せっかく卓克基に来たのだから土司について考えてみよう。
土司とは、中国封建王朝が、西部の少数民族の首長に授けた世襲の官職の一つである。軍事指揮権を与えられた、その土地の皇帝のようなものだ。職を世襲する証書と、金銀の護符を授けられていた。元の時代に始まり、清末から解放後にかけて、「改土帰流」(中央政府の官僚を流官として派遣して支配する)として廃止される。雲南省、貴州、甘粛省、青海、チベット、そして四川省の各地で土司は力を振るった。
ジアロンでは、梭磨河、大渡河に沿って18の土司がいた。ジアロンの人々は復讐を好むようで、土司同士の間で争いが絶えなかったらしい。その中で最大のものは「金川の役」と呼ばれるもので、大金川、小金川の二つの土司が争い、清の乾隆帝はそれを治めるのに苦労した。この地に石ちょう(石+周)がたくさん聳えているのは、そういった戦いに備えたためでもあった。
(そういえば、小説の主人公、お馬鹿な若様も、個人的な復讐に巻き込まれて命を落としている)
ジアロンでは、大鵬鳥が産み落とした白、黒、黄色の卵から土司が生まれたという伝説がある。そこから人間が生まれ、土司になった。初めの四人から代を経て18の土司となった。
卓克基土司は後の世代で生まれたことになっている。実際にも、それほど勢力は強くなく、山の中の静かな王国だったのだろう。1286年から土司の職に就き、1748年「大小金川の役」で功労をたて、長官司の印をもらっている。その後力をつけ、四土司の一つとなった。
17代(末代)の土司、1912年に土司を告いだ索観瀛は賢明な人物で、清の役人を呼んだり、漢文の書記官を設けたり、ケシを植えたり、官寨を修復したりしている。梭磨河に沿って歩き、民が種をまくのを見るのが好きだったそうだ。
1935年、紅軍が長征の途中でこの地にやって来て、官寨に滞在する。当然、索観瀛は、毛沢東や周恩来に面会し、教養人として認められた。解放後は北京で毛沢東と再会し、食事もしている。そう聞くと、この地も身近に感じられる。
卓克基土司が小説のマイチ土司のモデルといわれるが、本当なのかどうか、私にはわからなかった。もちろん、18土司のさまざまなエピソードから、阿来はマイチ家の姿を作り上げていったのだろう。
索観瀛は1936年に再び官寨を修復している。
その後、1984年にアメリカの記者が、長征の取材でこの地を訪れ、忘れ去られていた卓克基官寨を目にして、その美しさに感動し、「東洋建築の明珠」と胡耀邦に手紙を書いた。それを受けて、1994年から修復計画が始まり、2005年1月、今の姿となって公開された。
「アジア遊学」という雑誌に(1999年6月)この官寨の写真が載っている。北側の経堂のあたりは見事に崩れている。修復計画の始まったころの写真ではないだろうか。これを見て「東洋建築の明珠」と感じた記者はすばらしい。だが、この風景の中で廃墟に近いままにたたずむ官寨に、本当の美しさはあるのかもしれない。
土司とは、中国封建王朝が、西部の少数民族の首長に授けた世襲の官職の一つである。軍事指揮権を与えられた、その土地の皇帝のようなものだ。職を世襲する証書と、金銀の護符を授けられていた。元の時代に始まり、清末から解放後にかけて、「改土帰流」(中央政府の官僚を流官として派遣して支配する)として廃止される。雲南省、貴州、甘粛省、青海、チベット、そして四川省の各地で土司は力を振るった。
ジアロンでは、梭磨河、大渡河に沿って18の土司がいた。ジアロンの人々は復讐を好むようで、土司同士の間で争いが絶えなかったらしい。その中で最大のものは「金川の役」と呼ばれるもので、大金川、小金川の二つの土司が争い、清の乾隆帝はそれを治めるのに苦労した。この地に石ちょう(石+周)がたくさん聳えているのは、そういった戦いに備えたためでもあった。
(そういえば、小説の主人公、お馬鹿な若様も、個人的な復讐に巻き込まれて命を落としている)
ジアロンでは、大鵬鳥が産み落とした白、黒、黄色の卵から土司が生まれたという伝説がある。そこから人間が生まれ、土司になった。初めの四人から代を経て18の土司となった。
卓克基土司は後の世代で生まれたことになっている。実際にも、それほど勢力は強くなく、山の中の静かな王国だったのだろう。1286年から土司の職に就き、1748年「大小金川の役」で功労をたて、長官司の印をもらっている。その後力をつけ、四土司の一つとなった。
17代(末代)の土司、1912年に土司を告いだ索観瀛は賢明な人物で、清の役人を呼んだり、漢文の書記官を設けたり、ケシを植えたり、官寨を修復したりしている。梭磨河に沿って歩き、民が種をまくのを見るのが好きだったそうだ。
1935年、紅軍が長征の途中でこの地にやって来て、官寨に滞在する。当然、索観瀛は、毛沢東や周恩来に面会し、教養人として認められた。解放後は北京で毛沢東と再会し、食事もしている。そう聞くと、この地も身近に感じられる。
卓克基土司が小説のマイチ土司のモデルといわれるが、本当なのかどうか、私にはわからなかった。もちろん、18土司のさまざまなエピソードから、阿来はマイチ家の姿を作り上げていったのだろう。
索観瀛は1936年に再び官寨を修復している。
その後、1984年にアメリカの記者が、長征の取材でこの地を訪れ、忘れ去られていた卓克基官寨を目にして、その美しさに感動し、「東洋建築の明珠」と胡耀邦に手紙を書いた。それを受けて、1994年から修復計画が始まり、2005年1月、今の姿となって公開された。
「アジア遊学」という雑誌に(1999年6月)この官寨の写真が載っている。北側の経堂のあたりは見事に崩れている。修復計画の始まったころの写真ではないだろうか。これを見て「東洋建築の明珠」と感じた記者はすばらしい。だが、この風景の中で廃墟に近いままにたたずむ官寨に、本当の美しさはあるのかもしれない。
僕も8年ほど前に四川のチベタン地区を旅行しました。
その時は、雲南からガンゼを通り、チベットに入りました。
ローカルバスで行ったので、激しさ極まりなかったですw
なんだかんだ1ヶ月ほどチベットにいました。
友達から、成都からアバを通って朗木寺、合作、夏河経て蘭州もしくは西寧に抜けるルートは素晴らしいと聞いていました。
今度行こう行こうと思いつつ、あの厳しい道を思うと動けずw
東南アジアに行く日々となってしまっています。
ブログを拝見して、行ったところではなかったですが
当時のチベットを思い出していました。
ありがとうございます。
じっくり旅されたんですね、うらやましい!
私は一週間の短い旅でしたが、あの地に立ち、空気を吸えただけで幸せでした。心はまだアバにいます。
次はどこへ、と考えるのも楽しいですね。やっぱりチベットでしょうか…
それまでは、自分の街を旅する気分で歩いてみようかな、と思っています。