塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 136 物語 ギャツァの霊 姿を現す

2016-01-23 10:36:07 | ケサル
       ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 ですhttp://blog.goo.ne.jp/abhttp://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304                                        





物語:ギャツァの霊、姿を現す。

 近頃ケサルは毎夜のように夢を見た。夜夢の世界にいると、朝目覚めた時ひどく疲れていた。妃たちは、自分がもう国王の歓心を惹くことは出来ないのだと悲しんだ。

 ジュクモは言った。
 「私たちの王様は人の世の暮らしに飽きられたのです」ジュクモは言葉を補った。
 「何もすることのない日々に」

 妃たちは重い心のまま、人の世での意義ある行いを並べてみた。

 「狩をするのはどうでしょう」

 「無上の教えを修められたらいいのでは」

 「薬草について学ぶ」

 「病の老人を見舞う」

 「地下にある宝物や鉱脈を探す」

 「絵を学ぶ」

 「王子ザラに変化の術を伝授する」

 「陶工に新しい文様を伝える」

 「兵器により硬い鉄を錬成させる」

 この時、重い御簾の後ろから国王の笑い声が響いた。ずっと耳を傾けていたようだった。

 ケサルは言った。
 「夢で疲れ果てている私に、そなたたちはまだそのようなことをさせようというのだな」

 「では、夢を解く法を学ばれてはいかがですか」

 国王は言った。
 「このわずかな午睡の間にも夢を見たのだ。どんな夢か当ててみなさい。いや、当てられはすまい。沢山の鉄を見た。鋭利な鉄だった。兵器で錬成される鉄より、はるかに鋭かった」

 こう話しているうちに、報告に来た首席大臣が入って来た。国王は首席大臣がこんなにも矍鑠としていることに驚かなかった。

 国王は言った。
 「座って話そう。今、妃たちに言ったところだ。なぜ鉄の夢ばかり見るのだろうか、と」

 「それは夢ではありません。国王が英明にも見通されたのです」

 「どういうことだ」

 「斥候たちが調べて参りました」

 首席大臣は国王に、リン国の西にチタンという国王がいて、彼が治める国がカチェである、と伝えた。

 なぜ、これまでこの国のことを聞いたことがなかったのか、と国王が尋ねた。

 大臣は答えた。リン国との間を隔てているのは、黒い鉄の山で、その先にもう一つ赤い鉄の山があるのです。半日かからずに行かれる距離なのですが、その間に馬のヒズメがすべて擦り減ってしまいます。雷が落ちればその威力は十倍百倍となり、兵たちが進軍して行っても生還は望めません。

 国王は疑問を持った。そうであるなら、国王チタンはどうして兵を率いてこちらに攻め込もうとするのか。

 答えは、カチェ国では、この山の鉄でヒズメを作るので、山を上り下りしてもすり減らないのです。また、チタン王は羅刹の生まれ変わりで神通力があり、法術を使って雷を別の場所に落とせば、カチェの軍隊は何事もなく山を超えられます。

 ケサルは笑った。
 「私の夢の中の鉄には訳があったのか。ならばカチェという小国を倒せば、その鉄と鍛冶師は我々のものとなり、リン国は更に無敵となるということだな」

 そこで、すぐさま命を降し、各地の兵を集めた。幾日もせずに各の軍が到着した。

 英雄たちは我勝ちに進み出て、チタンの国をねじ伏せ、氷河の下の宝庫を開いて水晶を取り出し、湖の中の宝庫を開いてサンゴを取り出そうと、戦いへの思いを募らせた。

 トトンが、それは間違いである、カチェ国には他の国のような宝庫はなく、強くて盛んなのは鉄の山があるからだ、と皆を押し留めた。

 ケサルは言った。
 「今回英雄たちと各の兵に集まってもらったのは、遠征のためだけではない。今リン国は領土を広げ、皆とは遥かに隔たってしまった。そなたたちのことが懐かしく、チタンが乱を起こしたのを機に、合まみえようと思ったのだ」

 英雄たちは、国王がこれほど心のままに親しみの情を表わすのは、リンでの時間がもはや残り少ないからではないかと憶測した。
 シンバメルツたちは涙を隠さなかった。
 それとは逆に、ザラをはじめとする若い英雄たちは戦いへの決意を漲らせた。

 ケサルは神の力で、英雄たち一人一人の盃を酒で満たした。
 ケサルはみなに告げた。心置きなく飲み、ともに楽しもう。

 カチェ国の恐れを知らぬ大軍がリンに向かって出発していたが、神々の力を借りて大雪を降らせ、カチェの兵馬を山の中に閉じ込めておき、楽しみの日々を過ごしてから決戦に向かうこととした。

