塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 ⑳ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-30 12:41:14 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


大都河4 心を痛める場所 その3



 その日の夜、途中の村に泊まった。
 その村の名前を書く必要はないだろう。なぜなら、それぞれに違った名前がある以外、この村のすべてが前述の通り過ぎてきた村々と何も異なったところがないからだ。

 たくさんのハエが飛び回る小さな料理屋、門の前には木を運ぶトラックが止まり、1,2本の柏の木が必ずどこかに聳えていて、私たちをほんの少しの間はるか昔風景が美しかった時代の不確かな思い出に誘い込む。
 それは土地に伝わる歌の時代、水の澄んでいた時代、そしてまた民間の詩人が最後の言葉を残した時代である。

 その時代の余韻として、私は民間の知者に「美しい時代の衰退」という民間の文章を訳してもらった。
 この文章はほとんど世の中に伝わっていない。一つには、民間に考え事を好む人が日々少なくなっているため、そして、歴史学者がこのように詩的で総括的な叙述を簡単に排除してしまうためである。だが、私はこのような文章が好きだ。その中にこのような文章がある。
 
 「その後、宗教が信じられず、寿命の短い時代がやってきた。妖怪たちは思うがままに人々を惑わした。悪人たちは思うがままに人々を傷つけた。悪人が金儲けをして高い位に昇った。傲慢が専横を極めた。善人や悪意のない人々は臆病で何もできず、貧困と悲惨に陥っていくばかりだった」。

 更にこう書かれている。

 「それからも、宗教は益々力を失い、寿命の更に短い時代となった。負債と税の時代が近づいた時、国王は彼の治める領地で八千年の権力しか持っていなかった。一人だった国王が複数の国王へと変わった。国王たちは自分だけが正しいと思いこみ、昔の宗教と経典を無視した。それぞれが己を信じすぎ、そのため、それぞれの国にそれぞれの宗教と経典が生まれた」。

 これは「旧約聖書」にも似た、総括と詩意に溢れた、史実よりも象徴性の強い記述である。日ごとに荒れ果てていく場所が、このような民間の詩人と思想家を生み育てたことに私はとても驚かされた。だが今、このような人物はもう現れないだろう。その意味から言っても、この荒涼とした場所はもう永遠に元に戻せないのだ。

 私はその日をはっきりと覚えている。一九八九年六月七日。

 旅館の蚤の跳ね回るベッドに横たわり、二時間ほど眠って目覚めると、15ワットの白熱灯の下でノートを開き、もう一度これらの言葉を味わった。
 その時電灯が三度光った。これは小さな発電所の技術員がコントロール台の水スイッチを切り、また入れ、切って入れ、切って入れしたからだ。これは、小さな村とその周りの村の人々に、まもなく停電することを告げている。

 普段なら、これらの小さな村々はすでに眠りに包まれている。だが、この一年のここ数日、このような辺鄙で人々に忘れさられたような場所でも、人々は首都北京、省都成都で起こっている事柄に興奮していた。
 このような興奮にはほとんどの場合特別な主義や道徳的な批判は含まれていない。生活があまりに平淡すぎるので何かが起こらなければならないのだ。それがテレビの中だけで起こったことであっても、何も起こらないよりは良いのである。
 
 十分後、電灯は消え、小さな村は眠りに着いた。

 起き上がって窓辺に立つと、大河が両岸の岩の間でたてる重苦しい波音が聞こえた。岩の隙間に何本かの柏の木が天に向って聳えている影が見える。

 そこで、リュックからろうそくを取り出し、柏の詩を書いた。
 「オビラトの柏の樹」である。
 オビラトはこの村の名前ではない。私はこの小さな村に、響きの良い、みすぼらしくない名前を付けたかった。ギャロンチベット語では、オビは種の意味、ラトは在る、まだ存在している、という意味である。私がこの小さな村に付けた名前は「種はまだ存在している」である。
 どんな種だろうか。もちろん柏の樹の種だ。いや、それは種とも言えないものだ。柏の樹の細長い影であり、私の心の中のわけの分からない揺らめきと切なさなのだ。

