塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 176 物語:地獄で妻を救う

2016-12-23 03:28:08 | ケサル
      ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304



物語:地獄で妻を救う



 ケサルは北の境界の山頂でアダナムを火葬にし、その後一人籠って済度の法を行い、アダナムの魂を西方浄土へ送ろうとした。
 だが、あまりに広くとらえどころなく、アダナムの魂に関する手がかりを得ることは出来なかった。

 そこで、天上を巡る夜叉を呼び、アダナムの魂の行方を尋ねた。夜叉は言った。一時、アダナムの魂は境界の街を徘徊して去ろうとしなかったが、国王の到着した前の日に、閻魔王の下で亡霊を呼び寄せる役割をする小鬼に連れて行かれた、と。

 ケサルは、それは一大事と神の馬ギャンガ・ぺルポに跨って後を追った。閻魔殿の前まで追い続けたが、アダナムはすでに地獄に落とされ責めを受けていた。

 ケサルは人気のない閻魔殿の前で、大声で叫んだ。
 「閻魔王よ、顔を見せよ」

 閻魔王は言った。
 「あの者が一声叫ぶと、空には虹が現われ、花の雨が降った。大いなる救い主、高い修行を積んだ者に違いない。誰か、早く行って見て来い」

 鬼は閻魔殿まで来て声を挙げて尋ねた。
 「何者か」

 「閻魔王よ、早く出て来られよ。聞きたいことがある」

 閻魔王は奥でその声を聞き、ケサルだと分かった。アダナムの亡魂のために来たのだと知り、そのまま時を稼いだ。
 ケサルは焦り、雷の矢を放って閻魔王の宝座をひっくり返し、水晶の剣を取り出し、激しく振り回して地獄へと通じる鉄の門を震わせて撃ち破ろうとした。

 閻魔王は奥から出て閻魔殿に姿を現した。
 「もともとの男前が、怒りで顔が歪んでおるぞ。お前が誰か知らぬが、まだ死期に至っていないのは見れば分かる。来た場所へ帰るがよい」
 
ケサルは、閻魔王は必ず自分の身分を尋ね、四方に鳴り響くケサルと言う名前を聞いておとなしく従うはずだ、と考えていた。ところが、閻魔王は何も尋ねず、繰り返した。
 「帰って長寿を楽しむがよい。もと来た場所へ戻るのだ。さもなくば、もはや生きる気はないとみなすが、よいかな。
  お前の面構えからして、人の世で善を為しながらも、かなりの殺戮を重ねて来たに違いない。
  決まり通り、地獄に落として苦しんでもらおう」

 「そなたに出来るかな。私はこの世から妖魔を消し去るために天から遣わされたのだ」

 閻魔王は笑った。
 「お前は天の神の子ツイバガワ、リン国のケサル王だな。
  一国の王でありながらそのように粗暴なふるまいをするとは。
  ケサルよ、お前が為したことは分かっておる。だが、お前も知るべきだ。
  閻魔殿の中では、英雄も武力を振るう場所は無く、言葉の巧みな者も語る余地はない。
  顔を挙げて良く見よ。上を見れば、天は空であり、誰も降りて来てお前を助けはしない。
  前を見れば、無人の道が続くばかりでお前を導く者はいない。
  神がワシにこの世を管理させているのだ。ワシは天地開闢の時からここにおるのだ」

 「そなたは公平ではない。アダナムは地獄へ落ちるはずはないのだ」

 「時すでに遅し。もしお前がアダナムと共に救いを求めに来たなら、救えたかもしれぬ。だが、あの女はすでに地獄へ行くと裁かれた。苦海の中で五百年苦しみぬくまでは、何があっても人の世に生まれることは出来ない」

 「頼む、閻魔王よ」

 「戻るがいい。五百年後もあの女への想いを忘れていなければ、迎えに来られよ」

 ケサルは再び剣を抜くと、閻魔王は大きな袖を振り、ケサルに壊された鉄の門はもとに戻った。
 閻魔王は笑った。
 「ここに捕らわれた魂は実質が無く形もなく、閻魔殿にあるものは幻影でしかない。この世の武器で破壊は出来ぬ。帰るがよい」

 「我がアダナムは確かに地獄で五百年待たなくてはならないのか」

 閻魔王は答えず、肩を抱いてケサルを門へと導き、霧の中を更に先まで送った。
 ケサルははっきりと見た。閻魔王が治めている地は多くの深い淵からなり、道とは、その深い淵に懸かる危なげな橋だった。

