塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 91第7章 河の源流へと遡る

2012-05-31 02:57:59 | Weblog
1 ウォーロン パンダの里


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




「小道は尾根に通じていた。春の馬鈴薯畑とトウモロコシ畑を見下ろしながら、そのまま皮条河に至る。さらさらという水音だけが聞こえる。峰の周りは灰色の空が見えるだけだ。小道の両側は密集して生い茂る雑草。私たちは時々足を止め、秋明菊、かたばみ、その他の野の花を楽しみ、満開のつつじを記録し、日陰に顔を出した親指ほどのたけのこを点検した。去年のはしばみの実の莢が地面に落ちていて、棘だらけの形はまるで針鼠のようだ。頭の上の樺の木と樅の木の間からヒマラヤホトトギスの甘い鳴き声が聞こえて来た」

 これは、私が書き写した『最後のパンダ』という本の一部である。
 作者はアメリカの生物学者シャーレー。

 金川を去って一ヶ月、成都に戻って間もなく、また私のギャロンの旅を続けた。成都から100km足らずで、博士の筆になるこの見慣れた風景が私の目の前に現れた。

 今回は、通いなれたルートでギャロンに入った。
 それは岷江から入るルートである。

 過去、ギャロンに入るほとんどの地区の街道もまた、このルートだった。成都から出発して55キロ、天下に名高い都江堰に着いた。ここから山々は険しくなり、そのまま四川盆地の縁へと迫っていく。岷江峡口から20kmほどの映秀に入ると、ウォーロン保護区に通じる公道は国道213号線を離れ、右側の山の谷間へと折れ曲がっていく。

 シャーレーは80年代、この谷間で長年にわたってパンダの生態の研究をした。自分の国に帰ってから、この本を出版した。
 出版後長い時が経ち、昨年ついに中国語に訳され、中国の読者にお目見えした。
 ただし、ウォーロンはシャーレーが当時味わった静寂とはまるで変わってしまった。

 山の中のこの美しく堅固に舗装されたアスファルトの公道は、すでに旅行案内書の中での主要な観光ルートになっている。
 ここはパンダのおかげで十分な保護を受けている美しい野山であり、繁殖基地内で飼われているパンダは、この辺りを成都の旅行社のセールスポイントにした。

 更に重要なのは、小金県内に通じる、現在積極的に開発中の四姑娘山自然風景区の公道もウォーロンを経由していくことである。
 そのため、この辺りの山がもはや昔のような静寂を保てないのは必然の勢いといえる。

 石がごろごろと重なるウォーロン河を隔てて、保護区のパンダ繁殖センターが目の前に現れた。

 人工的に植林された小さな林の木陰に座り、一団の旅行者ががやがやと橋の袂でチケットを買い、手に小さな旗を振っているガイドに連れられて、小さな橋を渡って行くのを見ていた。

 小さな橋の近くの囲いの中で、パンダたちは一匹ずつ小さな部屋で眠っている。
 庭の中央にはコンクリートで作られた柱が立っている。それらの柱は、街の公園のコンクリートの飾り物と同じで、杉の木の形をしていて、鱗のような皮、曲がった枝も作られている。ただ、枝には青々とした針状の葉はついていない。

 二匹のパンダが、観光客の騒がしい声の中、コンクリートの木に登り、太くて丈夫なコンクリートの枝の分かれ目に大きな尻を乗せて座っている。
 少しして、管理員が葉の青々した笹を持って、太ったパンダ一匹をあやしながら囲いの外へ連れて行った。囲いの片側は河である。河には雪のような波が逆巻いていた。

 飼育場の扉は山の方向に向って開かれている。山の上の植生は前に書いたものと同じである。ただ、九月に近く、つつじの季節はすでに過ぎ、樺の木と楓の木の葉は微かに紅葉し始めていて、山はすでに浅い秋の色に染まっていた。

 管理員は緑の笹の枝で重そうなパンダをあやしながら、そのままカバノキの下の草地を間を歩いて行った。

 空は曇って雨が降りそうだった。草地の緑は少し悲しげだった。だがそれは、観光に来た着飾った若者たちの気持ちには何の影響も与えなかった。彼らはよちよちと歩くパンダを目の前にして興奮して大声で叫んでいた。そうして、それぞれ順番にパンダと写真を撮った。