 私が詩を書いていた青年時代、ほとんどの詩はこのような旅の途中で、このような壊れかけた粗末な旅館で書いた。

 それにしても何故、ある場所では、建ったばかりの旅館がすでに古めかしく荒れ果てている印象を与えるのだろう。

 旅館とはそういうものだ。山間の村もまたそういうものなのだ。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 ⑲ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-27 16:23:46 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


大都河4 心を痛める場所 その2


 小さな旅館に腰を下ろし、リュックを置き靴の紐を解くと、汗がぽたぽたと流れてきた。
 旅館の女が黒ずんだタオルを渡してくれる。「兄さん、汗拭きなさいな」

 彼女は青地に刺繍を施した布を頭に載せ、鮮やかな織物のベルトをしている。典型的なギャロンの女性の装飾品である。だが、彼女の着ているインド藍の長衣は清末民初の満漢族の服装で、そこに緑色の解放マークの運動靴を履いた姿は、完全に現代の中国式服装の標準的な農村スタイルである。
 ここでは、ほとんどの中年男性の服装は、これとよく似た中国チベット混合で、しかも異なった時代の特色を一度に見ることができる。

 彼女が「兄さん」という時の口調、「汗拭きなさいな」という時の言葉遣い、それらは中国語の四川方言と陜西、甘粛省の方言が混ざりあいできあがった大都河中流域特有の土着の言葉である。
 このあたりは、乾隆朝以前は純粋なチベット人の集落だった。チベット族の歴史上、農業が最も発達し人口がもっとも集中した地域の一つだった。乾隆年間、清朝はこの地域の大小金川流域のザンラ土司とツージン土司に対して前後して十余年にわたり兵を送り続け、戦いの後チベット族の人口は急激に減少した。清政府は陜西、甘粛省の兵をこの地に駐屯させたので、そのため、今日の文化と言葉遣いが出来上がったのである。

 聞くところによると、長い時間を費やした戦争が終わった後、この地に残った駐屯兵は馬を走らせて土地を占領した。馬に乗り、鞭を一振りし、馬が走り疲れて停まったところ、その範囲の土地、林、草原、さらには土地の女たち(この地の男たちはほとんど戦死していた)まで全てがこの兵のものになった。そのため、今日でもなおこの地の言葉の中には土地の広さを表す単位「趟」(駆けるの意味)が残っている。「あんたの趟の畑は今年は豊作だね」といったように。

 私は旅館の女に尋ねた「チベット族かい」

 私はチベット語を使った。彼女は私を見つめ中国語で答えた「チベット族よ」
 私は笑った。
 彼女は決まり悪そうに言い訳した。ここではほとんどの人がチベット語を理解する。だが、しゃべるのはもう難しくなってしまった。
 「舌がもつれちゃって、チベット語らしくもないし中国語らしくもないのよ。しゃべったら兄さんに笑われるわ」
 このあたりでは、女性は見知らぬ成年男性を、相手の年齢にかかわらずすべて「兄さん」と呼ぶ。面白かったのは、彼女はそれに続けてこう尋ねたのだ。
 「兄さん、中国料理にする、チベット料理にする」

 これは興味深い質問である。
 この大きな河の上流の支流のまた支流で、黄昏時、一夜の宿を捜していた時、途中ですれ違った水を背負った女が私に尋ねた。
 「中国に住んでるの、それともチベットに住んでるの」
 今、また同じような言い回しで同じような質問をされてしまった。

 チベット族の料理を注文した。

 こうして私の前に奶茶が現れた。茶の中の乳はその土地を表す。茶に混ざって少し薄く感じられが、これは茶に混ぜた乳の量ではなく、質の問題である。この乳は雑種の牛の乳である。
 茶にはさらに山椒とかすかな塩の味がした。
 茶が茶碗に注がれると、ブーンという音とともに頭の大きなハエがたくさん飛んできた。

