせ、大きな船で東海へと向かわせた。

 ところが、彼らが着いたのは実は竜宮ではなかったのである。

 皇帝がどこまでも心の内に籠っていたため、伽国と竜宮は往来が途絶えて長い年月が立っていた。そのため、竜宮には今年頃の公主はいないことを大臣たちは知る由がなかった。彼らに届いた知らせとは、伽国を手に入れて人の世を惑わそうと考えた妖魔が思いついた計略だった。
 その計略は思いのほか易々と成功することとなった。

 大船は海上を九日間航行し、妖魔たちの用意した偽の竜宮に着いた。竜王はすぐさま求婚の使者の願いに応え、更に嫁入り道具としてたくさんの深海の宝をニマチジに与えた。盛大な宴会が三日続き、姫と侍女と海底の珍しい宝は、求婚の使いに伴われて海面に浮かび上がった。

 航海は順調で、三日も経たず海岸へ戻り着いた。
 姫は、肌は白く滑らかで水から取り出したばかりの貝に勝り、容貌は開いたばかりの花に勝り、歩く姿はそよ風が軽く水面を撫でるかのようだった。類まれな美女は、当然皇帝の心を捉えた。常に寄り添い、夜の床で愛をはぐくむのはもとより、皇帝の最大の願いは宮殿を出て天地を祭る神事に皇后を携え、多くの民に美しい伴侶を誇示することだった。
 皇帝がこれほど美しい皇后を得たことを民が自らの幸せと誇りに感じて欲しいと望んだ。

 春になった。
 風が宮殿の外の柳を緑に染め、土地の神と五穀の神を祭る日となった。だが、ニマチジは宮殿を出ようとしなかった。
 
 皇后は皇帝に尋ねた。
 「私は美しいですか」

 「美しいという言葉ではそなたの姿かたちを言い尽すことは出来ぬ」

 ニマチジは涙を流した。
 「陛下。言葉では言い尽くせないという私の美しさは、ただ陛下だけのもの。民たちに見せることはなりません。それが神様のおぼしめしなのです」

 彼女は皇帝に告げた。この世で最も美しいものは最も脆く最も壊れやすく、民の憧憬の眼差しと賛美の言葉はどれも彼女を強く損なうのだ、と。

 「陛下。民の視線は私にとっては目の魔力であり、民の言葉は私にとっては口の魔力なのです。彼らの目と舌に晒されるのは、私にとって一輪の花が寒風と霜の中に置かれるようなものなのです」

 皇帝は仕方なく一人で出かけた。
 それからは、皇帝は自ら祭を取り行おうとはせず、皇后と共に後宮に籠り、政にかまわず、姫に仕えるために着き従って来た竜女を通して大臣に自らの意志を伝えるようになった。ほとんどの時、竜女たちが伝えたのはでたらめに作られた偽の詔だった。

 妖皇后が宮廷を惑わしたため、国では多くの災害と異常現象が次々と起こった。
 湖は枯れ、澄んだ鳴き声を高らかに響かせていた鶴は他へ移り、宮廷の画師が描いた絹の上の鶴さえも羽根を振るわせて去って行った。雄大な山が途中から崩れ、河は流れを変えた。ある土地では命の拠り所である水源が枯れ、ある土地では大水が道や町や村を覆った。

 皇帝と妖皇后が生んだ公主アグツォが十三歳になった時、この国を襲う災難は更に深刻になっていた。
 大臣たちも、これらの災難は妖皇后が宮廷を惑わしたためだと、考えるようになった。そしてついに、妖皇后ニマチジは竜宮の生まれではなく、九人の魔女の生気と血が混ざり合って生まれたものだと知った。

 そこで公主の十五歳の成人の儀を借りて、盛大な祝いの席を設け、天の神の助けを願った。

 妖皇后の人間界での寿命を終わらせるため、天の神、水の神、山の神それぞれがびっこ、めくら、おしに扮し、牛とロバを追いながら街に現れた。三人は王宮前の広場までやって来ると、牛とロバのしっぽを結び付け、それぞれに得意な芸を演じ始めた。おしはひらひらと飛ぶように舞い、めくらはよく通る声で高らかに歌い、びっこは手品で観衆の目をくらませた。踊りと歌と手品と、これまでに見たことも聞いたこともない出し物に、町中が湧きかえった。

 広場の喧噪と歓声はそのまま宮中に伝わり、三日三晩続くと、ニマチジは好奇心を抑えきれなくなり、頭から薄絹をかぶり、夕暮れに紛れて広場を見下ろす宮殿の楼閣に登った。

 この時一陣の風が吹き、人々の目線を避けるための薄絹を靡かせ、地平線に近づいていた太陽がその日最後の閃光を放って楼閣を照らした。ニマチジの麗しい姿が何千という人々の目に晒された。
 多くの視線が彼女の上に同時に集まり、多くの口から驚きと賛美の言葉が湧き上がった。美しい妖皇后、未だ修練が成就していない妖怪は、人々の口の魔力と目の魔力をまともに受けた。冷たい風と厳しい霜がなよやかな美しい花に降りたように、宮中に戻ったニマチジはその日から病に臥せった。

 妖皇后は病を得ると、誰とも会おうとせず、公主でさえ決められた時に会うしかなかった。