塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

ドキュメンタリー『ケサル大王』上映のお知らせ

2014-10-29 03:29:15 | ケサル
ドキュメンタリー『ケサル大王』上映のお知らせ


ケサルはついにリン国の王となり、
ジンメイは学者と出会い、語り部としての地位を確立します。
これから、雄壮で不思議な戦いが始まります。


今回は、昨年劇場上映された映画『ケサル大王』と新作の上映会のお知らせです。



「光の子ゲセル」英語版完成!新作「天空の大巡礼」完成真近!
そして1年ぶりの「ケサル大王」上映決定!


11月22日(土)/12月1日(月)〜4日(木)
 中野ゼロ 視聴覚ホール 午後1時半上映 入場料1500円
 「光の子ゲセル」「ケサル大王」「天空の大巡礼」

11月23日(日)午後1時半上映 三鷹市立南部図書館みんなみ
 「ケサル大王」 入場無料 
  主催:三鷹市教育委員会 協力:アジアアフリカ図書館

11月30日(日)午前11時上映 三鷹沙羅舎
 「天空の大巡礼」 入場料2000円(前売り)
 三鷹いのちと平和映画祭  他の映画もご覧いただけます。




ケサル大王のFacebookページから
https://www.facebook.com/pages/%E3%82%B1%E3%82%B5%E3%83%AB%E5%A4%A7%E7%8E%8B/419486081451560




阿来『ケサル王』 72 語り部 駿馬

2014-10-24 02:48:44 | ケサル
語り部:駿馬 その2




 なんと、その売人はすでに目の前に現われていた。
 サングラスの男、居丈高で、ジンメイが好きになれなかったあの男がそうだったのだ。

 「あの男の言い値が一番高かったのか…いくらだったんだろう」

 その数字はあまりにも大きすぎた。
 ジンメイが持ったことのある金は多くても二百元までだ。だから、その数字は彼の金に対するイメージを完全に超えていた。
 金はそこまで多くなるともう金ではなかった。

 世捨て人のような老人は言った。
 「ワシが何故そうしたか分かったか」

 「どうして呪いをかけたかってことですか」

 「ワシは本当の駿馬をこの草原に残しておきたいのじゃ。駿馬は草原の魂だ。
  あの男は一番良い馬を街に売ってしまう。
  おまけに、競馬の間は毎日、勝敗で賭けをしているそうじゃ。
  だからわしの言うことを聞いてくれ。二度と語りであの馬を慰めないでくれ」

 ジンメイは何も答えなかった。

 「ワシの話が聞こえたのか」
 老人は声を荒げた。そこには威嚇が込められていた。
 「もう一つ頼みがある。次に語る時には、呪いを掛け合う一節を加えてくれ」

 この言葉にジンメイは怒りを感じた。
 彼は信じている。自分が語る物語は神様が望む最も完全な物語なのだ、と。

 彼は地面に唾を吐きかけ、老人に背を向けて丘を降りた。
 高原は何時もそうなのだが、山の上はまだほんのりと光が残っていたのに、谷間はすでに夜の色に覆われていた。

 濃い夜の中に降りて来た時、ジンメイは、さっき自分がしたことが少し怖くなった。
 だが、草の上に吐いた唾を元に戻すことは出来ない。
 そこで彼はあの馬を探し、あの馬のために語ろうと決めた。

 若い騎手はいいとは言わなかった。
 そんなことしたら、馬は決勝の日を待たずに、精力を爆発させてしまう、と言った。
 ジンメイは聞きたかった。もしこの馬が勝ったら、売ってしまうのか、と。
 だがついに何も言えなかった。

 ジンメイは決勝が行われるその日を待たなかった。
 だが、その馬が勝利したのを人づてに知った。彼はその前にここを去ったのだった。

 ジンメイは競馬大会である人物と出会った。その人物は首からカメラをぶら下げ、手にはテープレコーダーを持っていた。
 ジンメイが人々を前に語る時、その人物は録音器を彼の前に置いた。

 その人物は言った。
 「君は国の宝だ」

 昼過ぎ、ジンメイは競馬場の電信柱に寄りかかって眠りながら、自分の語りを聞いたような気がした。
 起き上がって周りを眺めた。その語りはまだ続いている。
 その声はまるで自分の声のようだった。語りの間の取り方、琴の極度な指使いもまるで同じだった。