 庭の前には公道に向って大きな柏の木が1本寂しげに聳えている。この河の両岸には以前はこうした背の高い柏の森があったのだろう。ところどころに白樺と楓が交っていたかもしれない。現在、たった1本残ったこの大きな柏が強烈な日差しの下で孤独に聳え、涼しげな大きな影を落としている。
 
椀を持って木陰に座るといつの間にか詩の世界へ入っていった。

 私の足元、土と小石に覆われた下に、まだ風化されず砕けていない巨大な岩があり、柏の根が土と小石の間を這うように伸びていき、その根がごつごつした力強い指のようにがっしりと巨岩をつかむ…

 私の空想を打ち破ったのは旅館の女だった。
 彼女はギャロンでは「バイバイ」ラサでは「トゥバ」と呼ばれる団子の煮物の入った大きな碗を持ってきた。このあたりの粉は腰が強い。作り方は、まず酸菜と四川唐辛子を炒め水を加えてスープを作り、その後で粉をこねた団子を入れる。私はこれが大好物で、一気に三杯食べてやっと箸を置いた。

 それから強い日差しを浴びながら再び歩き始めた。

 もう一度あの料理屋の方を振り向いた時、柏の木の下にビリヤードの台があるのに気づいた。思いつく限りの流行の服を着込んだ二人の若者が、一突き一突き、有り余る時間をもてあそんでいた。 

 昼、私の落とす影がもうこれ以上ないまでに短くなった。影さえも昼寝をしてしまったようだ。

 この村も大渡河沿いのいくつかの村と同じで、低い家が、大通りをそのまま公道にした道の両側にひしめき合っている。
 公道は静かだった。熱と光線を強烈に手加減することを知らずに反射している。あまりのまぶしさに目が開けられない。道の両側の家は土埃にまみれて、まるで悪夢のように静かだった。

 これは、大渡河流域の荒涼とした心の痛む一帯にたくさんある小さな村の一つである。もし名前が違っていなかったら、この村と他の村に何か違いがあるのかどうか、見分けることはできないだろう。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)



阿来「大地の階段」 ⑱ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-26 23:24:36 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


大都河4 心を痛める場所

 二日目、朝早く目を覚まし、太陽が出る前の涼しい間に少しでも多く進んでおこうと出発した。

 歩き始めてすぐにサボテンの姿は見えなくなった。
 だが、進むにつれて巨大になっていく山は、やはり破壊され荒涼としている。
 太陽が昇り始めると、河風の中にわずかに感じられていた湿り気があっという間に蒸発していった。累々と重なる岩が太陽のもとに晒された時、私の胸は痛みを増した。自分が今人類の傷口を歩いているように感じられたからだ。

 土埃、また土埃。どこもかしこも細かい土埃で覆われている。

 埃の中、光を反射してきらきら輝いているのは、石英と石綿のかけらである。

 幸いなことに、巨大で険しい山が影を落としていて、その中を歩いたり、休んだりできたし、河面から昇ってくる潤った空気を味わうこともできた。森林があり植物がたくさん生育していた時は、河の水が山々を潤し、山々が河の水を育くんでいた。だが今、河の水は山々の中で少しでも甘い汁を吸おうとする、最後の略奪者となってしまった。河の水が、風と雨が運び込んだ谷間の土砂の最後の一塊をきれいに流し去った時、かつては力にあふれていた山々は完全に死んでしまうだろう。
 このように、まさに今死にかかっている場所は、一部の狭い地域だけにとどまらない。それは、四川盆地の端から青蔵高原の端まで、階段のようなに連なる山々からなる、2~300kmに及ぶ巨大な傷口である。

 それはふさぐことのできない傷口である。

 この傷口となった地域では、かつて民族の衝突と何度かの戦争があった。だがそれらの衝突や戦争のほとんどは旧式の武器しかない時代に起こったもので、これほど巨大な生態の破壊には至らなかった。
 この傷口が作られたのは、現代になってからの百年の間のことだ。
 人類が平和的な方法で、建設や、進歩や、人々の幸福と生存といった大義名分をつけ、休まずに搾取した結果なのである。