 私が知っている限りでは、このようなやり方は以前は許されていなかった。

 好奇心から私も小さな橋を渡って様子を見に行った。
 そこで見たのだが、管理員はパンダが怒り出しそうなな時にはなだめ、興奮している旅行者にあまり関心を示さなければ、刺激する方法を見つけては、パンダを旅行者と同じように興奮させていた。

 別の管理員は旅行者から金を取っていた。金を払った旅行者だけがパンダと写真を撮ることが出来た。

 パンダと写真を撮るのには二種類の基準があった。一つはパンダを抱かないもの、一つは抱くもの。それぞれに違った値段が付けられていた。
 私には後者のやり方がはっきりと見えた。抱いて撮るのは50元だった。金を受け取った管理員は、特に喜ぶでもなく、パンダの顔と同じように冷静だった。

 パンダの目のまわりは黒く、サーカスのピエロにちょっと似ているが、ピエロほどの滑稽さはなく、それよりもピエロのような言いようのない悲哀の方がより強く感じられた。
 私はそこに万物の長である人間の悲哀をも感じた。

 そこで、楽しげに笑っている人の群れを離れ、橋のたもとの旅行の記念品を売る店に行った。

 当然、ここにある多くはパンダの姿と関係のあるものだった。だが、私はとりたてて書くほどの美しさを感じなかった。

 私は信じている。パンダや、またはどんな野性動物でも、その姿はただ彼らの世界でだけ力を発揮できるのだ。その世界とは、あの雲と霧に纏わり着かれている森林の中にあるのだ、と。

 パンダに関係ある本を二、三冊買おうと思った。

 たった一つあるガラスのケースに陳列されている本や画集の表紙には、すべてパンダの、世界で何が起こっているかにお構いなく、自分たちの種族がすでに危うい状態にあることもお構いなく、永遠に無邪気で、永遠に幼げな愁いを佩びたかわいい姿が描かれていた。
 だが、この高価な画集を初めから終わりまでめくっても、パンダの本当の知識といえるようなものは得られることはない。

 もしかして、不思議に思う読者がいるかもしれない。ギャロンを描く本の中で、どうしてパンダのように、総ての人が知っている瀕死の動物の描写にこのようにこだわるのか、と。

 それは二つの理由からだと思う。

 一つは、私が今いる保護区は同時に科学研究の基地であり、中国政府の支持以外にも世界野生動物基金の援助を得ている。にもかかわらず、
ここではパンダの生存状況や自然生態方面の公衆に適した読み物を見つけられなかったからだ。

 もう一つの理由は、ウォーロンはかつてギャロン十八土司の中の最も漢の地に近いワス土司の領地だったからだ。この美しい谷間はかつてはギャロン人の暮す繁栄した場所だったのだ。

 だが、私の目には深い山の中の谷間に散らばる民家から、人々の言葉、衣服まで、ギャロンチベット区のわずかな特徴も見ることは出来なかった。
 
 そこで私は目をパンダに向けたのである。うまい具合に、パンダはとてもよい話題である。
 私自身もこの話題が好きだ。





(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





  
 

一休み そして お知らせ

2012-05-22 17:44:27 | Weblog

ふう~ また一休み。

やっと6章まで終わりました。
残りあと1章。焦らずに続けていきたいと思っています。


お知らせです。
阿来の「空山」が翻訳され出版されました。昨日、やっと手に入れました。


コレクション中国同時代小説 1 

「空山 風と火のチベット」  阿来 著 山口守 訳   勉誠出版社




六つの物語が花びらのように重なって、一つの作品になっています。
ジル村という、チベット族の暮す地域を舞台としています。
「大地の階梯」で阿来が歩き回ったそのどこかに、ジル村はあるのでしょう。いや、その総てがジル村だ、と言ってもいいかもしれません。
今回出版されたのは、始めの二つの物語です。

