塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

『大地の階段』 後記 その3

2013-02-21 23:34:57 | 大地的階梯


 少し些細なこと付け加えたい。
 細心な読者は、ここまで辛抱強く読んでいただけたら、一つの矛盾を見つけられたことだろう。それは、この本の中に、小さい頃から原因不明の手の震えのため、写真が撮れないと書いたことだ。

 これは確かにその通りで、このような文章を書く時はいつも、写真を撮って文と一緒に並べたいと思っていた。多くの場合、図を見た時の直感がわずらわしい文章を省くことが出来るのではないかと思っていた。
 だが、訳の分からない手の不具合のためこれは実現できなかった。

 その頃、写真好きの友人たちと一緒に高原の壮麗な風景を目の前にした時、彼らがパシャパシャとシャッターを切る間、私は筆で何行かの文字を紙の上に記した。

 もしかして、人は強い願望を心に持ち続けていると、ある日神から幸運を賜るのかもしれない。
 ここ数年、中年になり、体はゆっくりと人並みの故障を起すようになったが、原因不明の手の不具合いはゆっくりと良くなり、少なくとも以前よりは軽くなった。

 こうして、昨年、青蔵線全行程を行く旅の途中でカメラを手にし、ついに自分の思うような写真を撮ることが出来た。
 そのため、友人からこの本を再販するよう促された時、写真を、しかも自分が撮った写真を追加するよう提案した。
 6月、高原に春が訪れ花開く時、私は再び車でこの本の中の行程を一巡りした。だが、自分が思うような写真は撮れなかった。

 原因は二つある。
 一、毎日雨が降って光が良くなかった。
 二、これがより大きな原因だが、カメラと技術のせいで出来上がりが理想にまで至らなかった。

 結果は二つある。
 一、高原から下りて来てすぐ優秀なカメラマンに電話して、彼を参謀に新しいカメラを買いに行った。
 ニ、マルカムでかつて一緒に大渡河へ行ったカメラマン・楊文建を訪ね、彼の長年蓄積したファイルを開き、彼の許可を得てこの本に使った。これは特別にここに記して感謝を表さなくてはならない。
                                         ( 終 )


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 これを読んで私もやっと納得できた。
 最近の阿来の写真はあまりにも素晴らしい。花好きの阿来は、主に高原の植物を撮る。一つ一つの花に迫り、時には土に腹ばいになって。成都の街の植物を撮る。まとめて一冊の本にもしている。『草木的理想国』

 微博でも花の話題が多く、美しい写真を載せている。
 http://suishobo.cocolog-nifty.com/oninokurigoto/07_/index.html
 http://t.qq.com/laishu

 阿来は名詞としてのチベットを描くという。だが描き出されたものは形容詞を越えて美しい。
 この後記に紹介されている文章の美しさはどこから来るのだろう。
 阿来は80年代の“文化熱”を経験しているので、多くの国外の作家の作品触れ、その影響は大きいはずだ。だが、この文章の持つ透明感は、なんと言っても彼独自のものであり、チベットの外にある私たちの抱く“形容詞としてのチベット”でもあると言わざるを得ない。阿来の否定しようのない真実の姿であり、それは、この地の暮らしの中から生まれ、この地に伝わる詩から知らず知らずに学んできたものだろう。

 そこに何が隠されているのか。

 チベットに生まれた大きな詩が『ケサル大王伝』だ。世界最長といわれる英雄叙事詩について考えてみたい。




















『大地の階段』 後記 その2

2013-02-05 00:55:32 | 大地的階梯
『大地の階段』 後記 


                  二
               
 以上に述べたいくつかの想いから、チベットで生活していないチベット人として、私はこの本の中でアバ地区の地理と歴史を述べたいと考えた。なぜなら、この地域はチベットに関して書かれたものの外にあるからだ。

 チベット高原の東北の角にあるこの地区は、常に重要視されなかった。アバはチベット全体の一部分として、これまですべてのチベットの中でおろそかにされてきた。特に私の故郷ギャロンと呼ばれる部族が暮す場所の歴史と地理は、なおざりにされてきた。
 地理的に漢の地と近いため、より大きな原因は、この部族が長い間中原の文化と統治に親近感を持っていたことにある。だが、親近感のためにおろそかにされてきたということは、大きな不公平である。

