塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来の初期短編 『魚』(89年)

2019-01-26 01:02:00 | 塵埃落定


阿来の初期短編 『魚』(89年)  概要
(魚と題する短編は二作あり、こちらの方が遅く書かれた)


 仲間三人と宗教調査に来た“私”は、東チベットのタンクーの街からいくつかの丘を越えた湿地帯で釣りをすることになる。他の三人は野兎やタルバカンを撃ちに行ってしまい、仕方なしに一人で釣りを始める。

 チベットの草原では伝統的に水葬が行われ、水と魚によって魂の入れ物である肉体を消滅させてきた。そのためほとんどのチベット人は忌むべきものとして魚を避けている。中央民族大学の教授に寄贈された本によると、チベット人は悪鬼や穢れたものを払う儀式を行い、目に見えないが至る所で祟りをするものに呪いをかけ、最後は水へと駆逐する。そのため水の中にいる魚はこれらの不吉なものの宿主なのである。
 チベット人が魚を獲らず食せずの習慣を持って久しい。だが今は二十世紀の後半、私も魚を食べるチベット人の一人となった。だが、食べた後口には腐敗の匂いが残ると感じている。

 魚を釣るのは初めての私は、しばらくしてやっと一匹釣りあげる。魚に近づく時、腐った人間の死体が連想され、突き出した悲しげな眼を正視することが出来ない。もう釣りたくない、だが今をおいて魚への禁忌を破る機会はないだろう、とも思う。そんな私の意に反して魚はどんどん針にかかる。草の上で動かない魚を見ていると、彼らは自分という殺戮者の心の限界を試しているようにも思えて来る。今日の釣りは自分との戦いとなる。文化と、自分の中にある禁忌に勝たなければならない。

 その後も魚はどんどんと吊り上げられる。まるで彼らは自ら死に向かっているかのようだ。その表情は邪教を信じる者のようだ。空は雲に覆われ雷が轟く。ずぶぬれになった私は、知らぬ間に声をあげて泣いていた。まだ死んではいない魚たちは傍らでクウ、クウと叫んでいる。

 太陽が顔を出し、仲間も帰って来た。車でこの場を離れようとする時、先ほどの事件はすでになかったことのようだった。

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 前回まで、魚は清らかな命として神聖視されているのだと思い込んでいた。だが、この作品を読むとはそうではないらしい。純粋に忌み嫌われてきたようだ。
 現代を生きる主人公はすでにそのような禁忌は持っていないが、やはり体の中にその歴史は生きているのだろう。そんな主人公にとって、魚を獲ることは戦いとなる。もう獲りたくない、でも魚はどんどんかかり、やめることが出来ない。その不条理な状況を、魚が生命を失っていく危うい姿と主人公の心理描写によって描き出している。

 前作の『魚』は、文革に巻き込まれていく辺境の村の一つの時間が、阿来らしい美しい風景描写とチベット人のタブーである魚の死を通して、次につながる物語として描かれていた。今回の『魚』は抒情を排した、阿来にとっては実験的な作品と言える。

 同じ「魚」という題名で二編の短編がかかれたということは、チベットでの魚へのこだわりがそれだけ強いということだろう。












 

フォークナー短編集(滝口直太郎・訳)

2019-01-17 01:27:31 | 塵埃落定


フォークナー短編集(滝口直太郎・訳)を読み終わった。

 硬直したアメリカ南部の人々、特に女性の心理を描いた物語、ヨクナパトーファに連なる作品等、バラエティーに富んでいる。

 『納屋は燃える』は、村上春樹の『納屋を焼く』との関連性をよく語られている。
 この作品もヨクナパトーファに属する作品と言えるだろう。
 怒りを抑えられず、気に入らないことがあると、その家の納屋を焼き他の地に一家で移住するという生活を繰り返す父親(スノーブス)と、そんな父を尊敬するしか知らなかった少年が、いつしか自分の中に流れる血と抗いながら父親の行為に疑問を持ち、さらに父親を救おうとさえするようになる、その心の葛藤を描いている。

