塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』⑫ 物語 神の子下界に降る

2013-07-23 02:40:37 | ケサル

「物語 神の子下界に降る」 その3

 
 
 地上では、老総督がタントン・ギャルポを砦の中に招き入れ、集会の間で、上師の前に深々と拝伏していた。
 「昨日の夜、上師が私の夢を通って行かれました。今日は、どうぞ私のために、そして苦海に沈みそうなリンの民のために、この夢を詳しく解いて頂きたいのです」

 タントン・ギャルポは笑った
 「よいだろう、私にうかつにも人の夢をかすめさせたのは、どなたかの仕業だろう。
  さて、少しは法力があるとはいえ、口が渇いたままでは夢を解くことは出来ぬ」
 
 老総督は自分の頭を叩いて言った。「水をお持ちするのだ」

 清らかに澄んだ泉の水が捧げされた。
 「いや、乳だ」老総督は手を振りながら言った。
 上師は口をすぼめて甘い泉の水をすすり、一息で牛乳を飲み干した。

 「このように長い道のりは、自分の足で一歩ずつ歩いて来たのではなくとも、腹の中にはいささか隙間が出来るものだ」
 「もう一杯お召し上がりください」

 「もうよい。さて、おまえの夢について語ろう」

 老総督は姿勢を正し上師の下座に座り、頭を深々と下げて言った。
 「どうぞご開示ください」

 上師はよく通る声で語り出した


 「ウォン、 宇宙の万物に本来生死はない
  ア- 、 だが、哀れにも生死を受け継いだ衆生よ!
  フム 、 その不可思議な夢を解こう。聞くがよい」

 老総督は夢の中で東の山に昇る太陽を見た。
 これは、リンがこの後、慈悲と知恵の光で照らされることの象徴である。

 空から降りて来た金剛杵。
 これは、天から降される英雄が、老総督の治める地に誕生することの象徴である。
 英雄はついにはリンと呼ばれる偉大な国を作るであろう。

 センロンが夢の中に現れ、その手には宝傘があった。
 これは、センロンが、天から降される英雄の人間界での父親であることの象徴である。
 傘の影が覆う広大な地域とは、英雄である息子が作り上げる国の広大な領域を象徴している。


 
 上師の言葉を聞いて、老総督はたちまち、目の前の霧が晴れ光明に満たされるのを感じた。

 この時、リンの各の首領は多くの供を率いて聳え立つ山脈を超え、悠々と流れる河と湖を超え、それぞれの方角から相次いで到着し、老総督の砦の前に集まった。

 威厳に満ちた砦は、山脈が弓のように湾曲した要に高々と聳えている。
 西北から豊に水を湛えて流れて来るヤーロン河は、ちょうど山の湾曲に対して弦のような真っ直ぐな線を描き、弓と弦の内側は花々が咲き乱れる、あくまでも平らな草原である。
 老総督の砦の前には人や馬が賑やかに行きかい、色とりどりの旗が立ち並び、ごとに張られた天幕が草原を埋め尽くしていた。

 人々は祭りの正装に身を包み、まるで花々が艶やかさを競っていかのようだった。

 天幕は河が描き出す巨大な半円に面して並び、中央の集会用の大きな天幕を囲んでいた。集会用の天幕は真っ白な雪山のように高く聳え、その上を覆う金の頂は朝日のように目もくらむばかりに煌めいてた。

 天幕の中には金銀の席が整然と並べられ、英雄の席には英雄としての威厳をいや増す虎や豹の毛皮が敷かれていた。

 砦の上から頭領たちを集会に召集するほら貝の音が響いた。

 巨大な天幕の中では、まず各の頭領が位に応じて席に着き、次に各の集落の長たちが相次いで席に着いた。
 徳望の高い年配者は上座に、勇猛を誇る若者は下座についた。まさに、人には頭、首、肩があり、牛には角、背、尾があり、地には山、川、谷があるように、それぞれの分に応じていた。

