塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』㊲物語 黄河湾

2014-02-28 19:11:57 | ケサル
物語:黄河湾 その1



 更に三日歩くと、黄河湾に、伝えられていた三色の砦が現れた。

 誰もがすでに商人たちの口から聞いて、砦を築く石は黄河湾の外の様々な場所から持ってこられたものだと知っていた。
 今、砦はすでに完成していた。
 屋根を覆っているのはリンから運ばれた青い石の板だ。
 石の板は金属のように煌めき、龍のうろこのように敷きつめられていた。

 その日、ジョルは正式な礼服を身に纏っていた。
 輝くばかりに一新したジョルの姿を見て、人々は額の前に両手を重ね祝の言葉を述べた。

 皆が心配していたことは起こらなかった。
 ジョルは遊び心から、法力は高いが奇怪な形をした杖に乗っていなかったし、風除けの帽子におかしな角が付いた皮の服を着ていなかった。

 整った顔立ちに両の目は澄んだ光を放っいていた。

 ジョルは漢の妃の額に口づけし、その後、兄ギャツァの胸に飛び込んでいった。
 兄弟はこらえきれず、とめどなく涙を流した。

 ジョルはリンの十二人の美しい姉妹に敬意のこもった、また慕わしげな眼差しを投げかけた。

 「ああ、どうしましょう」

 ジョルの眼差しは娘達を熱くし、娘達はリンの民のみが口にする複雑な意味を含んだ感嘆の声をあげた。

 娘達は叫んだ。
 「ジョル!」

 「ジョルではなく、ケサルよ」

 「名前はどうでもいいが」トトンが言った。
 「よく覚えていなさい、やつはまだ八歳の子供だ」

 娘達は口々に言った。

 「体はもうトトン様より大きいわ」

 「彼の眼差しは私たちの顔を熱くするの」

 「彼はリンの人々のために新しい場所を開いてくれたんですもの」

 ジョルは人の群れを掻き分け、タンマに、人々の間に隠れて恥じ入るばかりの老総督を連れて来させた。
 食事が整うと、ジョルは一方の手で兄の手を、もう一方で老総督の手を取り、父センロンを含むリンの各の首領、英雄、祭司、呪術師、更にはリンに教えを広めるためやって来たばかりの仏教の僧までも自分の暮らすテントに迎え入れた。

 そのテントはリンを追われた時に持って来た物だった。
 テントに入り、ギャツァはもう一度自分たちの誤りを恥じ入らずにはいられなかった。
 そして、弟のために心配にした。
 「この小さなテントにこのような多くの者たちが入り切れるのだろうか」

 老総督も不思議に思った。
 「あの砦はあれほど雄壮ではないか」

 ジョルは何も聞かなかったかのように、テントの入り口の幕を捲り上げた。
 中はまるで別世界に迷い込んだかのようだった。

 広々として高いところから光が差し込み、よい香りに満たされていた。一人一人がペルシャの絨毯にゆったりと座ることが出来、それぞれの前に大きなテーブルが置かれていた。玉や香木のテーブルには金銀の杯が置かれ、食べ物は元より、赤い瑪瑙の高台に盛られた果物だけでも12回も運ばれた。

 そのすべてが遥か遠方から取り寄せられたもので、味や形、更に耳慣れない名前まで、リンの人々がこれまで見たことも聞いたことのないものばかりだった。

 ジョルは盃を挙げた。

 「神が親しい人々や故郷の民をこの地に導いてくださったことに感謝しよう。
  ここに至ってからの三年、このような喜びを味わったことはなかった。
  皆のもの、飲み干そう!」

 皆が一気に飲み干すと、老総督は席を離れジョルの前に進み出た。
 
 「リンの民に代わって一つ要求がある。お前がそれに応えてくれたら、わしもこの盃を飲み干そう」

 「総督、何なりとお申し付け下さい」

 「我々の罪によって、麗しいリンは大きな災害に見舞われた。
  中でも大きな罪は、我々に情けの心がなくお前たち母子を追放したことだ。
  だがあえて、リンの民のためにお前に要求する。
  リンの民をお前の開拓した地に三年の間住まわせてくれ」

 ジョルに悪戯な心が起こった。
 「何故三年なのでしょう。三日ではなく…」

 慚愧のあまり、老総督は深く頭を垂れた。

 「我々の罪が深いほどに、故郷の原野の積雪も深い。この雪が融け、大地が再び生気を取り戻すのに、丸々三年かかるだろう」

 老総督が人々に代わり恥を忍んでいる様子を見て、ジョルの心は針で刺されたような痛みを感じた。

 ジョルは老総督を助け起こして上座に座らせ、盃を挙げて言った。
 「総督、首領の方々、ご安心あれ。
  ジョルがこの地を開いたのはリンの国を永遠に伝え残そうと願ってのことです」