 不思議に思って立ち上がり辺りを眺めたが、語っている人は見あたらなかった。
 もし夢の中なら、自分が語っている姿が見えるだろう。
 もし夢の中でなかったら、どうしてこんなことが起こるのだろうか。

 電信柱の周りを大勢の人が囲んでいるのに気付き、彼らに向かって大声で尋ねた。
 「ここは夢の中ですか。オレは、夢を見ているのですか」

 彼らはどっと笑った。

 その中の一人が彼の前まで歩いて来て、手を伸ばして電信柱に掛かっているラッパを指さした。
 語りの声はそのラッパから聞こえていた。

 「誰だろう」彼は尋ねた。

 その人物は言った。
 「君だよ」

 ジンメイはぎゅっと口を閉じた。
 その目は、見てくれ、オレは声を出していないぞ、と語っていた。

 その人物は彼を機器が並んだテントへ連れて行った。
 彼がある機器からテープを抜き取ると、語りは止んだ。テープを入れると、語りはまた始まった。
 ジンメイは悟った。

 「分かった。あんたは声を写す人だ」

 この人物はケサルの語りを研究する学者だった。
 彼は親しげにジンメイの肩を引き寄せ、言った。
 「その通りだ。一緒に君の声の写真を撮ろう。どうだね」

 ジンメイはもったいぶって尋ねた。
 「ここで、ですか」

 「私と街へ行くんだ」

 「今ですか」

 「そんなに焦るな。競馬が終わってからだ」

 学者は興奮して、ジンメイを連れて指令センターの大きなテントへ行った。
 そこで学者は多くの幹部たちと握手し挨拶を交わした。彼は興奮を抑えきれず、ジンメイを幹部たちに紹介した。
 「今回の最大の収穫は、ここで一人の国宝を発見したことです」

 「国宝」

 「神から物語を授かった語り部です」

 「ああ、ケサルの語り部か」

 幹部たちの表情は冷やかだった。
 「以前、ケサルの語りが許されなくなると、やつらはみな鼠のように隠れてしまった。近頃、緩やかになったもんだから、早々に地面から顔を出しというわけか」

 ジンメイは、自分が人間ではなく、まるで鼠のように体が小さくなった気がした。

 学者は構わずに意見を述べた。
 「決勝が始まる前に、彼の『競馬で王になる』の語りを放送したらいかがでしょう」
 
 幹部は笑って、学者の肩を引き寄せてテントの外へと向かった。
 「先生の学問は素晴らしい、尊敬に値しますな。暇な時にまた遊びにいらっしゃい。では、これから会議があるので…」

 こう言って幹部は学者をテントから送り出した。
 ジンメイも一緒にテントから出た。

 学者は次の日の朝ここを発つことに決めた。

 午後、彼はカメラを持ってジンメイと河辺の柳の林に行き、自分が国宝と呼んだ語り部が、駿馬のたてがみをなでながらその駿馬に向って語るのを見ていた。






阿来『ケサル王』 71 語り部 駿馬

2014-10-21 19:05:08 | ケサル
語り部:駿馬 その1




 カムの競馬大会が始まった。

 一日目は予選である。

 多くの馬、多くの騎手が、一度に並び同時に出発するとしたら、スタートラインは少なくとも2kmはなくてはならない。
 だが、世界中のどこにそんなに長いスタートラインがあるだろうか。
 そこで、一組ずつ分かれて駆けることになる。

 スタートラインの片側では、係員がピストルを持ち引き金に手を掛けて撃つ用意をしている。
 スタートラインの反対側には三角の旗を持った号令役が立ち、騎手は手綱を引き締めてライン上で待ち構えている。

 見物を楽しもうと、夥しい人々がやって来て、警官たちは草原に列を作った。
 馬が競い合うコースを確保するためである。

 ピストルの音が鳴り響き、旗が振られると、一群の馬が向かいの丘のふもとのゴール目指して疾走する。
 そこにはビーチパラソルの下に高い椅子が置かれ、ストップウォッチを握った審判員が座り、馬が白い線を超えるごとに時間を記録していく。

