塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 104 物語:モン・リンの戦い

2015-05-26 23:21:56 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その2



 次の日も同じ戦法で戦った。

 シンチ王は自ら出馬して法術を用い、リンの陣中に向けて続けざまに雷を落とした。
 リン軍の数百の兵士が命を失い、陣形は混乱し始めた。

 シンチ王は高い丘の上に立ち、自軍の将校たちに言った。

 「誰もがケサルは強い神通力を持っているという。
  だがヤツは、アリのようにうじゃうじゃ集まった兵の後ろに隠れているばかりだ。
  ヤツは兵同士を戦わせているだけだ。
  衆生を大切にすると聞いていたから、ワシはヤツを尊敬していた。
  だが、お前たちも見ただろう。
  ヤツが多くの国を征服したのは、自らの力と神通力ではなく、兵たちの流した血の海にそれらの国々を沈めただけのだ。
  ワシがあといくつか雷を落とせば、アリのような兵たちはお互いに踏み潰し合い、山から落ちて来る雪崩のように自らを埋めてしまうだろう。
  その時こそ、我が英雄たちよ、思う存分戦ってくれ」

 言い終ると、呪いの言葉を唱え、黒い雲を呼んで、その上に飛び乗った。
 だがそこでは、シンチ王は雷を落とせなかった。ケサルが神の馬ジャンガペルポに乗って、すでに雲の上で待ち構えていたのである。

 シンチ王は雲を呼んだが、雲の中の稲妻はすでにケサルに抜き取られていた。
 ケサルはその稲妻を鞭のように振り回し、面白そうに笑って言った。

 「お前の皮肉たっぷりな話を、風が私の耳に運んで来たぞ」

 「さぞ恥ずかしかったことだろうな」

 ケサルが思いきり稲妻を振ると、モンの陣営に次々と雷が落ち、はためいていた大きな旗は燃え盛る炎へと変わった。
 その瞬間、混乱しかかっていたリン軍は秩序を取り戻した。

 ケサルは言った。
 「他にどんな術があるのか見せていただこう」

 シンチ王が弓を引き絞り矢をつがえ、リン軍に向かって射ようとした。
 ケサルはそれを押しとどめた。
 「兵たちは兵たち自身で解決させよう。我ら二人矢の術を競おうではないか。遠くのあの赤い岩の峰を目標にしよう。」

 赤い岩の山のほら穴こそ魔王シンチが魔法を修練している地であることを、ケサルはすでに知っていた。
 矢の競い合いに乗じてまず彼の修業の場を打ち砕こうとしたのである。

 シンチ王は何も答えず、弓の弦を放すと、地に旋風が起こり、矢は雷光を帯び雷鳴を轟かせてリン軍の陣地へと飛んで行った。

 ザラの周りを守っていた大将タンマが馬を躍らせて陣の前に進み出、神の法力を使ってシンチ王の矢に向かって続けて三本矢を放つと、雷光を帯び雷鳴を轟かせる矢とぶつかり合い、シンチ王の矢はそのまま地に落ちた。
 リンの陣に歓声が沸き起こったが、英雄は馬の背からドスンと落ち、その場で鮮血を吐いた。

 タンマは多くの兵に守られてテントに入り、戦いの前にケサルから教えられた護心金呪を密かに念じるたので、気持ちが落ち着き、徐々に息を吹き返した。


 雲の上ではケサルが大声で笑った。
 「我が軍の大将は死を恐れる輩だとあざけっていたようだが」

 シンチ王の笑いは引きつっていた。
 それでも明らかに皮肉を込めて言った。
 「お前は多くの兵たちの弱々しい体で鋭い刀や槍を食い止めようというのか」

 ケサルは言った。
 「人間は自らを救わなくてはならないのだ」

 「奴らは神の法力を持っていない。自分を救うことなど出来はしないぞ」

 「誰かがそう考えれば、自分を救うことは出来るのだ」

 シンチ王はハハと笑って
 「ワシには分からん。奴らはどうやって自分を救おうというのか」
 
 ケサルは何も答えなかった。
 
 その時、雲の下では陣形を整えたリンの隊分が、ザラの軍旗の指揮の下、更に前へと進んで行った。

 その中の誰一人として単独では魔軍の兵士や将軍と同等には戦えないだろう。
 だが、これらのか弱い肉体が共に進み共に退くことで、鉄のように堅固な集団となり、前へと進んで行けば、どのような力もそれを阻むことは出来ないのである。