 話しているうちに人々を覆っていたテントは消えた。皆の座る席が昇り始めた。
 ジョルの高らかな声が響いた。

 「さあ、御覧なさい。
  
  美しく広々とした黄河を。
 
  細長く湾曲する様は宝剣のよう。
  その刃の南側はインド、剣の先は漢の国。
  剣身はタングラ山を突き刺している。

  ここに三色の砦を築いたのは、
  ユーグラソントこそこれからのリンの中心となるからだ。

  リン国が大業を為した後、再び本来の地へと帰ろう」



 老総督はこの言葉を聞いて顔をほころばせ、大きな椀でたて続けに三杯飲み干した。
 
 続けて宴席が並べられ、豊かな食事の後、人々は歌い踊り、夜を徹し空が明るくなるまで続いた。
 野営のために万を超える松明が焚かれ、燃え盛る火に天の星々もきらめきを失った。







阿来『ケサル王』㊱ 物語 大雪

2014-02-23 14:31:09 | ケサル
物語:大雪 その3





 隊商は重い石の板を馬に背負わせて旅立った。
 老総督は彼らが去って行くのを目で追い、心の中でつぶやいた。
 「神の子よ、なぜ、すぐにも真の姿を示されないのですか」

 リンの移動についての協議は何の結果ももたらさなかった。老総督の心の奥深にはこれまでにない無力感が渦巻いて、もう一度先ほどと同じ言葉を口にした。

 「神の子よ、なぜ、すぐにも真の姿を示されないのですか」

 トトンは新しく作った木のトビの前に戻り、トビの翼を広げてから、また老総督の前に戻った。
 「誰もお前の言葉を聞かないのは、老総督、お前が本当の王ではないからだ」

 「わしは、リンのすべてに推挙された総督だ。王などではない。我々は王が現われるのを待っているのだ。
  お前はに帰りなさい。わしは疲れた。明日、更に良い意見を聞かせてくれ」

 「そう、お前はワシより年上だ。お前が王になるなら、ワシが総督になってやろう。
 お前の慈悲とワシの才覚があれば、リンは強大になれるぞ」

 「はっきり言ったらどうだ。自分が王になってもいい、と」

 トトンは慌てず、怒りもせず言った。
 「それもいいだろう。しばらく休んでワシに試させるというのはどうだろう。
 お前が言ったとおり、リンにいつまでも王がいないのは良くないからな」

 言い終ると木のトビに乗って飛んで行った。

 だが、いつもの方向へは行かず、それぞれの道を進んで行くの首領たちに向かって、空の上から叫んだ。
 「明日城に戻ったら、ここを去るかどうかは討議せず、全リンの王を推挙しよう」

 重い心で雪の野を進んで行く人々は、慌ただしく飛び去って行く木のトビを見て言った。
 「もしかしてあの方こそが我々をこの苦境から救う王なのかもしれない」

 トトンは再び老総督の砦に戻り、言った。
 「明日、あれらの者どもはお前を静養させ、ワシに暫くの間王権を執らせるかもしれない」

 総督の心はどこまでも陰鬱だった。手を振り、疲れ果てたように言った。
 「そうであれば、天の命に従おう」

 次の日、空は美しく晴れ渡った。
 老総督は城の前の謁見台に立っていた。厚く積もった雪は強烈な陽光の下、音もなく崩れ、深い雪の下からは解けた雪水がさらさらと流れていた。

 陽が高く昇っても、各に通じる道に人影は現われなかった。

 兵を遣わして四方を覗わせ、自身は城の頂に微動だにせず座っていた。
 茶も飲まず、何度も運ばれてきたヨーグルトに手も触れなかった。
 目を閉じると雪解けの音が聞こえ、目を開けると光の中を蒸気が昇って行くのが見えた。

 午後になっても街道に人影は現われなかった。陽の光の熱が弱まり、冷たい西風が吹き始め、立ち昇る蒸気は灰色の霧に変わった。

 重い心は更に沈んでいった。
 自分は本当に力を使い果たし、時に合わず、人々から捨てられてしまったのか。

 その時、第一の人と馬が現われた。タンマとギャツァだった。

 昨日の帰り道、彼らの目は雪に反射した強い光に焼かれ、盲しいた者たちは広大な雪の野で漠として方向を失ったのだった。
 その後、遣わされた兵たちが各の首領を連れて戻って来た。

 彼らの目は強烈な光に傷つき、雪の上で行くべき道を見失っていた。
 意気揚々だったトトンでさえ木のトビを山にぶつけた。彼は足を引きずりながら最後に現れた。彼の足が城に入ったその時、雪は再び空の奥から落ちて来た。