 こうして君臣共に心おきなく楽しみを尽くした。







阿来『ケサル王』 135 第三部 物語 困惑

2016-01-17 01:38:11 | ケサル
        ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です。http://blog.goo.ne.jp/abhttp://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304                                        


物語:困惑 その3




 国王は首席大臣に向かって言った。
 「出来るだけ早く敵を撃退するための協議しよう。その前にチタンという国王の国がどこにあるか調べるのだ」

 首席大臣の体に精気が漲り、砦の頂上に赤い旗を上げるよう命じた。四方へ送り込んだ斥候たちがすぐさま戻って来た。
 彼らは異口同音に報告した。
 「カチェ国のチタン王がリン国を攻撃しようとしています」

 「カチェ?以前、西の小国だと聞いたが」

 側の者が首席大臣に伝えた。

 チタンと呼ばれる国王が政を行うようになってから、カチェ国は大きく変わりました。
 チタンは羅刹の生まれ変わりで、位に着くとすぐネパーラ国を征服し、十八歳になったばかりでウェカ国を降伏させました。
 続いてムカ国に勝利し、その後各地で戦いを繰り返し、周りの小国を支配下に収めたのです。
 今まさに壮年期を迎え、民と財宝が増すに従いその野心も日ごとに増長しています。
 チタンは常にこう言っています。
 自分より地位が高いのは日と月だけであり、自分より勢力が強いのは閻魔王だけである、と。
 自らを天下無二の帝王と思い込み、そのため、世にもう一人ケサルという王が名を轟かせていると聞いてからは、兵を向かわせてリン国を倒し、正真正銘の天下第一の王になるのだと公言して憚りません。

 報告を聞き終ると、老英雄は大声で命じた。
 「よかろう!リン国の英雄たちは久しく戦っておらず、さぞ関節が錆び付いていることだろう。誰か、服を着替えさせてくれ。すぐに国王に報告に行くぞ」

 黒い裏地の赤い外套を纏うと、首席大臣の青白かった顔に赤みが差し、昂った想いで王宮へと向かった。
 残された僧たちは互いに顔を見合わせた。自分たちの祈祷が天に届いたのではないとことは、分かっていたからである。

 だが、首席大臣の病が癒えたことを伝える後の世の伝説の中では、僧たちの法術が世にまれな効験を現したとされている。
 しかも、老英雄ロンツァタゲン本人がこの言い伝えを否定してはいないのである。







阿来『ケサル王』 134 第三部 物語 困惑

2016-01-13 00:03:09 | ケサル
                                 
                                             ★ 物語の第一回は 
                                             阿来『ケサル王』① 縁起-1 です。
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物語 困惑 その2



 ジュクモとケサルは哀しみを胸に城に帰って来た。
 その夜、国王と妃たちは心が沈み、だがこの憂鬱のために互いの想いが深く繋がっていった。妃たちの嫋やかさが、より一層去りゆく若さを思わせた。

 ケサルは一人重い心を大きな寝床に運んだ。長い間夢の中で天の母に会っていないのを思い出した。その時、天の母を思って発した自分の声を聞いた。
 「ランマダム、私の母よ」

 その時彼はすでに夢の中にいた。
 夢の中の寝屋の天井は透明な水晶で、見上げていると、自分の声に応えて、天の母ランマダムが宝石のようにきらきらと瞬く星の中から現われた。
 楽の音が哀しみとも喜びともつかぬ美しい旋律となり、漂うように降りて来る天の母の周りで五色の薄絹の帯ように舞っていた。

 暫くして、天の母の冷たい指が彼の額に軽く触れた。ケサルは、天から地に降りた神の、人の世での生死について尋ねようとした。だが、その冷たい指は滑るようにして彼の唇に触れた。何も言ってはならないという意味だと分かった。

 天の母が口を開いた。
 「みだりに生死について尋ねてはいけません。それは人間の問題です。あなたは人の世の国王となった神です、リンの幸と不幸についてのみ尋ねるべきです」

 「いつ天に帰るべきか尋ねようとしたのです」

 「リンを天国と同じような国に造り上げた時です」

 「天国がどんなところか覚えていないのに、どうして造り上げられるでしょう」

 母は尋ねた。
 「息子よ、今日はどうしたのですか。どこか悪いのですか」

 「天に帰る時、彼らを捨てていかなくてはならないのですか」

 「彼ら?」

 「首席大臣、人間界の父と母、ジュクモと妃たちです」

 「息子よ。なぜそんな考えで頭を満たすのですか。母はそのようなことに関わることは出来ません。母はただ大神の命を受けてリン国の先行きを伝えに来ただけです。また戦いが始まります。気を付けなさい」