 ジンメイはやっと人の群れに割り込んだが、見たこともない人の渦に気を取られて、馬を見るどころではなかった。
 その時黒いサングラスをかけた男が彼の耳元で言った。

 「本当の名馬は初めから姿を見せはしない。クライマックスはまだまだこれからだ」

 この男は自分に話しているのだろうか。

 男は言った。
 「そうだ、お前さんに話してるんだ。俺のテントに来てくれないか。茶でも飲んで一休みしよう」

 言い終ると、振り向いて人ごみから離れて行った。
 ジンメイも男に着いて人ごみをかき分けた。男は遠くのテントの前で手招きしている。

 外は陽の光に焼かれそうだったが、テントの中はひんやりしていた。ジンメイは茶を飲んだ。男は言った。

 「お前さんは馬の話を語っただろう。だから、馬のことを分かっているかと思ってな」

 ジンメイは首を振った。自分はただ神の意志で語っているだけなのだ。

 男は考える間も与えず言った。
 「馬を語るなら、馬のことをよく分かっているはずだ」

 ジンメイは以前黄昏の丘に現れた世捨て人のような老人を思い出した。ジンメイは言った。

 「馬のことを分かる人とは、馬を讃える歌ばかり歌う人のことでは…」

 薄暗いテントの中でもサングラスをはずさない男はため息をついた。
 「行こう」
 ジンメイはまた彼に着いてテントの街を抜け、小さな丘の下に来た。

 河原を埋める柳の林の中で、数人の男がひどく疲れた様子の馬を囲んでいる。
 生気はないが美しさではどの馬にも負けていない。サングラスの男は言った。

 「最後に戦って賞を獲るのはこのような馬だ」

 「でも、あまり嬉しそうじゃないですね」

 「優秀な馬が競馬に出るのに嬉しくないわけがないだろう。もし競馬大会がなければ、世界に駿馬は必要ないんだからな」

 「だったら…病気なのでは」

 「優秀な馬は競馬の時に病気になったりしない」

 サングラスの男は言った。
 この馬は他の馬主に呪いをかけられたのだ。
 男たちは、呪いをかけたのは馬を賛美するあの老人ではないかと考えていた。

 彼らが言うには、老人は実はかなりな呪術師で、ライバルの馬の持ち主から呪いをかけるよう頼まれたらしい。
 彩雲模様が刺繍されたブーツを履いた騎手は馬のたてがみをそっと撫でながら涙を流した。

 彼らはジンメイに相手の馬に呪いをかけてくれとせがんだ。
 だが、ジンメイに呪いなど出来るはずがない。

 「お前さんの語りの中では、ケサルはどんな呪術にも通じているじゃないか。その通りにやってみてくれ」

 彼らが言うには、この馬は言うなればケサルの乗るジアンガペイフであり、そして、そのライバルとは正に玉佳馬なのだ。
 サングラスの男は「競馬で王になる」の一節を聞いたことがあった。

 競馬の前の夜、ジョルとトトンはお互いに呪いをかけあって、相手の馬を痛めつけようと謀る。
 それを知った神は競馬大会を正しく行わせるために、二人の醜い戦いを制止するのである。
 こうして、今日まで伝わる物語が生まれた。ケサルが競馬でリン国の王になる一節である。

 だが、ジンメイが語る物語にはこの場面はなかった。

 サングラスの男の怒りが爆発した。
 「なんでだ。なんでお前の物語にこの場面がないんだ。もしかして、お前は名前だけで、中身のないないペテン師だろう」

 ジンメイは苦笑いした。
 「ペテン師?オレが?」

 自分は家族もなく、ケサルを語る時の衣装以外、余分なものは何も持っていないのに。
 だから、彼はいくらか悲痛な思いで繰り返した。
 「どうしてオレがペテン師にならなきゃいけないんですか」

 サングラスの男は怒りを抑えられなかった。
 「ただ飯を食うために決まってるだろう」

 「羊飼いをしていた時には、こんなに長い間歩き回らなくても、ちゃんと食えてだんだ」

 「それなら」騎手は涙を手で拭きながら小さな声で頼んだ。
 「おれの大切な馬に英雄の話を語ってくれないか」

 彼は錦の外套を脱いで柳の木の下に敷き、座って歌うよう言った。
 ジンメイはこの若者に心を動かされ、座らずに、馬の前に立って、たてがみを撫でながらゆっくりと語った。

