故事:国王帰る その1
首席大臣の悲しく憤りに満ちた叫びは巨大な力となり、魔国の空へと伝わった。
その時、いくつかの星がアダナムの砦の前に震えながら落ちた。
ケサルは尋ねた。
「これは天の星が落ちてきたのか」
二人の妃は取り繕おうとしたが、それより先に大臣チンエンが答えた。
「そうです、星が落ちて来たのです」
ケサルの虚ろな目に光が宿った。
「なぜか胸が痛む。リン国に難が起こったのではないだろうか。ここを片付けて国へ帰ることにしよう」
「大王様。国王の位にある方は朝日が昇る時に出発すべきです。夜に出発されるのは、こそこそと行動する魔物のようです」
ケサルは笑って、「それも道理だ。だが明日…もし忘れていたら、必ず促してくれ」
二人の妃は何度も承知の返事をした。
ケサルはまた尋ねた。
「時の立つのは早い。魔国に来て、もう一年になるだろうか」
みなは顔を見合わせるだけで、答える者はいなかった。
また酒が運ばれてきたが、ケサルは断わった。
「私がメイサを救いに行こうとした時、ジュクモが酒を飲ませて出征を忘れさせようとした。もう酒は飲まない」
アダナムとメイサは言った。
「では、お茶をお飲みください」
茶は酒と反対に人の心を醒ますものだとケサルは知っていたが、次の朝には昨晩話したことを忘れていた。
そして、出発を促す者もいなかった。
多くの人は言った。魔国には忘却の泉があり、ケサル王はその水を飲んだため、星々が落ちたという天からの明らかな啓示を忘れたのだ、と。
だが一方で、神はなぜこのように勿体ぶるのだろう、天の母を遣わして直接告げればいいではないか、と言う者もいた。
どちらにしてもケサルは忘却の泉を飲み、国王として負うべき重い責を忘れてしまったのである。
忘却の状態は丸々三年続いた。
三年目の初めに、ジュクモはクルカル王との間に健康な息子を生んだ。
この三年で、リンという生まれたばかりの国は、すでに国ではなくなっていた。
ギャツァという偉大な英雄が世を去って後、人々の心はバラバラになってしまった。
首席大臣は民心を治めることが出来ず、ケサル王の名前を使って四方に号令することも出来なくなっていた。
トトンはこの隙に自ら王と称した。
この陰険で徳を知らない者は、自分の兄弟であり、ギャツァとケサルの父であるセンロンに願い、日増しに輝きを増す城塞の総督となっていた。
ありうべからざることに、英雄ギャツァとケサルの父は、怒りに耐え沈黙するしかない召使いとなった。
毎年センロンは、トトンが国中から集めた貢物を恭しくホルの国境へと送っていた。
この状況を一転させたのは天馬ジアンガペイフだった。
初め、ジアンガペイフも魔国の忘却の泉の水を飲み、力は萎え、精気を失っていた。
ケサルが鉄の城で二人の妃と楽しんでいる時、ジアンガペイフも野生の馬の群れの中にいた時と同じく、美しく若い雌馬に取り囲まれていた。
だが時々不思議に感じられた。
以前、野生の馬の群れにいた時は、心は何時も喪失感に囚われていたが、今はどうしてこのように安穏としていられるのだろうか、と。
そのため、谷間から山の上に駆け上り、はるか遠方を望んでは思い悩んでいたが、何も見つけられなかった。
更に二つ、三つの山を走り抜けてもまだ何の成果もなかった。
そこでこう考えた。どんなことをしても馬の頭はやはり国王である人間の頭とは違うのだ、と。
時には国王も会いに来たが、何か思うところがあるように自分の頭を撫で、腰を叩いた。
明らかに、必死で何かを考えているのだが、それでも何も思い出せないようだった。
この時以来、ジアンガペイフは無駄に思い悩むのは止め、総ての力を群れの中の美しい雌馬を征服することに注いだ。
その噂ははるか遠くの馬の群れにも伝わって行った。
最も誇らしかったのは、その名声が家畜としての馬と野生の馬との境界を超えたことだった。
ただホル国ではただ一人、リン国の大英雄をだまし討ちにしたシンバメルツが心に不安を抱えていた。
ギャツァを騙したのは、彼には勝ち目がないのを知って、仕方なく用いた最悪の策だったのだ。
