塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 72第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-03-19 20:27:59 | Weblog
9 土司の物語二  その1



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





 リンモ河に沿って下り、15km行くと松崗である。更に下ると金川、金川を更に下ると、すでに見てきた丹巴である。

 発電所は松崗の街から2kmほど行ったところにある。

 松崗発電所のダムが目の前に現れた。
 だが、まるで感激がなかった。
 
 私が入学通知書を胸にここを去った時、ダムはちょうど基礎の部分が出来上がったところだった。
 
 現在、ダムのたっぷりと水を蓄えている部分は、当時は大きな果樹園だった。春、そこは昼休みの格好の場所となった。
 トクラクターのエンジンを切り、公道に停め、果樹園に入って花の咲いたりんごの木に寄りかかると、ほんのりと暖か味を佩びた日の光の下、心地よく眠りの中へ引き込まれて行くのだった。

 当時、睡眠不足が当たり前だった。一台のトラクターに二人が交代で乗っていて、更に残業をすれば、1.5元の残業代が手に入り、小さな店で赤いもち米の酒を二杯飲めたからだ。
 時には仲間たちはちょっとした賭け事をした。だが私はただただ眠いばかりで、16,7歳の若者の永遠に足りることのない眠りを貪っていた。

 けれども、そのダムは、私の目に映った限りでは、なんの感激もなかった。
 なぜなら、私の支払った労働と、私の記憶の中にある、千を越える人々が夜を徹して働くすさまじい労働の様からすれば、このダムはもっと雄大で迫力に満ちたものであっていいはずなのだから。

 ダムの上に上がってみたかったが、当直の作業員から容赦もなく断られた。
 そのために、余計に興味をそがれてしまった。
 
 幸い、あと2kmくらい山肌に沿って曲がりくねる公道を進めば松崗だ。そこで、発電所を後にして、松崗へ向かって急ぐことにした。

 正午、小さな食堂に着き、料理とビールを頼んで窓辺に座り、向かいの突き出した山にある松崗土司の官塞を眺めていた。

 目の前にある多くの建物は傾き崩れていた。ただ、二つの「石ちょう」と呼ばれる石の砦だけが廃墟の両端に聳え、今でも雄壮で威厳を保っていた。
 石ちょうの一つは、下の部分が大きく崩れ落ちていた。だが、空へと伸びている上の部分は依然として遥かな青空に向かって高く聳えている。

 松崗という地名はすでに完全に中国化されているが、実はこれはチベット語のロンガンという言葉の音を採ったものなのである。
 この地方の名前は、あの斜面の一面の廃墟から来ていて、その意味は“山の中腹の土司の館”である。

 食堂の親父を私は知っていた。当時私たちは彼の畑から少なからぬとうもろこしをこっそりもぎ取っていたからである。
 そのことで、彼は私たちの隊長のところへ怒鳴り込んできたことがあった。
 もちろん彼は私の顔など知らない。だから弁償させられる心配はなかった。

 親父とは松崗土司だけを話題にして話をしてみた。

 彼は言った。あの天を突く望楼は文革の戦闘の時、重要な砦となった。攻めて来た方は迫撃弾で攻撃したが、下半分に大きな穴を開けただけだった、と。

 私は尋ねた。あと何発か撃ったら倒れたんじゃないだろうか、と。

 彼はちょっと笑って、言った「あの頃はな、ただ戦っている振りをしていただけだ。誰も真剣やっつけようとはしなかったのさ」

 彼の年齢なら、末代の土司のことを知っているはずだ。思ったとおり彼はうなずいて言った。小土司を見たことがある、と。
 私もこの末代の土司については少し知っている。

 この土司は、50年代末、チベットからインドへ逃げ、その後カナダに移民した。80年代には再びこの地を訪れ、故郷でのひと時を過ごして行った。
 これもまた、多くの土司の物語の中の興味深い一節、一人の末代土司の物語である。

 風流を好んだと言い伝えられた末代土司の名はスシションといった。

 スはもともとは土司の家柄の出身ではなかった。彼の家は私の故郷のリンモ土司が管轄する黒水地方の部落長でしかなかった。
 その後、リンモ土司の力は日々衰えてゆき、黒水の部落長は、国民政府が西方を顧みる暇のなかった民国の時代にほしいままに力を伸ばし、長い間、その威信と権力はギャロンの土司たちよりも上にあった。

 そのころのことを語れば、事情は、偶然が重なっただけというような簡単なものではない。

 土司制度がその終末に至った1950年代、ギャロン地域の土司たちは血縁継承者の問題に悩まされていた。
 松崗土司も例外ではなかった。土司の男子の系統に血縁を受け継ぐものが欠落していったのである。
 そのような中、勢い天を衝く部落長の息子が、養子となってその土司となった。

 この物語は、多くの末代の王の物語とよく似ている。
 王宮の帷の中であたりまえのように繰り広げられる多くのドラマの一つなのだ。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





