★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304
物語:地獄で妻を救う
ケサルは北の境界の山頂でアダナムを火葬にし、その後一人籠って済度の法を行い、アダナムの魂を西方浄土へ送ろうとした。
だが、あまりに広くとらえどころなく、アダナムの魂に関する手がかりを得ることは出来なかった。
そこで、天上を巡る夜叉を呼び、アダナムの魂の行方を尋ねた。夜叉は言った。一時、アダナムの魂は境界の街を徘徊して去ろうとしなかったが、国王の到着した前の日に、閻魔王の下で亡霊を呼び寄せる役割をする小鬼に連れて行かれた、と。
ケサルは、それは一大事と神の馬ギャンガ・ぺルポに跨って後を追った。閻魔殿の前まで追い続けたが、アダナムはすでに地獄に落とされ責めを受けていた。
ケサルは人気のない閻魔殿の前で、大声で叫んだ。
「閻魔王よ、顔を見せよ」
閻魔王は言った。
「あの者が一声叫ぶと、空には虹が現われ、花の雨が降った。大いなる救い主、高い修行を積んだ者に違いない。誰か、早く行って見て来い」
鬼は閻魔殿まで来て声を挙げて尋ねた。
「何者か」
「閻魔王よ、早く出て来られよ。聞きたいことがある」
閻魔王は奥でその声を聞き、ケサルだと分かった。アダナムの亡魂のために来たのだと知り、そのまま時を稼いだ。
ケサルは焦り、雷の矢を放って閻魔王の宝座をひっくり返し、水晶の剣を取り出し、激しく振り回して地獄へと通じる鉄の門を震わせて撃ち破ろうとした。
閻魔王は奥から出て閻魔殿に姿を現した。
「もともとの男前が、怒りで顔が歪んでおるぞ。お前が誰か知らぬが、まだ死期に至っていないのは見れば分かる。来た場所へ帰るがよい」
ケサルは、閻魔王は必ず自分の身分を尋ね、四方に鳴り響くケサルと言う名前を聞いておとなしく従うはずだ、と考えていた。ところが、閻魔王は何も尋ねず、繰り返した。
「帰って長寿を楽しむがよい。もと来た場所へ戻るのだ。さもなくば、もはや生きる気はないとみなすが、よいかな。
お前の面構えからして、人の世で善を為しながらも、かなりの殺戮を重ねて来たに違いない。
決まり通り、地獄に落として苦しんでもらおう」
「そなたに出来るかな。私はこの世から妖魔を消し去るために天から遣わされたのだ」
閻魔王は笑った。
「お前は天の神の子ツイバガワ、リン国のケサル王だな。
一国の王でありながらそのように粗暴なふるまいをするとは。
ケサルよ、お前が為したことは分かっておる。だが、お前も知るべきだ。
閻魔殿の中では、英雄も武力を振るう場所は無く、言葉の巧みな者も語る余地はない。
顔を挙げて良く見よ。上を見れば、天は空であり、誰も降りて来てお前を助けはしない。
前を見れば、無人の道が続くばかりでお前を導く者はいない。
神がワシにこの世を管理させているのだ。ワシは天地開闢の時からここにおるのだ」
「そなたは公平ではない。アダナムは地獄へ落ちるはずはないのだ」
「時すでに遅し。もしお前がアダナムと共に救いを求めに来たなら、救えたかもしれぬ。だが、あの女はすでに地獄へ行くと裁かれた。苦海の中で五百年苦しみぬくまでは、何があっても人の世に生まれることは出来ない」
「頼む、閻魔王よ」
「戻るがいい。五百年後もあの女への想いを忘れていなければ、迎えに来られよ」
ケサルは再び剣を抜くと、閻魔王は大きな袖を振り、ケサルに壊された鉄の門はもとに戻った。
閻魔王は笑った。
「ここに捕らわれた魂は実質が無く形もなく、閻魔殿にあるものは幻影でしかない。この世の武器で破壊は出来ぬ。帰るがよい」
「我がアダナムは確かに地獄で五百年待たなくてはならないのか」
閻魔王は答えず、肩を抱いてケサルを門へと導き、霧の中を更に先まで送った。
ケサルははっきりと見た。閻魔王が治めている地は多くの深い淵からなり、道とは、その深い淵に懸かる危なげな橋だった。
閻魔王は、遠くに太陽の光が見える所まで送って来た。光は巨大な膜の幕ように遥か彼方で揺らいでいた。
閻魔王は言った。
「ここまでだ。ケサルよ、また会うこともあろう」
「私も地獄へ落とすと脅しているのか」
「それはない。お前は神が下界へ遣わしたもの、神は地獄へ落ちることはない。ワシが言おうとしたのは…」
「アダナムを救う方法があると言うことか」
閻魔王は手を振り、秘密を漏らすまいと口をつぐみ、そのまま姿を消した。
深い淵に架かる橋も消えた。ほの暗い深淵と共に。
気付くと、ケサルと神馬ギャンガペルポは明るい光の下にいた。静まり返った黄泉の国から戻ったケサルの耳には日の光が流れて行く音が聞こえた。
草原をしばらく進んだ頃、ケサルは突然ギャンガぺルポに言った。
「あの世は人の世の国とは異なっていた。どこかに実在しているように思えるのだが」
神馬は言った。
「どこにあるのですか」
「あの世でもあり、この世でもあるような場所だ」
「もしそうなら、国王はお妃様を救い出せるのでは」
