塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

一滴の水から

2007-10-18 02:27:51 | Weblog
こうして私の旅は終わった
もう一度アバに行かれるだろうか。行かれたとしても、今回のように心に残るものになるかどうか。
私にとっては、大蔵寺からの帰り道、美しい水との交感がこの旅のすべてだとも言える。

帰ってからもう一度『大地の梯子』を読み直してみた。行く前に読むのと行ってから読むのとではこんなにも違うものかと驚くほどに、一つ一つの言葉が目に見えるものとなって心に響いてくる(読みが浅かっただけ…)

旅の終わりに、阿来は梭磨河の源流を訪ねている。多分、紅原のあたりでその源流と思われる水を探し当てる。その時の阿来の文章が私の想いと重なった。小さな確信がこれからも私を支えてくれるように…

一部を紹介します。

「河の水は昼前の斜めに差し込む強烈な日差しを浴びて、一筋の銀の光をはね返していた。
私はずっと河を眺めていた。一面の湿地が終わると、広い谷間は両側の小高い丘によって狭まり、私は河辺に戻ることができた。水はいよいよ少なくなり、透きとおって浅くなった水を透して、ゆっくりと流れていく細かい砂粒が見えた。穢れのない草の根が房飾りのように水の中を漂っている。私は今、目の前にある情景をいとおしく思った。

もうほんの少し溯っていけばこの流れの始まりを見ることができるかもしれない。それが梭磨河の源流のはずだ。だが、それは私の想像でしかなかった。
谷がもう一度開けた。渓流は輝いたまま、広い湿地の中に隠れてしまった。
………

 それからたっぷり二時間かかって、谷はまた狭まり、細い渓流が足元に戻ってきた。両側の丘陵はほとんど姿を消していた。まだ丘陵があるとしたら、それは二筋の目立たないほどの起伏でしかない。

この時こそ間違いなく、私は梭磨河の源流にたどり着いたのだった。

どこにでもあるような、小さな水溜りだった。水は草の下からゆっくりと滲み出しているが、地面を伝うほどの流れは見えなかった。そこで私は小さな葉を摘み取り、水の上に置いてみた。そうしてやっと、かすかな水の上を草の葉がゆっくりと流れて行くのを確かめることができた。
私の体にも心にも、予想していたような感情の昂ぶりなかった。もちろん、これがチベット文化の中でも独特な、ジアロン文明をはぐくんだ大切な水の源であり、大渡河、長江の支流の最初の一滴なのだ、ということはよく分かっている。それでも私の心は、この草の生い茂る果てしない広野のように、静かだった。かつては、源流の風景を想像し、源流に至った時の情景を思い描いては、激情みなぎる詩句をいくつも書きつらねてきたのだが…

 人生のある日に、このように豊かな瞬間を持てたなら、その後でもし、失意や苦難に出会ったとしても、悠然と向き合っていけるのではないだろうか」




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