 この短編集の中で私が一番面白いと思ったのは『赤い葉』だった。

 インディアンの首長が死ぬ。首長の埋葬に当たって、それまでそばに仕えていた黒人を副葬するという習慣があるが、生に執着するその黒人は失踪してしまう。二人のインディアンが男を探しに行く。
 道々の会話から、二人は心の中でこのやり方に反対しているのがわかる。それはインディアンの誰もが考えていることでもある。インディアンにとって黒人は白人から押し付けられた厄介者だった。汗をかくのが好きな黒人のために仕方なく畑を耕すという仕事を作ってやったが、そうなれば自然の成り行きとして、白人をまねて、土地を開き、食べ物を植え、黒人を育て増やし、その黒人を白人に売るようになっていく。インディアンは本来汗をかくのが嫌いなのだが。
 何日かが過ぎ首長の体は腐っていく。だが二人のインディアンに焦った様子はない。明日は今日なのだから。
 黒人たちも男にそっと食料を与えたりはするが、匿うわけでも突き出すわけでもない。誰もが結末は分かっているのだ。
 こうして6日目に男は捕まる。男は最後に思い切り水を飲ませてもらう。

 インディアンが終末へと向かう停滞したかのような時間の中で、彼らと黒人の関係が描かれて興味深い。

 だが、ある研究者の発言によるとフォークナーの描くインディアンは歴史的には不正確なことがあるという。それは本人も「でっち上げ」と認めていて、史実と伝承と類型の寄せ集めであるという。だが、それが作品を否定する理由にはならないだろう、と私は思う。

 同じ研究者が書いている。フォークナーの書くインディアンは強制移住の時代から南北戦争後の時代に、白人に道を譲って消えていくインディアンであり、消滅を運命づけらているようだ、と。
 まさしくこの『赤い葉』に描かれている世界だ。


 『響きと怒り』の訳者による解説にでは、ヨクナパトーファ・サーガの第一作ともいえる『サートリス』で、フォークナーが描こうとしたのは、架空の街の名門サートリス家が滅んで行く、旧家没落の物語だという。
 終末を描くこと、それは次の時代を描くことにつながっていく。壮大な家族の物語、ヨクナパトーファ・サーガである。

 阿来もまた、『塵埃落定』でまさに終末を描き、次の『空山』を生み出した。東チベットのある村の文革期を乗り越えた人々の物語だ。それは初期の短編集の中にすでに原形を見せている。











阿来の初期中編 『魚』

2019-01-10 15:41:33 | 塵埃落定



阿来の初期中編『魚』 概要


 東チベットの山の中の小さな村、柯村。
 いつも河で魚を見ている子供がいる。ドク。

 この子は普通の子とは違っていた。ある人たちは、それはいとこ同士の近親婚のせいだという。近親婚の後裔には極端な生命方式が現われる。特別に頭がおかしいか、特別に頭が良くて寿命が短いか。このような家は、純粋な血統により高貴な感覚を生み出す。そして衰退へと向かって行くのである。このような家の最後の子共は不可解なものを好むことがある、例えば魚。魚はチベットでは畏敬され、神秘なものとされてきた。
 
 ドクの目は魚のように飛び出している。村人は彼を“魚目のドク”と呼ぶ。河辺で魚を見るのが好きで、常に魚のことを考えている。魚は冬になったらどこへ行くのだろう。暗い水の洞窟の中でどうやって物を見るのだろう。
 魚は人から畏敬される神秘的なものだ。だが、この一帯では魚は美しさに欠けるとしてま忌み嫌われていた。爬虫類のように憐れまれていた。誰も、魚が何を食べているのか知らなかった。魚は生きているのに食べる物がなく、常に飢えている、ならば必ず天罰に逢うだろう、と考えた。前世で有り余る富を集めたか、残忍だったか、ずる賢かった…まるで病人のように魚を嫌った。そのため魚は増えるばかり、一団となって黒々と河を下る姿は不吉なものに映った。だから村人は、魚目のドクの家の衰退を予感せざるを得なかった。