 私はこのような心の痛む地を何度も行き来してきた。

 もし車に乗ったとしても、このような地域を通り過ぎるのには丸々一日かかるだろうし、大都河を遡るこのような特殊な地域なら、二日間の旅程を費やしても目の前を埋め尽くす荒涼から抜け出すことはできないだろう。もし歩いたとしたらはるかに長い時間が必要である。

 濾定から丹巴までの100kmの行程では、早朝出発し野営をしながら丸まる三日歩き通した。 

 またサボテンが見えた。だがこれは農家の壁に植えられたものだ。この黄土で築かれた塀、黄土で建てられた家は何年もの間強烈な日差しと激しい雨に晒されて、壁の上にはぼつぼつと塩の吹き出たていた。土の家の前後には緑濃い梨の樹があった。梨の樹と土の家が谷の平地にある大小さまざまな村落を構成している。村落の周りはやはり緑を競い合うようなトウモロコシと小麦畑だった。
 このような村落は1~2kmごとに、山陰に平らな土地が現れると同時に何の予告もなく出現する。村をいくつか過ぎた後には、村より少し大きい鎮が現れることもある。白い壁に青い屋根の家々だ。郷で一番の役場があることもある。庭に国旗が揚がっていて、降り注ぐ日差しの下、浪々とした朗読の声が白楊の下の教室から聞こえてくることもある。

 このような時、私はいつも不思議な感慨に襲われる。
 本来なら、この声をこの地域の希望の声ととらえるべきだろう。だが私は彼らの将来に悲哀を感じてしまう。自然を破壊された山の中で最後の青草を捜し求める山羊に感じる悲哀と同じである。ある土地が前途を失おうとする時に、希望に溢れた青少年の集団が現れるのは、悲哀をさらに深めることにならないだろうか。

 未来にもう少し楽観的になろうと思うのだが、心の奥深いところにあるどうしようもない荒涼感を克服できないでいる。

 だからこそ、私は人間にもっと生き続けてほしいと願う。道ですれ違う牧人のように強靭に、淡々と。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 ⑰ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-13 02:09:44 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


3失われた樺の林

 パソコンのキーボード叩いていたら、突然、あの樺の林について書きたくなった。
 その樺の林があった村は、チベット語でカルグと呼ばれていた。この村は古い街道の大きな宿場だった。そこで、ここを行き来して漢の地に帰る商人が漢族の名前をつけた。馬塘である。50年代に新しい人民政府が公道を作ってからは、この場所は、地図の上で、成都から伸びる国道213号線の刷丹路という支線上の最も小さい点となった。道路を補修に来た労働者たちは、チベット名も中国名も使わず、この村を「15キロ」と呼んだ。

 「15キロ」のコンクリートの標識が立っている辺りに、山の中腹の林から一筋の小川が流れて来ている。この流れに沿って、細い道が公道の急なへりを登っていき、斜面を埋め尽くす白樺林の中に消えていく。

 それは薬を採りに行く道である。白樺林の間にあるいくつかの崖の上で、私も木麻黄を採ったことがある。
 その道はまた、山羊を放牧する道でもある。白樺の林の間には斜面に沿った草地がいくつもあるからである。
 その道はまた狩人が通る道でもある。以前、村の若者が熊に追いかけられ、林を抜け出し公道まで逃げてきたところで、石でその熊を打ち殺した、という事件があった。

 泉の水を腹いっぱい飲むためにこの道を通る、という人もいる。公道から入り山道を登ると、20分もしない所にその流れの源がある。この泉の水は、カルグ村の周りの数ある泉の中でも一番甘い。だがその泉がどんなに甘くても、白樺の樹液にはかなわない。

 春、村の小学校の放課後、その白樺林は私の子供時代の天国だった。春の初め、よく伸びた白樺の皮に小刀で傷をつけると、甘くてさわやかで、そしてほんのちょっと苦い樹液が流れ出して顔中を濡らしたものだ。