 全ての人が餓えていた。
 彼らは大量に食べ、その後、ぼんやりしたまま大量の茶を飲んだ。
 老総督は言った。
 「隊商は来られなくなった。もはや茶で皆をもてなすことは出来なくなった」

 トトンはわざとらしく言った。
 「ならば、茶を多く持っている者が王になれるのか」

 老総督の語気は氷のようにきっぱりとしていた。
 「雪がまた降って来た。お前が買い占めた茶がいかに多くとも、5日ももたないだろう」

 「それでもお前よりは多いぞ」

 老総督は言った。
 「お前たちは見えなくとも聞くことは出来るだろう。
  雪がまた降って来た。神が下さった機会を我々はまた逃がしてしまった。
  もしすべてのの首領が雪の中で道を失ってしまったら、人々はどこへ行き、何に従えば良いというのか」

 雪は空から落ちて来るのではなかった。空を埋め尽くし、特別な重さを持ってのしかかって来た。
 この重さは地上にではなく、人の心に落ちて行った。

 人々は悟った。
 「老総督、私たちを連れて出発してください」

 「それもまた雪が少し弱まるのを待たなくてはならない。お前たちの目が見えるようになるのを待たなくてはならない」
 召使いたちが、目の痛みに涙を流している首領たちを休みに連れて行った。

 老総督は一人跪き、空に向かって敬虔に祈った。
 「菩薩よ、ご覧下さい。彼らは自ら悟ったのです」

 雪はすぐさま止み、しばらくしてまた降り始めた。

 四日目、雪は弱まり、リンのすべての人々は旅立った。
 雪の草原では、自分の村や牧場を去る人々が、わずかな持ち物を身に着け、まだ飢え死にしていない牛や羊を追って次々と出発した。
 泣き声は直接空の果てまで昇って行き、雪さえも降る向を変えた。

 
 リンの境を出た時、雪は止んだ。
 その時、黄河湾は春の終わりを迎えていた。母羊は子供を生み、道端の野いちごは細かな白い花を一面に咲かせていた。

 リンの人々はその時思い出した。
 雪は夏の終わりに降り始めたのだ。彼らが雪の野を出発したのは秋のはずだ。
 だが目の前に広がるのは春の景色である。それほど長い時間を歩いたはずはない。
 どのように一つの冬を歩きとおしたのか。誰にも分らなかった。

 総督は振り向き、まだ雪に覆われている故郷を伏し拝み、そうしてから、天に向かって言った。
 「リンのは新しい土地に至りました。これらの民をあなたの選んだ方に託します」

 総督はこれより先に進みたくなかった。

 「わしはジョルに合わせる顔がない。お前たちだけ行ってジョルの元に降りなさい」

 黄河湾にこの何年かで集まった民は、ジョルの言いつけに従い、すでに彼らを迎えに来ていた。








阿来『ケサル王』㉟ 物語 大雪

2014-02-06 01:42:41 | ケサル
物語:大雪 その2





 雪に照り返された光は何時になく眩しく、誰も山の頂をはっきり見ることが出来なかった。

 天の神が遣わした菩薩は、その強い光に乗って天上から降りて来た。
 観音菩薩である。

 菩薩は言った。
 「神は既にお前たちに一人の王を遣わされた。その王はすでにお前たちの元に至った。
  だが、お前たちは彼に背いたのだ。
  今、すべてのリンのはこの地を離れ、彼を追って行かなくてはならない」

 そして強い光と共に消えた。

 老総督は空に向かって叫んだ。
 「この知らせを彼らに告げるべきでしょうか」

 「人は自分で悟るべきだ。悟らなくてはならない」

 空から大きな音が響いた。だが、このように大きな音も老総督一人にだけ聞こえ、傍らにいたギャツァでさえ、菩薩の姿は見えたが、言葉は聞こえなかった。法衣を纏った祭司には見えなかったし聞こえなかった。
 
 リンの上中下の三の首領は老総督の城にやって来た。
 トトンは意気揚々と新しく作った木のトビに乗ってやって来た。木製のトビは大きく、城の上空に来ると、トトンは乗ったまま上空を三回周ってからやっと降りて来た。
 民衆の目の前で呪文を唱えると、木のトビは翼を収めた。