 彼らはまるで洪水のようにモン国軍が守る山や岡を覆い尽くしていった。

 ケサルは言った。
 「見たか。彼らは水のようだ。だが水は低いところから高いところへ流れることは出来ない。これこそ彼らの力なのだ」

 話している間に、ケサルは弓を手に取り、弦を放すと三本の矢が同時に放たれ、そのまま遥か遠くの魔王が法を修める洞窟へと飛んで行き、山の峰を一瞬で崩壊させた。

 見る間にシンチ王の厳めしさが色褪せていった。
 ケサルはハハと笑った。

 「帰って少し休むがいい。我らはまた戦おう。暫くはお前が言う弱々しい兵たちがどのように戦うか見ようではないか」

 この日ザラは先に訓練された戦陣を存分に発揮させ、かなりの距離を進んだ。

 空が暗くなれば野営し、明るくなれば陣を立て直して進撃する。
 何日もそうしているうちに、大軍はすでにモン国の要地のかなり奥深くまで進んでいた。

 戦いが始まったばかりの頃渡った河はみな西から東に流れていたが、その後河と山脈は方向を変え、北から南へと変わり、河は滔滔と流れた。

 山の形は複雑になっていった。
 初めは、すべての山は獅子の姿に似て、うずくまって四方を睨めつけているようだったり、首を挙げて疾走しているようだったが、今はその形を変えていた。

 この蒸し暑い地では、山は象の形になった。

 兵士たちは恐れ始めた。
 象が怖いからではなく、故郷から遥かに遠く来てしまったことを恐れたのである。

 もし戦死したら魂が故郷を探し出せなくなるのではないかと心配になった。
 なぜなら、山々が方向をぐるりと変えてしまったからである。

 さらに重要なのは、モン国に深く入れば入るほど、広々とした場所は少なくなり、千万人が一人の如く、同時に進退し左右に旋回出来る場所が徐々に少なくなったことだった。
 モン国の軍は夜の隙に反撃し、勝利は僅かだったが、リン国は十数里後退せざるをえず、開けた地まで戻ってやっと休むことが出来た。

 リン軍の中で力を発揮出来なかった英雄たちが、これを機に次々と現れて戦いたいと願った。
 そこでケサルは、ザラの指揮する大軍を先鋒から後衛に移し、自らが英雄たちを率いて戦いの場に現れた。








阿来『ケサル王』 103 物語:モン・リンの戦い

2015-05-19 10:20:50 | ケサル
物語:モン・リンの戦い その1



 次の日の朝、グラトジエは国王と馬を並べて丘へ登り、リンの大軍の陣勢を見渡しながら、思わずあざけりの笑みを漏らした。

 シンチ王はわざとらしく尋ねた。
 「勝つ自信があるようだな」

 「大王様、リンの陣勢を見れば彼らが必ず敗れること、火を見るより明らかです」
 
 シンチ王はその根拠を尋ねた。グラトジエは答えた。

 「リンには英雄が多いと聞き及びますが、思うにそれはみな、肝っ玉の小さい輩が、大げさに伝えただけでしょう。あの時、我々がダロン部を略奪しても、リンのヤツらは反撃する力がなかったではありませんか。そして今、ヤツらの陣勢をご覧ください。数えきれないほどの兵が押しくら饅頭しているだけです。寄り集まっては強くなった気でいるものとは何でしょう。羊です。勇敢なトラや豹なら、ただ一匹で山に向かい、堂々と周りを圧倒するはずです」

 だがシンチ王は不吉な予感に捉えられていた。
 「ヤツらは整然と列をなし、進むも退くも千万の兵がまるで一人のようにまとまっているではないか。なんとかして防がなくてはならぬ」

 この時、ザラの陣営から軍令の旗が挙がり、牛の角笛がたからかに鳴り渡った。
 歩兵は方陣を組み、騎兵は蛇の陣、鷹の陣を組み、そのまま橋の袂の砦を離れ、両軍の間にある開かれた場所へと進んで行った。

 二人の若い英雄ザラとユラトジは、一人は矛を、一人は弓矢を手に、先頭に立った。

 先鋒を務めるザラは背に色とりどりの軍令の旗を挿していた。
 緑の旗を振ると、兜に緑の房を付けた方陣が盾と長矛を構え、あっという間に両軍の間の開けた場所にある丘を占領した。

 全員が弓を張り矢をつがえ、援護の態勢を整えると、ザラは次に黄色と白の旗を振った。
 兜に黄色と白の房を付けた両翼の騎兵が、大きな鷹の羽根のように広がって、猛烈な勢いで突進し、緑軍の両側のわずか後方で止まった。