 すべての人が賑々しく序列に従って席に着くと、老総督は皆に向かって自分が夢に見ためでたい兆しと、タントン・ギャルポの夢解きの言葉を伝えた。

 喜びの知らせは、巨大な天幕からすべての民へと電光のように伝わり、リンの民たちはひと時喜びに湧きかえった。

 老総督は燃えるような目で天幕に並み居る者たちを一渡り見回し、厳粛で重々しい表情で言った。

 「皆は聞いたことがあるだろう。リンの外に出れば、東西南北どの方角に行っても、すでにそれぞれ自分たちの国を作り上げている。
  王宮は壮麗で、秩序は整っている。知恵を持つ者は深い思考から生まれた言葉を学堂で伝え、田畑では豊かで味わい深い作物が収穫され、牧場から溢れる乳はまるで尽きることのない美味な泉のようである。

 だが、我がリンの民は、毛がついたままの血の滴る生肉を食らい、自身の外と内にいる妖魔の悪行に翻弄されるばかりである。
 それはなぜか。
 神が我々を加護されないのではなく、我々の行いに神の加護を得るほどの資格がないからである。

 今日、リンの者たち、特に我々大きな天幕に易々と坐り、多くの民の命運を決めている者たちは、自を省みなくてはならない」

 皆は一斉にうなずき、顔を伏せ、黙って自分の心の内を省みた。
 
 だが、ダロン部の首領トトンのように納得しない者がいた。
 彼は独りつぶやいた。

 「それは、首となるものが最も重い責任を負うべきことだ。もし、わしがリンの総督になったら……」

 
 
 他のの首領は軽蔑をこめて彼を制した「しっ!」

 
 「その態度は何だ!わしを家畜だとでもいうのか」

 
 「もし人間であるのなら、総督様のお言葉通り、我が身を省みるべきではないか!」



 各の民たちは集会の大天幕の中で起こったざわめきを知らなかった。
 ただ、天界からついに救いの手が伸べられ、下界のいざこざや苦しみは終わりを告げるのだと、思いのままに歓呼の声を挙げるばかりだった。

 数万の民の喜びの声はそのまま雲を突き抜け天庭に届いた。天庭の入り口の雲の幔幕は歓呼の声に激しく揺らめいた。

















阿来『ケサル王』⑪ 物語 神の子下界に降る

2013-07-16 01:10:01 | ケサル

「物語 神の子下界に降る」 その2


 「総督にお答えします。タントン・ギャルポ上師の修行の地は西の方のはず!」

 総督は仕方なくその経緯をみなに伝えた。

 「ワシはたった今夢を見た。
 その夢はリンの祖先三代には想像さえ出来なかった。その夢はリンの子孫三代にも見ることはできないだろう。
 我々黒い頭のチベット人は恩恵を受けられるのだろうか。
 タントン・ギャルポ上師もまた夢に姿を現わされた。すぐさま上師をお迎えし夢を完成していただこう」

 「上師は本当に来られるのですか」

 「上師はすでにリンに来ておられる。上師は既にマジャポムラ神山に降臨された。一番良い馬を牽き、最も心地良い輿を用意し、急いで迎えに行くのだ」


 老総督は早馬と、鳥の群れのように喜び勇む使者を、それぞれ長、仲、幼三つの各に派遣し、首領たちに、その月の十五日、日と月が同時に空に現れ、雪山が金の冠を被った時、必ず老総督の砦に集まるよう要請した。

 その時、タントン・ギャルポは迎えを待たず、藤の杖を手に総督の砦に至り、その場で歌を作り歌った。だが、着飾った馬の隊列と美しい輿は彼の前を通り過ぎ、そのまま東の山へと急いで行った。馬の隊列が巻き上げた土埃と、馬上の勇士たちの鋭い叫び声がタントン・ギャルポの姿を覆い隠していたからである。
 埃が収まった頃には、馬の隊列は既に遥か遠くに進んでいた。

