塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』53  物語 トトンの夢

2014-06-29 21:36:10 | ケサル
物語:トトンの夢 その2




 老総督は常と同じく落ち着いていた。
 これは、天から降った神の子がリンで王となるという予言が実現されるためではないか、と考えていた。

 そこで彼は明るい表情でうなずき、言った。
 「名に恥じず行動力のある英雄が老いていく者に代わるべきである。
  競馬の賞品とするのもよい考えだ。公明正大な方法でリンの王位、美女、七宝を手に入れるのなら、
  誰も反対する理由はないだろう。

  ただ、ダロン部の首領に伺いたい。
  空が凍り雪の降る季節は競馬にふさわしくないのではないか。
  何故首領のご本尊はこの時にこの予言を降されたのだろう」

 誰もが老総督の言葉は理に適っていると思った。

 草原には確かに競馬の習慣がある。だがそれは毎年、春花が開き、山神を祭る季節であり、雪と氷に閉ざされる時ではなかった。

 トトンはかなり焦っていた。
 「古いしきたりを変えていけないことがあろうか。
  ワシは占ってみた。五日後の正月十五日が吉日である。
  競馬はその日に行おう」

 老総督はゆっくりと口を開いた。
 「十五日が吉日であるのなら、このように重大な問題は、リンの全ての主だった者たちを招集し、
  もう一度競馬を催す時を協議すべきではないだろうか」
 みなは頷いて同意した。

 ギャツァには分かった。
 これは老総督が十分な時間を用意して、弟ジョルを探し出し、彼を競馬に出てさせるためだ、と。
 もしジョルが参加しなかったら、リンではどの英雄の馬もトトンの玉佳には勝てないだろう。

 ギャツァは言った。
 「競馬のことには反対しない。だが、私の弟ジョルを忘れないで頂きたい。
  ジョルと母メドナズは我々によって追放された。
  にもかかわらず、彼は我々に新たな生存の地を見つけてくれたのだ。
  もし彼を参加させないのなら、私はこの新しい国には残らない」

 トトンが鋭い声で言った。
 「それはお前の母親が違う国から来たからではないのか」

 「では、私の弟は参加できないというのか」

 トトンは笑った。
 「誰かジョルが駿馬に乗っているのを見た者がいるかね。
  わしは同意する!
  ただし、ワシが送った杖を馬代わりにしてはならぬ」

 この時、正月十五日まではわずか五日しかなかった。だが、この五日間がトトンにとってはこの一生で過ごした全ての時間より長く感じられた。

 この世にこれより素晴らしい賞品はない。王位、美女、七つの宝はすぐ目の前にある。
 彼にすれば、この賞品はまぎれもなく自分に合わせて設けられたもので、競馬大会が始まれば、それはいとも簡単に手に入るのだ。

 だが、彼は出来るだけ心の焦りを抑え、表面はいつもの落ち着きを装い、これまでにない忍耐力で、リン始まって以来最も参加者の多い酒席を用意した。
 今回の宴は実は自分が王になる前奏であり、出来る限り盛大でなくてはならず、会場は煌びやかでなくてはならなかった。

 正月十五日になった。

 交差する小道はすべて太い道に集まり、太い道はダロンの城塞に通じていた。
 リンの有力な人物たちが、渓流のように一つに集まった道を通って連なるようにこちらに向かって来る。

 男たちは雪山のように荘厳で、娘たちは湖水のように穏やかだった。
 勇み立つ若者たちは、弦の上で放たれるのを待っていた矢のように一斉にダロン部の宴のため建てられたテントに集まった。

 始まりを告げる高らかな声が響き渡った。

 「上座の花模様の金の敷物には、ギャツァ・シエガ様、ニぺンダヤ様、アヌバセン様、レンチンダル様、四名の王子と英雄がお座りください」

 「中央の錦の敷物の席には、老総督、ダロン長官トトン様、センロン様、ランカセンシエ様、四名の王さま方がお座りください」

 「熊の皮の席には、遥かに名を轟かす占い師、公証人、医師、星占い師の方々がお座りください」

 後方の一列は、リンのセンジアン・ジュクモをはじめとする十二人の美女が座る場所だった。
 その他の人々も美食の盛られた膳の前に座った。

 みなが肉や酒を大いに味わった頃、トトンは、神が夢に現われリンは競馬で王を選ぶよう託されたことを話した。
 勿論、王位に加えて美女と珍宝が競馬の賞品になるということも忘れなかった。

 「すべては神のみ旨である。
  今日我がダロン部に出向いて頂いたのは、競馬の時と道筋をすぐにでも決めるためである」

 トトンは会場を見まわし、ひどくがっかりしたように口調に変えて続けた。
 「ただ残念なのは、我が親愛なる甥ジョルがまだ来ていないことだ!
  だが、彼が本当に参加したいなら、その時は杖に乗って現われるだろう」

 トトンの息子トングは言った。
 「リンのこれから催される競馬について、道筋は短すぎてはならない。
  この競馬を世に知ら示すため、起点は最もインドに近い場所とし、
  終点は最も漢に近い東方にすべきである」

