8、灯りの盛んに灯る場所 その1
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
文革が終わった後、あの老人たちは政府が新しく建てた建物へ次々と移っていった。楡の木の傍らにある建物もその中の一つである。
壊された寺、この地の歴史を代表していた寺を元の場所に建て立て直すのはもはや不可能だった。そこで、運動場と高原の新しい街を俯瞰できる日の良く当たる山の上へと場所を移して建造された。
マルカムの、郊外の農民のトラックや各機関の小さな車が常に行き来している街角に立って顔を上げれば、この新しく建った寺が目に入り、寺の金色の屋根飾りが目に入る。
太陽が沈み始めるころ、私は山道に沿って登り始めた。
太陽が沈んでいく時、山の影が河の対岸からゆっくりと迫って来て、街道と建物を徐々に覆っていった。
最後に金色の太陽はすべての街道や建物を離れ、山道の一番高い所を照らした。
私はその間、移ってゆく光の前を歩いていた。
寺の前に立った時、太陽はすでに遥か後ろへと遠ざかっていた。
寺の門はしっかりと閉まっていて、タルチョが風に吹かれて寂しげな音を立てていた。
寺に入るつもりはなかった。
新しく建てられた寺は、時を経ていないため、何も心に呼び起こしてくれないからだ。
もしも、過去のマルカム寺が必然の存在であったとするなら、目の前にある新しい寺はただの象徴でしかない。
私がここへ来たのは、過去の時代に少しばかり思いを馳せることが出来るかもしれないと思ったからなのだが、目の前にあるこの建物は、そのような感慨をもたらしてはくれなかった。
突然、文芸工作団でチャルメラを吹いていたルオバのことを思い出した。
彼は年の離れた友人で、同じ故郷の山の中からふもとの新しい街へ出て来て、もう長い年月そこで生活している。
私は離れて行ったのだが、彼はずっとこの街に留まっていた。
解放前、彼はある寺の年若いラマだった。
20年前、田舎の暮らしを離れこの小さな街にやって来た頃は、彼が演奏会用の服を着て舞台のライトの下でチャルメラを独奏するのをよく見に行った。オーケストラが演奏する時は、銀色に光るフルートも吹いていた。
どうして知り合ったのかは、覚えていない。また、チャルメラがうまく吹けるのは小さい頃寺にいたのと関係があるか聞いたかどうかも覚えていない。
はっきり覚えているのは、この寺が建てられてから、毎日この位の時間に、彼が疲れた顔に笑みを浮かべて山の上から降りてくるのを見かけたことだ。
何をしているのかと尋ねた時、最初の答えに私はびっくりした。塑像に金を貼って本堂の菩薩を作るように寺から頼まれたとのことだった。
いつ彫塑を習ったのか尋ねると、少年時代、寺で坊主をしていた時だ、と答えた。
寺にいる時にチャルメラを覚えたのかということは聞かなかった。
彼は、山へ行って自分の作った仏像と壁画を見てくれ、とも言った。
それを思い出して、ふと寺に入ってこの同郷の友人の技を見てみたくなった。
だが、彩色された門には大きな銅の鍵がかかっている。
風が吹いて、庇の前に掛かった垂れ幕の縁取りのあたりが巻き上がり、絶えずバサバサと寂しげな音をたてていた。
勿論、彼はいつもチャルメラや笛を吹いているわけではないし、寺で菩薩を作ったり壁画を描いているわけではない。ほとんどの時間、この小さな街のさまざまな役所に出入りし、文工団のために経費の申請をしているのである。
なぜなら、彼は同時に、すでに黄金期を過ぎた文工団の資金繰りと実質的な運営を担当しているからだ。
こうして彼の激しい気性が表面化する。
一度、成都のアバ賓館で彼と他の文工団の団長と会った。木里に行ってある寺院の菩薩を作って来た、と話していた。
木里は四川のもう一つの民族自治州のチベット自治県であり、現在女人国と呼ばれている、四川と雲南の境界であるロコ湖に近い場所である。
私は冗談で、お前の技は遠くまで伝わっているんだな、とからかった。
以前の少年ラマ、現在文工団の団長である彼は言った。
なに言ってんだ、ちょっとばかりの金を稼ぐためさ。ほんのわずかの報酬を受け取り、そのわずかなものを文工団に渡すのさ。
私は何も言えなかった。
そして、すぐにこの街にいる友人たちのことを思い出した。
みな黙々と仕事をし、それぞれに理想を抱いている。だが、この街が向かうところは、彼らの努力とまるで噛み合わず、そればかりか、まったく反対の方向に進んでいると言ってもいいほどなのだ。そこで私は離れることを選んだ。
だが、誰もが簡単にこのような選択が出来るとは限らないのである。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