 彼はまた歌い始め、その歌は砦の議事堂ですべての用意を終えた老総督を引きつけた。

 老総督の慧眼は、一目見るなり、この人物の奇怪ながら秀でた風貌と、手にしている杖の藤が仙山から採られたものであるのを見抜き、そこで、進み出て尋ねた。

 「あなたこそ知恵にあふれたタントン・ギャルポ上師とお見受けしました」
 上師は身を起こし、砦に背を向けて去ろうとした。
 老総督は追うことはせず、古い賛美の詩を唱えた。

 
  太陽は招きを受けない客人
  もし暖かな光を衆生に浴びせなければ
  むなしく運行するのみで何の用をなすのでしょう

  
  慈雨は不意の客人
  もし広大な田畑を潤さなければ、
  四方に降り注いでも何の役に立ちましょう




 上師は振り向いて砦の荘厳な入り口に立っている老総督と顔を合わせ、ハハと大声で笑った。

 「既に機縁には訪れた。機縁は訪れた!」

 その声は大きくはなかったが、早くも天庭に届き、遥か遠くのパドマサンバヴァの耳にも伝わった。

 声が天庭に届くと、大神は、神の子ツイバガワの神としての寿命がしばし途絶えることを知り、そこで、神々を招いて彼のために最後の加持をさせた。

 声がパドマサンバヴァに伝わると、彼の心は大いに休まり、静かに座ってリンの未来に多くの祝福を贈った。

 その時、神が人間を救うには様々な教えがあったのだが、大神は言った。
 「すでに仏教の一派であるパドマサンバヴァがリンの民たちと縁を結んでいる。
 仏教をリンの永遠の教えとしよう」

 すぐに仏教の奉る神々が大神の前に呼び出された。




      * * * * * * * * * * * *




 なんと!こんなふうにリンの宗教は決まったのですね!
 と言ってもこれは阿来の描くケサルの世界ですが…

 何とも、あっけらかんとした決定ではないでしょうか。
 かえって、天庭には様々な宗教の多くの神々が行きかい、思いのままに時を過ごされているのでは、とゆかいな想像すら誘われます。

 そんな想像を促すかのように、ケサルには様々な神々が登場し、様々な風習が描かれています。

 その中でも、最も重要なのは山の神に対する崇拝ではないでしょうか。

 チベットには広い草原を囲んでたくさんの険しい山々が聳えていますが、その中に神の山と崇められる聖山がいくつかあり、そこには山の神がいて、厳しい自然の中で暮らす人々を守っています。人々は時には何日もかけて山の周りを巡礼し、香りのよい木を焚いて、空高く昇って行く煙を通して神と繋がります。

 タントン・ギャルポが降臨したのは、カム地方で第一の神山・アニマチェン雪山の神様マジャポムラの住む所だと思われます。
 この山はケサルの守護神であり、戦いの神であり、さらに、総督の弟即ちケサルの父・センロンはこの山の神ではないかとも言われています。

 パドマサンバヴァは初めてリンの地に向かう途中で多くのボン教の妖魔を倒しましたが、それらはみな仏教の守護神となりました。
 こうして、チベット仏教はボン教を取り込み、ボン教の神々はその中に受け継がれ、ケサルの中で、そして今でも活躍しています。

 それよりはるか昔、チベットでは氏族の繋がりを大切にして言いました。そのトーテム信仰も、ケサルの中のいろいろな場所で顔を出し、仏教が伝わる前からケサルの物語がこの地で語られていたことを確かに示しています。

 仏教の教えだけでは括れないところがケサルの面白さなのです。

 
 阿来は、作品の中で宗教をどう捉えているでしょうか。
 それを考えるのも阿来のケサルを読む楽しみの一つとなるでしょう。





阿来『ケサル王』⑩ 物語 神の子下界に降る

2013-07-11 22:06:19 | ケサル

[物語 神の子下界に降る] その1

 リンガを去った後、パドマサンバヴァはどうしたのだろうか。

 彼の心の中には後悔の思いが生まれていた。妖魔のたたりを恐れたのではなく、この倦怠感はあの無知で愚かな人々によるものだった。
 あの時、長い間菩薩を待ったが現れず、天庭を去り、自分の修行の場に戻るとすぐ、神の子ツイバガワがリンに降されるという知らせが伝わって来た。そうなれば、もう一度戻って世の中を驚かせるような働きをするのは不可能になる。
 だが、そうであっても、彼はあの地に行ったのであり、あの地の人々は彼が去った後も、そのさまざまな事跡を伝えている。これは、あの地の民が自分の忠告を十分に聞き入れず、自分が去る時にも心から引き止めなかったことへの後悔の表れなのだ、と彼には分かっていたのだが。

