阿来の初期短編 『魚』(89年) 概要
(魚と題する短編は二作あり、こちらの方が遅く書かれた)
仲間三人と宗教調査に来た“私”は、東チベットのタンクーの街からいくつかの丘を越えた湿地帯で釣りをすることになる。他の三人は野兎やタルバカンを撃ちに行ってしまい、仕方なしに一人で釣りを始める。
チベットの草原では伝統的に水葬が行われ、水と魚によって魂の入れ物である肉体を消滅させてきた。そのためほとんどのチベット人は忌むべきものとして魚を避けている。中央民族大学の教授に寄贈された本によると、チベット人は悪鬼や穢れたものを払う儀式を行い、目に見えないが至る所で祟りをするものに呪いをかけ、最後は水へと駆逐する。そのため水の中にいる魚はこれらの不吉なものの宿主なのである。
チベット人が魚を獲らず食せずの習慣を持って久しい。だが今は二十世紀の後半、私も魚を食べるチベット人の一人となった。だが、食べた後口には腐敗の匂いが残ると感じている。
魚を釣るのは初めての私は、しばらくしてやっと一匹釣りあげる。魚に近づく時、腐った人間の死体が連想され、突き出した悲しげな眼を正視することが出来ない。もう釣りたくない、だが今をおいて魚への禁忌を破る機会はないだろう、とも思う。そんな私の意に反して魚はどんどん針にかかる。草の上で動かない魚を見ていると、彼らは自分という殺戮者の心の限界を試しているようにも思えて来る。今日の釣りは自分との戦いとなる。文化と、自分の中にある禁忌に勝たなければならない。
その後も魚はどんどんと吊り上げられる。まるで彼らは自ら死に向かっているかのようだ。その表情は邪教を信じる者のようだ。空は雲に覆われ雷が轟く。ずぶぬれになった私は、知らぬ間に声をあげて泣いていた。まだ死んではいない魚たちは傍らでクウ、クウと叫んでいる。
太陽が顔を出し、仲間も帰って来た。車でこの場を離れようとする時、先ほどの事件はすでになかったことのようだった。
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前回まで、魚は清らかな命として神聖視されているのだと思い込んでいた。だが、この作品を読むとはそうではないらしい。純粋に忌み嫌われてきたようだ。
現代を生きる主人公はすでにそのような禁忌は持っていないが、やはり体の中にその歴史は生きているのだろう。そんな主人公にとって、魚を獲ることは戦いとなる。もう獲りたくない、でも魚はどんどんかかり、やめることが出来ない。その不条理な状況を、魚が生命を失っていく危うい姿と主人公の心理描写によって描き出している。
前作の『魚』は、文革に巻き込まれていく辺境の村の一つの時間が、阿来らしい美しい風景描写とチベット人のタブーである魚の死を通して、次につながる物語として描かれていた。今回の『魚』は抒情を排した、阿来にとっては実験的な作品と言える。
同じ「魚」という題名で二編の短編がかかれたということは、チベットでの魚へのこだわりがそれだけ強いということだろう。