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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』㉙物語 茶 

2013-12-15 20:34:51 | ケサル
物語:茶 その1





 こうして一路進んで行くと、草原を流れる黄河が大きくうねり、河幅を広げている場所に着いた。
 空漠とした場所には、わずかな草も生えず、ただ黄河の河辺に葦が生い茂り、馬が通り抜けて行くと、力に満ちた肩と俊敏そうな耳が見えるだけだった。

 ジョルは母に言った。
 ここが私たちが新しい家を建てるべき場所です。
 母メドナズが、ここには名前がない、と言うと山の神が雷を鳴り響かせてこの場所の名前を告げた。

 もとはここには多くの民がいて、ユロングラソンドといった。その後、妖魔が数え切れないほどのネズミを放った。
 ネズミたちは地底を走り回り、地下を縦横に繋ぐ道は細かい網の目のようだった。
 牧草の根が伸びて行き探し当てたのは、真っ暗な空洞ばかり、水と養分を含んだ肥沃な土ではなかった。ネズミたちは地下で絶えず歯をガチガチと動かし植物と大地のつながりを断ち切っていった。

 その秋、残った草たちは全員一致で、来年はもう生えるのをやめようと決心した。

 草たちは必死で実らせた種を風に託し、自分たちの中の最後の意志と希望を乗せて、どこか遠くの穏やかな場所で、地に落ち根を生やし、そこで育てと願った。

 秋の風は種の願いに応え、おにうしのけ草、のびる、にがな、野ゆりの種を遠くまで運んだ。
 風はまた、ある日、機縁に適った時に、これらの種を乗せて再び戻って来ると約束した。

 草が遠くへ行ってしまった後、人々もその後を追って移って行った。

 ジョルと母がこの地へ来た時、ネズミたちは既に一つの国を興していた。二人の王と、百近い大臣。
 ジョルはこのネズミの魔物の王国を滅ぼす決意をした。
 
 母メドナズは心を痛めた。
 「この地には私たち二人だけ。リンの人々はもう、お前が生き物を殺すのを責めることはないでしょう。
  それでも、息子よ、天の神様はすべてを見ていらっしゃるのです」

 ジョルは天を見上げ思った。
 神がすべてを見ることが出来るなら、リンの人々は自分をこのように不公平には扱わず、龍の娘である母メドナズがただ自分の母と言うだけでこのような辛い思いをすることもなかっただろう。

 ジョルは言った。
 「母さん、私は追放の辛さを味わったのです。
  だから、ねずみに追放された人たちに戻って来てもらわなくてはなりません」

 言い終わらないうちに、ジョルは一羽の鷹に変身して青い空へと飛んで行き、大きな翼を広げて空を旋回した。

 ここはもともと美しい場所だった。
 土地は肥え、谷は開け、豊かな水を湛えた大河がここで大きく美しい弧を描いている。周りに高く聳える山々の峰からはいくつもの山裾がこの盆地に向かって集まっていた。

 パドマサンバヴァが言ったように、こここそがリンが一つの国として起こっていくべき地だった。

 鷹が空に昇るやいなや、ネズミ国は大慌てとなった。
 国王は大臣と策士たちを呼んで対策を協議した。策士は、あの鷹はリンから追放されたジョルの化身だ、と探り当て、言った。
 「あの法力を持った者は多くの生き物を殺したため、ここに追放されて来たのです…」

 国王は煩わしげに、
 「わしはあの者の素性を聞いておるのではない。ただ、このネズミ国はどうしたらこの災難を避けられるかを聞いておるのだ」

 「答えはあの者の素性の中にあります。どうぞ、四方八方に広がっていったネズミたちを呼び集めてください。地下の宮殿の周りの山いっぱいに並べさせるのです。その数は百や千ではなく、千の万培、万の万培なくてはなりません。このようにたくさんのネズミを殺すことは、殺生によって追放された者にはもはや出来ないでしょう」

 鷹は空の上ですべてを知り、翼をたたんで地に降り、大きな体の武士に変身した。
 軽く足を踏み鳴らすと、岩で出来た山が近づいて来て、ドーンと言う音と共に鼠の国の宮殿の上に落ち、ネズミの王と大臣や武将たちは粉みじんになった。ネズミ国の領土のネズミたちはすべて腹が敗れ、地下で命を落とした。

 ネズミの害はこうして収まった。

 風は、遠くに行った草の種を連れ戻した。
 草だけでなく、つつじの花の種、高く聳える柏の木と椛の木の種、雪線の上まで咲く青い花びらの幻想的なまんねんろうの種を連れて来た。

 わずか一晩で、それらの種は細かい雨の後、芽を伸ばした。
 三日目、テントの風よけの囲いがまだ積みあげられないうちに、生命力を取り戻した草原は再び鮮やかな花々に覆われた。
 遠くへ離れたが、まだそこで根を下ろしていなかった人々が、また牛や羊を追って次々とあらゆる方向から帰って来た。