ケサルは肩を落として言った。
「ただそう思っただけだ」
物語:地獄で妻を救う
ケサルは北の境界の山頂でアダナムを火葬にし、その後一人籠って済度の法を行い、アダナムの魂を西方浄土へ送ろうとした。
だが、あまりに広くとらえどころなく、アダナムの魂に関する手がかりを得ることは出来なかった。
そこで、天上を巡る夜叉を呼び、アダナムの魂の行方を尋ねた。夜叉は言った。一時、アダナムの魂は境界の街を徘徊して去ろうとしなかったが、国王の到着した前の日に、閻魔王の下で亡霊を呼び寄せる役割をする小鬼に連れて行かれた、と。
ケサルは、それは一大事と神の馬ギャンガ・ぺルポに跨って後を追った。閻魔殿の前まで追い続けたが、アダナムはすでに地獄に落とされ責めを受けていた。
ケサルは人気のない閻魔殿の前で、大声で叫んだ。
「閻魔王よ、顔を見せよ」
閻魔王は言った。
「あの者が一声叫ぶと、空には虹が現われ、花の雨が降った。大いなる救い主、高い修行を積んだ者に違いない。誰か、早く行って見て来い」
鬼は閻魔殿まで来て声を挙げて尋ねた。
「何者か」
「閻魔王よ、早く出て来られよ。聞きたいことがある」
閻魔王は奥でその声を聞き、ケサルだと分かった。アダナムの亡魂のために来たのだと知り、そのまま時を稼いだ。
ケサルは焦り、雷の矢を放って閻魔王の宝座をひっくり返し、水晶の剣を取り出し、激しく振り回して地獄へと通じる鉄の門を震わせて撃ち破ろうとした。
閻魔王は奥から出て閻魔殿に姿を現した。
「もともとの男前が、怒りで顔が歪んでおるぞ。お前が誰か知らぬが、まだ死期に至っていないのは見れば分かる。来た場所へ帰るがよい」
ケサルは、閻魔王は必ず自分の身分を尋ね、四方に鳴り響くケサルと言う名前を聞いておとなしく従うはずだ、と考えていた。ところが、閻魔王は何も尋ねず、繰り返した。
「帰って長寿を楽しむがよい。もと来た場所へ戻るのだ。さもなくば、もはや生きる気はないとみなすが、よいかな。
お前の面構えからして、人の世で善を為しながらも、かなりの殺戮を重ねて来たに違いない。
決まり通り、地獄に落として苦しんでもらおう」
「そなたに出来るかな。私はこの世から妖魔を消し去るために天から遣わされたのだ」
閻魔王は笑った。
「お前は天の神の子ツイバガワ、リン国のケサル王だな。
一国の王でありながらそのように粗暴なふるまいをするとは。
ケサルよ、お前が為したことは分かっておる。だが、お前も知るべきだ。
閻魔殿の中では、英雄も武力を振るう場所は無く、言葉の巧みな者も語る余地はない。
顔を挙げて良く見よ。上を見れば、天は空であり、誰も降りて来てお前を助けはしない。
前を見れば、無人の道が続くばかりでお前を導く者はいない。
神がワシにこの世を管理させているのだ。ワシは天地開闢の時からここにおるのだ」
「そなたは公平ではない。アダナムは地獄へ落ちるはずはないのだ」
「時すでに遅し。もしお前がアダナムと共に救いを求めに来たなら、救えたかもしれぬ。だが、あの女はすでに地獄へ行くと裁かれた。苦海の中で五百年苦しみぬくまでは、何があっても人の世に生まれることは出来ない」
「頼む、閻魔王よ」
「戻るがいい。五百年後もあの女への想いを忘れていなければ、迎えに来られよ」
ケサルは再び剣を抜くと、閻魔王は大きな袖を振り、ケサルに壊された鉄の門はもとに戻った。
閻魔王は笑った。
「ここに捕らわれた魂は実質が無く形もなく、閻魔殿にあるものは幻影でしかない。この世の武器で破壊は出来ぬ。帰るがよい」
「我がアダナムは確かに地獄で五百年待たなくてはならないのか」
閻魔王は答えず、肩を抱いてケサルを門へと導き、霧の中を更に先まで送った。
ケサルははっきりと見た。閻魔王が治めている地は多くの深い淵からなり、道とは、その深い淵に懸かる危なげな橋だった。
閻魔王は、遠くに太陽の光が見える所まで送って来た。光は巨大な膜の幕ように遥か彼方で揺らいでいた。
閻魔王は言った。
「ここまでだ。ケサルよ、また会うこともあろう」
「私も地獄へ落とすと脅しているのか」
「それはない。お前は神が下界へ遣わしたもの、神は地獄へ落ちることはない。ワシが言おうとしたのは…」
「アダナムを救う方法があると言うことか」
閻魔王は手を振り、秘密を漏らすまいと口をつぐみ、そのまま姿を消した。
深い淵に架かる橋も消えた。ほの暗い深淵と共に。
気付くと、ケサルと神馬ギャンガペルポは明るい光の下にいた。静まり返った黄泉の国から戻ったケサルの耳には日の光が流れて行く音が聞こえた。
草原をしばらく進んだ頃、ケサルは突然ギャンガぺルポに言った。
「あの世は人の世の国とは異なっていた。どこかに実在しているように思えるのだが」
神馬は言った。
「どこにあるのですか」
「あの世でもあり、この世でもあるような場所だ」
「もしそうなら、国王はお妃様を救い出せるのでは」
ケサルは肩を落として言った。
「ただそう思っただけだ」