 柳の影がぐるりと取り囲み、まるで耳を凝らして聞きいっているようだった。

 垂れさがっていた馬の耳がピンと立ち上がり、生気のなかった毛色は、語りに連れて艶やかさを取り戻していった。
 その光景を目の当たりにして、若い騎手は彼に向かって跪いた。
 ジンメイは、奇跡が現われたのは自分のせいだとは信じなかった。

 彼は言った。
 「美しくて馬だ。もしオレの語りがこの素晴らしい馬の薬になるんだったら、何時でも訪ねて来なさい」

 柳の林を出た後、ジンメイは河を見つめながら自分でも感動して暫く泣いた。
 泣き声は立てなかった。

 河辺に立ち顔を上げたまま涙で目の前がぼやけるのに任せていると、涙の光の中の空に様々な幻影が見えた。
 ジンメイはそのまま河辺の草地に暫く座って静かに思いにふけった。
 だが実は、何も考えてはいなかった。

 ただ、周りの世界を感じていただけだった。
 すぐそばで紫苑が花を開かせ、澄んだ鳥の声が頭の上から滴り落ち、心の底へと届くのを感じていた。

 黄昏の夕映えが再び天を燃え上がらせる頃、彼は後ろの丘に登った。

 今回は彼が先に丘の上に着いた。その後から、馬を賛美する老人が現われた。

 老人は言った。
 「おお、今回はお前が先に来たのか」

 「追いかけっこじゃあるまいし。どっちが先も後もないでしょう」

 「昨日の夜お前の語りを聞いたぞ」

 「気が付きませんでした」

 「本当の語り部なら、教えを請うて、一言挨拶するんじゃがな」

 「神様がオレを歌わせるし、教えてくれるのも神様です」

 「どうして競馬の前の夜、ジョルとトトンが呪いをかけ合う場面を語らなかったのかね」

 「そんなに呪いが好きなんですか」

 「お前の法力もかなりのものじゃろうな」

 ジンメイは周りを敵にしたくなかった。
 誰かに呪いをかけて、相手の呪術師を敵にするのだと考えると、少し怖い。
 彼は名の通った仲肯になった。だが彼の心はもとの羊飼いの心のままだった。
 正直で人の心を傷つけず、そして、見るからに凶悪そうな人物は怖かった。
 取り入るような笑顔を作るのを恨んだが、やはりそんな表情を浮かべてしまうのだった。

 「誰かの馬が病気になって、男たちがオレに語らせたんです。そしたら、馬の毛色が艶々して来ました」

 「それは本当か」

 ジンメイは何も言わなかった。

 「お前がでたらめを言うはずはないな」

 「どうしてでたらめを言わなくちゃならないんですか」

 世捨て人のような老人は彼の問いに応えず、言った。
 「これからは、あの馬のために語る必要はない」

 ジンメイはゆっくりと首を振った。
 彼はあの馬が好きであり、その馬を心配して涙を流した騎手が好きだった。
 もちろん、サングラスの男は嫌いだったが。

 老人は言った。
「お前はまだ自分の物語の中にいるようじゃな。競馬では、ケサルの物語のように、正しい人が王座に着くと信じているんじゃろう。
 じゃがな、分かっているか。優勝した馬にどんな運命が待っているのか。
 一番高い値を付けた売人に売られてしまうんじゃ」








阿来『ケサル王』 70 物語 競馬で王となる-2

2014-10-16 23:11:47 | ケサル
物語:競馬で王となる-2  その2



 一日の内に、まとまりのなかったリンは秩序だった一つの国となった。

 醜い少年は見目麗しく威厳ある国王となり、リンで最も美しい娘は国王の花嫁となった。

 人々が宴を楽しんでいる間に、天の意に応えて、新しい王宮がまるで雨上がりの茸のように、地面を突き破って現われ、悠然と草原をうねって行く黄河を臨んで聳え立った。
 神々が施した法力によって王宮は水晶のように光り輝やいた。