リンの人々が心の底から恨みを抱いたのは言うまでもなく、自らの国の、あの美しいジズンイシもまた、常に面と向かって彼を侮辱した。
「さすが、ホル第一と称される勇士だこと。最大の武器がだまし討ちなのですからね!」
「ご存じでしょうね。卑劣な手段で正直な相手を殺せば、その人間は地獄に落ちるのですよ」
シンバメルツは弁解した。
「ジュクモ王妃が策を弄した時、一目でそれは侍女だと見破ったが、黙っていたのです」
女の気高い顔に蔑みの表情が顕わになった。
「自分を優れた勇士と誇っているのでしょうけれど、それは、クルカル王の犬と同じことです!」
そのたびに、ジズンイシ公主の言葉は彼の心を切り裂いた。
終に彼は口を開いた。
「公主様、どうやったら心の汚れを洗い流すことが出来るのでしょう」
公主は言った。
「お前がさらって来た王妃はすでに新しい王子を生みました。侍女たちと一緒におむつを洗ったらいかが」
このように、この女は彼のすべての尊厳をずたずたにした。
シンバメルツは叫んだ。
「毒を持った言葉をまき散らす方、私はどうしたら罪を洗い流し、心を入れ替えることが出来るのでしょう」
ジズンイシは笑った「ならば、若いケサルを忘却の泉から目醒めさせなさい」
「それがしには出来ません」
「自ら出向かなくてもよい。塩の泉の近くの野生の馬を魔国に追いやればいいのです」
シンバメルツはその理由が分からなかったが、すぐさま公主の言葉に従い、兵士を連れて王宮の北方の沙漠にいる一群れの野生の馬を塩の泉から追い立てた。
九日九夜休まずに馬を追い、終に魔国に着いた。そこで出発の時公主から賜った攻略の書を開くと、更に魔国の深くまで三日三夜馬の群れを追って行けとあった。
そこで彼はまた言葉の通りに事を行い、そうしてからやっとホルに戻った。
公主は言った。
「これでお前の不義の罪は半分洗われた」
「では、残りの半分は」彼は早く罪が注がれ、毎夜悪夢に襲われない日を待ち望んでいた。
公主は何も答えなかった。
首席大臣の悲しく憤りに満ちた叫びは巨大な力となり、魔国の空へと伝わった。
その時、いくつかの星がアダナムの砦の前に震えながら落ちた。
ケサルは尋ねた。
「これは天の星が落ちてきたのか」
二人の妃は取り繕おうとしたが、それより先に大臣チンエンが答えた。
「そうです、星が落ちて来たのです」
ケサルの虚ろな目に光が宿った。
「なぜか胸が痛む。リン国に難が起こったのではないだろうか。ここを片付けて国へ帰ることにしよう」
「大王様。国王の位にある方は朝日が昇る時に出発すべきです。夜に出発されるのは、こそこそと行動する魔物のようです」
ケサルは笑って、「それも道理だ。だが明日…もし忘れていたら、必ず促してくれ」
二人の妃は何度も承知の返事をした。
ケサルはまた尋ねた。
「時の立つのは早い。魔国に来て、もう一年になるだろうか」
みなは顔を見合わせるだけで、答える者はいなかった。
また酒が運ばれてきたが、ケサルは断わった。
「私がメイサを救いに行こうとした時、ジュクモが酒を飲ませて出征を忘れさせようとした。もう酒は飲まない」
アダナムとメイサは言った。
「では、お茶をお飲みください」
茶は酒と反対に人の心を醒ますものだとケサルは知っていたが、次の朝には昨晩話したことを忘れていた。
そして、出発を促す者もいなかった。
多くの人は言った。魔国には忘却の泉があり、ケサル王はその水を飲んだため、星々が落ちたという天からの明らかな啓示を忘れたのだ、と。
だが一方で、神はなぜこのように勿体ぶるのだろう、天の母を遣わして直接告げればいいではないか、と言う者もいた。
どちらにしてもケサルは忘却の泉を飲み、国王として負うべき重い責を忘れてしまったのである。
忘却の状態は丸々三年続いた。
三年目の初めに、ジュクモはクルカル王との間に健康な息子を生んだ。
この三年で、リンという生まれたばかりの国は、すでに国ではなくなっていた。
ギャツァという偉大な英雄が世を去って後、人々の心はバラバラになってしまった。
