塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 ⑥ 第1章 ラサから始めよう 

2008-03-15 01:32:30 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


2 民間の伝説と宮廷の歴史

 この地域の歴史をきちんと述べるために、私たちはラサに戻らなければならない。

 私がこの本を書こうと最初に思い立ったのは、この山々の間でではなく、高い山の階段の頂上、チベット文化の中心地ラサでだった。
 
 まず思い浮かんだのは、伝道者の物語である。
 彼らの物語は、私を中世へ連れ戻す。中世のラサへと連れ戻す。

 それはどのような時代だったのだろう。イギリス人F・Wトーマスが収集し整理した『東北チベット古代民間文学』という本の中に引用されている民間の文学は、次のようにこの世紀を表現している
「もはや、神と人が一体になっていた時代のように正直に行動する人間はいなくなった。没落の時代が到来し、人々は徐々に恥を忘れ、勝手な振る舞いにうつつをぬかしている。彼らは恥とは何かを知らず、誓いを守らず、金儲けのことばかり考え、生をも死をも省みない」
「それ以後、人々は恥を知らずのうそつきになった。息子は父より劣り、孫は息子より劣り、一代一代悪くなっていき、ついには肉体的にも、息子は父親より背が低くなった」

 民間の詩人と歴史学者たちは、宮廷生活にも目を向けた。「国王の妻を始めとして、女の方が国王より頭が良いと見なされていた。女たちは国の政治にも関与し、国王と大臣の間に亀裂を生じさせた。このようにして、国王と大臣は分裂した」

 これは、宮廷政治がはるか隔たった場所――庶民の間に届いた後の一種の余韻なのだ。庶民たちは自分たちのやり方でこの余韻を記録してきた。
当時、吐蕃の中心地ラサで国力が勢い良く増強していたその時、吐蕃の宮廷の内側では民間の物語に描かれているような状況がすでに出現していた。
当時のラサはチベット王ティソン・デツェンが政治を執っていた。言い伝えによるとティソン・デツェンは唐が二度目に吐蕃と和親した後、金城公主とティデ・ツクシェンの間に生まれた子である。当時、宮廷の闘争は、上述した民間の物語に見られる幾つかの要素の他に、雪の国と呼ばれるチベットに伝わって間もない仏教と、チベット土着の宗教ボン教との激しい闘争とも、大いに関係していた。
 
 言い伝えによると、ティソン・デツェンが生まれた次の朝、外地にいたティデ・ツクツェンが、公主と生まれたばかりの息子に一目合おうと飛ぶように宮廷に戻ると、なんと、もう一人の妃が生まれたばかりの王子を奪い、自分が生んだ子だと触れ回っていた。民間的色彩の濃いこの物語は続けて語っている。大臣たちはどちらの妃がこの王子を産んだのかをあきらかにするため、王子を別の部屋に寝かせ、二人の妃に同時に抱きに行かせた。金城公主は先に王子を抱くことが出来たが、ナナム氏というもう一人の妃が力任せに王子を奪おうとした。王子の体のことなど一切かまわずに。金城公主は王子の身に何かあっては大変と自ら手を離したのだった。これを見た大臣たちは、王子を生んだのは金城公主だと確信した。

 ところが、信頼できる歴史書によると、ティソン・デツェンは742年の生まれだが、金城公主はそれより前の739年に世を去っている。ティソン・デツェンはやはりナナム氏の生んだ子供なのである。
では、民間ではなぜ、このようにあきらかにねじまげられた伝説を創り上げたのだろう。ある分析家は述べている。これはチベット族が望んでいた漢民族との団結の象徴なのだと。
だがもし、その当時のこの地域の状況と、中原の王朝とチベット政権の間の実際の状況をつぶさに考慮するなら、この説はあまりにも飛躍しすぎている。まるで、農民蜂起の首領を共産主義者だと言っているようなものだ。これは正しい歴史観に基づかない結論であり、結局は無責任で一時的な見方と言われるのが落ちだろう。実は、民間でこのような言い伝えが生まれたのは、外の世界から伝わった仏教と、チベット土着のボン教が、雪深い高原で繰り広げた激しい争いの複雑な状況が反映されたからなのである。

 この言い伝えは後世に伝わったが、そこから読み取れるのはただ、時と共にチベット人が仏教を信じるようになっていったため、当時仏教に傾倒し、仏教を護持していた唐の公主により多くの同情が集まった、ということだけである。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




最新の画像もっと見る

コメントを投稿