4大金川の渡し場 その2
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
もちろん、当時の寺は目の前にある寺の規模と景観をはるかに超えていただろう。
車は去って行き、私は岸辺に立って太陽がゆっくりと低い山に昇っていくのを見ていた。
日の光はゆっくりと山の上から谷の底へと注いでいた。
その時、一人の男が対岸にやって来て、両方の手を口元でラッパのようにして私に向って叫んだ。
「船に乗るかね」
私も両手をラッパのようにして力をこめてそちらに向って叫んだ。
「乗せてくれ」
その男は纜を解き、ゆっくりと漕いできた。水流のため船はまっすぐには進まず、川面を斜めに漕いで来る。岸に着くと船頭は岸に飛び移り、縄で船を引いた。流れに逆らってかなり長い間引っ張って、やっと私の前まで来た。
船に乗ってから尋ねた
「牛の皮の船じゃないね。いつから皮の船をやめたんだい」
船頭はただ簡単に答えた。
「木の船のほうが牛の皮の船より安全なんだよ」
これは私の問いに対する答えとはいえない。
船に乗ると、見た目には穏やかな大金川の水の力を感じた。河の水が下から押し上げ、船を通して力強い振動が感じられる。
船頭は懸命に櫂を使うのだが、重い水流に船は下流に押し流される。すぐに目の前に白い飛沫を上げる早瀬が見え、逆巻く波の音が聞こえた。
ユンドゥン・ラディン寺に関する本の中に、ここを流れる大河が八宝吉祥を象徴する二つの山の間で岩とぶつかり波しぶきを上げる音は、自然が唱える六字真言のようである、と書かれている。
だがこの時、少しずつ近づいていく早瀬の波の音も、私の耳には引付を起こして狂ったように走り回る馬の群れのように聞こえ、めでたさは少しも感じられなかった。
船が軽く振動して船底が岸辺に当たった。広い大河を渡り切ったのだ。
私と船頭はまた綱を引いて流れを遡り、船を次に出発する場所へと移動させた。
足が河岸のしっかりした岩と砂を踏みしめ、辺りに響く波の音に再び耳を傾けると、確かに歌のようなもを聞き取ることが出来た。
トウモロコシ畑の中に入っていくと河の水音は消えた。寺の建物も視界から消えた。
辺りにあるのは、水分と栄養を吸い込んだ緑の葉と、黒くほのかに紫がかった大きなトウモロコシの、生命そのものの呼吸だけだった。
このように旺盛な緑の生命の中に身を置くと、多くのもの――歴史と人生の究極の疑問などは何の意味も持たなくなってしまった。
ここでは、人々を包み込むもの、まっすぐに向き合わされるもの、それは唯一つ、生命そのものである。
この時太陽の光は谷の中心に降り注ぎ、すべての緑の葉がきらきらと光を発した。
大きな露の玉がころころとぶつかりあい、土の上に落ち、私の体に落ち、すぐに私が着ている服に浸み渡った。
もし、このトウモロコシ畑が更に200m程広かったら、私の体は完全にびしょびしょになっていただろう。
ちょうどこの時、目の前がぱっと開けた。トウモロコシの囲みを突破し、私は暖かい陽の光の下に立っていた。
足元の道は、今では通る人が少なくなり、柔らかな青草に埋め尽くされている。瞬く間に、寺の前に着いた。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
もちろん、当時の寺は目の前にある寺の規模と景観をはるかに超えていただろう。
車は去って行き、私は岸辺に立って太陽がゆっくりと低い山に昇っていくのを見ていた。
日の光はゆっくりと山の上から谷の底へと注いでいた。
その時、一人の男が対岸にやって来て、両方の手を口元でラッパのようにして私に向って叫んだ。
「船に乗るかね」
私も両手をラッパのようにして力をこめてそちらに向って叫んだ。
「乗せてくれ」
その男は纜を解き、ゆっくりと漕いできた。水流のため船はまっすぐには進まず、川面を斜めに漕いで来る。岸に着くと船頭は岸に飛び移り、縄で船を引いた。流れに逆らってかなり長い間引っ張って、やっと私の前まで来た。
船に乗ってから尋ねた
「牛の皮の船じゃないね。いつから皮の船をやめたんだい」
船頭はただ簡単に答えた。
「木の船のほうが牛の皮の船より安全なんだよ」
これは私の問いに対する答えとはいえない。
船に乗ると、見た目には穏やかな大金川の水の力を感じた。河の水が下から押し上げ、船を通して力強い振動が感じられる。
船頭は懸命に櫂を使うのだが、重い水流に船は下流に押し流される。すぐに目の前に白い飛沫を上げる早瀬が見え、逆巻く波の音が聞こえた。
ユンドゥン・ラディン寺に関する本の中に、ここを流れる大河が八宝吉祥を象徴する二つの山の間で岩とぶつかり波しぶきを上げる音は、自然が唱える六字真言のようである、と書かれている。
だがこの時、少しずつ近づいていく早瀬の波の音も、私の耳には引付を起こして狂ったように走り回る馬の群れのように聞こえ、めでたさは少しも感じられなかった。
船が軽く振動して船底が岸辺に当たった。広い大河を渡り切ったのだ。
私と船頭はまた綱を引いて流れを遡り、船を次に出発する場所へと移動させた。
足が河岸のしっかりした岩と砂を踏みしめ、辺りに響く波の音に再び耳を傾けると、確かに歌のようなもを聞き取ることが出来た。
トウモロコシ畑の中に入っていくと河の水音は消えた。寺の建物も視界から消えた。
辺りにあるのは、水分と栄養を吸い込んだ緑の葉と、黒くほのかに紫がかった大きなトウモロコシの、生命そのものの呼吸だけだった。
このように旺盛な緑の生命の中に身を置くと、多くのもの――歴史と人生の究極の疑問などは何の意味も持たなくなってしまった。
ここでは、人々を包み込むもの、まっすぐに向き合わされるもの、それは唯一つ、生命そのものである。
この時太陽の光は谷の中心に降り注ぎ、すべての緑の葉がきらきらと光を発した。
大きな露の玉がころころとぶつかりあい、土の上に落ち、私の体に落ち、すぐに私が着ている服に浸み渡った。
もし、このトウモロコシ畑が更に200m程広かったら、私の体は完全にびしょびしょになっていただろう。
ちょうどこの時、目の前がぱっと開けた。トウモロコシの囲みを突破し、私は暖かい陽の光の下に立っていた。
足元の道は、今では通る人が少なくなり、柔らかな青草に埋め尽くされている。瞬く間に、寺の前に着いた。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)