三
少し些細なこと付け加えたい。
細心な読者は、ここまで辛抱強く読んでいただけたら、一つの矛盾を見つけられたことだろう。それは、この本の中に、小さい頃から原因不明の手の震えのため、写真が撮れないと書いたことだ。
これは確かにその通りで、このような文章を書く時はいつも、写真を撮って文と一緒に並べたいと思っていた。多くの場合、図を見た時の直感がわずらわしい文章を省くことが出来るのではないかと思っていた。
だが、訳の分からない手の不具合のためこれは実現できなかった。
その頃、写真好きの友人たちと一緒に高原の壮麗な風景を目の前にした時、彼らがパシャパシャとシャッターを切る間、私は筆で何行かの文字を紙の上に記した。
もしかして、人は強い願望を心に持ち続けていると、ある日神から幸運を賜るのかもしれない。
ここ数年、中年になり、体はゆっくりと人並みの故障を起すようになったが、原因不明の手の不具合いはゆっくりと良くなり、少なくとも以前よりは軽くなった。
こうして、昨年、青蔵線全行程を行く旅の途中でカメラを手にし、ついに自分の思うような写真を撮ることが出来た。
そのため、友人からこの本を再販するよう促された時、写真を、しかも自分が撮った写真を追加するよう提案した。
6月、高原に春が訪れ花開く時、私は再び車でこの本の中の行程を一巡りした。だが、自分が思うような写真は撮れなかった。
原因は二つある。
一、毎日雨が降って光が良くなかった。
二、これがより大きな原因だが、カメラと技術のせいで出来上がりが理想にまで至らなかった。
結果は二つある。
一、高原から下りて来てすぐ優秀なカメラマンに電話して、彼を参謀に新しいカメラを買いに行った。
ニ、マルカムでかつて一緒に大渡河へ行ったカメラマン・楊文建を訪ね、彼の長年蓄積したファイルを開き、彼の許可を得てこの本に使った。これは特別にここに記して感謝を表さなくてはならない。
( 終 )
***************************
これを読んで私もやっと納得できた。
最近の阿来の写真はあまりにも素晴らしい。花好きの阿来は、主に高原の植物を撮る。一つ一つの花に迫り、時には土に腹ばいになって。成都の街の植物を撮る。まとめて一冊の本にもしている。『草木的理想国』
微博でも花の話題が多く、美しい写真を載せている。
http://suishobo.cocolog-nifty.com/oninokurigoto/07_/index.html
http://t.qq.com/laishu
阿来は名詞としてのチベットを描くという。だが描き出されたものは形容詞を越えて美しい。
この後記に紹介されている文章の美しさはどこから来るのだろう。
阿来は80年代の“文化熱”を経験しているので、多くの国外の作家の作品触れ、その影響は大きいはずだ。だが、この文章の持つ透明感は、なんと言っても彼独自のものであり、チベットの外にある私たちの抱く“形容詞としてのチベット”でもあると言わざるを得ない。阿来の否定しようのない真実の姿であり、それは、この地の暮らしの中から生まれ、この地に伝わる詩から知らず知らずに学んできたものだろう。
そこに何が隠されているのか。
チベットに生まれた大きな詩が『ケサル大王伝』だ。世界最長といわれる英雄叙事詩について考えてみたい。
少し些細なこと付け加えたい。
細心な読者は、ここまで辛抱強く読んでいただけたら、一つの矛盾を見つけられたことだろう。それは、この本の中に、小さい頃から原因不明の手の震えのため、写真が撮れないと書いたことだ。
これは確かにその通りで、このような文章を書く時はいつも、写真を撮って文と一緒に並べたいと思っていた。多くの場合、図を見た時の直感がわずらわしい文章を省くことが出来るのではないかと思っていた。
だが、訳の分からない手の不具合のためこれは実現できなかった。
その頃、写真好きの友人たちと一緒に高原の壮麗な風景を目の前にした時、彼らがパシャパシャとシャッターを切る間、私は筆で何行かの文字を紙の上に記した。
もしかして、人は強い願望を心に持ち続けていると、ある日神から幸運を賜るのかもしれない。
ここ数年、中年になり、体はゆっくりと人並みの故障を起すようになったが、原因不明の手の不具合いはゆっくりと良くなり、少なくとも以前よりは軽くなった。
こうして、昨年、青蔵線全行程を行く旅の途中でカメラを手にし、ついに自分の思うような写真を撮ることが出来た。
そのため、友人からこの本を再販するよう促された時、写真を、しかも自分が撮った写真を追加するよう提案した。
6月、高原に春が訪れ花開く時、私は再び車でこの本の中の行程を一巡りした。だが、自分が思うような写真は撮れなかった。
原因は二つある。
一、毎日雨が降って光が良くなかった。
二、これがより大きな原因だが、カメラと技術のせいで出来上がりが理想にまで至らなかった。
結果は二つある。
一、高原から下りて来てすぐ優秀なカメラマンに電話して、彼を参謀に新しいカメラを買いに行った。
ニ、マルカムでかつて一緒に大渡河へ行ったカメラマン・楊文建を訪ね、彼の長年蓄積したファイルを開き、彼の許可を得てこの本に使った。これは特別にここに記して感謝を表さなくてはならない。
( 終 )
***************************
これを読んで私もやっと納得できた。
最近の阿来の写真はあまりにも素晴らしい。花好きの阿来は、主に高原の植物を撮る。一つ一つの花に迫り、時には土に腹ばいになって。成都の街の植物を撮る。まとめて一冊の本にもしている。『草木的理想国』
微博でも花の話題が多く、美しい写真を載せている。
http://suishobo.cocolog-nifty.com/oninokurigoto/07_/index.html
http://t.qq.com/laishu
阿来は名詞としてのチベットを描くという。だが描き出されたものは形容詞を越えて美しい。
この後記に紹介されている文章の美しさはどこから来るのだろう。
阿来は80年代の“文化熱”を経験しているので、多くの国外の作家の作品触れ、その影響は大きいはずだ。だが、この文章の持つ透明感は、なんと言っても彼独自のものであり、チベットの外にある私たちの抱く“形容詞としてのチベット”でもあると言わざるを得ない。阿来の否定しようのない真実の姿であり、それは、この地の暮らしの中から生まれ、この地に伝わる詩から知らず知らずに学んできたものだろう。
そこに何が隠されているのか。
チベットに生まれた大きな詩が『ケサル大王伝』だ。世界最長といわれる英雄叙事詩について考えてみたい。