塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 91 物語:国王帰る

2015-02-22 16:41:44 | ケサル
故事:国王帰る その1



 首席大臣の悲しく憤りに満ちた叫びは巨大な力となり、魔国の空へと伝わった。
 その時、いくつかの星がアダナムの砦の前に震えながら落ちた。

 ケサルは尋ねた。
 「これは天の星が落ちてきたのか」

 二人の妃は取り繕おうとしたが、それより先に大臣チンエンが答えた。
 「そうです、星が落ちて来たのです」

 ケサルの虚ろな目に光が宿った。
 「なぜか胸が痛む。リン国に難が起こったのではないだろうか。ここを片付けて国へ帰ることにしよう」

 「大王様。国王の位にある方は朝日が昇る時に出発すべきです。夜に出発されるのは、こそこそと行動する魔物のようです」

 ケサルは笑って、「それも道理だ。だが明日…もし忘れていたら、必ず促してくれ」

 二人の妃は何度も承知の返事をした。

 ケサルはまた尋ねた。
 「時の立つのは早い。魔国に来て、もう一年になるだろうか」

 みなは顔を見合わせるだけで、答える者はいなかった。

 また酒が運ばれてきたが、ケサルは断わった。
 「私がメイサを救いに行こうとした時、ジュクモが酒を飲ませて出征を忘れさせようとした。もう酒は飲まない」

 アダナムとメイサは言った。
 「では、お茶をお飲みください」

 茶は酒と反対に人の心を醒ますものだとケサルは知っていたが、次の朝には昨晩話したことを忘れていた。
 そして、出発を促す者もいなかった。

 多くの人は言った。魔国には忘却の泉があり、ケサル王はその水を飲んだため、星々が落ちたという天からの明らかな啓示を忘れたのだ、と。
 だが一方で、神はなぜこのように勿体ぶるのだろう、天の母を遣わして直接告げればいいではないか、と言う者もいた。

 どちらにしてもケサルは忘却の泉を飲み、国王として負うべき重い責を忘れてしまったのである。
 忘却の状態は丸々三年続いた。

 三年目の初めに、ジュクモはクルカル王との間に健康な息子を生んだ。

 この三年で、リンという生まれたばかりの国は、すでに国ではなくなっていた。
 ギャツァという偉大な英雄が世を去って後、人々の心はバラバラになってしまった。

 首席大臣は民心を治めることが出来ず、ケサル王の名前を使って四方に号令することも出来なくなっていた。

 トトンはこの隙に自ら王と称した。
 この陰険で徳を知らない者は、自分の兄弟であり、ギャツァとケサルの父であるセンロンに願い、日増しに輝きを増す城塞の総督となっていた。

 ありうべからざることに、英雄ギャツァとケサルの父は、怒りに耐え沈黙するしかない召使いとなった。
 毎年センロンは、トトンが国中から集めた貢物を恭しくホルの国境へと送っていた。

 この状況を一転させたのは天馬ジアンガペイフだった。

 初め、ジアンガペイフも魔国の忘却の泉の水を飲み、力は萎え、精気を失っていた。
 ケサルが鉄の城で二人の妃と楽しんでいる時、ジアンガペイフも野生の馬の群れの中にいた時と同じく、美しく若い雌馬に取り囲まれていた。

 だが時々不思議に感じられた。
 以前、野生の馬の群れにいた時は、心は何時も喪失感に囚われていたが、今はどうしてこのように安穏としていられるのだろうか、と。

 そのため、谷間から山の上に駆け上り、はるか遠方を望んでは思い悩んでいたが、何も見つけられなかった。
 更に二つ、三つの山を走り抜けてもまだ何の成果もなかった。

 そこでこう考えた。どんなことをしても馬の頭はやはり国王である人間の頭とは違うのだ、と。

 時には国王も会いに来たが、何か思うところがあるように自分の頭を撫で、腰を叩いた。
 明らかに、必死で何かを考えているのだが、それでも何も思い出せないようだった。

 この時以来、ジアンガペイフは無駄に思い悩むのは止め、総ての力を群れの中の美しい雌馬を征服することに注いだ。
 その噂ははるか遠くの馬の群れにも伝わって行った。
 最も誇らしかったのは、その名声が家畜としての馬と野生の馬との境界を超えたことだった。

