塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 33 第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-11-24 01:23:31 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


5 山神の民たち



 チベット族と漢族の血が何代にも渡って混ざり合い、しかもチベット語がほとんど通じない家で、要領を得ない言い伝えをたくさん聞いた。これらの言い伝えは文化的にはチベット族よりも漢族の民間のそれに近かった。

 客好きな主人は大きな豚の脂身の塊を出してきた。主人がナイフを入れた時、私は丹巴の街から持ってきた二本の白酒をリュックから取り出した。大きなどんぶりに注ぐ。

 どんぶりは囲炉裏を囲む男たちの手から手へと回された。脂身とナイフが私に回ってきた。一塊切り取ってナイフの先に刺し、火にかざすと、火にあぶられてじわじわと油が滴り、炎がぱちぱちと立ち昇って、囲炉裏の周りに並ぶ顔を赤銅色に照しだした。その火は、頭の上に吊るされている煙で黄色く燻された電灯よりも明るかった。

 酒が三巡し、何切れもの脂身が私の腹に納まった。

 主人が言った「驚いたよ。あんた、この土地のモンには見えないな」

 この時、外でトラクターの音が響き、まもなく、ジーンズ姿の青年が入ってきた。高校には行ったが大学には受からなかった息子が帰ってきたのである。

 主人が、今日は運ぶ荷はあったのか、と尋ねた。青年は不機嫌な顔で言った。行っては見たが、道が塞がっていて途中で空で帰ってきた、稼ぎは無しだ、と。

 彼はどんぶりを取り上げて一気に口に注ぎ込んだが、次に回さず、自分の前に置いた。今時の、伝統的な文化が崩れつつある村には、このように態度の悪い若造がたくさん現れている。
 私は酒の勢いで、彼の前からどんぶりを取りあげ、たっぷり一口飲んでから、彼の父親の手に渡した。

 若造の顔色が変った。

 まるでたった今私に気づいたかのように、剥き出した目で私を睨みつけた。私もそのまま彼を睨み続けた。引くわけには行かなかった。

 彼は目をそらし、また一口飲んでから、言った「あんた、どこへ行くんだ」
 私は「ツァンラ」と答えた。
 「ツァンラ?」

 彼の父親が言った「小金のことだ」

 彼は言った「小金なんてたいしたとこじゃないぜ。小金の薬屋が何人かやって来たことがあるが、俺たちに散々叩きのめされたよ」

 それから、人を威嚇するような話をいくつかしてから、私のリュックとカメラを見て言った「北京と成都で騒動があったんだってな。今どこもかしこも、通行止めだ」
 彼は私を大都市から来た人間と思っているようだった

 彼の父親は、粗暴で、都会から来た人間を恨んでいる息子を制止できなかった。ただ私に向かってこう言っただけだった。
 「こいつは酔っ払ってるんだ。相手にしないでくれ」

 私はリュックを片付けて出て行こうとした。

 彼はまた一つ話を持ちかけてきた。
 「道が塞がっててジープは通れないぞ。よかったら明日俺がトラクターで小金まで送ってやるよ。二百元にしとくぜ」

 このような吹っ掛けには、当然乗るわけには行かない。

 終には、彼の父親は彼を部屋から追い出し、私をここに置いてくれることになった。

 次の日目覚めたのが遅かったので、昨日の夜から今までただ微笑んでいるだけで一言もしゃべらなかった老人以外、みな仕事に出かけていた。
老人は茶を入れてくれ、チベット語で言った
 「道でうちのろくでなしに会っても相手にしないようにな」
 私は言った「彼のこと怖がってませんから」

 老人は自分の耳を指して言った。
 「もうだいぶ前から聞こえないんじゃ」
 仕方なく、微笑んで別れを告げ、出発した。

 二時間後、丹巴に戻った。

 招待所で紙を取り出し「野人」という小説を書き始めた。
 書くのに飽きると、招待所の前の曲がりくねった階段を下り、バス停まで散歩した。ここは相変わらず静かで、木陰はひっそりとしており、時間は静かに大地の中にちぢこまったまま、動き出そうとする気配がなかった。 
 そこで、また招待時に戻って、私の「野人」を書いた。

 あの頃、私は旅先の旅館で短編小説を書くのが何よりも楽しみだった。ゾルゲで、理県で、丹巴の県城から50kmと離れていない小金の街で。この小説を書き終えたら、道はまだ開通していなくても、また旅に出なくてはならない。

 旅の中で書くことが、25歳を過ぎてから30歳になるまで、私の生活方式だった。
 あの時私は、この方法が私の人生で唯一つの生き方なのだ、などと考えていた。

 私は出発した。目的地は50km先の小金の街だ。

 出かける前、以前の同僚であり上司であり、そして友人でもある小金県委員会の書記、侯光に電話をした
 彼は、行程の半分くらいのところにある新橋という村で私を待っている、そこはまだ山崩れが起こっていない、と教えてくれた。それから何度も繰り返し言った。村役場に着いたら電話するように、そこで飯を食おう、迎えの車がすぐ着くから、と。

 その夜、県城の空を吹き抜ける風の音を聞きながら、すぐに眠りに着いた。

 眠る前、私の口から出たのは、小金の以前の名前、ツァンラだった。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 32 第3章 ギェルモン・ムルド 現実と伝説

2008-11-14 08:24:24 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



4 ある地区の一つの山 その2




 ムルドを神々の主役としたのは、自分たちが何かの中心になりたいという、この地の部族の人々の強い願望の、遠まわしな表現である。
なぜならこの地の人々は知っている。チベットから伝わった仏教の、守護神である山神の序列の中で、位の高い系列にはムルド山神の名前がない、ということを。