 だが、私はこの美しい林とともに少年時代を終えることはできなかった。

 文化大革命の間に、400km離れた四川省から一通の書類が届いた。万歳展覧館という建物を建てることになったという。全中国の全ての民族の領袖、毛主席に捧げるためである。
 どのくらい大きいかというと、紅軍の部隊にしばらく属していた大隊長は、土司の官塞よりもはるかに大きいだろう、と言った。
 ある環俗したラマは解放前にラサに行ったことがあり、だから発言する資格があるのだが、彼によると、土司の官塞どころじゃない、毛主席の家はポタラ宮よりも大きくちゃならない、とのことだった。
 当時ほとんどの人はポタラ宮がどのくらい大きいのか知らなかった。
 だが、伐採は半年以上続いた。

 誰が言い出したのかわからないが、毛主席に忠誠を示す白樺は普通の白樺ではだめで、紅樺でなければないということになった。紅樺は普通の白樺より高い場所に生育している。そこで村の男たちは毎日朝早くから山に登り、高く伸びた紅樺を次々に伐採していった。黄昏時に山を降りて来る時には、彼らと一緒に紅樺の大きな幹が次々に滑り落ちてきた。
 
 重い樺の木が滑り下りてくる時、大きな破壊力を見せ付ける。小さな木や草花はあっという間に押しつぶされ、低い場所ですらりと美しい姿を見せていた白樺もまた、ぶつけられて傷だらけになった。林の中のよく肥えて柔らかくなった腐植土の表面が掘りかえされてしまった。
 雨が降ると、一日中、泥とその下に埋まっていた瓦礫が山の下に向って流れ続けた。
 あの頃甘い水を湧き出させていた泉は流砂によって深く埋もれてしまった。

 その後で、公社や県から人がやって来て、物差しを手に一本一本測量し、合格したものには断面にひまわりの絵を書き、真ん中に赤々と忠の字を書きこんだ。
 そのため、これらの木は樺の木とは呼ばれず、「忠の木」と呼ばれた
 忠の木は解放牌のトラックや、反修牌のソ連製トラックに積まれ、村の後ろで岷江と大都河という二つの大きな水域を分けている鷓鴣(シャコ)山を越え、ミアロに至り、さらに岷江の支流のザクナオ河に沿って理県を超え、さらに50km走って汶川県の威州鎮で岷江の本流と合流し、岷江峡谷を抜け、都江堰に至り、それから天府の国、四川省の中心成都に到着する。

 トラックが何台も何台も往復し、静かだったカルグ村はにぎやかになった。
 当時の私には、二十数戸のカルグ村よりも大きな地理的概念はなかった。

 そのころの私の願いは、樺の木の断面にひまわりを書く人が興に乗って、私に筆を渡し、彼が鉛筆で輪郭を引いた中に、真ん中に芯が無いので種を結ぶことはないが、大きな忠という字を咲かせたひまわりを書くことだった。

 羊飼いの少年だった私の手は、絵の具を含ませた筆を持つとうれしさに手が震えた。それなのにどうして自分は画家にならずに、文字を操る生涯を送ることになったのか、今でも不思議でしょうがない。そしてまさに、この文字の縁で、80年代の中頃、当時忠の木を送るトラックが走った道に沿って、私ははじめて成都へやって来た。目標にしたのは、カルグ村の人々の想像の中では土司の官塞よりもポタラ宮よりも大きな建物だった。

 その建物は巨大でなければならなかった。なぜなら、山の斜面の木材になりそうな紅樺をすべて切り倒したのだから。

 だが、私が目にした建物は私が想像していたほど輝かしいものではなかった。あの時の、万歳展覧館がこんなに埃っぽい色をしているとは思ってもいなかった。平原の、同じように埃っぽい建物の中にあって、それは想像の中の聖殿という趣は微塵もなかった。重々しさはあるけれど、こんなに雄大とは程遠い姿であろうとは、想像もしていなかった。もし自分の目で見たのでなかったら、この建物の前の広場に立っている偉人の像の広い肩に、鳩が糞をするなどとも想像できなかっただろう。