 それはあまりに突拍子もない思い付きで、全ては手に入れたも同然というダロン部の傲慢さを露にしていた。

 センロンは皮肉を込めた口ぶりで言った。
 「競馬を真に名だたるものにしたいなら、起点は空に、終点は海にすべきだろう。
  賞品は当然日と月であり、リンの幾万の民が競馬を観戦する席は星々の上に設ければよい!」

 これを聞いて皆はどっと笑った。

 トトンは自分が精魂を傾けて膳立てした盛大な宴会が、人々の心を抱え込めなかっただけでなく、逆に嘲笑される結果になるとは想像していなかった。 そこで大声で息子を下がらせた。

 この時ギャツァが立ち上がった。

 「競馬の起点は阿玉底山、終点は古熱山、途中で美しい黄河を超える。
  みなが競馬を見る場所は魯底山の頂、法術師と僧が祈祷する場所はその反対側の拉底山としよう。
  時間は早くからの慣わしの通り、草が萌え水の美しい夏としよう」

 居並ぶ者たちは声をそろえて「よし!」と賛同した。

 トトンも仕方なくはやる心を抑え、みなと共にまだ来ない夏を待った。







阿来『ケサル王』52  物語 トトンの夢

2014-06-24 01:03:31 | ケサル
物語:トトンの夢





 ジョルが夢を見たのと同じ時、彼の叔父トトンも夢を見ていた。

 仏教がリンに広がり始めた頃、トトンは続けて呪術を修練するだけでなく、仏教の密教の中でも法力の強い馬頭明王を本尊と崇め、日夜休むことなく秘法の修練に励んでいた。
 馬頭明王はどのような姿をしているのだろうか。
 それは勇猛無敵の憤怒の相である。まさにトトンの想像していた通りの、強い神通力のある者が必ず顕すであろう、人々から畏怖される姿そのものだった。

 もし修行者が馬頭明王の法力を得たら、羅刹、鬼神、天龍八部の一切の邪気を降伏し、迷い罪業、疫病、病苦を消滅させ、さらに一切の呪い、法術から逃れることが出来るという。
 もし、この法を修めたなら、トトン自身が金剛不壊の体になるのである。

 彼の修行はまるで成果がなかった。もしくは、彼の修練の導師である僧が言うような成果は時が経ってもまだ表れていなかった。
 彼は猜疑心が強く、この僧はまだ功力を持つに至っていないのではないか、あるいは、天地にはもともとこのような法力の強い馬頭明王はいないのではないか、と疑い始めていた。

 まさにこのような時、夢の中で目の前に馬頭明王が現れたのである。

 それが本当の馬頭明王ではないとは、トトンは知らなかった。

 天母ラマダムは去る時に、早くトトンの崇拝する馬頭明王に変化して、競馬によってリン国の王位を争う時をトトンに決めさせるよう、ジョルに言いつけていた。
 ジョルは母を助けて眠りに着かせてから、自分も寝床に横になった。

 ジョルは悩んだ。自ら赴いて、疑い深い叔父を神が定められたこのはかりごとに引き入れるべきがどうか。
 このような疑問を抱きながらジョルは眠った。
 心の奥深くで人々から崇められる王位を渇望していたからだろうか、眠るとすぐに夢の中で起き上がり、馬頭明王に変化して叔父トトンの夢の中に入った。
 不安で落ち着かないトトンが自分の前に額づいているのが見えた。


 「私はもうご本尊様がいらっしゃるかどうかなどと疑ったりは致しません」
 ジョルは多く話すことはせず、馬頭明王の口を借りて言った。
 「疑り深い者よ、今、目の前にいるのは馬頭明王である」

 トトンは地にひれ伏して拝み、仕切りに慄いた。
 ジョルはそれにはかまわず歌を作り、歌いながら夢から離れていった。


 「リンはこの後、国とならずにいてはならぬ
  ダロンの長官よ、そなたが担うべきだ
  リンの勇士は馬の術に優れ
  馬上の英雄は民の信を得る
  そなたの久しい王への志
  そなたの我が教えの敬虔な修行に免じ
  そなたを競馬に勝利させ王とならせよう」


 トトンは目覚めると、秘法を修行している本尊の姿はなかったが、その歌声は耳元に残っていた。
 興奮して、再び眠りには着けなかった。よいことに、すぐに太陽が東方に連なる雪の峰の間から昇って来た。

 トトンはまた馬頭明王の神像に何度も礼をし、いつものように茶を持って来た妻タンサに夢を伝えた。
 「神は御旨を告げられた。ワシは競馬で王となるのだ」

 タンサは疑問に思った。
 「みんなは言ってますよ。あなたの甥ジョルは天から下された…」

 トトンは怒って妻の話を遮った。
 「いいか。リンの王位だけではない。競馬の賞品はリンで最も美しいジュクモだぞ。このような美女こそ国王の妃の栄誉を受けるのにふさわしいのだ」