 この本、そして『塵埃落定』の出版は、チベット族という大家庭の中に特殊な文化を持った集団が存在することを初めて世界に知らせること
が出来た。ギャロン人の一人として、一族の息子として、大きな誇りを感じている。
 私は血統的には純粋なギャロン人ではなく、正統を保とうとする同胞の目の中から見れば異端である。だが、このような排除的、拒絶的な目線も私のこの大地に対する心からの想いを消すことは出来なかった。この部族への同族意識とこの土地すべてに対する愛を消せなかった。

 ギャロンの大地とは、私が成長した場所であり、繰り返し歩いた場所であり、魂が常に彷徨った場所である。
 この本を書き始めた頃、何を書いたらいいのかまるで分からなかった。だが、表面的にチベットを描いた本にあるような空虚なものは捨て去って、ただの冒険記、自然ばかりに目を奪われた文章、文明人が野蛮人を哀れむような文章は書くまいと心に決めた。

 私が書きたいのは、私が思いを馳せるロマンにあふれる過去と、今現在起こっている変化である。
 特に、この土地の民族が今起こっている変化から何を得て何を失ったかについて、もし、純粋に芸術的なものを望むのでなければ、このことについては大体のことは出来たと考えている。

 最後には、私はこの遍歴の中で、自分の民族と雄大な大自然の中に融合していった。私は堅く信じている。次の長編を創作する中で、このような融合の意義が更に芸術的な方法で示されるだろう。

 ここ数年、以前にも増してこの広い群山と草原に戻って来るようになった。
 大きな原因は生態の好転である。天然林の伐採が禁止になってから、自然界の強靭な修復能力によって、大部分の山野は再び緑を纏い生命力に満ち溢れるようになった。

 日々生い茂っていく林は、雲と渓流を生み出す。この世界では人間性の弱さはどこも同じようなものだろう。だから私はこれまで生まれ成長した地を天国のようには描かなかった。だが、他の満身創痍の地とは異なる美しい風景は、それを熱愛し讃えるに値するものだ。

 私の故郷には、一つの迷信がある。
 一年で最初にカッコウのゆったりした鳴き声を聞いた時、どこでどうしていたか。その状態が一年中ずっと続くというのである。
 私は二年続けて、川西北高原の美しい風景の中を歩いている時、緑の林の奥から伝わって来るカッコウのその春初めての鳴き声を聞いた。こうして、カッコウの鳴き声は私に就いて谷間の村と高山の牧場を歩き回った。

 低い所から高い所へ、雄大な春の風景が次第に広がって行き、その行く道に美しい花が次々と開き、風を受けて揺れる。思いがけなく訪れる明るい雨足が、私が立っている山の頂に降り注ぎ、だが、峡谷の向かい側の山の峰は、太陽を浴びてキラキラ輝いている。
 その時、またカッコウの長い鳴き声が聞こえた。私の心は雨が去った後の日に輝く山の峰と同じように明るくなる。

 今、ほとんどの高原で鮮やかに花が開く季節、私はカメラを持って野の花と一時を過ごす。自然が美しさを増していく時、何よりの幸せは自然の母にしっかりと抱かれることである。そのため、繰り返しを厭わず私が思いのままに書いた散文を引用してみよう。



 暖かい寝袋に包まれて、山の上の湖の淵の草原で、雨がテントに落ちるサラサラという音を聞いていた。
 黄昏が山に降りようとしていた。
 雨は湖に降り注ぐ。
 雨はまた、湖畔のサクラソウ、イチハツ、垂頭菊、シオガマ、ユーカランのものである広い草地、ツツジ、金露梅がすでに咲いている草地を濡らす。
 もう一度それら花たちの姿を見たいと思ったが、夜がすでにあたりを覆っていた。花たちは夜の闇にまぎれてしまった。
 ただ湖だけが天の光を映し、かすかすかに波打っている。
 諦めて目を閉じる。
 雨音の中、花々の形は解けてゆき、ただ鮮やかな色が湖に映る雪山のように、ほの暗さに具体的な形を失い、生き生きと浮かび上がってくる。
 デルフィニウムとイチハツの青、ユーカランとシオガマの赤、垂頭菊とサクラソウの黄色。
 雨は止んだ。あたりの野一面に、花たちの親密な音がさわさわと響いている。
 星はまだ光り始めない。
 さあ寝よう。
 この時の情景から私は信じたのだ。星が瞬き始める時、鐘の音のように私を目覚めさせてくれるだろうと。
 夜半、突然の星のチリンチリンという音を聞いた。
 目を覚ますと、空には本当にまばらな星が現れていた。
 この時、耳元で突然またチリンという音を聞いた。
 空を見ると、星は静かに空に懸かっている。
 ではこの音は微かな夜風が花びらの上の露を揺らせた音だ。
 では、朝私を起こしてくれるのは日の光とそれに連れて現れるカッコウであるだろう。