 それでも、当地のギャロンの人々は、この東方の山神についていくつかの神話を作り出し、ムルド山を取り囲む大渡河流域に、山々の神が警護する「ネンチン」と「ゴウラ」と呼ばれているような守護神を冊封したのだった。

 ムルド山の周囲の山々を取り囲む大渡河中上流とその豊かな支流は広く「ギャムウォチ」と呼ばれ、河の両岸は「ロン」と呼ばれている。ということは、ギャロンという部族の名称は、地理的な概念であり、ムルド山を取り囲む河に沿った農耕地区を指している。

 ムルド山の険しい山道を歩いている時、私の心に強く刻み込まれたのは、ここはすでに過去の神山になってしまった、という想いだった。
この旅は、自分の足で歩きながら何かを見つけようとするギャロン人にとって、心を締めつける失望の旅である。
 更に西の方、どこかの、一度も神となったことのない雪山に登ったなら、強い心の震えを感じるかもしれない。だが、目の前の、生存する力を失い全身に傷を負った山の姿は、岩の間から採れる灰白色の塩の苦さを思い起こさせる。

 山羊たちは棘の多い潅木の間で青草を探している。それは私たちが頭の中で詩の一行を探すのと同じくらい困難なことだ。

 このような文化的な衰退はムルド山の麓のムルド寺を見ればよく分かる。

 ギャロンチベット区には他で見られるような大きな寺院はほとんどない。だが、寺院はその大小にかかわらず、所属がはっきりしているものだ。第一に、ボン経かまたは仏教か。もし仏教に属しているなら、さらに、ニンマ派か、サキャ派か、カギュ派か、ゲルグ派か。それぞれの宗教、それぞれの教派には、それぞれにはっきりした特徴と教義がある。

 だが、ムルド神の寺で、私は不思議な光景を見た。この寺を外から見ると三つの建物からなる亭閣式建築で、中国式の道教寺院のように見える。チベット建築の特徴はほとんど見ることはできない。

 道観、いややはり、寺と言っておこう。その寺院の正殿の一階に入ると、そこにはムルド山神の像が祭られている。
 もともと、ムルド山神が乗っているのは戦いの馬ではなく、黒いたくましいラバである。山神は黒い毛織物の大きな外套を羽織ってラバ乗っている。更に驚いたのは、ラバの綱が山神自身の手に取られているのではなく、前にいる従者の手にあったことだ。おまけにラバの後ろには、大きな刀を持った武将が従っている。

 どうあってもこれは、私の想像していた山神の姿とあまりにかけ離れている。そしてこれはまた、私が始めて見た、人間によって作られた山神の神像だった。

 同じ階の正殿の西南に千手観音が祭られている。

 二階には漢族が崇める水を治める竜王。

 三階には、更に、漢、蔵が混在していた。漢族の道教が崇める玉皇大帝と、チベット族の人たちがあまねく信じているパドマサンバヴァとツォンカバ、ヴァイローチャナの像がそれぞれ一体ずつ置かれていたのである。

 このような寺院には、チベット寺院に常に見られるような、歴史、文化、芸術のどの角度から見ても高い価値のある、あの壁画を期待することはできない。

 この寺を出た時、私の心には何かを失ったような物寂しさがあった。

 私は決して、復古を主張する、文化に頑なな保守主義者ではない。
だが、このような場所には、ただ、文化の荒廃があるばかりで、その発展は見られない。劣った文化が寄せ集められているだけで、文化の本当の融合と構築は見られない。

 ムルド山の周りの地域は、チベット文化の中でも特色のあるギャロン文化区の中心地であった。だが、現在は、自然界の至る所に開いた傷口とともに、永久に取り戻すことのできない文化の凋落を見るばかりである。

 どの神山にもその山神を崇拝する民が山を巡るための道がある。

 ボン経とチベット仏教の信者は皆、神山をめぐる立派な道、あるいは細い道を一巡りすれば、それなりの功徳を積むことができると信じている。
だが今、この巡礼の道は徐々に荒れ果てていった。

 いや、この場所で、荒れ果てる、という表現は正しくない。荒れ果てるとは、一本の道が、草や蔓や木々の緑によって徐々に覆われていくことである。この辺り、人がめったに踏み入らない山道にはもうそのような現象は起こりえない。

 この辺りの林はもう消え失せてしまった。強い生命力を持つ草でさえ根を張る場所がない。
 強烈な風と雨水が山の表面の土を少しずつ剥がしていき、草の根はもはや掴むものがなく、年を経るごとにまばらになり、枯れ果てていった。
 山羊たちの砂で汚れた舌が、最後にすべてを舐め尽くすのを待っているだけなのである。

 この巡礼の道は、そのはじめは、草や樹や森の中の腐葉土を踏み固めてできたものである。今は、土砂の流失とともに日一日と、その跡を消してゆく。

 私はこのような道を通って神山を参拝したことは一度もないが、古く神聖な巡礼の道がこのような方法で消えていくのを目にして、心の中にしきりに苦いものがこみ上げてきた。

 私は詩の中で、このような苦渋は岩の間から染み出すアルカリの強い塩のようだ、と書いたことがある。 
 このような塩の塊は硫酸ナトリウムを作り、硫酸ナトリウムを使って質の良くない火薬の原料を作ることができる。

 山の麓の家で一夜の宿を借り、次の日丹巴に帰ることにした。
                            

(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)