 私は、永遠に消えてしまった紅樺に心を痛めた。

 この都市に行き来するようになってしばらく経ち、その住民になってから、私はこの都市の歴史と地理を少しずつ理解していった。そして古くからこの街に暮らす人々もまた、この建物の所在地のかつての雄大な姿と、移り変わりゆく城壁を想い、心を痛めているのだと分かった。

 もう一度あの白樺林に話を戻そう。あの消滅の物語はまだ完結していないからだ。さらに二、三年経ってから、消滅する運命が白樺に襲いかかったのである

 今回は北京から命令があった。戦いへの備えをせよ!

 カルグ村は静かで、辺鄙である。普段は忘れ去られているが、時には国の運命と密接な関係を持ってしまう。戦いの準備、即ち白樺の木の供出である。村中の男がのこぎりを持って山に登った。白樺は次々とうめき声を上げながら倒れた。その後必要に応じて一定の長さ一定の太さに切られる。不合格のものは山の上に捨てられ、二年もしないうちに徐々に腐っていった。合格したものは公道の脇に山積みにされ、トラック隊が来て私たちが知らないどこかの兵器工場に運ばれるのを待っていた。カルグ村の人々は、これらの白樺の用途は歩兵銃、機関銃、自動小銃の銃床やその他の木の部分に使われる、と知らされていた。そのため、白樺はカルグ村にこのかつてない光栄をもたらした。

 この光栄があまりにも抽象的なものだったためだろうか、今でもカルグ村の人々はこの時の白樺を惜しんでいる。

 実は、カルグ村は白樺を失っただけでない。四季が移り変わってゆく美しさを失い、春の林の花や草、きのこを失い、林の中の生き物を失った。それ以後、夏になると保護となる覆いを失った山は雨水に直接洗われることになった。土石流が毎年あの泉の穴から溢れ出し、斜面を押し流して交通を遮断する。ある年、私は、外地から帰ってくる途中、家からに三キロのところで土石流のため進めなくなり、バスの中で、眠れぬ一夜を過ごした。

 白樺が消えてしまったのと同時に、代々受け継がれてきた自然への恐れと慈しみの心が、人々の中から少しずつ失われていった。村の人々は斧を持って災害の後生き残った林へ向い、一時の利益を追い求めた。ある年の春節に故郷へ帰った時だった。夜の深けた頃、こっそりと切り出した木を公道のあたりであわただしくトラックに積んでいる音を耳にした。そのような光景を私は一度ならず見ている。

 このようにして、私は森林が消えていくのをこの目で見、そしてさらに悲しいことに、道徳心が失われていくのを目の当たりにした。

 故郷は私にとって口にしたくない言葉となった。

 あの村の名前は、永遠に癒えることのない傷口となった。
 だが、私たちのカルグ村のような例は、一つだけではない。カルグ村の運命は普遍的な運命である。この本で触れる大都河流域、岷江流域、嘉陵江流域にあるすべての村では、この運命から逃れられる人は一人もいない。

 だから、濾定の大都河の谷間で一面のサボテンを目の前にした時、私にはそれが、打ち砕かれた大地が最後にほんの少し残された生命力を振り絞って、もがき、叫び、人々に本来の姿に目覚めるよう警笛を鳴らしているように感じられた。
 だが、この巨大で残酷な存在は、ほとんど人の目に触れることがない。斧は更に深い山の中に入り、河には木々の死体が溢れている。
 河がすべての木々を流し終えた時、その時私たちは始めて気づくだろう。耳元を流れていくのは、干からびた風の音だけで、万物と人間の心を潤してくれる水の音ではないのだ、ということを。