 タンサはそれでも言わずにいられなかった。
 「そんな予言をするなんて、それは神様じゃなくて悪魔でしょうよ。天の神様はもうすでに…」

 トトンは、今回神は本当に自分に望みを託したのだと信じていた。
 何故なら、彼が法術に優れているだけでなく、どの勇士の駿馬も地を駆ける力は彼の玉佳馬に及ばないことを、リンの人々はみな知っているからである。
 そのため、年老い色香は衰えながら、舌だけは良く回るタンサは彼の怒りを爆発させ。

 「黙れ、このアマ!神の予言は金の宝塔だぞ。その下品な舌で叩き壊せるとでも思ってるのか。ワシの子を産み育てていなかったら、その舌を引きちぎってやるところだ。でたらめが言えないようにな。ワシが競馬で勝利し、ジュクモをダロンの家に迎えたら、黙っていれば飯を食わせてやるが、また口を挟んだら追い出してやる。ジョルが王になると信じているなら、ヤツについて行け」

 タンサは仕方なく口をつぐみ息子に訴えに言った。
 ところが、息子の口ぶりも父とまるで同じだった。
 「ダロン部の女として、ダロンがリンの王になるのを望まないのか」

 この時、トトンは幻術によって数羽のカラスに変化し、ダロン部の砦を出て各へと飛んで行った。
 カラスは弓を恐れるものだ。そこで、カラスたちは各に飛んで行くたびに、まずカーカーと啼いてから、各首領をダロン部での重要会議に召集する旨をしたためた木の札を落として行った。
 人々が木の札を拾い書かれた文字を読んでいるうちに、カラスは得意げな声を発して慌ただしく飛び去った。

 二日の間に最も遠くのの首領までもが到着した。

 トトンは家臣に命じて食事と飲み物で老総督と各の首領や英雄を歓待させたが、自分はもったいぶって姿を現さなかった。
 皆は苛立った。
 「我々を呼んだのは美味い物で歓待するためだけではないだろう」

 その時、トトンはやっと姿を現した。
 「我々が黄河の縁に流れて来て何年たったかはさておき、我がダロン部がこのように皆様を歓待すれば、三年は大目に見ていただけるでしょう」

 老総督は言った。
 「皆と相談すべきこととは何か」

 トトンが目で合図すると、家臣が護法神馬頭明王が夢の中でどのように予言したかを伝えた。
 リンは競馬大会を開き、勝利したものが王になり、勝者は更にリンで最も美しいセンジャン・ジュクモ及び金、銀、瑠璃、シャコガイ、メノウ、真珠、ほら貝などの様々な珍宝を手にすることが出来る。

 皆は即座に理解した。トトンは競馬を通してリンの王権を得ようとしていることを。
 だが、この趣旨は神から授かったのだと言われては、反対は出来なかった。

 タンマはやきもきしてギャツァを見た。
 ギャツァも緊迫した目線を老総督に投げかけた。







こちらもよろしくお願いします。

2014-06-23 09:10:44 | ケサル


こちらもよろしくお願いします。

やっと三部の内の第一部が終わりました。

そこで内容をまとめてみようと思い書いてみたのですが、
一気に書き上げるのは難しい!

もう少し気楽に、でも大切に考えていきたいと思い、
新たな場を作りました。

Kesaru Note
http://blog.goo.ne.jp/kesaru

ケサルは壮大な史詩であり、語り部による語りで伝えられてきました。
様々なバージョンがあり、様々なアプローチがあります。
これまでの研究も学びながら、私なりの考えをまとめていきたいと思います。

物語を読んで興味を持たれたら、こちらもよろしくお願いします。

どちらかと言えば、自分のためのメモです。
ご意見をいただけたら嬉しいです。








阿来『ケサル王』51 第二部 物語 天上の母

2014-06-20 03:23:06 | ケサル
第二部
競馬で王となる




物語:天上の母

 ジョルは夢を見た。

 夢の中で、天界から高貴な女性がふわりふわりと降りて来るのが見えた。周りを囲んでいた雲が消えると、女性はすでに自分のテントの前に立っていた。

 母メドナズは深い眠りの中にいる。

 月は高く懸かり、その清らかな輝きが大地に降り注ぎ、辺りを満たす光は昼よりも明るかった。

 ジョルは思った。この方は本当の仙女ではないだろうか。
 彼は深く礼をして、仙女にテントに入るよう勧めた。テントの中はすぐに不思議な香りで満たされた。ジョルは言った。
 「仙女様、お座りください。母を起こして熱いお茶を入れさせましょう」

 「母!」
 仙女の体が激しく揺れた。仙女はかなりの間ジョルに背を向けて立っていが、身をかがめて熟睡しているメドナズを見つめ、また暫く沈黙してから言った。

 「このかわいそうな女性をゆっくり休ませましょう。この夜は、お前ともう一人の母のものです」

 ジョルの心にはっきりとした痛みが過った。
 「もう一人の母?」

 仙女は頷いて言った。
 「そうです、私は天上の母ラマダムです」
 
 「天上?」

 ジョルは心では理解したようだったが、表情はぼんやりとしたままだった。
 この様子を見て天の母ラマダムはジョルを胸に抱き寄せ、悲しみをこらえて言った。

 「そうです、お前は天から来たのです。神様がお前を人間の世に降したのです。リンに行って妖魔を倒し、民を蒙昧から抜けださせる王とするためです」

 その時、天上に居並ぶ神々が姿を現し、夜の空の一角に虹と陽の光が現われた。
 神々は智慧の扉を開く美しい天の調べを奏で始めた。
 神々の手の中の弦が鳴らされると、人間の智慧を呼び覚ます音が光線のように駆け巡った。