(続く)












『大地の階段』 後記 その1

2013-01-18 03:11:48 | 大地的階梯



阿来の『大地の階段』は、雲南人民出版の企画した「走進西蔵」の中の一冊で、2000年に出版されました。扎西達娃、阿来、範穏、曾哲、彭見明、江浩、龍冬の7人の作家が選ばれて参加しています。
2008年南海出版公司からも出版されました。こちらは写真も豊富で、後記がついています。興味深い文章なので、ご紹介します。






阿来『大地の階段』後記  その1    


 これまで私が出した数少ない本の中で、これは唯一企画が先にあった本である。当時これはかなり新しいやり方だった。

 1999年、ある出版社が数人の作家を選び、異なったルートで「チベットへ」入り、それぞれが一冊の本にするという企画を立てた。押しなべて企画に沿った行動には慌しさが付きものだが、今回のプロジェクトもそこから逃れることは出来なかった。数人の作家が異なる方向からチベットに向い、それを本にするという計画は、現在の企画性の強いすべてのプロジェクトにありがちな、特別な色彩を持っていた。特に、他の数冊の本と、この本と同時期に出版された本を並べて見た時、その特徴は更に明らかだった。

 今回のプロジェクトの中で、私に与えられたのは四川―西蔵のルートだった。これはどうしても受け入れなくてはならなかった。まだこのルートを完全に走破していなかったのだ。今回のプロジェクトのためにラサで行われた壮行の式典には飛行機で飛んで行った。
私は旅の重点を故郷四川省チベット族自治州アバのギャロンに決めた。本の重点も当然そこに置いた。実はこれは、長いこと企んでいた事だった。

 北京のチベット学センターで「走進西蔵必勝会」が行われ、決死の覚悟でいくつもの危険を乗り越えてもチベットに着くことはできないかもしれないとい雰囲気が、悲壮な色彩強めいていた時、二人のチベット人、私とザシダワは暗黙の了解で、目を見合わせて苦笑いした。つまり、今回私は、主催者の意図のままにチベットを目指すのではない、とその場で決心したのだった。
 
 雰囲気に煽られ感動している記者、感動の表情を期待しているカメラを目の前にして、私は冷静に言った
 「もし、今回チベットへ行くことが、仲間にとっては探検であり発見であるとしたら、私にとってそれはいつもの旅の一つであり、発見ではなく過去を振り返る旅である。それは個人的な記憶であり、そしてチベット族の一つ、ギャロンと呼ばれる部族の集団の記憶でもある」

 これはテレビの記者に語った言葉である。私の言葉は彼女を失望させたにちがいない。どうしたらこんなに冷静にチベットを語れるのだろうか、と。理由は簡単だ。

 中国には二つの概念のチベットがある。一つはチベットに暮す人たちのチベット。質朴で、力強く、同時に、人間の悲しみ喜びに満ちている。それは受け入れなければならない現実であり、日々目を覚まし扉を開ければすぐそこにあるチベットである。もう一つはチベットから遥か離れた場所にいる人たちのチベットである。神秘的で、遥か彼方にあり、清らかな雪山そのものよりも更に形而上的な意味を持つもの。そしてもちろん、ロマンチック―この言葉は、中国人にとって最もたくさんの解釈が出来る言葉だが。私のチベットは前者のチベットであり、後者のチベットではない。

 次に別のメディアが取材に来た時、私はすぐさま「チベットは一つの形容詞である」という文章を書いた。それほど長くないので、全文をここに引用するのを許していただきたい。

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「チベットは一つの形容詞である」


 一冊のチベットに関する新しい本を持って、あちこち走り回っていた時、多くの人々と出会った。チベットと接したことのある多くの人、またはこれから接しようとしている多くの人が、たくさんの問いを投げかけてきた。私も常に、より深い交流をしようと心がけた。その時気付いたのは、問を発する人はすでにチベットに対する固定観念を持っているということだった。