 今までテントの中の五彩の敷物に肩を並べて座っていた人々は、歌と楽の音の響く中、気が付くといつの間にか百二十本の柏の木に支えられた雄壮な大広間に中にいた。
 目の前で、玉の台座が徐々に昇って行き、一段一段、それぞれの地位によって高さを変えていった。

 最高の宝座に座ったケサルは居並ぶ人々、大臣、武将、そして天に向かって、国土を建て直し魔物たちを平定するという壮大な願いを、重ねて宣言した。彼の声は銅の鐘を叩くかのように宮殿に響き渡った。

 大広間の外から歌と楽の音が徐々に近づいて来て、神でもあり人でもある匠たちが入って来た。
 正しく言えば、彼らは来た時は人だったが、後に、リンで職人の神となるのである。

 冶金の術をもたらした鉄の父、鍛冶屋の神、後に、彼はリンの兵器部の首領となった。

 木彫師。

 土を焼いて滑らかな瑠璃に変える陶工。

 琴作り師。

 広い街道を穿ちながら、山神の怒りに触れることのない風水師。

 花と花が人のように愛し合い、より豊かに種が実るようにする種の魔術師。後に、彼は農民が祭る豊穣の神となった。

 風を起こす袋を持ち幾つもの花の香りを集める香料師。後の世で、彼は美を愛する女性が自らの部屋で祭る秘密の神となった。
 彼の許しを得た女性は、様々な花の香を体から立ち昇らせたという。

 ケサル王は言った。
 「匠の方々、諸君は王宮の建設にそれぞれに貢献された。この先の私の事業にも諸君の更なる貢献が必要だ。
  ひとまず座って酒を飲み楽まれるように」

 あたかも神のように突然現れたこれらの匠たちは皆席に着いた。

 ただ琴作り師だけが口を開いた。
 「この美酒は爽やかで口当たりが良い。だが、楽の音はいささか耳に刺さります。
  祭祀と出征に際して奏される耳をつんざく高らかな太鼓やラッパは、優雅で威厳に満ちた宮殿にふさわしくないでしょう。
  これらの無骨な者たちに、心穏やかで高雅な管弦の楽を奏でさせるまで、しばらくお待ちください」

 ケサルは微笑みながらうなずいた。

 人々は、このような大言を口にする者が、どのように短い時間で、力任せに演奏する獰猛な男たちに、彼の言うような高雅な楽を奏でさせるのか見守った。

 琴作り師は、琴を手に楽隊の前に進み出ると、謎めいた笑みを浮かべ、一本の指を唇に当てた。
 彼は息の音も立てずに楽隊の演奏を止めた。

 彼は琴の弦を弾いた。
 その音は、吟詠のための旋律ではなく、透き通った波しぶきが渓流の上を舞っているようであり、湖に沸き立つさざ波に太陽の光が降り注ぐようでもあった。

 琴の弦と指の間から連なった音が溢れ、こぼれ落ち、すると彼自身もまたその音が遠くへ行き、また戻って来るのに耳を傾けた。

 こうして音が行き来する間に、楽隊たちの厳めしい表情は穏やかに厳粛に変わっていった。

 琴作り師が太鼓の膜をそっと撫でると、固まっていた生贄の血が剥がれ落ち、蓮の花が現われた。
 彼が琴の弦を撫でると、清らかな風が掠めたように、人間の大腿骨で作られたラッパは地に落ちて砕けた。

 彼は言った。
 「みなに琴を与えよう」
 彼らの手に一つずつ琴が現われた。

 彼は言った。
 「私について弾きなさい」
 彼らは弾き始めた。

 音はすべての人を軽く撫でていった。それまでの太鼓とラッパの音のように力づくで耳に吹き込むのではなく、心の深くをそっと撫でていった。
 そのため、誰もが自分の心臓を見た。
 薄赤色に煮えたぎり、開くのを待つ蓮の花のようだった。

 それまで楽隊はみな戦士と占い師だっが、琴の音の中で彼らは本当の楽師となった。
 旋律の高まりに連れて涙が溢れ、流れ落ちた。
 そのため、彼らは「二度生まれた人」と呼ばれた。

 その時、多くの女性がこの琴作り師を愛した。
 だが後に、風説が広まった。
 ある女性が、彼が湖のほとりで沐浴しているのをこっそり覗くと、その琴作師はなんと女性だった、というのである。