 音楽はジョルに天界への朧げな記憶を呼び覚まし、人間界でのこの十年の境遇を思い起こさせた。
 ジョルは心の奥底に恨みが生じるのを抑えきれず言った。

 「もし、あなたが本当に私の天上の母であるなら、何故息子がこのような辛い目に遭うのに耐えられたのですか」

 この一言に、ラマダムの目に涙があふれた。
 「それは、おまえ自身が人間界に行って苦難を救うという大願を発したからです。私のお前への思いは、人間界の母と同じです」

 ラマダムは息子に、彼自身が下界に行って衆生を魔の道から救い、慈愛と正義の国を建てるとの大願を発したのであり、母はただ息子が大きな功績を成し遂げ天上界に戻った時に、やっと安心できるのだ、と伝えた。

 地上の息子は天の母に尋ねた。
 「私は本当に天から来て、天に帰るのですか」

 天の母のほほに清らかな涙が流れた。だが厳かに言った。
 「お前がしたことすべては天から見えています。お前は人の世に来た使命を忘れてしまったようですね。愛する息子よ、本当に忘れてしまったのですか」

 ジョルは言った。
 「本当に覚えていないのです。それでも、私はやはり多くの妖魔を倒し、善悪を見極められないリンの人々のために黄河の上流に新しい故郷を探し出しました」

  天の母は手を伸ばしジョルの目にそっと触れた。ぼんやりしていた目が澄んだ光を放った。母はもう一度慈愛の手をのばし、ジョルの顔をそっとなでた。わざと滑稽にゆがませていたジョルの顔が本来の姿に戻った。

 「お前は最も尊厳のある姿を人々に示さなくてはなりません。お前は天庭を人の世に知らしめているのですから」

  ジョルは「母さん」と叫びたかった。だが、羊の毛皮の上で熟睡している人間界の母に目をやると、苦しみに耐え続けたその顔は疲労でやつれていた。それを見て、ジョルは目の前に突然降臨した大らかで高貴な女性に向かって、声に出して母とは呼べなかった。

 今、ジョルは自分は確かに天の庭から来たことを信じた。だが、それは天の母ラマダムに告げられたからであって、自分の頭の中に天庭の記憶が呼び覚まされることはなかった。

 ジョルは言った。
 「人々は今の私を好きなのです」

 天の母ラマダムは言った。
 「分かっています。でも、お前は知らなくてはなりません。その人々はすべてあなたの将来の民なのです」

 「総督、兄ギャツア、そして大将タンマ、彼らは皆こう言います。リンは国になり、私がその国の王になるのだ、と」

 ジョルはその先を話したいと思った。だが、天の母は柔らかな指を軽く彼の唇にあてた。
 「お前は言いたいのですね。でも、お前の叔父トトンが…、と。息子よ、恨んではいけません。お前は必ず勝利します。天から降りてきた英雄が辛そうな様子をしてはなりません。お前は、リンの民と神を長い間待たせてしまいました。今年のうちに王にならなくてはなりません」

 天の母は伝えた。
 「リンに降る時、一頭の神の馬が共に下されました。今、この神馬は野の馬の群れに紛れ、日々することなく、黄河のほとりで丘から丘へと彷徨っています」