 パドマサンバヴァは言った。
「私はあの場所と確かな絆を結んだのだ」
 すると、どこからか声がした。
「何が確かな絆なのかね」
 彼は笑って答えなかった。
 だが彼には、百年後のリンの雪の峰々、藍を湛えた湖の岸辺に多くの壮大な寺院が聳え建つのが見えていた。それらの寺院の堂の中には、金色に塗られた自分の塑像が祭られ、充分な供養を受けていた。
 だが、彼は答えなかった。

 彼に尋ねたのは、ともに修行した師、タントン・ギャルポだった。パドマサンバヴァはタントン・ギャルポに言った。
 「リンガの民たちに伝えてください。まもなくリンに神の子が生まれると」
 「何故、自分で行かないのだ」
 「戻って来たことを後悔しているからです」

 タントン・ギャルポは軽く笑って、友の願いを受け入れた。

 長い長い時が立ち、リン国は消えてしまった。
 だが、リンの国がかつてあった地には戯曲の神が生まれた。
 その神もまたタントン・ギャルポと呼ばれている。

 二人のタントン・ギャルポが同じ人物なのかどうか、深く考えた人はいない。だが、タントン・ギャルポの行動はとてもドラマチックだった。彼が体を動かさぬ間に、強い念がリンに届き、誰もが彼が来ることを感じ取ったのだから。
 
 その頃のリンには数十のがあり、その首領の中でも位が高く徳を積み、人望があるのは老総督ロンツァ・タゲンだった。
 彼はの首領の中で最も傑出した者とは思われていなかったが、世の中の事柄にもっとも情熱を注ぎ、最も味わい深い人物として知られていた。

 その日、太陽が山に落ちるとすぐ、総督は床に就いた。大変疲れていたが、寝付けなかった。間の闘争、家族の間の権力を原因とする行き違い。これらは既に衰え始めた彼の体の中に隠されている闘志を刺激していた。法力の高いパドマサンバヴァがリンを去ったことも無念でならなかった。そのため、長い間酒を飲み楽しむ場所には出て行かなかった。
 彼はいつも自分に問うた。リンは本当に罪の深さのために苦しみの海に沈められたまま、永遠に神の光を浴びることは出来ないのだろうか。

 太陽が遥かに霞む西の地平線に沈むにつれて、彼の意識も徐々に朦朧となり、深い眠りに落ちて行った。
 だがすぐに目を刺すほどの光を感じた。西に沈んだばかりの太陽が強烈な光を漲らせながら東の空に昇り、それはまるで金の法輪が空で回っているようだった。
 回り続ける金の法輪の中央で、金剛杵が太陽の中央から降りて来て、そのままリンの中央のキギャル・タグリ山に刺さった。

 なんと不思議な日なのだろう。

 太陽はまだ空高く掛かっているのに、銀の盆のような月が天の頂に登って来たのだ。月は多くの星々に囲まれ、太陽と相照らし相輝き、その光はさらに広い地域をも明るく照らし出していた。

 総督の弟センリンが夢の中に現れた。
 センリンは大きな宝傘を手にしている。宝傘の巨大な影がリンの境界よりも更に広い大地を覆っていた。
 東は伽との境界のジャンティン山まで、西はタジク国のバンフ山まで、南はインドの北まで、北はホル国の塩の湖の南の岸まで。