 ドクの父親は8歳年上のいとこである母と結婚させられたのだった。母チュウチュウの父は近親婚は牛乳に砂糖を加えるようなものと考えていた。こうすれば一族の財産はまた一つにまとまるのだ、と。だが父親は反革命に参加し、草原で殺されてしまう。ドクは今、母チュウチュウと父の弟シアジャと暮らしている。若い叔父シアジャは少女のようにか弱く、魚を怖がっている。

 数年後、母は風習通りシアジャを後添えにしようとするが、シアジャは男としての機能を果たせなかった。そこへ父と一緒に戦ったアンワンが帰って来る。父は死ぬ時、アンワンに妻を頼むと言い残したという。
 村へ帰ってすぐ、アンワンは反革命分子として、地主となったドクの一家と共に、批判闘争でつるし上げにあう。シアジャはアンワンが村人に打たれるのを怖がりながらも心の中で喜び、だが彼の行動には感動する。こうして彼ら4人は一緒に暮らすことになる。

 1960年代中頃、村に伐採場が出来、漢人がやって来る。彼らは魚を恐れない、魚を食べる民族である。彼らは山の木を切り倒し、森林は失われていった。彼らが魚を釣るのを見たドクは、魚が餌のミミズを食べ、蚊を食べるのを知り心を乱す。魚があんなに醜くふにゃふにゃのミミズを食べるなんて…これまで、魚は水しか飲まず、清らかで神秘的だと聞かされていたのに…
 伐採場からは魚を焼く良い匂いが漂って来る。ある日ドクとシアジャは伐採場で饅頭とスープをもらって飲む。それが魚のスープだと知ったシアジャは橋から落ちて死ぬ。自ら飛び込んだようにも見えたという。ドクはそうとは知らず麦畑へ一人入って行った。

 シアジャが死んでからドクはミミズを育て始める。そして、魚が河ではなく柳の林の中の水たまりにいるのを見て、不思議な興奮を覚える。

 数日後、両親が仕事にいっている間に雷が轟き大雨が降る。それにかまわず、ドクは一人で水たまりに行き、盗んだ竿にミミズを付け、魚を釣る。だが、魚はうまくかからない。激しい雨のため、水たまりから水があふれ、魚もあふれ出す。ドクはそばにあった木を拾い、魚を叩く。魚の白い腹の柔らかさに恐怖を感じながらも、次第に熱狂し、疲れも忘れ、アンワンが探し当て止めるまで魚を叩き続ける。たくさんの魚が死に、だが生きているかのように河へと流れていったった。
 帰り道、雨は止み、厚い雲の層の切れ目から黄金の光が溢れ出した。ドクはアンワンに言う。僕、もう魚はいらない、と。

 より多くの光が空から降り注ぎ、疎らだが清冽な鳥の鳴き声が背後で長く響く。橋と同じ高さまで逆巻く濁った水は、陽光に照らされて金属的な輝きと狂暴な音を発している。山野を覆うすべての気は河の中から湧き上がっていた。
アンワンとドクは村には帰らなかった。架けられたばかりの橋と共に消えてしまったのである。

 家の者がすべて世を去り、母チュウチュウの性格はがらりと穏やかになった。それは死ぬまで変わらなかったという。


         * * * * *


チベットでは、魚は一つの生命として神聖視されているとはよく聞くが、忌み嫌われているとは知らなかった。
同じように、文革期のチベットのごく普通の生活とその移り変わりについて知る機会は少ない。
阿来は美しい筆致で時に細やかに、時に非情に、時に幻想的に描いていく。山と光と水の美しさ、魚の死を思わせるなまめかしさ、少年たちの危うさが、物語以上にスリリングに伝わって来る。

魚目のドクは、自らの血と、習慣を超越した魚への執着によって、家と村の衰退を背負っていたかのようだ。それは後の『塵埃落定』の原形と言えるかもしれない。

阿来にはもう一つ『魚』と題された短編がある。それを読んでから、更に魚について考えたい。