 ザラが赤い旗を振り、自ら馬を駆って前へ進むと、中央に陣取っていた赤軍が移動を始めた。

 千万の軍靴が同時に地を踏みしめ、千万の軍馬の蹄鉄が同時に大地を蹴った。
 その日、戦いの火ぶたが切られる前に、モンの大地はこれまでにない力によって一斉に揺れ動いた。

 中軍がザラの統率で動き出すのと同時に、緑軍もまた一糸乱れず前へと移動を始めた。
 隊列の先頭では、刀と槍が冷たい光を放っている。

 赤い中軍が開けた場所にある丘まで進んだ時、緑軍はすでにモン軍の兵営の囲いの前にいた。

 整然と列を組んだ大軍は、行進すれば大地が震え、静止すれば山も河も兵も息をひそめ、これまでない威嚇が感じられた。

 シンチ王は言った。
 「見ろ!ヤツらは羊ではないようだ」

 グラトジエが矢を放つよう大声で命令を下すと、矢は群れとなって飛んで行った。
 リンの緑軍は一斉に盾を構えた。

 矢の雨が過ぎた後、兵たちは盾を降ろし刀と槍を振りかざした。
 陣中の兵は誰一人傷ついていなかった。

 心の底から怒りを漲らせたグラトジエは、弓を引いて矢を放った。
 矢は電光を閃かせ、激しい雷鳴を轟かせながら、リンの緑軍に向かって飛んで行った。

 グラトジエの一本の矢は十三の盾を破り、十三のリンの兵士が同時に命を落とした。
 まるで耕地を鋤き起こすように、緑軍に血なまぐさい一本の裂け目を作った。

 いつもの戦いなら、彼の矢が放たれただけで寄せ集めである相手の兵たちは胆をつぶし、大将の馬のまたぐらに隠れてしまっただろう。
 ところが、リン軍は暫くざわついたものの、すぐに陣の前列を盾で守り、盾の間からは鋭刃を覘かせ、方陣はそのままに静かに前へと進んで行った。

 進むに従って、矢によって開けられた裂け目はすぐに元通りふさがっていった。

 グラトジエは一声雄叫びをあげると敵陣まで突進し、術を用いて小さな突破口を開けたが、後続の兵が彼について入って行こうとした時には、隙間なく連なった盾によって陣の外へとはじき返された。

 その時、ザラは背に挿した軍令の旗を順に振り動かした。歩兵が一斉に丘から前進し、両翼からは騎兵が襲って来た。
 まるで波が岸に押し寄せるかのように。

 この戦いでは、これまではただ矢を放っては雄叫びをあげ、単独で戦うことしか知らなかった兵が、堤防に押し寄せる洪水のように隊列となって襲い掛かって来たので、モンの大将たちはこの奔流に呑み込まれ、個人の武功を世に知らしめる隙が無かった。

 モンの第一陣は訳が分からぬうちに敗れ、大陣営は突破された。

 この日、リンの軍は神の威力を大いに見せつけた。
 
 モン軍の死者は数え切れず、戦っては敗れを繰り返し、三、四十里も後退した。
 黄昏時になってやっと、平らな広野に突き出た丘の後ろで足並みを停め、後退を免れることが出来た。

 リン軍も攻撃を収め、野営の準備を始めた。






阿来『ケサル王』 102 物語:少年ザラ

2015-05-04 22:36:44 | ケサル
物語:少年ザラ その4




 ユラトジが報告した。

 モン国の領地は広大で十三の河があり数百万の民がいる。天の恵みを受けて、雨が多く空気は潤い、冬は短く夏が長い。土地は肥沃で花や果実が山を満たしている。
 だが、このように豊穣な地でありながら、人々の生活は幸せとは言えない。
 国王も首席大臣グラトジエも魔物の化身であり、日がな一日国を治めることを考えず、人肉を食らい、その血を飲み、常に周りの国々を脅かし、その民をさらっていく。
 妖術の修練に耽り、隣国を脅かす暇がない時は、自国の民を自らの刀の犠牲とする。
 そのため人々は何時自分が国王に料理され皿に盛られるのかと、心配でびくびくしている。

 ケサルは言った。
 「シンチ王は、魔国のロザン、ホルのクルカル、ジャンのサタンと共に四大魔王と呼ばれ、天下に害を及ぼした。三人の魔王はすでにリンによって滅ぼされたが、モンの国は遠くにあり、また魔王は長い間姿を見せず波風を立てなかったので、これまで命を長らえて来たのである」

 ユラトジは続けて報告した。
 「シンチ魔王は、今ちょうど修練の最後の段階を迎えたところで、部下を厳しく戒め、小さなことにも慎重になっています。今年を何事もなく過ごせば、大願が成就するからです。それは思うがままに天下に覇を唱えるためです。我が軍が国境深くに進んだ時でさえ、応戦しませんでした。今二つの河を超えれば彼の王宮です。その時には敵は陣を敷き、我が大軍と大いに戦うでしょう」