 閻魔王は、遠くに太陽の光が見える所まで送って来た。光は巨大な膜の幕ように遥か彼方で揺らいでいた。
 閻魔王は言った。
 「ここまでだ。ケサルよ、また会うこともあろう」

 「私も地獄へ落とすと脅しているのか」

 「それはない。お前は神が下界へ遣わしたもの、神は地獄へ落ちることはない。ワシが言おうとしたのは…」

 「アダナムを救う方法があると言うことか」

 閻魔王は手を振り、秘密を漏らすまいと口をつぐみ、そのまま姿を消した。
 深い淵に架かる橋も消えた。ほの暗い深淵と共に。

 気付くと、ケサルと神馬ギャンガペルポは明るい光の下にいた。静まり返った黄泉の国から戻ったケサルの耳には日の光が流れて行く音が聞こえた。

 草原をしばらく進んだ頃、ケサルは突然ギャンガぺルポに言った。
 「あの世は人の世の国とは異なっていた。どこかに実在しているように思えるのだが」

 神馬は言った。
 「どこにあるのですか」

 「あの世でもあり、この世でもあるような場所だ」

 「もしそうなら、国王はお妃様を救い出せるのでは」

 ケサルは肩を落として言った。
 「ただそう思っただけだ」






阿来『ケサル王』 175 語り部:地獄で妻を救う

2016-12-17 01:30:12 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


語り部:地獄で妻を救う その2


 ジグメは眠った。夢の中でもまだ「怖い」と言っていた。

 だが、気にかける者はいなかった。夢の中は空っぽで、誰一人現れなかった。
 神としてのケサルも、国王としてのケサルも現れなかった。

 目覚めると、辺りは静まり返り、松葉が一つまた一つと枝を離れ、地に落ちる音が聞こえた。
 その時、心はすでに落ち着きを取り戻していた。物語を語るのは自分の運命であり、だとしたら恐れることなどないのだ。

 実は、いくつか場所で語り部が追い払われ、非難されたという話を聞いたことがあった。理由はどれも同じで、物語の中のある登場人物の行いや言葉が仏法に反しているいというのである。だがそれは、自分より一世代上の語り部が経験したことだった。

 当時、多くの場所で寺院に禁令が敷かれ、ケサルの物語を入れることは許されなかった。
 もしかして自分が足を踏み入れたのは、かつてのそのような場所なのだろうか。

 ジグメはさらに旅を続けた。
 次の小さな村で、集まって来た十数人の村人に囲まれながらアダナムの物語を語り終えた。

 リン国の女将軍は死後、魂となってあてどなく彷徨い、七七四十九日の後、地獄の鬼によって閻魔王の前に連れて行かれた。

 閻魔王は驚き、言った。
 「お前は普通の女ではないな。首から上は少女のようだが、首から下は勇者のようだ。口は穢れて生臭い息を吐き、手は穢れて血の跡はまだ乾いておらぬ。上体は黒雲で覆われ、下半身には黒い霧がとぐろを巻いておる」

 アダナムは不思議に思った。
 肉体を離れてから、自分が存在しているのは感じられるが、具体的な存在として見たり感じたりしたことはなかったのである。

 閻魔王は大声をあげた。
 「お前はワシの眼光を疑うのか。お前は誰だ、さあ、名を名乗れ」

 「アダナム、リン国の妃、境界を守る大将だ」

 閻魔王は声を立てて笑った。
 「そうか、お前だったのか。お前は人間界でまだ十分な善を為しておらず、故に、死んだ後本来の魔物の姿を現したのであろう」

 「妖魔を倒すことは善ではないのか」

 「道を開いてこそ功があったといえるのだ」

 「辺境を守り、民を守ることは善ではないのか」

 「お前が為したのはすべて殺戮である。なぜ生ある時に仏法を聞き、尊師を奉らなかったのか」

 この時、アダナムの右肩に親指大の白い小人が現われ口を開いた。
 「強い力を持つ閻魔王よ、善悪を分ける法王よ。我はこの女の同来神。この女の行状をよく知っている。この女はリン国の女英雄、肉食空行の化身、ケサル神王の妃である。幾度となく大きな善を為した。極楽世界へ導きたまえ」