 ただホル国ではただ一人、リン国の大英雄をだまし討ちにしたシンバメルツが心に不安を抱えていた。
 ギャツァを騙したのは、彼には勝ち目がないのを知って、仕方なく用いた最悪の策だったのだ。

 リンの人々が心の底から恨みを抱いたのは言うまでもなく、自らの国の、あの美しいジズンイシもまた、常に面と向かって彼を侮辱した。

 「さすが、ホル第一と称される勇士だこと。最大の武器がだまし討ちなのですからね!」

 「ご存じでしょうね。卑劣な手段で正直な相手を殺せば、その人間は地獄に落ちるのですよ」

 シンバメルツは弁解した。
 「ジュクモ王妃が策を弄した時、一目でそれは侍女だと見破ったが、黙っていたのです」

 女の気高い顔に蔑みの表情が顕わになった。
 「自分を優れた勇士と誇っているのでしょうけれど、それは、クルカル王の犬と同じことです!」

 そのたびに、ジズンイシ公主の言葉は彼の心を切り裂いた。
 終に彼は口を開いた。
 「公主様、どうやったら心の汚れを洗い流すことが出来るのでしょう」

 公主は言った。
 「お前がさらって来た王妃はすでに新しい王子を生みました。侍女たちと一緒におむつを洗ったらいかが」

 このように、この女は彼のすべての尊厳をずたずたにした。
 シンバメルツは叫んだ。
 「毒を持った言葉をまき散らす方、私はどうしたら罪を洗い流し、心を入れ替えることが出来るのでしょう」

 ジズンイシは笑った「ならば、若いケサルを忘却の泉から目醒めさせなさい」

 「それがしには出来ません」

 「自ら出向かなくてもよい。塩の泉の近くの野生の馬を魔国に追いやればいいのです」

 シンバメルツはその理由が分からなかったが、すぐさま公主の言葉に従い、兵士を連れて王宮の北方の沙漠にいる一群れの野生の馬を塩の泉から追い立てた。

 九日九夜休まずに馬を追い、終に魔国に着いた。そこで出発の時公主から賜った攻略の書を開くと、更に魔国の深くまで三日三夜馬の群れを追って行けとあった。

 そこで彼はまた言葉の通りに事を行い、そうしてからやっとホルに戻った。

 公主は言った。
 「これでお前の不義の罪は半分洗われた」

「では、残りの半分は」彼は早く罪が注がれ、毎夜悪夢に襲われない日を待ち望んでいた。

 公主は何も答えなかった。








阿来『ケサル王』 90 物語:ギャツァ、命を捧げる

2015-02-05 02:42:46 | ケサル
物語:ギャツァ、命を捧げる その5




 この時、王子の後ろには夜陰に紛れて兵馬が集まって来ていた。
 蹄が大地を蹴り、それはまるで戦いを促す太鼓の音のようだった。
 この音はギャツァの血をたぎらせた。

 「よく聞け!戦うなら刀を取れ、降参するなら、オレの後ろに着け。俺がホルの兵をどうやって倒すか、見せてやろう」

 「兄さん!早く帰ってください。あなたの勇ましさは誰の目にも焼き付いています。兄さんは私の七人の兄弟を殺しました、父王は絶対に許さないでしょう」

 「お前は死ぬのを恐れているのだな。それでオレの弟だとうそを言ったのだろう」

 月の光の下で王子青白い顔がゆっくりと黒ずんでいった。王子はかすれた声で言った。
 「たとえ私があなたに敵わなくても、たとえあなたが私の兄であっても、そのような辱めは許せない!」

 王子は長槍を取り、馬に飛び乗ると言った。

 「ギャツァ・シエガよ、聞くが良い。あなたに勝てないことは分かっている。
  だが、私の後ろには私の国が付いている。
  死に臨んで一つ誓いを立てよう。
  もし私が本当にあなたの弟なら、私が流す血は白いだろう。
  もし弟でなければ、死んだのち流れる血は黒いだろう。
  
  さあ、かかって来い!」

 言い終えると王子は馬を鞭打って駆け寄り、槍を伸ばして顔を突こうとした。
 ギャツァは続けて三度身をかわしてから飛び上がり、後ろ手で一太刀浴びせると、王子はそのまま馬から落ちた。