 「私の向かうところに敵はいません。ご心配なさらずに」

 天の母に時が来た。いつまでも夢の中に留まってはいられない。
 話したいことはいくつもあったが、衣はすでに風をはらみ、なよやかな体は地上を離れ天へと漂い始めた。
 天へ漂い着いた母は最後の一言を彼の耳へと送り届けた。
 「敵に通じて謀叛を起こそうとする者がいます」

 誰が攻めて来るのか。誰が敵と通じているのか。誰が謀叛を起こそうとしているのか。
 夢の中にありながら、このような現実的な考えが、人の生死や美の衰えといった感傷をすっかり押しのけてしまった。

 これらの課題を抱えて、ケサルは再び病の中にある首席大臣を見舞った。
 僧たちが病で弱った大臣に祈祷を行っていた。国王の到着を知り、僧たちは下がった。

 ケサルは少し興奮気味に首席大臣に伝えた。
 「間もなく戦いが始まるようだ」

 「そのように昂っておられるのは、為すべきことが出来たからですね」

 ケサルには首席大臣の言葉の中の皮肉を聞き取った。人は平安を望むものだが、下界の神は功績を建てることを考える。

 ケサルは言った。
 「戦いに勝利し、敵を完全に滅ぼせば、その後は、リン国の民は安らかで平和になれるのだ」

 「そうでしょうか」
 首席大臣の言葉はやはり揶揄するかのようだった。
 「王様、あなたが平和を信じていらっしゃるのは分かっています。だが、王様のおっしゃるような世は実現しないのです」

 病のため、首席大臣は感傷的になっている。そう考えて、ケサルは彼の無礼を許した。

 それでも、首席大臣は言った。
 「王様、お許し下さらなくてもかまいません。ただし、私が病のために女々しくなっているとは思われますな。王様は神です。人間の苦しみを真から理解されることは出来ないのです」

 ケサルは言った。
 「私が世に降りたのは、そなたたちが魔物と魔物の国を亡ぼすのを助けるためだ」

  数人の僧が厚い御簾の後ろから現われ、国王に向かって低頭して言った。
 「王様がおっしゃったのは魔物のうちの一つです。もう一つの魔物とは人の心から生まれて来るものです。だとしたら、どのように対処されますか」

 この問いには答えようがなかった。そこで逆に尋ねた。
 「お前たちには方法はあるのか」

 「仏が伝えているのは、人が自ら心の魔と戦う無上の方法なのです」

 ケサルは笑った。
 「私は人の心の外の魔物をたくさん滅ぼして来た。天に帰る前にすべてを亡ぼすだろう。お前たちはいつ心の中の魔物を亡ぼすことが出来るのか」

 「人は次々と生まれ止むことはありません」

 「ならば、人の心の中の魔物は尽きることがないということか」

 「私たちはそのようには語りません。人々に希望を与えなくてはならないからです」
 
 ケサルは、この数人の僧のうちの一人が初めてリン国に来た僧だと気づいた。
 だが、この話はこれまでと、首席大臣の方を向いた。
 「各の兵を集めて戦いの準備をしなくてはならない」

 首席大臣はすぐに体を起こした。
 「どの国が攻めて来ようというのでしょう」
 
 「私もまだ分からない。だがすぐに攻めて来ることは分かっている。そして内部の裏切り者の助けを受けていることも」

 首席大臣は口を開き、その裏切り者の名を言いかけた。だが、ケサルは手をあげ、その名を呑みこませた。
 ケサルは言った。
 「敵に通じ謀叛を起こそうとするのは心の中に魔物を生んだためだろう。高僧の方々なら見分けることが出来るはずだ」

 「もしそれが姿を現せば…」

 「つまり、敵と通じる前は見ることが出来ないということか」

 僧は抗議した。
 「国王であっても無上の仏法を伝える僧にこのようなことをさせてはなりません。更に申し上げれば、人にとって、この世のすべては重要ではないのです」

 ケサルはまるで雪崩のように上から下へと表情を変え、あざけりから厳粛な面持ちへと変わった。

 抗議した僧はすぐさま口を閉じた。







阿来『ケサル王』 133 第三部 物語 困惑

2016-01-07 02:51:33 | ケサル
第三部



物語:困惑 その1



 リンでは、ケサルはまた長い間何もするべきことがなかった。
 あまりに長い間暇を弄んだ国王は妃に尋ねた。
 「一国の王として私は何をなすべきだろう」

 妃たちはみなジュクモを見つめ、彼女の言葉を待った。
 ジュクモは言った。
 「国王とは臣下を思いやるものです。首席大臣がここ数日参上していません。病気で臥せっているのではと心配です。見舞いにいらしていただけますか」