 白い小人が話し終ると、アダナムの左肩に黒い小人が現われた。
 「我もこの女の同来神。その行いをよく知っている。この女は九頭妖魔の末裔で、三歳にして殺生の心を持ち、あまたの禽獣を屠り、位の高い長官を殺め、馬上の英雄を殺め、髪の長い女性を殺めて来た。このような魔女が得度など出来ようか。地獄に落とし罪の報いを受けさせたまえ」

 閻魔王は双方の話を聞き、すぐには決断しかね、鬼に善悪を秤にかけさせた。
 秤を手にした鬼はアダナムに近づくと、その耳元で、貢物は無いか、と囁いた。アダナムは、自分は肉体を失い魂となって漂っている、貢物を持ち歩くことなど出来ようか、と答えた。

 そこで、鬼は十八回秤にかけ、閻魔王に報告した。
「この女は悪行が善行にまさっております」

 閻魔王は言った。
 「リン国で善を行ったとはいえ、魔物であった時の罪は重い。リン国に帰順し正道に入ったとはいえ、仏法を重んじず、尊師を軽蔑した。地獄へ落とすしかあるまい。五百年苦しみに耐えた後行くべき場所を決めることとする」

 こうして、アダナムの魂は地獄へと落とされた。







阿来『ケサル王』 174 語り部:地獄で妻を救う

2016-12-10 11:20:26 | ケサル
     ★ 物語の第一回は 阿来『ケサル王』① 縁起-1 です  http://blog.goo.ne.jp/aba-tabi/m/201304


語り部:地獄で妻を救う



 長い語りの後、土の上で胡坐をかいていた語り部は立ち上がり、胸の前で翻っている語り部の帽子の五色の布を後ろへ振り払い、声を伸ばして歌い始めた。

  髪を彩る金と銀の飾り物
  それは、空に瞬く群星のよう
  国王の御手に届けましょう

  サンゴとメノウの首飾り
  あざやかな草原の花のよう
  国王の御手に届けましょう

  身を包むあでやかな絹の衣
  まるで、天にかかった虹のよう
  国王の御手に届けましょう

  頭上の白い兜
  魔国の火によって鍛えたもの
  国王の御手に捧げます

  身を守る白い甲冑
  アダナムが自ら縫い上げたもの
  国王の御手に捧げます

  腰の矢入れの三本の金の矢
  国王からの賜りもの
  国王の御手に捧げます

  アダナムは魔国に生まれ
  後に国王に仕えた者
  死に臨みお別れは出来ずとも
  リン国の長き栄えを祈りましょう


 このくだりを切々と語るとり、聴衆の間からすすり泣く声が漏れて来た。

 その時、一人の若いラマが立ちあがり、大声で語りを中断した。
 語りの中で尊師と仏法を非難している、とジグメを責めた。
 「仏法の加護を拒絶出来る者などいるはずがない」

 一旦物語から離れると、ジグメは途端に気弱な人物に戻る。

 容赦ない攻撃はまだ続いていた。
 「なぜこの魔女の口を借りて人々を済度される尊師を攻撃するのだ」

 「オレはただ物語を語っただけで…分かるだろう…オレはただの仲肯で…」

 ジグメが言い終わるのを待たず、片腕を顕にしたラマは両手を打ち合わせ、よく通る声で言った。
 「尊師を攻撃し、仏法を敬わないとは。まさに妖魔そのものだ」

 たった今まで物語の世界に浸っていた人々も、この時現実に引き戻され、仏法と尊師を敬わない者に対して囃したて始めた。
 ジグメにとって、これはかつてない経験だった。仲肯が聴衆に追い払われようとしている。

 ジグメは立ち上がり言い訳しようとした。
 「みんな、分かってくれ、オレはただ伝えてるだけで…」
 ラマが再び強く手を打ち鳴らしたので、ジグメは衣装を纏めて一人その場を去るしかなかった。

 ジグメは怖かった。あれほど多くの人々から残忍で愛想尽かしの表情をされれば、怖くないはずがない。
 歩きながらもまだ全身が震えていた。だが、怖がってはならないと心に決めた。

 これは神から授かった物語であり、神が自分に語らせているのである。ならば、怖がることはない。
 あの場所に戻って物語を語り終えるべきだろうか――物語を完成させるのが語り部の使命なのだから。

 だが、ただそこまでの勇気はなく、やはり背を向けて歩き始めた。そのまま速足で歩き続け、その場から遠ざかった。自分がまだ怖がっているが分かった。これほどに怖がっている自分を憎んだ。

 疲れ果てるまで歩き、大きな松の木の下で足を止め、太い幹にもたれかかって息を整えた。