 ケサルはザラを前に呼び、若い英雄の肩を抱いて言った。
 「明日、総ての軍を思い通り動かしてくれ。兄の戦法をしっかりと示すのだ」

 次の日、ザラは威厳を持ち勇壮に陣を敷いた。

 モンの兵営は吊り橋を挙げたまま静まり返り、正午を待ってやっと一頭の馬が兵営から出て、ザラの前に停まった。

 やって来たのは魔の大臣グラトジエ。
 危険を冒して姿を見せたのは、リンの内実を探るためだった。

 「馬上の若い司令官よ。我れはモンの首席大臣グラトジエと申すものだ」

 グラトジエは言った。
 「河のほとりの美しい原野は国王の遊ばれる地、王妃が野の花を摘まれ美し風景を楽しまれる地、大臣たちが法力と馬術を試す広野、花が咲き誇りカッコウが歌い、自然の音すべてが心地よい歌を奏でる祝福された地である。このように多くの異国の兵馬が隊列を組み殺気を振り撒くとは、もっての外だ」

 ザラは笑った。
 「我がリンの大軍が向かうところ、それはまさにすべての妖魔が横行する地を、今そなたが言ったように真のめでたい地にするためだ。分別をわきまえているなら早く馬を降りて降服されよ」

 グラトジエは慌てることなく、言った。
 「我れグラトジエは、友に穏やかなること絹の如く、また一方で、敵の矢と雷を制圧せずにはおかれぬ者だ。今、そなたに警告しておこう。明日日の出る前に、大軍すべて河の両側から消えるがよいぞ」
 言い終ると手綱を繰って馬の向きを変え、悠然と去って行った。

 グラトジエが去って行く後ろ姿は悠然としていたが、林を曲がやいなや馬を鞭打ち狂ったように走り出した。
 王宮に着いた時は全身が汗まみれになっていた。

 国王が天下無敵となる功法を成就するにはまだ数カ月かかる。
 これがリンの大軍が境界を超えた時もモンの大軍が抵抗しなかった原因だった。

 今、リンの大軍はすでに国の中央に近づき、このままでは激しい戦いは免れない。
 グラトジエは宮殿に入って報告した。

 「リン国は今どこよりも強大です。今は時を稼ぎ、ダロン部から略奪した民と牛、羊を倍にして戻し、雲錦宝衣を返上するのが良いでしょう。国王の功法が成就したら、その時は兵を出してリンを叩き潰し、払った代価を百倍にして償わせましょう」

 シンチ王は無表情に言った。
 「ケサルがお前に談判するとでもいうのか。もしや、兵を引く代価まで話をつけてあるのではないだろうな」

 グラトジエはすぐさま言い訳を始めた。
 「とんでもないこと。私めはただリンの兵を偵察した後、大王にご注意も申し上げたまで。ましてケサルは勝つことのみを考え、私と談判するなどありえません」

 「ではどうしろというのだ」

 「当時、私めはダロン部の長官トトンと通じておりました。ヤツは我々の力を知っており、今はリンの国王の叔父の身分です。彼に恩恵を約束したら、もしや…」

 「あの老いぼれはまだ我が国の愛しい公主に未練たらたらというぞ。まさか、それで奴を釣ろうというのではないだろうな」

 グラトジエは慌てて跪いた。
 「戻ってすぐさま兵を出し陣を敷きましょう。明日、リンの軍と思う存分戦います」

 シンチ王はやっと顔をほころばせ、立ち上がってグラトジエを助け起こした。
 「談判するのは敵に重い一撃をくらわしてからだ。それでこそ思い通りの結果が出せる。まず大いに戦おう。奴らを血の海に沈めるのだ。そうすればお前の舌を煩わせずに済むからな」