 遥かな地、異国的、神秘的。最も多かったのは当然「神秘的」だった。つまり、チベットは多くの人にとって、一つの形容詞であり、具体的な中身を持った名詞ではないのである。

 少し前、昆明のテレビ局の授賞パーティーの会場で、司会者が受賞暦のある作者としての私と少し話をしたいと言って来た。私の作品のチベット的な世界が、彼女の知識の範囲を超えた交流に根拠のない自信を抱かせていた。彼女は尋ねた。
 「阿来先生、あなたはどのようにチベットの神秘を表現し、その神秘で人々を魅了したのですか」

 私の答えは簡単だった。
 「私のチベットには神秘的なものなどなく、だから特別神秘的に表現する必要もなかった」更にはっきりと言った「私は作品の中でこのような神秘をほぐそうと努めている」

 このような真面目な答えには相手を困らせる作用があるようだ。少なくともその日、それ以上話題は弾まなかった。形容詞には多くの主観的な意味を盛り込むことが出来る。だが名詞はそうはいかない。名詞とはそれ自身なのだから。

 だが、より多くの時、チベットは形容詞化された存在である。チベットに行ったことのない人にとって、チベットは一つの神秘である。では、チベットに行ったことのある人にとって、チベットが相変わらず神秘的で日常と異なった存在なのは何故だろう。神山や聖なる湖にも行き、有名な、またはそうでない寺にも行き、旅が終われば住処とする街に戻り、写真を眺める。その時、多くの困難や危険、自然が与えてくれた言葉に出来ない心の高まりを思い出すと同時に、自分がまるでチベットの中に入っていなかったことに気付くだろう。

 なぜならチベットに入って行くには、まずチベットの人々の中に、チベットの日常生活に入っていかなくてはならないからだ。だが、優越感たっぷりの好奇の目で周りを見回していては、絶対にチベットには入って行かれない。優位にある文化が自分のやり方そのままに弱い文化を突破しようとする時、彼らは本当の交わりをしようとせず、殻を閉じて言うだろう、「だめ」と。
 
 このような状況は中原の文化とチベットとの間に留まらない。更に広く、西方と東方との間にも当てはまる現象だ。外国人は金も時間もあり、来ては去り、去ってはまた来る。だが、彼らにとって中国はやはり神秘に満ちている。理由は簡単だ。

 彼らはただ中国の様々な場所に行っただけで、膨大な見知らぬ中国の群衆の中に入ったことはなく、ただ舌足らずに「ありがとう」と「こんにちは」の二つの挨拶を学んだだけで、永遠に門の外に締め出されたままなのである。ここ数年、国外に身を置き中国との関係によって暮らしを立てている、いわゆる漢学者たちと会ったことがあるが、却って彼らの中に中国の神秘が感じられた。

 だから、私はよりはっきりと、感性によってチベット(自分の故郷)、そして、チベットの人々(私の同胞)の中に入り、そうしてから、真実のチベットの姿を描き出そうと心に決めた。『大地の階段』はこのような努力の一つの成果である。

 なぜなら、小説の方式では、結局のところ文学的、虚構的に過ぎ、そうであるなら、私の二本の足と心の深いところで故郷の大地を見る時に私の前に現れるものこそ、真実のチベット、概念化されていないチベットであり、そうであるなら、こうして私が描き出すものは、確かなチベットであり、形容詞化された神秘的なチベットにはならないはずだから。当然、もし私が、自分の書く何冊かの本によってこの神秘を解き放すことが出来ると考えたら、それもまた妄想だろう。

 根本的な原因は、多くの人が文化人類学者の役を演じようとはしないことである。
 人々が様々に工夫を凝らして入って行くのは形容詞である。なぜなら日常の世界では、ほとんどの時、たくさんの名詞の中で生活していて、そこには詩的なものが欠けているからだ。そこで、チベットという巨大な形容詞の中に入り、詩という酸素の充満した袋を手にいれて、貪欲に呼吸せずにはいられないのである。

 ラサの八廓街のあるバーで、午後の半日すべてを使って、旅行者たちの残したメッセージを読みながら、私は更に深くそのこと感じ取った。


(つづく)