 天の母は雲に乗って空に昇って行きながら、最後にこう言い聞かせた。
 「早くお前の馬を探しに行きなさい。その馬を馴らすのです」

 言い終ると、雲に乗った天の母と、母に仕える美しい侍女たちは目の前から消えた。

 ジョルが目覚めると、テントの中にはまだ不思議な香が残っていた。枕元には侍女がわざと忘れていった髪飾りがあった。
 テントの外に出ると、月の光だけがあった。

 「でも、私はその馬を知りません」
 耳下に天の母の厳しい声が響いた。
 「お前は何をためらっているのですか。それはお前の馬です。すぐに分かるはずです」

 ジョルは叫んだ。
 「母さん」

 星の光が自分に向かって降り注ぐのを感じた。

 テントの中で熟睡していたこの世の母も起きて来て、彼に上着を着せかけた。

 一頭の馬の影が目の前の丘と空の際に現れた。

 ジョルは母に言った。
 これからはもう叔父さんの魔法の杖には乗りません、逞しい駿馬に乗ることにしましょう、と。

 母は額を彼の額に近づけ、言った。
 それこそ私が息子に望む英雄としての姿です。

 ジョルは母に尋ねた。
 自分は王になるべきでしょうか。リン国の王になるべきでしょうか。

 母は厳しい表情で言った。
 もしその王がリンの国を強大にし、民を豊かにすることが出来るのなら。
 
 「それは本当に私なのでしょうか」

 「あなたです。あなたは理由もなく人の世に来たのではないのですよ」

 母に先程の夢を語りたかった。だが、母はそれを聞いて心を痛めるかもしれない。そう考えて、その思いを打ち消した。





Kesaru Note
http://blog.goo.ne.jp/kesaru

ケサル 第一部終了 

2014-06-17 22:25:14 | ケサル
 これでやっと第一部が終わりました。

 リン国の王ケサル(ジョル)と語り部ジンメイが、それぞれに自分が何者なのかを見つけるまでが、描かれてきました。

 この阿来の「ケサル王」で、ジョル(ケサル)を悩ませた一番大きな問題は、宗教を受け入れるかどうかだったのではないでしょうか。
 史詩「ケサル伝」では、ジョル(ケサル)は自分が天から遣わされたと知っていて何をすべきかを自覚しています。
 ところが、阿来の「ケサル王」では、ジョルは瞬間的に啓示が閃きますが、自分の立場を知らず、神から守られていることにも気づきません。

 パドマサンバヴァを追い返し、リンに現れた二人の僧には嫌悪感を抱きます。
 妖魔を倒し、追放され、新しい街を作りながらも、王になることを拒否し続けます。

 そんな孤独なジョルに、ある日、観音菩薩が夢に現れ、仏の教えについて諭します。
 その時からジョルは自分がどこから来たのか考えるようになり、ついには菩薩の言葉を受け入れるのです。

 語り部になるよう選ばれたジンメイも、一向に物語を語れず焦りを感じています。
 やはりある日、夢に観音菩薩が現われ、物語全てを与えます。
 それでも自信のないジンメイの夢に現われたのは、ケサルその人でした。

 ケサルはジンメイに語り部としての美しい声と知恵を授け、
 「命ある者すべてに私の物語を語りなさい」と告げます。

 二人の孤独な魂はこうして時空を超えて出会い、交感し、新たにそれぞれの道を歩み始めていきます。

 今広く伝わっている「ケサル」は仏教色の強いものですが、チベットの土着の宗教やボン教に近い物語等、様々なバージョンがあります。
 阿来のケサルはそのどれとも違った独自の世界を創り上げています。

 今回、中国のケサル研究家、李連栄先生とお話する機会がありました。

 「阿来のケサル」に対するチベットの人たちの評価は厳しいということは阿来自身も書いていますが、それは本当のようです。
 チベットの人たちにとって神とも崇められる大英雄があまりにも人間的に描かれているからです。

 ケサルには、阿来を世に出した小説『塵埃落定』の主人公と重なる部分が感じられます。
 血なまぐさい少年時代、人とは異なった奇異な振る舞い、交易による富の蓄積、兄への想い、そして最後には天に昇って行く…どちらが先か後かではなく、これは阿来の中に刻まれた一つの典型としての人物像なのではないでしょうか。
 これは私の勝手な思い込みかもしれませんが。


 李先生にはもう一つ、物語の導入部分に書かれている「家馬と野馬」について尋ねてみました。
 李先生はすぐに一つの民話を教えてくださいました。

 「昔三匹の馬の兄弟がいました。
  草原で自由に暮らしていましたが、一番上の兄馬が重い病気になり、
  兄弟はどうしても助けたいといろいろ手を尽くしました。
  一番下の弟馬は人間のところへ行って兄を助けてくださいとお願いしました。
  助けてくれたら何でもいうことを聞くという弟馬の思いを聞き入れ、人間は兄馬を助けました。
  こうして弟馬は人間に仕えるようになり家馬となりました」


 
 奴隷制の始まりを思い起こさせ、そこから人間の心の深い闇に繋がっていく重苦しい導入部分。
 それを象徴するのが「家馬と野馬」の物語です。
 この状況をチベットの人たちは民話という形に残して来たのです。

 自分の生まれたギャロン地方に伝わったものだ、と阿来は他の小説で書いています。
 ギャロンはカム、アムドとは少し異なる独自の言葉を持つ地域で、西チベットともつながりがあるのではないかと言われる特殊な地域です。
 そこにこのような根源的な民話が伝わっているというのは驚きです。

 第一部最後の「挿話」の部分にも三匹の妖魔から始まる不思議で壮大なエピソードが語られています。
 これは民話なのか、それとも阿来の創作なのか。
 それにしても、ケサルも四大魔王も同じ体から生まれた、とは何とも理解しがたい物語ではないでしょうか。
 でも、それがチベットなのかもしれません。

 他にも気づかない所でチベットに伝わる民話が取り入れられているのではないか。
 そう思って阿来のケサルを読むとより一層興味がそそられます。


 第二部では、いよいよ王となるための競馬が始まります。

 この競馬にも様々なバージョンがあり、それぞれに深い意味が込められているようです。
 阿来はそれをどのような物語にし、どのような王が誕生するのか。
 そしてジンメイはどのような語り部になって行くのか。
 またゆっくりと見ていきたいと思います。