 人々は心の中でジョルを自分たちの王とした。
 ジョルは彼らが心の中で思うのはともかく、口に出して王と讃えるのは許さなかった。
 また、自分に対して礼をするのも許さなかった。

 「私は王ではない、ただ、天が人々に与えられた恩恵である」

 ジョルは、自分の口ぶりがまるで王のようだと思った。








阿来『ケサル王』㉘物語 放擲 

2013-12-08 23:59:52 | ケサル
物語 放擲  その5




 そこで、タンマは、ジョルが怒りで荒れ狂っている姿を目の当たりにした。先ほど、妖魔と激しい戦いをしたために、母がもう父の砦に戻ることは出来なくなったと知ったためだった。

 ジョルの怒りの中から生み出されたものに、正直なタンマは嫌悪感を抱くばかりだった。
 ジョルは人間の皮をなめしたテントに住み、グニャグニャと曲がりくねった腸を引き伸ばしてテントの支えとしていた。骨は刻まれてテントの壁になり、壁の外には更に多くの白骨が山のように積み上げられていた。
 それは身の毛のよだつ光景だった。

 だがタンマは神の子を信じて疑わなかった。そこで、たとえリンの全ての人を殺してもこれほど多くの死体があるはずはなく、だとすれば、これらの物はすべてジョルの幼ない幻術が生み出したのだと思い到った。

 タンマがそう思った途端、これらの気味悪いものはすべて消え去った。

 タンマは帽子を脱ぎ、テントに入って行った。
 中には一本の花もないのに、馥郁たる香りが漂い、入るやいなや気持ちが清められていった。
 ジョルは言葉を口にせず、微笑みを浮かべて母親に客人に新鮮なヨーグルトを持ってくるよう促した。

 タンマは即座に天の意を理解し、席を立つと神の子の前にひざまずき、永遠に王の先駆けとなることを誓い、臣としての礼を捧げた。
 こうして、タンマはケサル王の第一の臣下となった。それはジョルがリンの国王になる何年も前のことだった。

 ジョルは言った。
 「愚かな民がついに悟るその時、彼らのその先の悟りを更に堅固なものとするために、彼らが今私にしたことを何倍も後悔するようにしなくてはならない」

 ジョルは手招きしてタンマを自分の近くに呼び、小さな声でどのようにすべきかタンマに申し渡した。

 タンマは命を受けて老総督の砦に戻り、ジョルの言いつけそのままに報告した。
 「あの子はまさに羅刹そのものです。自分はただ大声で老総督のご主旨を伝えただけで、テントの前まで近づくことは出来ませんでした」

 トトンは自分のの兵に、武力で追い出すよう言いつけた。

 老総督は言った。
 「兵を使うことはない。百名の女たちに竈の灰を一握り持たせ、呪いの言葉と共に撒かせればよい。それで、あの子は追放の地へ向かって行くしかなくなるのだ」

 ギャツァは、これは悪意に満ちた呪いであると知っていた。そこで前に進み出て、願った。
 「ジョルは私たちの後裔です。そしてまた、龍族の孫です。やはり百の炒った粉で懲罰いたしましょう」

 ジョル親子はすでに支度を整え、人々の前に現れた。

 ジョルは、母が縫っている途中でこれ以上ないほど醜く変わった皮の上着を纏い、風よけ帽に生えた角がその醜さを一層際立たせていた。
 ジョルは常と変わらぬ様子で杖に乗り、美しいジュクモの気を引こうと笑いかけた。ジュクモが手を上げると、灰色の炒めた粉が彼の顔中にかかった。

 ジョルの醜さと比べ、母メドナズはあまりに美しかった。
 竜宮の宝玉を身に着け、美しい身のこなしと顔つきが鮮やかに映え合い、すべての娘たちを恥じ入らせた。
 雪のように白い馬の背に姿勢を正し、山から姿を現わしたばかりの太陽の様に輝いていた。

 人々は初めて彼女の美しさに気づいたかのように、心から讃嘆の声を挙げずにはいられなかった。
 彼女の美しさは憐憫の心を呼び覚まし、人々はとめどなく熱い涙をあふれさせ、言った。

 「広いリンはこの親子を入れられなかったのか。なんと可哀想な」
 誰も、この追放という結果の中に自分の咎があるとは考えず、恨みと不満を他人の上へ投げかけた。

 ギャツアは家に帰り、必要な品物を揃えて馬に背負わせ、弟の手を取って言った。
「お前と母を送っていこう、さあ共に出発だ」

 まもなく、二人を惜しむ嘆きの声は消え、女たちは手の中の炒った粉を撒き、呪いの言葉を唱えた。
 天の神々が飛来し、巻き上がる埃と呪いの言葉をジョルたちの後ろで遮った。