 その後、ひとひらの彩雲が漂って来て、彩雲の上には上師タントン・ギャルポがリンまで訪ねて来ていた。
 タントン・ギャルポは天を漂いながら、総督に向かって言った。

 「総督よ、眠りをむさぼっていてはならない。早く起きるのだ。太陽にリンを照らして欲しいのなら、おまえに聞かせたい物語がある」

 総督が詳しく尋ねようとした時には、上師はすでに彩雲に乗って去り、東の草原の尽きる辺りのマジェポラの山に降りていた。
 ロンツァ・タゲンは夢から醒めると、すがすがしさを感じ、心の中のしこりはきれいに取り払われた。
 すぐさま、神山へタントン・ギャルポを迎えに行くよう命じた。





   * * * * * * * * * * * * 




ここに現れるタントン・ギャルポとはどんな人物なのでしょうか。
歴史の上では、1385年に生まれ1464年に亡くなった僧(ニンマ派からカギュ派に改宗した)で、
チベットのかなり広い地域に鉄の橋をかけて回りました。

その資金を集めるために歌と踊りの上手な人々に歌舞を演じさせたそうです。
それが後に改良されてチベット劇の前身となりました。
チャムと呼ばれるチベット劇の始祖とされています。
阿来の言うところの戯曲の神、ですね。

今でもチベット劇を演じる前にはタントン・ギャルポを描いたタンカに祈りをささげるとのことです。
その見た目は…ちょっと奇妙です。
白髪に白い髭白い眉、これは生まれた時にすでにこの姿だったとか。

パドマサンバヴァも吐蕃でサムイエ寺を建て、そこで歌舞を始めたということです。
パドマは8世紀、タントンは14世紀。出会うはずはありませんが、通じ合うものはありそうです。
阿来はわざわざ二人のタントン・ギャルポとしていますが、それは一種の目くらまし(?)。
ケサルの中の神々は時を超え空間を超え自由に出現し、賑わせてくれます。


◎今回、人名、地名の一部を宮本神酒男さんの「ケサル王物語」からとらせていただきました。



阿来『ケサル王』⑨ 語り部:めしいた目に射す光

2013-07-04 00:13:13 | ケサル

[語り部:めしいた目に射す光]


 羊飼いジンメイは夢の中で感動し、涙を流した。

 朝目醒めると、周りの荒れ草の上の霜が冷たい光を放っていた。
 頬の当たっていた羊の敷物の上には透明な氷の粒が貼り付いていた。それが自分の涙の結晶とは知るはずもない。氷の粒を摘んで口に含んでみた。歯は氷の冷たさを感じなかったが、舌は苦味を伴った塩の味を感じた。

 夢を思い出した時、それが自分の涙だと分かった。もう一度氷の粒を舌の上に乗せ、ゆっくりと味わってみる。それは水の中、岩の中、土の中、どこにでもある味だった。

 羊たちはいつも頭を岩の隙間に突っ込んでは、そこに湧き出した塩の粒を舐めている。毎年、人々は北の湖へと美しい結晶を掬い取りに行かなくてはならない。
 この味が体の中に入ると、力が漲って来るからである。もし食べ物の中に塩が足りなければ、村々は悪夢の中に陥ったように生気を失ってしまうだろう。

 高原の早朝の寒気は凛としている。
 だが、ジンメイは寒さを感じただけではなかった。ジンメイは村の降霊師を思い出した。

 村人たちはいくら考えても分からないこと、例えば牛や人が魂を抜かれて戻って来られるかどうか分からない時などに、降霊師を家に呼んで伺いを立てる。
 降霊師は飲み食いに満足すると、やっと部屋を暗くし呪文を唱える。体中を震わせて、すべてを知る神霊がその体に憑いたことを示し、人間とは思えないだみ声で言う。
 「牛は戻りはせぬ、三匹の狼に食いつくされた」
 「魂が抜け落ちたあの者は河辺を歩いている時、鬼神の怒りに触れたのだ。供えものをしてなだめさえすれば生気は戻るだろう」
 神霊が離れる時、降霊師はまるで堅い木のようにドスンと地面に倒れる。

