塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 41 第4章 ツァンラ

2009-04-18 01:04:23 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


6 過去の影が見つからない その2


 今回私は丹巴を出発して、西から東へ向い、新格(シング)、宅壟(ザイロン)を通って小金の県城へとやって来た。ここに着いた後、公道に沿って進むには二つの選択がある。
 続けて東へ行くと、達維(ダーウェイ)、日隆(リーロン)に行くことが出来る。

 達維は第一、四方面軍が合流した地である。
 日隆はここ数年で少しずつ名が知られてきた。

 日隆は昔の古い街道の宿場で、四川盆地から小金(ツァンラ)へと入る入り口である。そのため、一世代前の土地の人の話の中では、日隆という地名にもう一字加えて日隆関と呼ばれている。
 時がたち、この宿場の商業が衰退した時、日隆は人々の記憶から薄れてゆき、一部の人の中だけに仕舞い込まれた記憶となってしまった。

 だが、80年代に入ってから、旅行業の出現とともに、日隆は再び発見され、人々の視野に入り、探検好きの旅行者によって地図の上でたびたび指し示される名前となった。
 登山愛好家にとっては、日隆は海抜6,250mの「蜀の皇后」の称号を持つ四姑娘山である。
 一般の旅行者にとって日隆といえば、四姑娘山の麓にある東方のアルプスとも呼ばれる双橋溝風景区を思い浮かべるだろう。

 ある雪と風の混じる3月、激しい吹雪のために日隆で行く手を阻まれたことがあった。

 村の料理屋で牛肉の塊を食べながら酒を飲んで寒さを紛らわせていると、料理屋の壁に、登山愛好家の団体が残していった鮮やかなペナントがたくさん掛かっているのが目に入った。ペナントには、よくあるように幾つものサインがしてあり、「四姑娘山花の旅」、「氷山の旅」などの文字が見えた。それらは旅行客が夏の間に残していったものだ。

 そして、3月の吹雪の夜、四姑娘山の次第に高くなっていくピラミッドのような四つの高峰は、雪を孕む清涼な雲から抜け出して、星の光を浴びているところだった。
 そして、この小さな料理屋の中では、ほの暗い電灯の灯りが、酔って朦朧とした私の目に、より陰鬱に揺らめいていた。

 荒れ狂う風の音が世界を満たしていた。

 やはり小金の話に戻ろう。

 この小さな県城を去る時はいつも、街のはずれの山の上にある烈士の墓を訪ねることにしている。

 山の形なりに階段状に連なる墓の中に眠るっているのは、ほとんどがこの地の者ではない。彼らの故郷は遠い場所にある。
 入ってすぐの一帯は紅軍の将校と戦士の墓である。戦士には名は無く、将校には名がある。次に並んでいるのは解放の初期にこの地に倒れた解放軍の兵士である。

 私がここへ来るのは、石碑の後ろにどのような人物が眠っているか、ということとはあまり関係が無い。私が心を動かされるのは、ここに眠る者たちが、このような見知らぬ土地、足を踏み入れる前までは夢に見ることさえなかった見知らぬ土地で、どのように突然の死と向き合ったのかということだ。

 ある者は焼け付くような弾丸の一撃で倒れ、ある者は残酷な刀を浴びて苦しみあがいた。
 彼らは、この世を去ろうとする瞬間、空を見上げただろうか。この異族の地の空はあまりにも澄み渡り、その一瞬、空はいつもより高く、いつもより青く見えたに違いない。どの青よりも美しい青だったに違いない。

 美しい青はいまだ至らない未来を想わせる。優しい母と故郷を思い起こさせる。
 その後から、死神が黒いマントをひろげ、猛然と近づいてくる。黒い色が全てを覆い隠す。紅く燃える希望さえも。

 烈士の墓は見晴らしの良い高台にあって、小金の街を一望している。

 現在美興と呼ばれているこの小さな街は、昔のチベット語の名をメイヌオという。それはツァンラ土司の官寨のあった場所である。
 だが現在、両側の高い山の斜面を覆うつぎはぎのような耕地と、耕地の間のいくつかの漢・チベット折衷の民家以外、この街にはもう、歴史的な遺物は何も残っていない。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)




阿来「大地の階段」 40 第4章 ツァンラ

2009-04-07 01:03:41 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


6 過去の影が見つからない その1

 小金の美興という街は、私にとってかなり馴染みの県城である。

 私に言わせれば、街にはこれといって見るべきものはない。
 だが、旅人とは目を大きく見開いて、いつも何か発見があるのではないかと期待しているものだ。だからといっていつも何か発見があるわけではないのだが。
 県城にはチベットの特徴を持った建物はないし、過去のギャロンの面影を残すものもない。

 ただ一つ取り上げるべきものといえば、県委事務所に近いキリスト教会である。残念なことに、この教会は異国情緒のある外観以外には、大きな扉を開けても、中にはすでに宗教と関係のあるものは何もない。