 国王はすぐに首席大臣を訪ねた。
 珍しい品々を携え、更に宮廷医を伴って具合を尋ねさせた。
 首席大臣は見舞いの品は受け取ったが、医者が脈を診るのは断り、体液を集める瓶を差し出されても受け取らなかった。
 首席大臣は言った。
 「これは病気ではありません、年老いて一日一日と弱っているだけです」

 「その後はどうなるのだ」国王は尋ねた。

 「尊敬する王様。永遠に王様をお助けし、輝かしい業績を残すのがこの老総督の夢でした。でも、私は間もなく死を迎えます。いつか、この寝床で眠ったまま目覚めなくなる時が来るのです」

 首席大臣は腕をまくった。
 「私の手は木の根のように干乾びてしまいました」
 首席大臣は目を見開いた。
 「私の目はもう二度と澄んだ泉のようには輝きません」

 国王は聞くほどに悲しくなった。
 「どうしてなのだ」

 「私たちは人間です、神ではありません。人間とは死ぬものなのです。この国でも毎日人が死んでいきます。国王もご覧になられたでしょう」

 国王は言った。
 「そなたは英雄だ。英雄は普通の人間とは違う。英雄はギャツァのように戦場で死ぬものではないのか」

 「戦場で死ぬのは英雄として最も望ましい姿です。だからといって、誰もがそのような機縁を持てるとは限りません。王様の大切なお妃様たちも同じです。少しずつ老いてゆき、死を迎える前に、美しい姿は失われるのです」

 この言葉を聞いてジュクモの目から涙がぽろぽろとこぼれた。ジュクモ悲しみのあまり、顔を覆って出て行った。

 首席大臣は言った。
 「みな下がってくれ。わしのこの体はいつまでもつか分からぬ。今国王にお伝えしたいことがあるのでな」
 仕えの者たちはみな下がった。首席大臣は姿勢を正した。

 「王様が天から降られたことはリンにとって何よりの幸せでした。ただし、この後、多くの英雄が目の前で命を落とし、愛するお妃様たちが老いさらばえて行くのをご覧になるのです。それは王様にとって耐え難いことでしょう。リン国の礎はすでに堅固に築かれました。王様もいつか天にお帰りになられましょう」

 「もう私にはなすべきことがないのかもしれない」

 「もう一つ、申し上げて良いのかどうか…」

 「言いなさい」

 「天に戻られる前に、トトンを亡き者にしてください。そうしてこそリン国の幾久しい繁栄は確かなものとなるのです。もしトトンを除かなければ、王様が去られた後、リン国は必ず乱れるでしょう」

 「トトンは邪な心から立ち返ったはずだが」

 「王様は神の慈しみの心で人を推し量られるので、奴の心に巣食う邪悪などお分かりにならないのでしょうな。ならば、約束して下され。何があっても奴が死んだ後で天に帰る、と。ただし、そのために、多くの英雄と大切な女性を失う哀しみを味わうことになるかも知れません。」

 「そなたは、先ほどは早く天に帰そうとし、今は引き延ばそうというのだな」

 「天に逆らおうとしているのではありません。ただ、王様以外にはトトンを抑えることは出来ないのです」

 「私は叔父トトンが何をしでかすのかは知らない。だがそなたの言葉を聞いて、私はひどく悲しい。人の世で生きる無常を痛いほどに感じた」

 馬に乗って帰りの道を踏み出した時、ケサルの心はどうしようもない哀しさに捕らわれていた。
 ケサルは、天蓋を差し掛ける者、茶を捧げ持つ者、服を整える者を遥か後ろに置き去りにした。

 ジュクモはずっと泣いていた。首席大臣が、彼女も死ぬこと、死ぬ前に美しさが衰えることをはっきりと明かしたからである。
 彼女は悲痛な面持ちで言った。
 「王様は天へ帰ることをお考えになるべきです。さもないと、英雄が一人一人老いてゆき、女たちが美貌を失った時、辛い思いをされるでしょう」

 この言葉に、ケサルは心の底から哀しみを覚えた。だが、口から出たのは冷酷を装った言葉だった。
 「もしこれらすべてが天の意志であるなら、悲しむことなどないではないか」

 ジュクモは言った。
 「王様は神様の知恵と力をお持ちです。でも、人の世に居れば人の心になるのが理でしょう。人の世の生老病死に哀しみを感じることもあるはずです」

 ジュクモの言葉が呪文でもあるかのように、ケサルは自分の心を意識した。
 それが胸の中で休むことなくどくどくと蠢き、ジュクモの言葉につれてひくひくと引き攣るのを感じて、確かで救いようのない苦しみに捕らえられ、微かな声で言った。

 「ジュクモよ、心が痛い」