首席大臣は民心を治めることが出来ず、ケサル王の名前を使って四方に号令することも出来なくなっていた。
トトンはこの隙に自ら王と称した。
この陰険で徳を知らない者は、自分の兄弟であり、ギャツァとケサルの父であるセンロンに願い、日増しに輝きを増す城塞の総督となっていた。
ありうべからざることに、英雄ギャツァとケサルの父は、怒りに耐え沈黙するしかない召使いとなった。
毎年センロンは、トトンが国中から集めた貢物を恭しくホルの国境へと送っていた。
この状況を一転させたのは天馬ジアンガペイフだった。
初め、ジアンガペイフも魔国の忘却の泉の水を飲み、力は萎え、精気を失っていた。
ケサルが鉄の城で二人の妃と楽しんでいる時、ジアンガペイフも野生の馬の群れの中にいた時と同じく、美しく若い雌馬に取り囲まれていた。
だが時々不思議に感じられた。
以前、野生の馬の群れにいた時は、心は何時も喪失感に囚われていたが、今はどうしてこのように安穏としていられるのだろうか、と。
そのため、谷間から山の上に駆け上り、はるか遠方を望んでは思い悩んでいたが、何も見つけられなかった。
更に二つ、三つの山を走り抜けてもまだ何の成果もなかった。
そこでこう考えた。どんなことをしても馬の頭はやはり国王である人間の頭とは違うのだ、と。
時には国王も会いに来たが、何か思うところがあるように自分の頭を撫で、腰を叩いた。
明らかに、必死で何かを考えているのだが、それでも何も思い出せないようだった。
この時以来、ジアンガペイフは無駄に思い悩むのは止め、総ての力を群れの中の美しい雌馬を征服することに注いだ。
その噂ははるか遠くの馬の群れにも伝わって行った。
最も誇らしかったのは、その名声が家畜としての馬と野生の馬との境界を超えたことだった。
ただホル国ではただ一人、リン国の大英雄をだまし討ちにしたシンバメルツが心に不安を抱えていた。
ギャツァを騙したのは、彼には勝ち目がないのを知って、仕方なく用いた最悪の策だったのだ。
リンの人々が心の底から恨みを抱いたのは言うまでもなく、自らの国の、あの美しいジズンイシもまた、常に面と向かって彼を侮辱した。
「さすが、ホル第一と称される勇士だこと。最大の武器がだまし討ちなのですからね!」
「ご存じでしょうね。卑劣な手段で正直な相手を殺せば、その人間は地獄に落ちるのですよ」
シンバメルツは弁解した。
「ジュクモ王妃が策を弄した時、一目でそれは侍女だと見破ったが、黙っていたのです」
女の気高い顔に蔑みの表情が顕わになった。
「自分を優れた勇士と誇っているのでしょうけれど、それは、クルカル王の犬と同じことです!」
そのたびに、ジズンイシ公主の言葉は彼の心を切り裂いた。
終に彼は口を開いた。
「公主様、どうやったら心の汚れを洗い流すことが出来るのでしょう」
公主は言った。
「お前がさらって来た王妃はすでに新しい王子を生みました。侍女たちと一緒におむつを洗ったらいかが」
このように、この女は彼のすべての尊厳をずたずたにした。
シンバメルツは叫んだ。
「毒を持った言葉をまき散らす方、私はどうしたら罪を洗い流し、心を入れ替えることが出来るのでしょう」
ジズンイシは笑った「ならば、若いケサルを忘却の泉から目醒めさせなさい」
「それがしには出来ません」
「自ら出向かなくてもよい。塩の泉の近くの野生の馬を魔国に追いやればいいのです」
シンバメルツはその理由が分からなかったが、すぐさま公主の言葉に従い、兵士を連れて王宮の北方の沙漠にいる一群れの野生の馬を塩の泉から追い立てた。
九日九夜休まずに馬を追い、終に魔国に着いた。そこで出発の時公主から賜った攻略の書を開くと、更に魔国の深くまで三日三夜馬の群れを追って行けとあった。
そこで彼はまた言葉の通りに事を行い、そうしてからやっとホルに戻った。
公主は言った。
「これでお前の不義の罪は半分洗われた」
「では、残りの半分は」彼は早く罪が注がれ、毎夜悪夢に襲われない日を待ち望んでいた。
公主は何も答えなかった。