 トトンは老総督に祭壇で神の意志を受けたかどうか尋ねた。
 老総督は答えた。
 
 「神の子ジョルは既に我々のために新しい生息地を開いた」

 トトンは謗るような面持ちで言った。
 「それは山の上のあの石が告げたのだな」

 「雪が少し解けたら、我々は出発する。皆自分のに帰ってそれぞれの民を率いる準備をするように」

 他のは言うまでもなく、老総督が統率する民たちも、城を取り囲んで号泣した。
 故郷を深く愛する民たちは、誰もここを離れたがらなかった。
 
 雪は常に無く降ったが、すでに止んだ。

 牧草がいち早く雪の下から現われた。
 多くの牛や羊が死んだが、すべてが死んだわけではなかった。春が来れば、彼らはまた子を産み繁殖するだろう。

 こうした状況の中、ギャツァと大将タンマだけが老総督ロンツァの計画に同意した。

 他の者たちは口をつぐみ、塑像のように城の中央にぼんやり座っていた。

 トトンも黙っていた。
 自分が反対の意思を表明する必要はないと気付いたのだ。口をつぐんでいる者たちが彼に代わって意見を述べるだろう。

 リンには彼のように智慧のある者は少数だったが、今日は何故か多くの者たちが彼と同じ立場に立った。

 老総督はなす術もなく、観音菩薩の示されたことをそのまま伝えるほかない、と考えた。
 すると耳元で天の声がした。
 
 「神は助けることは出来る。だが人は自分で悟らなくてはならない」

 老総督はため息をついてから言った。
 
「皆の者、帰っての民とよく話し合いなさい。ジョルが北の黄河湾に新しい生息の地を開いたことは、すでに誰もが知っている」

 追放されたジョルの様子は、絶えず伝えられていた。それは隊商によってもたらされた。
 隊商は以前より多くの茶を持って来るようになっていた。リンのほとんどすべての民が茶を飲んだ。

 飲むと、口の中がただれなくなり、手足が萎えることもなくなった。さらに良いことに、茶を飲むとその日一日爽やかな気分でいられた。

 隊商は帰る時に、何匹かの馬を手に入れても、交換した獣の皮と薬――ローズマリーの青い花とイカリソウの茎等を積もうとせず、山際まで行って頁岩の板を剥がし取った。
 それは帰りの道で黄河湾を通る時、ジョル王に差し上げる石税だと言う。

 商人たちは、ジョル王は石税ですでに三つの色の砦を作った、と話した。

 「三つの色?」

 「南の隊商が運んで来た石は赤、西の隊商が運んできた石は銅色、東の隊商が運んできた石は白なのです」

 「北の石は」

 商人は首を振った。
 「北は、ホルの凶悪な白帳王と、人を食う魔王ロザンの二人に占拠されていています。ジョル王がいつ征伐に行かれるのかは、まだ分かりません」

 「嘘だ!ジョルは我々リンの青い石を北から来た石だと偽って、北を征服したと見せかけようと考えているのだろう」

 「それはありません。王様は、この石で砦の屋根を作り、故郷を忘れていないことを示すのだとおっしゃいました。」

 デュクモをはじめとする女たちの関心は、他にあった。

 「ジョルの行動は英雄そのもの。ならば、その姿も逞しく男らしいことでしょう」

 商人は首をゆっくりと振り、言い訳するように言った。

 「もっとも偉大な英雄は英雄らしく見えないものです」

 女たちはがっかりしてため息をついた。その中で最も美しいデュクモは言った。

 「ジョルが生まれたばかりの時、あんなにきりっとして美しかったのに」

 トトンは得意満面で言った。
 「ジョルは自らを醜くしてしまたのだ」

 そう、生まれたばかりのジョルは美しい顔立ちをしていた。
 三、四歳になると、奇妙な恰好をするようになり、その後顔かたちも奇妙な装いにつれて変わっていった。
 ジョルという名は母メドナズがつけたものだが、本当にその名の通り醜い子供に変わっていった。

 彼ら母子が追放された時から、人々はジョルの本来の名ケサルを忘れてしまった。
 だが、また多くの人が、ジョルは元の姿に戻ると信じていた。

 ギャツァはそう信じる一人だったので、楽しげに笑い興じている娘たちに向かって言った。
 「弟は必ず英雄らしくなっていくだろう」 

 デュクモをはじめとする美しい12人の娘たちは、口を揃えて言った。
 「もしそれが本当なら、私たち12人の姉妹はみんなジョルのところへお嫁に行き、お妃になりましょう」

 トトンは黒く光るあごひげを撫でて言った。
 「待ってはいられまい。こんなに美しい娘たちが花のようにむざむざと枯れてしまうのを、男たちは黙って見てはいないぞ。いっそのことわしに嫁ぎなさい。わしほどの力があれば、美しい衣装と豪華な食事、富と栄華を与えることが出来る」

 娘たちは、水中を楽しく泳ぐ魚の群れが鷹の影に驚いた時のように、散り散りに駆けて行った。

 彼女たちが集まっていたのは、年老いたトトンなど眼にはなく、美しく逞しいギャツァたち英雄がそこにいたからだった。