 以前ご紹介した「阿来が語るケサル王伝」の中で阿来は書いています。

一人の作家にとって、架空の伝奇物語をもう一度構築しなおし、その広大な物語の体系の中から歴史の姿が立ち上がってくるのを目にするのは、非常に不思議な体験である。
まず古い物語が準備されているため、私の創作も野放図にはならず、幾度も確かな歴史の場と文化の間に引き戻された。
写作のすべての過程は厳粛な学習の道程となり、自己の感情が精神の豊かさで満たされた。

我々が共にこの過程を味わい、共にこの偉大な史詩を味わい、チベットの歴史と文化を味わい、この同じ世界に多元的で豊かな文化がまだ存在していることを見る機会を持つ時、それは大きな意義のあるものになるだろう。












ケサル会時間変更のお知らせ

2014-06-13 02:06:09 | ケサル


『ケサル会ーケサル大王伝を読む・第4回』は
 6月15日(日)午後1時半開始〜4時半終了に変更

 

W杯第一回戦見たい!のでズラしました。

サッカーの後はケサルの競馬で盛り上がります。


 
台東区生涯学習センター 306号室。会費1000円
*参加の希望の方はootani11☆gmail.com 大谷へ









第4回ケサル会のお知らせ

2014-06-11 01:36:48 | ケサル
遅々とした歩みですが、前回でやっと第一部が終わりました。第二部は競馬から始まり、王となったケサルが悪魔に支配される国々を倒していく英雄物語らしい場面が展開します。
そこで、ケサル会のお知らせです。
この中で競馬についても大いに語られるということで、素晴らしいタイミング!楽しみです。

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☆『ケサル会ーケサル大王伝を読む』第4回開催のお知らせ


6月15日(日)午後1時から4時 (今回は昼間開催)
台東区生涯学習センター 306号室。会費1000円
*参加の希望の方はootani11☆gmail.com 大谷へ


全三回で終了予定だった「ケサル大王伝を読む会」は多方面の方の参加で盛り上がり、急ですが、追加開催をいたします。
今回は宮本神酒男さんに大王伝の残りをまとめてもらい、「ケサル」シンポジウムで話題になった「競馬」編の謎、さらにケサルの世界に広がる影響、いわば研究と文化における「ケサル」最前線を、相変わらずの熱のこもった講演で紹介してもらいます。
初めての方でも気軽にご参加下さい。

                 *
「競馬」はケサルが勝利して王になり、美女を娶る、いわば英雄譚共通の成人儀礼と考えられます。
シンポで 李連栄先生は「競馬」編は仏教思想の入った「大王伝」完成時期に作られた新しい話ではないかと報告。
 
藤井真湖先生は50編のモンゴル英雄叙事詩のうち競馬が出てくるのは10編、しかし主人公が馬に乗るのは「ゲセル・ハーン」だけだ!なぜ?
「チベット・ケサル」と「モンゴル・ゲセル」では「競馬」はどちらが古い(先)と言う疑問も発生。

「デルゲ」版と呼ばれるゾクチェン寺の僧侶たちが作った「ケサル」本が「競馬」編を一層、複雑、面白い話に仕立て、多角的な考察を引き起こしています。
この僧侶たちの精神が欧米に亡命した僧侶に受け継がれ、ハイブリッドなケサル文化が誕生しました。 

以上「ケサルの最前線」を宮本さんが丁寧に話をして下さるでしょう。
                 *
清の康煕帝が作らせたと言われる、世界で初めて刷られたケサルのモンゴル版「ゲセル北京木刻版」(1716年)の漢語訳本を李先生が送って下さり、今日手にしました。
「競馬」がどう書かれているのか興味があります。「北京版」の制作背景も知りたい。
                 *
青海省を旅した方が、ケサル大王を意識していたら「マニ塚はケサルの時代からある」など各地域でケサルに結びつく興味深い体験をされたとメールをいただきました。
                                  
私もケサルを知ることで一層、チベットへの興味を深めてきました。
                                                 大谷寿一











阿来『ケサル王』㊿物語 挿話

2014-06-08 16:38:20 | ケサル
物語:挿話





 ずっとずっと遥かな昔、魔物の三兄弟がいました。
 雪山に囲まれた康蔵高原を我が物顔に走り回り、人肉を食い、人血を飲み、人の骨を食い、その皮を着て、ひどく凶悪で残忍でした。
 その罪はあまりにも深く、天の神様に懲らしめられます。

 天の神様は彼らに転生を許し、転生に当たって願を懸けることをお許しになりました。
 ところが、彼らはまだ本当には目醒めていなかったため、祈りの中で神に背く言葉を口にしました。
 そのため、次に生まれ変わる時、三匹の蟹に変身させられ、険しい崖の下に閉じ込められてしまいます。

 三匹の蟹は、前世での罪と、この世での無意味な恨みとで、互いに噛み付き合い、和解することなく、絶えず争い、こうして長い年月がたちました。

 ある年のある日、ある神様がここを通りかかり、崖の下で、息も絶え絶えなほど精根尽き果て、それでも戦いをやめない三匹の蟹を可哀想に思い、鉄の杖を一振りして大きな岩を打ち砕くと、三匹の蟹はやっと解脱することが出来、再び生まれ変わって、九つの頭をもつタルバガンになりました。