 すべての生き物は森林の水の流れとともに消えていく勇気を持っているのに、ただ、人間という、うぬぼれ屋で全て思い通りになると勘違いしている欲張りな生き物だけは、森と水を消し去る勇気はあっても、森や水と一緒に消えていく勇気はないらしい。

 地球上の生命進化の中で、もし水がなかったら、もし森林がなかったら、人類の出現はなかったのだということを、私たちは知らなければならない。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


阿来「大地の階段」 ⑯ 第2章 大渡河に沿って歩く

2008-06-02 00:52:52 | Weblog
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2 サボテンの谷
 
 道を塞いでいた長い長い車の列を、ついに遥か後方へと振り切った。
 道の両側に迫る、禿げ上がってぼろぼろの岩山を太陽が照らし、まぶしくて目が痛く、乾いていく。コンクリートのような山の上に緑が見える。だがそれは木ではない。野山を覆うサボテである。

 このように大量の巨大で様々な形をしたサボテンは、雑誌のグラビアでしか見たことがなかった。その写真は、メキシコの荒野を写したものだった。中国にもこのようなサボテンが群生する荒涼とした場所があるとは、これまで思ってもいなかった。

 特に不思議なのは、中国とチベットの交わる地域、四川盆地から青蔵高原へと続く山々がいよいよ険しさを増そうという地域に、このように荒涼とした、大自然に激しく踏みにじられた場所があるということだ。北から南に向かけて、嘉陵江流域もそうだし、岷江流域もそうだった。だが、大都河流域がそれ以上にひどい状況だとは思いもよらなかった。
 科学者はこのような荒涼とした一帯を「亜熱帯干ばつ河谷」と呼び、次のように述べている。
 「この地域は、かつて森林に覆われ気候も穏やかだった。だが千年以上に渡る戦争と人類による伐採により、美しかった自然が凶悪な表情に変わってしまったのである」。
 自然科学者は、このような森林は一度消失したら総ての自然生態を回復するのは難しい、と警告している。

 この一帯は同じ国の中の二つの民族の間に位置している。敵対する二つの国の間にあるのではない。見境のない大自然への略奪が、ついに今目の前にあるような悲惨な状況を作り出してしまったのである。
 
 今回の旅を終えた後、私は特に意識して資料を収集し、かつて自然の気候に恵まれて緑に覆われた地域が、いつ頃から現在のような状況に変わり始めたのか、調べようと試みた。だが残念なことに、どの言語の文章の中にも、関係する記事を探し出すことができなかった。

 チベットで長年仕事をしてきた作家・馮良が、少し前に二冊の本を贈ってくれた。一冊は彼女の長編『西蔵物語』、もう一冊は彼女が編集した、もとは『康蔵軺征』と呼ばれていたが、現在は『国民政府女密使赴蔵紀実』と改題された本である。目下自分が、チベットを旅した時の本を書いているためだろうか、しばらくの間、1930年に実際にチベットへ入った人物が書いた本に対する興味の方が、馮良の小説に対する興味を越えてしまった。

 この本の主人公、劉曼卿という女性は、今では忘れられかけているかつての風雲児である。
 劉曼卿は、ラサで生まれたチベットと漢族の混血児で、チベット名をヨンジンといった。彼女は国民政府の特使として、中央政府とチベット地方政府の関係を深めた功績により、高く評価されている。
 史料によるとこの任務で劉曼卿が南京とラサを往復するのに364日かかっている。丸々一年費やしたことになる。彼女はラサと、チベットに入る道々で、「力を尽くして中央の恩恵を伝え、辺境を想う中央の温情を伝えたため、チベットの民とそこを治める土司、ラマたちの熱烈な歓迎を受け、ダライラマに賓客として迎えられた」。南京に戻った後、国民会議に招かれてチベット訪問の報告を行い、国民党政府主席は特別に彼女に報賞状を送った。賞状の文面は次のようであった。
 「国民党政府は劉曼卿が本政府文官処の命によりチベットに赴き、往復一年の歳月を費やして視察を行い、党の要請を伝えた。特使の名に恥じない逸材である。ここに特に賞状を与え表彰する」