 この県城の茶館で、そこにいる客たちにこの教会の過去を尋ねてみた。そうして、この教会はフランスの宣教師が民国13年、すなわち1924年に建てたということが分かった。
 もう少し詳しく尋ねたかったが、茶館の客が話すことは皆、分かりきったことばかりでそれ以上尋ねようがなかった。

 ある人が教えてくれたのだが、教会の神父は初め、信者であるこの地の女性を雑役として雇った。その後、この女性はこの外国の神父のために女の子を産んだ、ということだ。

 皆が自信ありげに言った。彼女の混血の娘はこの町の美人の一人だと。

 その後もっと公式な場で、ある人がこの女性を指し示して教えてくれた。
 強い暗示を受けていたためか、それとも、実際に血統の名残と混血のためか、その顔から、どことなく西洋人らしい面影を見たような気がした。

 もしうわさが本当であっても、このような血統による特徴は、この女性をこの地の人が美しいと思うのとは違った美しさにした以外、大して大きな意味を持ってはいない。
 私が最も興味を持ったのは、このような、今でも美しいといえる建築が代表するある種の異質の背景を持った文化が、この小さな村に一体どのような足跡を残したのだろうか、ということだ。私が特に鈍いためだろうか、何度もこの美興と呼ばれる山を背にし河に面した村へ来ているのに、キリスト教がこの地でかなり長い間教えを伝えた何の形跡も見つけることは出来なかった。

 私は何故か、かつて苦難の末に入ってきた文化が、こんなにも簡単に跡形もなく消えてしまうことに悲しみすら覚えた

 私は西洋を崇拝し、外国に媚びる者ではないが、それでも信じている。当時、教会にはオルガンの音が響き渡り、チベット人が慣れない口調で祈りのことばを唱える時、敬虔な思いに包まれていただろうし、彼らが歌う賛美歌は、硬さの中にも独特な美しさがあっただろう、と。

 だが今、教会の門は閉じられている。私が県書記の友人であるから特別に開けて貰えただけだ。
 そして中は、ごく普通の講堂としてしつらえられている。きちんと並べられた椅子、前の壁に聖像はなく、祭壇もない。机が台の上に一列に並び、会議が開かれる時にテーブルクロスを被せ、マイクを設置する。そうすれば指導者は演説をすることが出来る。

 私は台の下に座り想像してみた。
 パイプルガンの音が部屋中にあふれ、外国の宣教師が文化の遅れた土着の民に教義を伝えている様子を。
 その結果目の前に現れたのは、県書記が数百人に向ってこの貧しい土地の美しく豊かな前途を描写している状況だった。おかしくなって、思わず声を出して笑ってしまった。

 門の外に出ると、太陽の日差しが眩しくて、めまいがした。体中土ぼこりだらけだった。

 教会の入り口に案内板が掛かっていて、この教会もまた革命のゆかりの地であると記されている。なぜなら、この教会は紅軍の長征と関係があるからである。

 1935年6月13日、紅軍の一方面軍は長征の途中の最初の雪山、海抜4,000mを超える夾金山を越え、東南側から小金の県境に入った。そして、夾金山のふもとのダーウェイで予定より早く到着していた紅軍四方面軍の李先念部隊と無事に合流した。また、ダーウェイラマ寺で合流大会を開いた。
 二日後、軍について行動していた中国共産党中央が小金県城に到着した。

 この地で、毛沢東、朱徳、周恩来は中央工農民主政府と中央軍事委員会の名前で「日本軍による河北併呑と蒋介石の売国宣言に反対するために」を発表した。宣言の中で、もう一度紅軍長征の目的を述べている。それは、北上して抗日するためである。だが、当時の状況では紅軍は続けて西に進む道を選ぶことしかできなかった。

 その夜、この教会で、紅軍は一、四両方面軍の幹部大会を開き、その後、交換会を行った。

 これは政府側の簡単な記載で、具体的な状況がどうだったのか、すでに想像することはできない。

 当時、四方面軍でこの会議に参加したのは、李先念が率いる紅三十軍の幹部だった。合流した後、兵力の充実した四方面軍は、疲弊し多大な損傷を受けた一方面軍に多くの糧秣と弾薬を援助した。
 毛沢東、周恩来たちは、この教会で数日を過ごした。
 高い雪山を超え、国民党の包囲網を抜け出し、更に、比較的力のある四方面軍と合流できて、この幾晩かは長征の途中でのいくらか気の休まる夜、安心して眠れる夜だっただろう。

 それから又しばらくして、四方面軍の主導者張国濤がやっと毛沢東たちと面会しに現れた。そしてこの時から、張国濤は兵と武器の多いのを笠に着て、江西、江蘇から来た毛沢東を代表とする党中央、中央軍事委員会と各地で対抗することになった。
 こうして、紅軍の両方面郡のアバ地区の雪山や草原での苦しい行軍は、毛と張二人の、力と知恵を比べ合う戦いの物語となったのである。

 この物語はすでにこの本の求める範囲ではないので、ここまでにしておこう。


(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)