 だが、主要な集まりで管弦の楽が奏でられる度に、女性たちは心をときめかせずにはいられなかった。
 王妃ジュクモでさえ、ケサルの傍らに座り、彼の力を頼みにしなければ、激しい思いを抑えることが出来なかっただろう。

 その楽の音が人々の心に呼び覚ます情感があまりに美しかったからである。








阿来『ケサル王』 69 物語 競馬で王となる-2

2014-10-08 02:07:56 | ケサル
物語:競馬で王となるー2 その1



 ジョルが宝座に座ったその時、この世のものとは思えない光景が繰り広げられた。

 五彩の瑞雲が現われて、瞬く間に空一面に広がった。暫くして雲は波打つように二つに分かれた。
 天の扉が開いたのである。

 吉祥長寿の天女が矢と聚宝盆(宝を出し続ける鉢)を手に虹に乗って現れた。
 同じ虹の更なる高みには、天母ランマダムが矢壺を手に、菩薩たちを引き連れて姿を見せた。

 天馬ジアンガペイフが天を見あげて三度高くいなないた。
 ジョルが山神が献上した鍵を古熱山の岩に向かって投げると、連なる山々はすべてゴウゴウと鳴り響き、岩がなだれのように崩れ落ち、山の奥深くに七種の珍宝を隠していた水晶の扉が大きな音と共に開いた。
 山神の従者達がこれらの宝をすべて玉座の前に運んだ。

 男神たちが現れた。
 神々がそれぞれ捧げ持っているのは、雪の峰のように白い兜、黒い鉄の鎧、赤い蔓の盾、そして戦神の魂が宿った虎の弓袋…神々は勇士として持つべきものを一つずつ捧げ持ち、次々と現れては、ジョルの体に正しく添えていった。

 背に負う弓、腰に履く剣、手に持つ投げ縄、神の力の宿った縄、山を切り裂く斧…敵を制するすぐれた武器で戦いの姿を整えた。

 華やかな衣装、瞬時に変化した姿かたち。
 王となった人物は、醜くおどけた少年から、瞬く間に、威風堂々とした気迫を漲らせ、周囲を圧倒していた。

 その間、辺りは厳かな楽で満たされ、のびやかに舞う天女たちが空から色とりどりの花を雨のように降らせていた。

 リンの地に生まれてから、ジョルは黒い雲に覆われた太陽のように、その輝きを放ち続けることが出来なかった。
 深い泥沼に沈んだ蓮の花のように、想いのままに魅惑的な香りを発することが出来なかった。

 人々のために幾つも良い行いをしながら、の人々によって荒野へ追放された。
 夥しい妖魔や妖怪を降伏しながら、残忍な本性を現していると受け取られた。

 思えば、これは神の思し召しだった。
 人々の苦しみを身をもって知るようにと、彼に人の苦しみを味わい尽くさせたのである。

 今、彼はついに王位に座った。

 宝を捧げ、加護を与えるために姿を現した男神は去って行った。
 祝福のために現れた女神も姿を消した。
 緩やかに閉じられた天の門から天上へと戻って行ったのである。
 
 天は、最後に厳かな声が響かせた。

 「これより、天下にリン国あり。
  リン国にケサル王あり」

 リン国の人々はやっと夢から醒めたように、喜び叫びながら、競馬を観戦していた神山から一斉に降りて来て、金の王座に座っている神の子の前で、歓呼の声を挙げた。

 姿かたちを一新し、堂々たる威風を備えた人物、即ち彼らの王はリンを一つの国に変えた。

 ケサルは金の王座からゆっくりと立ち上がった。
 彼が人々をぐるりと見渡すと、喜びの声は収まり、皆息を殺して、その言葉を待った。

 ケサルは王座から臣民を見降ろしながら、ゆっくりと口を開いた。

 「競馬に参加した英雄たち、リンの民たちよ、
  下界に降り、妖魔を倒し人々の命を守ろうと自ら発願してから12年が経った。
  この12年の季節の移り変わりの中で、私がした全ての行いを誰もが目にしてきたはずだ。
  今リン国の黄金の玉座へと昇りついた。これは天の意を受けてのことではあるが、皆の者は心から承服してくれるだろうか」