 私がこの本に興味を持ったのは、彼女がチベットに向う行程の一部と私が歩いた道程が重なっているからだった。この重なった道程について、チベット族の人間が書いたものと、それ以外の人間が書いたものとの間に違いがあるのかどうか知りたかったのだ。だが、彼女の文章の中には、チベット族の血を引く人間がチベット文化の世界に戻った時の、魂の共鳴を伝える言葉はなかった。それよりも、「塞外を一人行く、思うところは何ぞや」といった、陳腐な言葉があるだけだった。

 私がチベットの本を読む時、選択の基準は他の本を読む時とはかなり違っている。それが私の偏見だとは分かっているのだが、読書に対するこの本能的な取捨選択を変えることは難しい。
 私がチベットの本を読む時まず第一にすることは、言葉の端端から、読者が受け入れられているのか、それとも疎外されているのか感じ取ることである。もしその中に強大な文化が持つ優越感があったら、申し訳ないけれど、そこで読むのをやめることにしている。

 私はもう一度、本棚からこの本を取り出した。作者が濾定から康定へ至る道の途中で、大都河という人類最大の暴力を体現している峡谷を通る時、どのような想いを抱き、それをどう記述したのか知りたかったからだ。
 だがやはり、見つけることはできなかった。
 彼女は、踏みにじられぼろぼろになった山に繁殖するサボテンを見なかったようだ。私が思うに、これらのサボテンはこの大地に残された最後の生命力なのである。

 私は引き続き手元にある数少ないチベット族と漢族の交流に関する資料を調べてみた。その中の一つが、四冊組みの糸綴じ本「辺境風土記」である。作者の査騫は、光緒年間に四川総督から里塘食量長官を任命され、その間この道を行き来し、結果としてこの四冊の書物を残した。その第四冊濾定県の条にサボテンに関する記載がある。

 「濾定県内でサボテンを産する。草生樹本、非常に丈が高く、奇怪な形で水分が多い、触るとすべすべしている。土地の者は多量に植えて垣根とし、棘のように密に並べる。四角、三角のものがあり、緑のもの黄色のものがある。味は甘く仙桃と呼ばれる。本草綱目に、[サボテン(仙人掌)は人の手のような形をしているのでこの名がついた。岩の壁に張り付くように植生し、その性は苦く寒に属する]とある。濾定のように多量大型のものは他では見ない。山中に耐え難い臭気を放っているのはこの樹であろう」

 これもまた中国の読書人特有の文語調の文章である。
 このように心の痛む、傷ついた大自然を目の前にしながら、冷静に果実を味わい、漢方医学の薬の価値を思い起こすことができるとは。私には永遠に及ばない境地である。

 公道の縁には、チベット族でも漢族でもない服を着た、汚れた顔の子供たちが仙人桃の籠を手にして買い手を待っていた。強い日差しの下を歩いて喉がからからだったし、仙人桃はイチジクのような濃厚で誘惑的な香りを放っていたけれど、口にする気にはなれなかった。
 私は、かつてこの辺りが緑と水にあふれていた時の風景を想い浮かべていた。

 さらに心が痛むのは、大自然への略奪が、はるか彼方、雲に抱かれた深い山の中にまで及んでいることである。

 公道の下、河の中で濁流とともに身を翻し、岩にぶつかっては大きな音を響かせているのは深い山奥で切り倒された樹々の亡骸である。
 カラマツ、杉、柏、白樺、トウキササゲ、シナノキ。
 これらの大木は、それぞれに適した高度で、遥かな年月に渡り成長し、呼吸し、何百年もの間この河のために緑をはぐくみ、この土地を肥やすために栄枯を繰り返してきた。だが今、彼らはうめき声を上げながら倒れていく。

 まず、鳥がねぐらを失い、獣が木陰を失った。そして、最後に我々人間が罰を受けるのだろう。

 その時私は何故かしら、故郷の、すでに失われた白樺の林を思い出した。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)