 三十三天に住まわれる大梵天王はこれをご覧になり、不吉な知らせとして、剣を取って一振りすると、タルバガンの九つの頭は地に転がりました。

 四つの黒い頭は山道を転がる時、こう祈りました。

「我々は妖魔の中の精鋭である、仏法の敵に生まれ変わり、衆生の運命を欲しいままにさせ賜え」 

 祈りにこめた思いが強烈だったため、四つの黒い頭は願いを叶え、それぞれに、北方ルザン王、ホル・バイジャン王、ジャン国サタン王、モン国シンチ王となりました。

 四方を脅かす四代魔王となったのです。

 最後に心優しい白い頭が祈願しました。
 「四つの黒い頭は魔王になり人間を苦しめることでしょう。私を魔王を降し人々を守る世界の王に変えて頂けるよう、ひたすらお願い致します」

 後になって、その祈りの通り、白い頭は天界に昇り、大梵天王の子ツイバガワに生まれ変わりました…

 その時、家畜としての馬と野姓の馬が分かれてから間もない頃、蒙昧の中にある人々まだ知恵を持たず、妖魔と凶暴な妖怪が横行していました。
 美しい地にありながら人々の生活は無辺の苦海にいるようだったのです。

 その時、財宝は少数の者に集まり、そのため人々はもはや睦まじく愛し合わなくなっていました。
 狩に用いられる刀は人々が互いに殺しあうために使われました。

 人々は苦海にもがき苦しさに生きる望みを失い、地下に蔵れていた鉱脈さえも他所へと移って行き、この非人間的な地から逃れようとしていました。

 ここはもともと智慧の花咲く地でしたが、悪い行いがはびこったため、教化の届かない地となってしまったのです。

 よこしまな願いを発した魑魅魍魎たちが雪山に囲まれた広大な高原を誰はばかることなく横行していました。
 すべての河、山、草原、村には無数の妖魔と怪物がいて、眼に見える敵と目に見えない悪魔が黒い頭のチベットの民を悪の道に走らせました。

 地に暮らす民が唯一できること、それは、天の神様に祈ることでした。

 天上の神様たちはついに人々の哀しみ苦しみを知り、一堂に集まって考えました。

 そして、天上の神々の中から、大願を起こし衆生を苦難から救おうとする者を下界に降すことにしたのです。

 それが大梵天と天母ランマンダムの子ツイバガワでした。

 ツイバガワはすでに人の世に降りました。
 まだリンの王になる前、その名をジョルといいました。

 王になった後、人々が永遠に褒め称えるケサル王となるのです。











阿来『ケサル王』㊾語り部 病

2014-06-03 02:10:54 | ケサル
語り部:病 その2





 昏睡していたジンメイは自ら起き上がった。

 目にはこれまでにないほど生き生きした光が輝き、いつもは暗く生気がない顔には特異な色つやが浮かんでいた。
 そして、ジンメイは唄い始めた。

 「ルアララムアラ  ルタララムラタ!」

 今回は誰も嘲って笑たりしなかった。何故ならジンメイの暗くかすれた声ががらりと変わっていたからである。
 その口から発する声には、人々の心を奪う力があった!

 彼はすぐにでも歌いたかった。だがまだ続いている高熱のため体はひどく弱っていて、今の一節だけでまた意識を失いそうだった。
 青白い顔に微笑を浮かべて言った。

 「物語だ、オレの胸の中全部がケサル王の物語なんだ」

 活佛は言った。
 「お前の心にはいつもケサルの物語があったのではないか」

 ジンメイは体を起こし、言葉を返した。
 「今回は違うんです。頭の中にいっぱい詰まってるんです」

 活佛は言った。
 「ワシとお前には縁がある、ワシと船で渡ったから、お前は無駄な道を行かずに済んだのだぞ」

 ジンメイは目の前にいるのが自分を船に乗せてくれた活佛だと分かった。

 「寺に会いに来るよう言ったのに、お前は来なかったな」
 活佛の語気には咎めるような語気があった。
 「ワシは言ったではないか、お前の心には宝が隠されている、と。ワシがそれを掘りだしてやろう」

 確かに、頭の中に一時の間に沢山のものが詰め込まれ、体の中は、遥か昔の神、魔、人が入り混じった戦闘の殺伐とした気配に突き動かされていた。
 すぐには何の糸口も見つけられそうになかった。

 活佛は尋ねた。
 「ワシの助けが必要かね」

 「頭がすっきりするお経を上げてください」

 活佛は笑ってから、手を挙げて端正な顔だちの婦人を呼び、糸を紡ぐ紡錘と羊の毛を持って来させた。
 活佛は羊の毛の塊を手に取って言った。
 「お前の頭の中の物語は、今はこのように絡まり合ったままなのだ」