 国王シンチも夜を継いで前線に赴き、中軍のテントの中にどっかりと陣取った。






阿来『ケサル王』 102 物語:少年ザラ

2015-05-04 22:36:44 | ケサル
ユラトジが報告した。モン国の領地は広大で十三の河があり数百万の民がいる。天の恵みを受けて、雨が多く空気は潤い、冬は短く夏が長い。土地は肥沃で花や果実が山を満たしている。だが、このように豊穣な地でありながら、人々の生活は幸せとは言えない。国王も首席大臣グラトジエも魔物の化身であり、日がな一日国を治めることを考えず、人肉を食らい、その血を飲み、常に周りの国々を脅かし、その民をさらっていく。妖術の修練に耽り、隣国を脅かす暇がない時は、自国の民を自らの刀の犠牲とする。そのため人々は何時自分が国王に料理され皿に盛られるのかと、心配でびくびくしている。
ケサルは言った「シンチ王は、魔国のロザン、ホルのクルカル、ジャンのサタンと共に四大魔王と呼ばれ、天下に害を及ぼした。三人の魔王はすでにリンによって滅ぼされたが、モンの国は遠くにあり、また魔王は長い間姿を見せず波風を立てなかったので、これまで命を長らえて来たのである」
ユラトジは続けて報告した。「シンチ魔王は、今ちょうど修練の最後の段階を迎えたところで、部下を厳しく戒め、小さなことにも慎重になっています。今年を何事もなく過ごせば、大願が成就するからです。それは思うがままに天下に覇を唱えるためです。我が軍が国境深くに進んだ時でさえ、応戦しませんでした。今二つの河を超えれば彼の王宮です。その時には敵は陣を敷き、我が大軍と大いに戦うでしょう」
ケサルはザラを前に呼び、若い英雄の肩を抱いて言った「明日、総ての軍を思い通り動かしてくれ。兄の戦法をしっかりと示すのだ」
次の日、ザラは威厳を持ち勇壮に陣を敷いた。モンの兵営は吊り橋を挙げたまま静まり返り、正午を待ってやっと一頭の馬が兵営から出て、ザラの前に停まった。やって来たのは魔の大臣グラトジエ。危険を冒して姿を見せたのは、リンの内実を探るためだった。「馬上の若い司令官よ。我れはモンの首席大臣グラトジエと申すものだ」
グラトジエは言った。河のほとりの美しい原野は国王の遊ばれる地、王妃が野の花を摘まれ美し風景を楽しまれる地、大臣たちが法力と馬術を試す広野、花が咲き誇りカッコウが歌い、自然の音すべてが心地よい歌を奏でる祝福された地である。このように多くの異国の兵馬が隊列を組み殺気を振り撒くとは、もっての外だ」
ザラは笑った「我がリンの大軍が向かうところ、それはまさにすべての妖魔が横行する地を、今そなたが言ったように真のめでたい地にするためだ。分別をわきまえているなら早く馬を降りて降服されよ」
グラトジエは慌てることなく、言った。「我れグラトジエは、友に穏やかなること絹の如く、また一方で、敵の矢と雷を制圧せずにはおかれぬ者だ。今、そなたに警告しておこう。明日日の出る前に、大軍すべて河の両側から消えるがよいぞ」言い終ると手綱を繰って馬の向きを変え、悠然と去って行った。
グラトジエが去って行く後ろ姿は悠然としていたが、林を曲がやいなや馬を鞭打ち狂ったように走り出した。王宮に着いた時は全身が汗まみれになっていた。国王が天下無敵となる功法を成就するにはまだ数カ月かかる。これがリンの大軍が境界を超えた時もモンの大軍が抵抗しなかった原因だった。今。リンの大軍はすでに国の中央に近づき、このままでは激しい戦いは免れない。グラトジエは宮殿に入って報告した。「リン国は今どこよりも強大です。今は時を稼ぎ、ダロン部から略奪した民と牛、羊を倍にして戻し、雲錦宝衣を返上するのが良いでしょう。国王の功法が成就したら、その時は兵を出してリンを叩き潰し、払った代価を百倍にして償わせましょう」
シンチ王は無表情に言った「ケサルがお前に談判するとでもいうのか。もしや、兵を引く代価まで話をつけてあるのではないだろうな」
グラトジエはあれこれと言い訳した「とんでもないこと。私めはただリンの兵を偵察した後、大王にご注意も申し上げたまで。ましてケサルは勝つことのみを考え、私と談判するなどありえません」
「ではどうしろというのだ」
「当時、私めはダロン部の長官トトンと通じておりました。ヤツは我々の力を知っており、今はリンの国王の叔父の身分です。彼に恩恵を約束したら、もしや…」
「あの老いぼれはまだ我が国の愛しい公主に未練たらたらというぞ。まさか、それで奴を釣ろうというのではないだろうな」
グラトジエは慌てて跪いた「戻ってすぐさま兵を出し陣を敷きましょう。明日、リンの軍と思う存分戦います」

シンチ王はやっと顔をほころばせ、立ち上がってグラトジエを助け起こした。「談判するのは敵に重い一撃をくらわしてからだ。それでこそ思い通りの結果が出せる。まず大いに戦おう。奴らを血の海に沈めるのだ。そうすればお前の舌を煩わせずに済むからな」
国王シンチも夜を継いで前線に赴き、中軍のテントの中にどっかりと陣取った。