 しばらく共に進み、分れ難く、さらにしばらく進んで、まもなくリンの境界を出ようという頃、弟は兄に帰るように言い、兄は帰って行った。

 弟は、リンの心の真直ぐな人物が去って行く後ろ姿を見て泣いた。

 それから先の長い行程に、人の暮らす気配はかった。その時ジョルはより一層孤独を感じた。
 天の神と土地の山神が、命を受けて密かにジョルを守っていたが、ジョルには何も見えなかった。









阿来『ケサル王』㉗物語 放擲 

2013-12-01 03:34:53 | ケサル
物語 放擲  その4




 神の子が来てからの数年間、リンでは妖魔が民に害を及ぼすことはなかった。そこで、リンの民たちは一心に善を求めた。

 外の世界から髪を下ろした苦行者が来て言った。
 もし一匹の飢えた狼が人を食おうとしたら、まず自分を食わせるべきだ。

 このような行為は、終わりのない輪廻のある一つの段階で、ついには報いを受けるだろう。そして最大の報いとは再びこの輪廻の中に陥らないことである。

 彼らは鋭利なかみそりで髪を下ろすことで、この世への軽蔑を表し、自分たちの教主へのある種の誓いを表していた。

 数年間の平和な生活を送ったリンの民は、この誓いを受け入れ始めた。

 ジョルは、自分に与えられた神の力は、新しく伝わって来たこの教派の天上の諸仏の加護を受たもので、それによってリンで妖魔と戦っているのだと分かっていた。だが、同じ神がどうして自分とは別の使者を人間界に送り、自分とは相容れない教えを伝えるのかは、分からなかった。

 善に向う心を芽生えさせた人々が、声高く叫んだ。

 殺し屋! 殺し屋! 殺し屋! 殺し屋!

 「では、我々はジョルをどうすべきだろうか」

 トトンが放った言葉の意味は、ジョルを殺すべきだ、といことだった。だが、ジョルを殺すことのできる者などいないのも分かっていた。
 人々が重苦しい沈黙に陥った時、トトンは言った。
 「ジョルはまだ子供だ。悔い改めるよう、荒地へ追放しよう」

 流刑。追放。
 
 それは、この子供が広い荒れ地で一人で生き、一人で死ぬということである。それならば誰も殺戮の罪を追わずに済む。
 人々は重荷を降ろしたかのように、空に黒い雲が垂れこめ人間の弱さに哀しむだろう言葉を代わる代わる叫んだ。

 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放!

 ギャツァは問い糺した。追放?

 智慧に富む老総督でさえ、群衆の叫び声に疑問を唱えた。追放?

 そそり立つ崖すべてが、こだまを返した。

 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放! 追放!

 老総督はリンの全ての貴族を集め、天の声を占うことしかできなかった。

 貴族たちは総督の砦に集まり、総督が天に向って占うのを待った。間もなく天の言葉が示された。

 「毒蛇の頭の宝珠は貧しい者の手に落ちたといえども、機縁はいまだ至らず。ならば、貧しい者はそれをどのように知るのだろう」

 神は明らかな意思を示されなかった。しかも、大多数の人がこれまで考えたことがなく、考えたくはない問題を、リンの人々に問いかけたのだった。

 母の元に戻ったジョルは思った。神のされることはなぜ、人々に理解されにくいのだろう。

 人々は思った。神は我々には分かりにくいことをされる。
 どうして神のお告げは、我々を問い詰めているように感じられるのだろう。

 老総督は決断を下せないでいた。
 「我がリンは、神の子を降されるのにふさわしくないのだろうか」

 トトンは言った。
 「それなら、ジョルを北方の誰も治める者のいない、黄河上流の荒れ果て貧しい地へ行かせよう。この子がそこでどのように特別な力を表すか見ようではないか」

 貴族たちは声をそろえて言った「それは良い」。

 老総督も仕方なくうなずいた。
 「今のところそうするしかないだろう」

 ギャツァが申し出た「私も弟と一緒に追放にしてください」

 老総督は怒りをあらわにした。
 「何を言のか!リンの英雄の頭でありながら。もし妖魔が再び立ち上がり、敵が攻めて来たら、リンとリンの民がどのよう
な状況に置かれるか。下がりなさい!」

 ギャツァはため息をつき
 「では、私が弟にこの取り決めを伝えて参りましょう」

 これを聞いてその場の者たちは、責任感のある立派な人物だとギャツァを褒め称えた。
 だが、同じくリンの英雄として数えられるタンマは、ギャツァが生き別れの苦しみを味わうのに偲びず、言った。
 「尊敬するギャツァよ、あなたは頭としての席に座っていなさい。私が代わりを務めさせてもらおう」

 言い終るとタンマは、集まりの席を後に、ジョルの元へ急いだ。