 ギャツァは王子が一瞬微笑むのを見た。
 「兄さん、あなたはやはり真の英雄でした」

 言い終ると、口から血が噴き出した。その血は牛乳のように白かった。

 やはり、すでに世を去ったホル国の漢妃は本当に母の妹だったのだ。
 王子は本当に弟だったのだ。

 それなのに、自分は自らの手で心優しい弟を切り殺してしまったのだ。
 身を切るような月の光が地上を照らしていた。

 ホルの兵馬が次々と集まって来た。
 ギャツァは立ち上がり天を仰いで思いの限り叫んだ。

 集まって来た兵馬はその時目にした。
 ギャツが身を守る鎧兜を脱ぎ、月の光の元に横たわっている弟に向かってこう言うのを。
 「見た所、オレは戻れないようだ。さあ、お前の魂よ、待っていてくれ。黄泉の国で真の兄弟となろう」

 言い終ると、馬を駆ってホルの陣中に飛び込んでいった。

 この時、シンバメルツが前に踊り出た。
 ところがそれ以上近づこうとはせず、矢が届くほどの距離で馬を停めた。

 「道を開けろ。クルカル王を前に出せ」

 シンバメルツは言った。
 「今日は満月だ、毎月この日、我が大王は白い絹を手に結び、打たず、殺さず、善を修められる。
  大英雄であるおぬしの名は以前より聞いておるぞ。
  今日は、我々が武芸を競い合おうではないか。
  明日、本物の刀本物の槍で我が大王と命を懸けて決戦出来るのだ」

 「よけいなことは言わず、クルカル王を出せ」

 「このシンバとて並の者ではないぞ。相手として不足はないはず」

 「もしお前が負けたら、クルカル王をすぐ連れて来い」

 「もしワシが負けたら、王に伝えよう」

 「まずは、刀で戦うか、それとも矢で戦うか」

 「おぬしの刀の腕は千を超える我々ホルの兵の認める所だ。ならば、矢で戦おう」

 ギャツァはすぐさま弓をいっぱいに引き、
 「お前の兜の赤い房を射るぞ、この矢を見よ!」

 シンバメルツが避ける間もなく、頭の上を疾風が通り過ぎた。
 振り向いた時には、矢は射とめた赤い房を付けたまま、後ろの柏の木に深々と刺さっていた。

 ホルの大軍はほんの少し前まで、殺されるかと慌てふためいていたが、この瞬間、そろって喝采の声を挙げた。

 シンバメルツはすぐに矢を弓に当て、何も言わず弦を持つ手を緩めると、矢は真っ直ぐにギャツァの顔目がけて飛んで行った。

 矢はギャツァの額の真ん中に当たった。

 無防備だったギャツは大声で叫ぶと馬から落ちた。

 リン国を支える大きな柱、真っ直ぐな心を持つ勇者ギャツァ・シエガこうしてだまし討ちにされた。

 シンバメルツは本来正直な人間だったが、ギャツァの武芸と威風に恐れをなし、このように英雄としてすべからざる行為を為したのだった。
 だが、心の中は慚愧に耐えず、クルカル王を急かせて休まずに移動した。

 ホルの大軍は新しい王妃ジュクモを連れ、勝利のラッパも高らかに、太鼓を打ちならし、昼夜を分かたずホルへと戻って行き、リン国の大軍がやって来た時には、ホルの軍はすでに影も形もなかった。

 ギャツァという心の真っ直ぐな英雄の心臓はすでに脈打たず、リンの陣営にはもはや、頑丈な体を馬上で踊らせていたギャツァの姿は無かった。

 リンで最も清らかに輝く月は地に墜ちた。

 首席大臣の心は張り裂けんばかりだった。
 ギャツアの言葉を聞かず、早くに大軍を率いて王宮を守らせなかったことを悔いた。

 人々に担がれてギャツアの体が丘を降りてきた時、首席大臣は跪き、北の魔国の方角に向って血の涙を流しながら叫んだ。

 「大王よ!
  あなたへの忠誠のため、猜疑心によってギャツァを死に追いやってしまいました。
  大王よ!まだリンの国を覚えておられますか。まだ私たちの忠誠を必要としておられるのでしょうか」

 彼の悲憤の叫びの中で、空中に昇った満月の暖く淡い光が、氷のように青白く変わっていった。