語り部:駿馬 その2
なんと、その売人はすでに目の前に現われていた。
サングラスの男、居丈高で、ジンメイが好きになれなかったあの男がそうだったのだ。
「あの男の言い値が一番高かったのか…いくらだったんだろう」
その数字はあまりにも大きすぎた。
ジンメイが持ったことのある金は多くても二百元までだ。だから、その数字は彼の金に対するイメージを完全に超えていた。
金はそこまで多くなるともう金ではなかった。
世捨て人のような老人は言った。
「ワシが何故そうしたか分かったか」
「どうして呪いをかけたかってことですか」
「ワシは本当の駿馬をこの草原に残しておきたいのじゃ。駿馬は草原の魂だ。
あの男は一番良い馬を街に売ってしまう。
おまけに、競馬の間は毎日、勝敗で賭けをしているそうじゃ。
だからわしの言うことを聞いてくれ。二度と語りであの馬を慰めないでくれ」
ジンメイは何も答えなかった。
「ワシの話が聞こえたのか」
老人は声を荒げた。そこには威嚇が込められていた。
「もう一つ頼みがある。次に語る時には、呪いを掛け合う一節を加えてくれ」
この言葉にジンメイは怒りを感じた。
彼は信じている。自分が語る物語は神様が望む最も完全な物語なのだ、と。
彼は地面に唾を吐きかけ、老人に背を向けて丘を降りた。
高原は何時もそうなのだが、山の上はまだほんのりと光が残っていたのに、谷間はすでに夜の色に覆われていた。
濃い夜の中に降りて来た時、ジンメイは、さっき自分がしたことが少し怖くなった。
だが、草の上に吐いた唾を元に戻すことは出来ない。
そこで彼はあの馬を探し、あの馬のために語ろうと決めた。
若い騎手はいいとは言わなかった。
そんなことしたら、馬は決勝の日を待たずに、精力を爆発させてしまう、と言った。
ジンメイは聞きたかった。もしこの馬が勝ったら、売ってしまうのか、と。
だがついに何も言えなかった。
ジンメイは決勝が行われるその日を待たなかった。
だが、その馬が勝利したのを人づてに知った。彼はその前にここを去ったのだった。
ジンメイは競馬大会である人物と出会った。その人物は首からカメラをぶら下げ、手にはテープレコーダーを持っていた。
ジンメイが人々を前に語る時、その人物は録音器を彼の前に置いた。
その人物は言った。
「君は国の宝だ」
昼過ぎ、ジンメイは競馬場の電信柱に寄りかかって眠りながら、自分の語りを聞いたような気がした。
起き上がって周りを眺めた。その語りはまだ続いている。
その声はまるで自分の声のようだった。語りの間の取り方、琴の極度な指使いもまるで同じだった。
不思議に思って立ち上がり辺りを眺めたが、語っている人は見あたらなかった。
もし夢の中なら、自分が語っている姿が見えるだろう。
もし夢の中でなかったら、どうしてこんなことが起こるのだろうか。
電信柱の周りを大勢の人が囲んでいるのに気付き、彼らに向かって大声で尋ねた。
「ここは夢の中ですか。オレは、夢を見ているのですか」
彼らはどっと笑った。
その中の一人が彼の前まで歩いて来て、手を伸ばして電信柱に掛かっているラッパを指さした。
語りの声はそのラッパから聞こえていた。
「誰だろう」彼は尋ねた。
その人物は言った。
「君だよ」
ジンメイはぎゅっと口を閉じた。
その目は、見てくれ、オレは声を出していないぞ、と語っていた。
その人物は彼を機器が並んだテントへ連れて行った。
彼がある機器からテープを抜き取ると、語りは止んだ。テープを入れると、語りはまた始まった。
ジンメイは悟った。
「分かった。あんたは声を写す人だ」
この人物はケサルの語りを研究する学者だった。
彼は親しげにジンメイの肩を引き寄せ、言った。
「その通りだ。一緒に君の声の写真を撮ろう。どうだね」
ジンメイはもったいぶって尋ねた。
「ここで、ですか」
「私と街へ行くんだ」
「今ですか」
「そんなに焦るな。競馬が終わってからだ」
学者は興奮して、ジンメイを連れて指令センターの大きなテントへ行った。
そこで学者は多くの幹部たちと握手し挨拶を交わした。彼は興奮を抑えきれず、ジンメイを幹部たちに紹介した。
「今回の最大の収穫は、ここで一人の国宝を発見したことです」
「国宝」
「神から物語を授かった語り部です」
「ああ、ケサルの語り部か」
幹部たちの表情は冷やかだった。
「以前、ケサルの語りが許されなくなると、やつらはみな鼠のように隠れてしまった。近頃、緩やかになったもんだから、早々に地面から顔を出しというわけか」
ジンメイは、自分が人間ではなく、まるで鼠のように体が小さくなった気がした。
学者は構わずに意見を述べた。
「決勝が始まる前に、彼の『競馬で王になる』の語りを放送したらいかがでしょう」
幹部は笑って、学者の肩を引き寄せてテントの外へと向かった。
「先生の学問は素晴らしい、尊敬に値しますな。暇な時にまた遊びにいらっしゃい。では、これから会議があるので…」
こう言って幹部は学者をテントから送り出した。
ジンメイも一緒にテントから出た。
学者は次の日の朝ここを発つことに決めた。
午後、彼はカメラを持ってジンメイと河辺の柳の林に行き、自分が国宝と呼んだ語り部が、駿馬のたてがみをなでながらその駿馬に向って語るのを見ていた。