 だが、ジンメイは震えるだけだ。
 これはまた別の神霊の降臨である。

 草原では夢の中で英雄物語を得た者を「神から授かった者」と呼ぶ。神が夢の中でその者に物語を告げるのである。
 ある時は、その神とは物語の主人公であり、人の世に降り来たって偉大な仕事を成し遂げ、偉大なリン国を建設した神の子ツイバガワ本人である。

 だが、羊飼いジンメイは夢の中で物語が徐々に進んでいくのを見るだけで、神が親しく降りて来て告げることはなかった。

 小さい頃、村に目の見えない語り部が来たことがある。この語り部が夢の中で見たケサルと呼ばれる金の鎧兜の神人は、より直截だった。
 鋭利な刃物でその語り部の腹を切り裂き、一冊一冊と書物を腹の中に詰め込んだのだ。
 目の見えない語り部は自分の腹が縫い合わされたかどうか思い出せない。ただ粉引き小屋のさらさらという水の音の中で目覚め、腹に傷跡がなかったことだけは覚えている。自分が書物の中の字を一つも知らないのに、頭の中ではすでに天にも地にも多くの兵馬が轟々と駆け回っていた。

 ジンメイはもう一度夢の中に戻りたかった。もしかして、物語を授ける神が姿を現すかもしれない。

 だが、ロバが寄って来て、ジンメイが頭からかぶっている羊の皮を口にくわえて持ち上げようとする。
 ロバがいなないた。ジンメイは言った。
 「もうちょっと眠りたいんだ」
 ロバはまたいなないた。
 「お願いだ、眠らせてくれ。分かるだろう」
 ロバはまたいなないた。
 「なんておかしな鳴き声なんだ。神様に嫌われるぞ」
 ロバは力を込めてジンメイの体から羊の皮を引きはがした。

 ジンメイはいやいや起き上がり、言った。
 「分かった、分かった」
 ジンメイとロバは村へ戻る道を歩き始めた。

 いつも風に当たると涙を流す左眼はもう何も見えなくなっていた。右眼を塞ぐと、ロバ、道、山脈はすべて目の前から消えた。ただ、色とりどりの光の粒が次々と連なって太陽の方向から差し込んでくるのが分かるだけだ。
 右眼を開くと、すべてのものがまたありありと目の前に現れた。

 来る日も来る日も、ジンメイはいつも通り羊の群れを追って山に登り、必ず訪れるだろう奇跡を待った。
 だが、そのどの一日も今までと変わりなく、山の峰の凍った雪が日を追って溶け、雪線が日一日と高くなり、雪解け水を受け入れる山のふもとの湖は見る間に豊かになっていった。
 だが、一度だけ開いた夢の中の門は、その後いつまでも開かなかった。

 ジンメイは目を閉じ、口の中でおじから教わったすべての音の源を唱えた。
 右眼を閉じ、すでにめしいた目で東から次々と届く光を迎え入れる。その光が目の前できらびやかな色彩へと変幻するのが見えたその時、ジンメイはあの言葉を唱える
 「ウォン!」

 そして心の中に想像の力によってあの文字を写し取る
 「口翁」

 だが、グルグルと廻り続ける色とりどりの光の粒の中に、神の姿は現れなかった。

 ジンメイは仕方なく羊の世話を続けた。
 夜山を下りると、時たま自動車が通る村の公道の傍らに雑貨屋があって、穏やかな刺激のビールと強烈な白酒を売っているのを見つけた。
 初夏の夕方、男たちは雑貨屋の前の草地に集まり、胃に酒を注ぐと、頭が膨張し、体が軽くなり、そうしてジオの中から流れて来る歌を歌い始める。

 その後で、誰かが英雄物語の断片を語り始める。

 ルアララムアラ
 ルタララムタラ
 今年、丁酉の年の暑い初夏
 上弦の月の八日目の朝、
 リンの国に吉兆が現れる。
 長系の高貴な鳳凰たち、
 仲系の知られたる蛟竜たち、
 幼系のワシや獅子たち、
 上は高貴な師から
 下は流れ来たった民まで
 一堂に集まり良い知らせを待つ、
 リン国に吉兆が現れる!