塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 ⑧ 第1章 ラサから始めよう 

2008-03-29 02:22:22 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)

3 僧と宮廷

 チベット族の歴史上最初の仏教寺院桑耶寺(サムイエ寺)が建立されると、チベット族の歴史上最初の僧はここで修行し出家した。
 修行僧はあわせて七名いたので、歴史書の中では「七覚士」呼ばれている。その中の一人、高い徳を持った僧がヴァイローチャナである。

 ある一時期、ヴァイローチャナは山の洞穴で修行していた。その間よく王宮へ托鉢に行っていた。ヴァイローチャナはふくよかな美しい顔立ちをしていたので、ボン教を信じる妃ツェポンサが彼を愛してしまった。ある日、ツェポンサ妃は国王、王子、下僕たちを外出させ、ヴァイローチャナを部屋に招き入れて誘惑した。
 ヴァイローチャナはチベット仏教ニンマ派の教えを修めた僧である。ニンマ派は特に禁欲を謳ってはいないが、ヴァイローチャナは恐れを抱いてそのまま逃げ出した。

 王妃は恨めしさと恥ずかしさで怒り、国王に向かって、ヴァイローチャナが自分に対して道にはずれた行いをしようとした、とうその告げ口をして、国王の心に懸念を起こさせた。
ヴァイローチャナが次に王宮に托鉢に行った時には、誰も迎えに行かなかった。ヴァイローチャナは即座にすべてを悟り、それ以後王宮には近寄らず、深い山に逃れて修行を続けた。その後国王は過ちに気づき、自ら山に入って大師ヴァイローチャナを訪ねた。最後にはツェポンサ妃も心を改めたという。
 
 もちろんこれは歴史的な出来事が民話化された物語である。多くの場合、民話には庶民の願いが込められている。庶民はそうやって歴史を書き変えるのである。
 もちろん、それで歴史が変るわけではないのだが。

 ツェポンサ妃は保守的な貴族の利益を代表していた。そのため、彼女は飽くことなく、あらゆる策略を尽くして仏教の高僧ヴァイローチャナを迫害した。彼を追い出して後の憂いをなくす必要があったのである。たとえ王であっても、おおっぴらにこの高僧を保護することは出来なかった。そこで仕方なく、あまり利口とは言えない策略を用いた。
まず、どこかの流れ者を捕まえて来て、この男をヴァイローチャナだとふれまわった。そして、ツェポンサ妃たちに見抜かれないうちに、この哀れな流れ者を大きな鍋に入れ、ぴったり蓋をして大河に投げ入れてしまったのである。そうしてから、ヴァイローチャナを死刑に処した、とおふれを出した。
 ところが、ツェポンサ妃は貴族達に国王のはかりごとを暴露してしまった。

 こうして、国王の庇護をもってしてもヴァイローチャナを吐蕃の権力の中心の地に置いておくわけにはいかなくなった。保護策として、国王は彼を吐蕃東北部にある開拓されたばかりの辺境の地へと流すことにした。

 この地こそ私の故郷、現在の四川省阿壩(アバ)州である。
 ヴァイローチャナはチベット語ではジアロンと呼ばれるこの地へ流された。当時このあたり、豊に開けた四川盆地に隣接する山の中には、多くの土着の部族が暮らしていた。吐蕃がチベット本土に国を興して以降、その大軍は向かうところど敵なしで、山の中の土着のを次々と征服してきた。

 チベットの文化に取り込まれる前のこれらの土着のの様子が、歴史書に記載されている。

 『後漢書』に、「その王侯頗る文書に詳しく、その法は厳格である」「気候は寒く、盛夏でも氷が解けない。そのため彼らは、冬は寒さを避けて蜀に働きに行き、夏は暑さをのがれて邑に帰ってくる。山を住処とし、石を積んで室となす。高いものは十余丈ある」とある。

 現代の考古学者の発見したところによると、これら土着のでは石棺葬が盛んに行われていたという。私は以前考古学の研究グループについて石棺の発掘された場所へ行ったことがある。石棺はこの地で採られた天然石で作られており、四つの壁と蓋はあるが、底がなかった。いくつかの棺では、底に柏の枝を焼いた灰が残っていた。埋葬品のある棺もあったが、ほとんどが素焼きのもので、棺の中の遺骨の頭部か足元に置かれていた。これらの石棺葬は岷江流域に多く見られる。岷江の急な流れが切り出した深い谷を抜けていく時、崩れかけた断崖で眼にすることが出来る。

 『隋書』の中にも記載がある。「嘉良夷(西カム地方の強力な部族=ジアロンチベット族)、政令を首領に伝える」「漆を塗った皮を鎧冑とし、弓の長さは六尺、竹を弦とする。義理の母及び兄弟の嫁を妻とする。息子や弟が死ぬと父や兄がその妻を娶る。歌舞を好み、笙を鳴らし、長笛を吹く」「革で帽子を作り形は鉢のように円い。または頭に布頭巾を被っている。衣服は主に毛皮を用いる。牛の皮を剥いで靴にする。首には鉄の鎖をつけ、手には腕輪をしている。王と首領は金の飾り物をしている」「土地は小麦、ハダカ麦に適している」「皮で舟を作り河を渡る」

 政治的には何の統一もないこれらの部族だが、農耕の方法など文化的な面ではかなりの部分で一致している。

 七世紀は、中原で唐王朝の国力がもっとも盛んだった時である。そしてそのある一時期、吐蕃は青蔵高原の中心に興り、数万の大軍が、谷に沿って高原を一気に下り、四川盆地の周縁にまで迫り、大度河上、中流を中心として、岷江上流の一部であるジアロン地区をもその版図に取り込んだのだった。

 最初に成し遂げたのは、軍事的な占領だった。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