阿来「大地の階段」 71第5章 灯りの盛んに灯る場所

2011-03-02 15:18:04 | Weblog


8、灯りの盛んに灯る場所  その2


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 街を埋め尽くす灯りを見て、20数年前のことを思い出した。
 十数歳の若者たちの、トラクターの運転手として水力発電所建設の工事現場で過ごした二年間の生活を。

 リンモ河を堰きとめて建設された水力発電所は、現在、この街の主要な電力源となっている。
 当時、マルカムからリンモ河に沿って15キロ下ったところにある松崗で、滴る水さえ凍ほどの厳冬に、数千人もの人々が北風吹きすさぶ河辺で、コンクリートのダムを作っていた。そういった寒さの最も厳しい深夜、重い荷を積んだトラクターのエンジンは沸騰するほどに熱せられたが、屋根のない運転席に座っている労働者たちは、氷のように冷えきっていた。

 これでは私が、ひどいリュウマチにやられたのも当然だろう。何年にも渡る治療のおかげで、毎年の春に治療していた病院にはもう行かなくてよくなったが、右手の面倒な震えを治せる医者はいなかった。
 どのくらい震えるかというと、カメラを構えて覗き込んだ時、目の前の風景がすべてゆらゆらと揺れてぼやけてしまうのである。だから、この本の中の写真は、私の友人たちに提供してもらった。私も試しに撮ってみたが、その結果は数枚のぼやけた写真でしかなかった。

 今日、山のふもと一面に広がる美しい灯りを見ながら、私は始めて、ここで輝いているのは、私の青春時代の理想の光でもあるのだ、と意識した。

 当時あの工事現場には、この地方の村の労働者から選抜された10名のトラクター運転士がいた。
 その中で最も温厚だったインポルオ村のアータイが、トラクターと一緒に公道から銃数メートル下の河岸に転落したのである。

 その時私はすでに現場を離れ、マルカムの師範学校に進んでいたのだが。
 あるたそがれ時、全校の学生が寒風が骨に突き刺さる運動場に立って、顔面麻痺を患っている党委員会の書記の話を聞いていた。その当時の学生はあまりにも冗長な話には常々怒りの感情を抱いていた。

 あたりはちょうど暗くなり始め、校長の顔も声もぼんやりとし始めた。
 その時、普段からあまり真面目とはいえないクラスメートの女子が私に言った。
 「ねえ、松崗の発電所工事でトラクターの運転手が死んだんでしょう。あなた一緒だったんじゃないの」
 なぜ、彼女がこのことに興味を持つのか分からなかったが、すぐに尋ねた。
 「誰が?」
 彼女は笑って言った。
 「私が知ってる分けないでしょ」

 実は、一緒に転落して亡くなったのは彼女のクラスメートで、受験に合格できなかったため、労働者として招かれていった知識青年だったのだ。

 聞くところによると、ある幹部が現場に女性の運転手がいたほうがいいだろうと考えたそうだ。
 そこで、私と一緒にガソリンの煙を腹いっぱい吸い、二つの冬、河っぷちの寒風を受けてきた若者には、それぞれ女性の助手が付くようになったのである。

 その後、正確な話を聞くことができた。

 河で命を落としたのはアータイだった。
 たまたま、10人のうち一番技術が高く性格も落ち着いていたアータイだった。

 実を言うと、私は非業の死を遂げるかもしれない若者たちに順位をつけたことがあるのだが、彼がそうなるとは、まるで思いつかなかった。

 最もたまらないのは、彼が落下した場所の対岸が、彼の家のある、古い石の集落だったことだ。
 その石の村の上から、彼の妻と娘は、毎日、彼が命を落とした瓦礫の重なる河原を見ることになるのである。

 その後何年か経って、当時の仲間の一人、スタルジアから来ていた若者が、工事現場の村で婿養子になったが、さらに何年か過ぎて、彼も死んだという。原因は酒だった。
 一緒に仕事をしていた頃、もともとみんなあまり彼が好きではなかった。理由は簡単だ。彼は酔っ払うと家長になりたいという胸の内をすべて暴露してしまうからだった。

 アータイの死の知らせを聞いて、私は涙した。
 そして、マルカムのバス停の露天の茶館で、その次の死の知らせを知らされた時、私はただため息をついただけだった。それから茶を一口すすり、天を仰いだ。

 マルカムの空はほとんどの時、とても青い。
 ただ、このような気持ちの時は、空を埋め尽くす青が、かえって虚しく、空洞のように感じられるのだった。

 山を下りる道で、街にあふれる灯りを眺めながら、二人の故人を想い、青春時代の労働を想った。
 もし、数字の上で見たなら、街中の灯りのうちには、ほんの少し私の貢献があり、私の仲間たちの貢献がある。そう考えて足を止め、最も明るい灯りを数えていった。一つ二つ三つ…

 そう、この街はあの木と関係あるだけでなく、私自身の記憶と労働とも関係していたのだ。

 これからは、マルカムのチベット語の意味は灯りの盛んに灯る場所だ、と誰かが言うたびごとに、そのすべての光の中に、私の青春時代の汗の光と夢の光があるのを、思い起こすだろう。

 そこで、松崗に行ってあの発電所を見ようと決めた。






(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)