 その通りだった。

 羊の毛は再び女性の手に戻り、彼女が片方の手で羊の毛を撚り片方の手で紡錘を回すと、瞬く間に、一本の細い糸が羊の毛の塊り中から引き出され、長く伸び、撚り合わさって面白いほど整然と紡錘に巻かれていった。
 あっという間にその羊の毛の塊はきちんとした球形に巻き取られた。

 頭の中の絡まり合って解れないないものにも糸口があり、始まりと終わりがあるのだと思うと、ジンメイの頭の中にあるはっきりしものが現れた。

 活佛が再び糸の端を引っ張ると、巻き取られた糸はコロコロとほどけた。活佛は言った。
 「こうやって、始めから終わりまで、その物語を語ればよいのだ」

 ジンメイは起き上がっていた体を、また力なく横にして言った。
 「でも、オレにはほんのちょっとの力もないんです」

 「力はお前の体に戻って来る」

 今、ジンメイは柔らかい羊の毛皮で体を覆い、星空を見上げながら、体の中の力が新たに生まれて来るのを待っていた。
 見るからに慈愛に溢れてはいるが、本来は威厳に満ちた活佛を目の前にして、自分は将来の歌い手としてもう何もいらないとは言えなかった。

 そこでジンメイは目を閉じた。

 だが、活佛は命じた。
 「目を開けてワシを見なさい」

 ジンメイが目を開けると、活佛が片方の手でもう片方の腕に掛かる広い袖を引き上げ、その手の指を開き、顔から10㎝ほどの空中を撫でるように動かしているのが見えた。
 その時ラマは、ひどく濁った重々しい声で一言一言はっきりと呪文を唱えていた。

 活佛は疲れも見せず法術を施し続け、目の見えない男をイライラしたさせた。

 暫くして活佛は言った。
 「よし、試してみなさい、これで頭がはっきりしたはずだ」

 ジンメイの頭は既にはっきりしていたのだが、また少しぼんやりし始めた。
 どこがぼんやりしているのか。それはどうやって頭がすっきりしたかどうかを試す方法を知らないことだった。

 活佛は周りを囲む人たちに言った。
 「この男はどうやって試したらいいか、まだ分からないのだ」
 この言葉がおかしくて、皆は思わず吹き出した。

 月が昇りはじめた頃、郷の衛生院の若い女医が到着した。体温を測り血圧を測ったがすべて正常で、ただ心臓の鼓動が少し遅かった。

 ジンメイが口を開いた。
 「早くなるわけがない。これっぽっちの力もないんだから」

 医者はブドウ糖の太い注射をした。
 ジンメイは言った。
 「力が遠い所からゆっくりゆっくり戻って来た」

 今回は医者が笑った。
 「じゃあもっと早く力に戻って来てもらいましょう」

 医者は部屋の中に戻って点滴しようと言ったが、ジンメイは屋根でなくてはだめだと言い張った。そこで、みんなで屋根に点滴を置いた。活佛は裕福な家の仏間で休むよう連れられて行った。

 医者は病人に付き添って、月の光に微かに輝く透き通った液体が一滴一滴ジンメイの血管に入って行くのを見ていた。

 誰もが眠ったと思ったジンメイが、突然笑い出した。
 「活佛の手はすごく熱かったが、この薬は体の中を流れて行って、涼しくて気持ちがいい」

 女医は活佛に話題が及ぶのを嫌って言った。
 「力はまだ遠くにあるのかしら」
 
 「足の早いのはもう戻って来ました」

 「ではもう少し待ちましょう」

 こうして待っている間、皆は壁にもたれ上着にくるまって眠った。女医は敷物をかぶりオーバーの襟を立てて頭を埋め、やはり眠っていた。

 ジンメイは静かに横になったまま、片方の目には村の北側の河岸まで続く起伏する丘が見えた。

 月は薄い雲の中を通り抜け、地に映し出される影はその丘の上で絶え間なく形を変えた。
 ジンメイは再び物語の中の大群の兵馬が、怒涛のように入り乱れて戦うのを見た。


 ジンメイの力のほとんどがまだ遠くにあったが、一部は戻って来て、そこで彼は僅かに唇を動かして歌い始めた……
 彼にとっては、これは歌ではなく、真新しい使命だった。

 明日も彼はやはり羊飼いだ。だが昨日の羊飼いとは明らかに異なっているはずだ。

 活佛は言った。
 「ワシがあの男の智慧の門を開いたのだ」

 活佛が言いたかったのは、ジンメイの胸が物語で埋め尽くされ、多くの糸口がお互いに絡み合っている時、活佛が一度手でしごくと、乱れていた糸口が現われ、引き出され、そのおかげでジンメイは、女が糸を紡ぐ時の糸巻のように、くるくると止まることなく回り続けることになった、ということである。

 このようにして、神の力を授かったケサルの語り部が、また一人草原に誕生した。

 彼は間もなく語り始めるだろう。

 なぜなら彼は英雄から託されたのだから。

 日増しに凡庸へと向かう世には、英雄の物語が伝わり広まらなくてはならないのである。  

 その夜、物語すべてのの始まりが ジンメイの目の前にありありと浮かんでいた…