 老総督は大声で叫んだ。

 「神はリンに福を賜った。彼こそは我々リン国の英雄、王である」

 王。
 これは新しい言葉だった。リンの民はこれまで口にしたことがなかった。だが、心の中で待ち望んでいた。
 それは早くから来るはずだったが、なかなか現れなかった。

 そして今日、色鮮やかな功徳の花を降らせながら目の前に現れたのである。
 そこで彼らは、千万の心、千万の口を揃えて、何よりも尊いものを讃えるかのように叫んだ

 「王、王、王!」

 「ケサル!王!ケサル王!」

 彼らの叫びはこの至高の称号を、どのように珍しい宝よりもさらに煌びやかに輝かせた。

 その日、黄河の上流下流に広がる草原からは、身を潜めていた妖魔たちが、人々の声が地を揺るがす中で、遥か遠くの荒れ果てた地に逃げ去ったという。

 老総督ロンツァ・タゲンは、各の首領を率いてそれぞれの系図と旗を献上し、忠誠を示した。
 ケサルは意気高らかに人々の心からの喜びの声を受けとめ、手を挙げてそれを制すると、大臣、大将の指名を始めた。

 まず、老総督を首席大臣に任じた。以下には、補佐の大臣、各を繋ぐ万戸長、千戸長を置いた。
 更に、リンの三十英雄の中のギャツァ、タンマ、ニペン・ダヤ、ネンツァ・アダンを四大将軍に任じ、大軍を率いて辺境の守備に当たらせた。
 その下には、各正副将軍、千夫長、百夫長を置いた。

 国師、軍医に至るまで漏れるところなく、人々は誰からともなく口を揃えて褒め称えた。

 失望の極みのトトンでさえ、自分のよこしまな感情を抑えるしかなく、前に進み出て、新しい国王に額ずき、祝いの言葉を述べた。
 彼は心にある謀り事を抱いて言った。

 「大王様、リンはすでに国となりました。では、高貴な金の玉座はどこに置かれるおつもりですか。
  まず、大王様はダロンの長官の砦に移って頂き、暫く王宮としてくだされ。
  上中下のリンで我々ダロンほど華やかで気勢に富む砦はありましょうか」

 首席大臣ロンツァ・タゲンが進言した。
 「国王は国土の中心におわすべきです。ダロンは一方に偏っている。
  国王の宝座をそこに置けば、地方に甘んじることになりましょう」

 二人は自分の考えに固執し、争うばかりで答えが出なかった。
 聞く者たちも、それぞれに道理があるように思え、どちらに着くべきか決められなかった。

 ケサルは微笑んで言った。

 「二人ともいつまでも言い争わずともよいでしょう。
  まずは、テントに入って私の勝利の酒を飲み、その後でまた論を戦わせましょう」

 そこで英雄たち馬に跨って山を駆け降り、共に大きなテントに入った。

 酒とつまみが並べられ、ジュクモが美しく着飾ったリンの女性たちを率いて軽やかな舞を献上した。
 ジュクモはしなやかに舞いながらケサルの前まで来ると、国王の男らしさに心が震え慕わしさが溢れた。

 彼女は跪き、特上の酒を高く捧げ、艶やかな声で言った。

 「私の王様、あなたの太陽のような輝きが永遠に私を包んでくださいますように。
  私の幸せが花と開きますように。
  四方を征服する時には、常に王様の元に寄り添い、どこまでもお供し、お助け出来ますように」

 ケサルは立ち上がり、ジュクモを助け起こすと、自分の席の傍らに導いた。人々は祝福のハタを捧げた。







阿来『ケサル王』 68 物語 競馬で王となる

2014-10-04 02:12:32 | ケサル
物語:競馬で王となる その5





 トトンは心の底からほっとして思った。
 「この乳臭さの抜けきらぬ乞食坊主は黄金の王座に怖気づいたのだ」

 彼は目を血走らせ、だが、口ではいかにも親密そうに言った。
 「甥よ、お前は本当に利口だ。権力を手に入れたら民の憂いを引き受けなくてはならない。そうなったら耐え難い苦痛を味わうことになるのだから」