実は、原文で読んだのですが、あまり頭に残っていません。日本語に訳されたのはとてもうれしいことです。

普段はあまり人の目に触れることのない場所、でも、とても大切な意味を持つ場所の物語を、じっくりと味わいたいと思っています。
















阿来「大地の階段」 90第6章 雪梨の里 金川

2012-05-22 17:01:47 | Weblog

7 さらば金川 さらば歴史



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




 今回、第二回金川の戦いの最後の砦の跡も見ようと考えていた。
 だが長い年月にわたって開拓され、人家の密集した地では、つる草の生い茂るままの風景などは、もう見ることは叶わないのだろう。

 実際には、金川土司の官塞の遺跡は金川県城の対岸のそれほど遠くない勒烏村にある。歴史書の記載によると、それは金川の戦いの最後の砦の一つである。数千のギャロンの兵がここで戦死した。

 広大な土地を占めていた石の建物は砲火に遭って一掃されてしまった。金川土司ソノムと大量の俘虜たちは、この時から死刑囚へと地位を貶められ、護送され、遥かな苦難の道程の後、北京の太廟で祖先を祭ってから打ち首になった。

 第二回金川の戦いは西暦1765年に始まり、1776年に終わった。合わせておよそ11年間である。

 停留所で次の日の成都に戻るバスの切符を買った。

 その時、近くの食堂の入り口に立てられている「新鮮な細甲魚あります」という看板が目に入った。当地の漢語の方言では、鱗を甲という。細甲魚とは細鱗魚の意味である。そこで、その食堂に入った。魚が運ばれて来ると、それは想像通り、真っ白なスープの上にふっくらとしたウイキョウの葉と真っ赤なとうがらしの細切りがたっぷりと浮かんでいた。

 自分のために、棗を漬けた薬酒を注文した。

 ほんのりと酔って宿に戻り、続けて当地の歴史を読んだ。

 私は常に文字の中の真実を疑っている。だが、今回の金川の旅を終えて、私にはもう歴史の身近な姿を探し出す方法がなくなっていた。日々の生活に満ち溢れている細部のように、真実味のある姿はもう見つけられないのだ。

 窓の外を見ると、この小さな街は、あい変わらず騒がしさと混乱によって活力を溢れさせている。だが、この光景はすでに内地のどの小さな県城とも大差がなくなってしまった。

 そこで、仕方なく、大雑把に書かれた書物、細部についての細やかな記述のない書物に戻った。

 乾隆帝が作った金川平定の碑文を読んだ。全文に才気があふれている。だが、長すぎて、この本の中に写し取ろうという気持ちにはならなかった。そして私が一つ指摘したいのは、この碑文も今はただ歴史書の中でしか読めないということだ。

 もとの碑は乾隆五十一年、即ち金川が平定された十年後、金川土司官寨の跡に建てられた。
 当地の人の話では、碑の上には東屋が建てられていて、瑠璃の瓦の二重の屋根がかかり、東屋の外には囲いがあったという。文化遺産とも言うべきその碑は、文革によって壊された。石碑は当地の村民によって三つに割られ、石工を頼んで碾き臼にされることになった。だが石工は、碾き臼にしようと鑿を当てた時に爆死してしまったという。こうして、割られた石碑は幸いにもその姿を残すことが出来たのである。

 そこで、もう一度魏源の「乾隆再び金川土司を平定する」を読んだ。

 その夜は風雨が激しかったが、却って、魏源の筆のもと金川土司の官寨が巍然と目の前に聳え立っているのを目にしたようだった。


 「その官寨は頑丈で壁は厚い。西に大河を臨み、南にはマニ車の堂がある。官寨と直角に、木の柵、石の壁、長い垣が設けられ、東は山を負い、崖は八層になっていて、それぞれの層に高い石の塔が建っている。敗れてそれぞれの道を戻った賊は、皆これを死守した」


 私は金川へやって来たのだが、なぜか、書物の中の簡要な叙述に導かれて、再び歴史に思いを馳せたのだった。

 
 成都へ戻る道路は、大金川に沿って遡り、再び梭磨川と交わった。途中で大渡河水系と岷江水系を分ける鷓鴣山を越えた。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)