文革が終わった後、あの老人たちは政府が新しく建てた建物へ次々と移っていった。楡の木の傍らにある建物もその中の一つである。
壊された寺、この地の歴史を代表していた寺を元の場所に建て立て直すのはもはや不可能だった。そこで、運動場と高原の新しい街を俯瞰できる日の良く当たる山の上へと場所を移して建造された。
マルカムの、郊外の農民のトラックや各機関の小さな車が常に行き来している街角に立って顔を上げれば、この新しく建った寺が目に入り、寺の金色の屋根飾りが目に入る。
太陽が沈み始めるころ、私は山道に沿って登り始めた。
太陽が沈んでいく時、山の影が河の対岸からゆっくりと迫って来て、街道と建物を徐々に覆っていった。
最後に金色の太陽はすべての街道や建物を離れ、山道の一番高い所を照らした。
私はその間、移ってゆく光の前を歩いていた。
寺の前に立った時、太陽はすでに遥か後ろへと遠ざかっていた。
寺の門はしっかりと閉まっていて、タルチョが風に吹かれて寂しげな音を立てていた。
寺に入るつもりはなかった。
新しく建てられた寺は、時を経ていないため、何も心に呼び起こしてくれないからだ。
もしも、過去のマルカム寺が必然の存在であったとするなら、目の前にある新しい寺はただの象徴でしかない。
私がここへ来たのは、過去の時代に少しばかり思いを馳せることが出来るかもしれないと思ったからなのだが、目の前にあるこの建物は、そのような感慨をもたらしてはくれなかった。
突然、文芸工作団でチャルメラを吹いていたルオバのことを思い出した。
彼は年の離れた友人で、同じ故郷の山の中からふもとの新しい街へ出て来て、もう長い年月そこで生活している。
私は離れて行ったのだが、彼はずっとこの街に留まっていた。
解放前、彼はある寺の年若いラマだった。
20年前、田舎の暮らしを離れこの小さな街にやって来た頃は、彼が演奏会用の服を着て舞台のライトの下でチャルメラを独奏するのをよく見に行った。オーケストラが演奏する時は、銀色に光るフルートも吹いていた。
どうして知り合ったのかは、覚えていない。また、チャルメラがうまく吹けるのは小さい頃寺にいたのと関係があるか聞いたかどうかも覚えていない。
はっきり覚えているのは、この寺が建てられてから、毎日この位の時間に、彼が疲れた顔に笑みを浮かべて山の上から降りてくるのを見かけたことだ。
何をしているのかと尋ねた時、最初の答えに私はびっくりした。塑像に金を貼って本堂の菩薩を作るように寺から頼まれたとのことだった。
いつ彫塑を習ったのか尋ねると、少年時代、寺で坊主をしていた時だ、と答えた。
寺にいる時にチャルメラを覚えたのかということは聞かなかった。
彼は、山へ行って自分の作った仏像と壁画を見てくれ、とも言った。
それを思い出して、ふと寺に入ってこの同郷の友人の技を見てみたくなった。
だが、彩色された門には大きな銅の鍵がかかっている。
風が吹いて、庇の前に掛かった垂れ幕の縁取りのあたりが巻き上がり、絶えずバサバサと寂しげな音をたてていた。
勿論、彼はいつもチャルメラや笛を吹いているわけではないし、寺で菩薩を作ったり壁画を描いているわけではない。ほとんどの時間、この小さな街のさまざまな役所に出入りし、文工団のために経費の申請をしているのである。
なぜなら、彼は同時に、すでに黄金期を過ぎた文工団の資金繰りと実質的な運営を担当しているからだ。
こうして彼の激しい気性が表面化する。
一度、成都のアバ賓館で彼と他の文工団の団長と会った。木里に行ってある寺院の菩薩を作って来た、と話していた。
木里は四川のもう一つの民族自治州のチベット自治県であり、現在女人国と呼ばれている、四川と雲南の境界であるロコ湖に近い場所である。
私は冗談で、お前の技は遠くまで伝わっているんだな、とからかった。
以前の少年ラマ、現在文工団の団長である彼は言った。
なに言ってんだ、ちょっとばかりの金を稼ぐためさ。ほんのわずかの報酬を受け取り、そのわずかなものを文工団に渡すのさ。
私は何も言えなかった。
そして、すぐにこの街にいる友人たちのことを思い出した。
みな黙々と仕事をし、それぞれに理想を抱いている。だが、この街が向かうところは、彼らの努力とまるで噛み合わず、そればかりか、まったく反対の方向に進んでいると言ってもいいほどなのだ。そこで私は離れることを選んだ。
だが、誰もが簡単にこのような選択が出来るとは限らないのである。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)