5、ギャロンのかつての中心 ヨンドゥン・ラディン寺 その2
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
大金川小金川土司が再び勢力範囲を拡張し、再び清の大軍を国境に迫らせることになった第二回金川の戦いでは、ヨンドゥン・ラディンのボン経の僧たちは呪術と神秘的なのろいの言葉でこの地の土司を支えただけではなく、武器をてにしてかなりの戦闘能力を備えた勇敢な兵士にもなった。
大金川がついに陥落した時、寺の数千におよぶ僧兵のほとんどが戦死した。生け捕りになった五名の大ラマと、乱を起こした大小金川の土司たち200余名の俘虜は北京に護送され、神の前で打ち首になった。
伝えられるところによると、乾隆帝はヨンドゥン・ラディンの壮大華麗を伝える上奏を受けて、前線の将軍阿桂たちに、寺の図面を描いてから解体し、使われていた材料のすべてを北京に運び、元通りに復元するよう命令を下したという。
だが、定西将軍阿桂たちは、大金川は僻地であり、内地と通じているのはすべて細く曲がりくねった道で、更に、ギャロンの建築を解体しても、寺院の金の頂と菩薩以外は細かい石ばかりで、元通りに組み立てるのは至難の業だろうと、再三にわたって報告した。乾隆帝は仕方なくあきらめた。
それとは別に、乾隆帝はヨンドゥン・ラディンの姿を描いた図を北京に送らせ、じっくりと鑑賞した後宮中の宝としていた。
そして、その前よりも前、大小金川で戦う八旗の兵へのギャロンの要塞攻略の訓練のため、数百名のギャロンの捕虜を北京に護送して来て、香山の麓にギャロンの石の要塞と村の砦をそのままの形に建てさせ、これから前線に赴く満族の八旗の兵に攻略の演習をさせた。
歴史書を見ると、近代的な兵器のなかった時代の前線では、清の兵士がギャロンチベットの地の石の望楼に対抗する方法は、火で焼くか、銅の大砲で鉛の弾を撃ち込むしかなかった。最終的には、地下道を掘り火薬を使って爆破するという方法もあった。
これらの戦法のどれが、香山のふもとに造られたギャロン人の要塞のような石の家を前にして考え出されたのか、歴史書のから見つけることは出来なかった。
北京の擬似建築に護送されたギャロンの村のチベットの民たちの総てが、戦いが終わった後首を撥ねられた訳ではなかった。乾隆帝は寛大な態度で、彼らに生き延びる道を与えたのである。ただ、彼らが故郷へは戻らなかっただけだ。
今でも、北京郊外の香山のふもとのいくつかの村の人々は、自分たちの祖先がギャロン人だと自覚している。
ある年の秋、北京で仕事をしているチベット人が、その村へ行って調査したらどうかと私に勧めた。
彼にギャロン風の建物がまだあるかと彼に尋ねると、答えは、もう無いようだ、たぶん無いだろう、だった。それを聞いて私の好奇心はあっという間に消え、訪ねてみたいという衝動は無くなった。
もし本当にいくつかの村でギャロン人の末裔を訪ねあてたら、みなが顔を合わせた時にとても気まずい雰囲気になるのではないだろうか。
たとえば、彼らは北京語を使わずに私に何を尋ねたらいいのか、私は彼らに何を伝えられるのか、そして何を尋ねるのか。
中国人は血縁の力を特別に信じることがある。
だが、長い間漢とチベットの文化の交わる場所に生活していたチベット人として、私はたくさんの異化の力を見てきた。それはとても強い力だった。
話が少し逸れてしまった。
今現在、私はすでに跡形もなく打ち壊されたヨンドゥン・ラディン寺にいる。
見渡す限りの文化の廃墟に立った時、人は、文化は伝承によって永遠の命を得る、という考えを持つことは出来ないだろう。
大金川の土司がこの狭い土地で集めることの出来たすべての財力と人力を注いだ、最盛期の清王朝との10数年にわたる抗争は、血で血を洗う殺戮が終わりに近づいた時、ヨンドゥン・ラディン寺の末日をも招いたのである。全ギャロン地区のボン教の地位もまた崩れ去っていった。
民間の言い伝えによると、乾隆帝はヨンドゥン・ラディン寺を北京に移築できないと知ると、命令を下して、徹底的に寺を破壊させた。そしてその基礎の上に、チベット仏教グル派に属する黄教の寺を建てさせた。完成後の寺院は、正面の扉がもとのボン教寺院の裏側に移された。
新しい寺の入り口には、皇帝が自ら書いた金の額が掛かっている。
「広法寺」
この三つの大きな文字はまぶしいほどに輝いている。
そして、知力と計略に長けた皇帝は、異民族によって異民族を制す、という思想支配の術を用いた。寺の住職、即ち歴代のカンプはダライラマ管轄下の黄教三大寺院の一つ、セラ寺から派遣された。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