 「では、もう一つ教えて下さい。賞品の若い娘はどうですか」

 「山の上に成っている実を見たことがあるだろう。赤くて艶々して蜜のように甘そうに見える。
  だが、もし腹に入れたらあの世に送られてしまうのだ」

 「では、世の珍しい宝物は。叔父さんには、寝ても覚めても気になるものでしょう」

 ジョルが天の母から意を授かった時、競馬の賞品は王位だけだった。
 トトンが提議した時に、リンで一番の美女ジュクモと古熱山の宝の庫が加えられた。
 だが今、その宝の庫の鍵はジョルの懐にある。

 トトンはジョルの言葉にあからさまな皮肉を聞き取ったが、もうそんなことにかまっている場合ではなかった。

 「甥よ、道を開けてくれ。ワシに王座に座って皆のために働かせてくれ。
  お前は今まで通り悩みのない気ままな日を送ればいい」

 ジョルは笑った。
 「そんなに大変な椅子なら、叔父さん、やはり私に座らせてください。
  私は黄河を丸々8年彷徨って来ました。どんなにつらくても大丈夫です。
  叔父さんは玉佳馬をしっかりと面倒見てあげて下さい」

 ジョルが鞭を振り上げると、地面に横たわっていた玉佳馬はさっと立ち上がった。
 トトンはまた金の王座への夢が頭をもたげ、手綱を牽いて馬に飛び乗ろうとした。
 馬は前脚の力がへなへなと抜けて又地面に這いつくばった。

 「おじさん、身の丈に合わない夢を見たら、大切な馬を死なせてしまうだけですよ」

 トトンは玉佳馬の首を抱き、ワーワーと泣いた。

 「甥よ、おれの馬を立たせてくれ」

 あまりにも悲しげな泣き声にジョルも心を動かされた。

 「叔父さん、王座は叔父さんにはふさわしくないのです。もう忘れましょう。
  そうしたら、玉佳馬はもう一度飛ぶように走れるでしょう」

 トトンは納得できず、叫んだ。
 「馬頭明王が予言したのだ。金の王座には達絨の者が座るべきだ、と」

 ジョルはおかしな形の帽子を脱いで投げ捨てると、汗を拭くように顔を撫でた。
 瞬間、馬頭明王の憤怒の猛々しい姿が現われた。
 トトンは目をこすり、もっとはっきり見ようとしたが、元の姿に戻ったジョルを見ただけだった。

 いや。もう元の姿ではなかった。より正確に言えば、ジョルの姿は変化していた。
 狭かった額は広くなり、鼻は高く眉はすっきりと力強く、高原の太陽に焼け焦げた皮膚は剥がれ落ち、新しく生まれた皮膚はまるで滑らかな玉のようだった。

 トトンは心の中で叫ぶしかなかった。
 「天はワシに強い神通力を与え、はかりごとの力を与えたのに、なぜまた天の子を下してリンの高貴な王位に座らせるのだ」

 変化を続けながら、ジョルは金の宝座の前に来た。
 だが、急いで座ろうとせず、しげしげと眺めた。

 どうしてこの宝座に座ると、権力と富と美女が手に入り、人々から羨ましがられるのか。
 この金の宝座にはそれだけの意味しかないのか。

 彼は空を見上げた。
 空は何時もどおり青く、沈黙したままだった。

 果てしない草原はどこまでも広がり、まるで、長い道のりを駆けてきた人々が目的地に着いた後につく深く快いため息のようだった。
 雪の峰は輝き、岩は高く聳え、鷹は翼を広げ人々の目を遥か彼方へ誘った。

 するとたちまち、天と地の間の一切が動きを止めた。
 息を殺して天の定めた勝者が最後の一歩を踏み出すのを待った。

 全ては天の定めたことではあるが、だが、自分はこの一歩を踏み出すまでに12年間歩み続けて来た。
 自分は必ず、心落ち着くこの草原をリンの人々の幸せな故郷へと変えることが出来るだろう。

 このような想いを抱いてジョルは静かに宝座に座った。

 拉底山の上で競馬を見物していた人々がみな呆然となった。

 彼らがジョルの勝利を知り、天をも揺るがす喜びの声をあげた時、不思議な光景が目の前に繰り広げられたのである。