大金川小金川土司が再び勢力範囲を拡張し、再び清の大軍を国境に迫らせることになった第二回金川の戦いでは、ヨンドゥン・ラディンのボン経の僧たちは呪術と神秘的なのろいの言葉でこの地の土司を支えただけではなく、武器をてにしてかなりの戦闘能力を備えた勇敢な兵士にもなった。
大金川がついに陥落した時、寺の数千におよぶ僧兵のほとんどが戦死した。生け捕りになった五名の大ラマと、乱を起こした大小金川の土司たち200余名の俘虜は北京に護送され、神の前で打ち首になった。
伝えられるところによると、乾隆帝はヨンドゥン・ラディンの壮大華麗を伝える上奏を受けて、前線の将軍阿桂たちに、寺の図面を描いてから解体し、使われていた材料のすべてを北京に運び、元通りに復元するよう命令を下したという。
だが、定西将軍阿桂たちは、大金川は僻地であり、内地と通じているのはすべて細く曲がりくねった道で、更に、ギャロンの建築を解体しても、寺院の金の頂と菩薩以外は細かい石ばかりで、元通りに組み立てるのは至難の業だろうと、再三にわたって報告した。乾隆帝は仕方なくあきらめた。
それとは別に、乾隆帝はヨンドゥン・ラディンの姿を描いた図を北京に送らせ、じっくりと鑑賞した後宮中の宝としていた。
そして、その前よりも前、大小金川で戦う八旗の兵へのギャロンの要塞攻略の訓練のため、数百名のギャロンの捕虜を北京に護送して来て、香山の麓にギャロンの石の要塞と村の砦をそのままの形に建てさせ、これから前線に赴く満族の八旗の兵に攻略の演習をさせた。
歴史書を見ると、近代的な兵器のなかった時代の前線では、清の兵士がギャロンチベットの地の石の望楼に対抗する方法は、火で焼くか、銅の大砲で鉛の弾を撃ち込むしかなかった。最終的には、地下道を掘り火薬を使って爆破するという方法もあった。
これらの戦法のどれが、香山のふもとに造られたギャロン人の要塞のような石の家を前にして考え出されたのか、歴史書のから見つけることは出来なかった。
北京の擬似建築に護送されたギャロンの村のチベットの民たちの総てが、戦いが終わった後首を撥ねられた訳ではなかった。乾隆帝は寛大な態度で、彼らに生き延びる道を与えたのである。ただ、彼らが故郷へは戻らなかっただけだ。
今でも、北京郊外の香山のふもとのいくつかの村の人々は、自分たちの祖先がギャロン人だと自覚している。
ある年の秋、北京で仕事をしているチベット人が、その村へ行って調査したらどうかと私に勧めた。
彼にギャロン風の建物がまだあるかと彼に尋ねると、答えは、もう無いようだ、たぶん無いだろう、だった。それを聞いて私の好奇心はあっという間に消え、訪ねてみたいという衝動は無くなった。
もし本当にいくつかの村でギャロン人の末裔を訪ねあてたら、みなが顔を合わせた時にとても気まずい雰囲気になるのではないだろうか。
たとえば、彼らは北京語を使わずに私に何を尋ねたらいいのか、私は彼らに何を伝えられるのか、そして何を尋ねるのか。
中国人は血縁の力を特別に信じることがある。
だが、長い間漢とチベットの文化の交わる場所に生活していたチベット人として、私はたくさんの異化の力を見てきた。それはとても強い力だった。
話が少し逸れてしまった。
今現在、私はすでに跡形もなく打ち壊されたヨンドゥン・ラディン寺にいる。
見渡す限りの文化の廃墟に立った時、人は、文化は伝承によって永遠の命を得る、という考えを持つことは出来ないだろう。
大金川の土司がこの狭い土地で集めることの出来たすべての財力と人力を注いだ、最盛期の清王朝との10数年にわたる抗争は、血で血を洗う殺戮が終わりに近づいた時、ヨンドゥン・ラディン寺の末日をも招いたのである。全ギャロン地区のボン教の地位もまた崩れ去っていった。
民間の言い伝えによると、乾隆帝はヨンドゥン・ラディン寺を北京に移築できないと知ると、命令を下して、徹底的に寺を破壊させた。そしてその基礎の上に、チベット仏教グル派に属する黄教の寺を建てさせた。完成後の寺院は、正面の扉がもとのボン教寺院の裏側に移された。
新しい寺の入り口には、皇帝が自ら書いた金の額が掛かっている。
「広法寺」
この三つの大きな文字はまぶしいほどに輝いている。
そして、知力と計略に長けた皇帝は、異民族によって異民族を制す、という思想支配の術を用いた。寺の住職、即ち歴代のカンプはダライラマ管轄下の黄教三大寺院の一つ、セラ寺から派遣された。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)