塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』⑳ 語り部 師匠 

2013-09-20 02:03:59 | ケサル
語り部:師匠



 さて、これから物語を進めていく助けとなるように、神の子が人間界に降ったばかりの今、複雑な一族の関係を少しばかり整理しておこう。

 羊飼いジンメイはここ暫く、頭の中が混乱し、ぼんやりしていた。それでもやはり、その関係をはっきりさせなくてはならない、と考えていた。

 幸い、草原には英雄物語を語る語り部がいつもどこかに出没していて、その問題について必要な情報を手に入れることが出来る。

 後に、彼が放送局に語りを録音に行き、無線電波がその語りを乗せ、毎日決まった時間に草原の牧人のテントのラジオから流れるようになった時、人々はそのラジオに向かって言った。

 「あいつは始めっから語り部になると決められていたんだ。
  だから、あんなに短い間に、あんなにたくさんの夢を見て、あんなにたくさんの不思議な人物たちと知り合ったんだ。夢の中の空白を埋めるために」

 その日、草の上の露はとても重かった。羊は露を多く含んだ草を食べると胃腸を壊しやすい。そこでジンメイは遅めに出発した。
 羊を追って山に上がった時、太陽はすでに高く昇り、鳴き疲れた画眉鳥はすでに歌うのをやめ、トカゲたちは体の中の冷たい血がすでに暖まり虫を捕まえようと走り回っていた。

 その時、はるか遠くの道の、太陽から降り注ぐ目を射るばかりの光の後ろに、一人の語り部が現れた。
 まず見えたのは人ではなく、高く挙げられた旗だった。その後、腰をかがめ背を丸めた老人が、地平線からゆっくりとせり上がって来た。

 挨拶が終わると、老人は笑いながら言った。
 「まだ語っていないのに、舌も唇もからからだ」
 
 ジンメイは魔法瓶から茶を注ぎ、言った。
 「さあ、オレに語ってください」
 「さて、どの一段を語ろうかな」
 「オレがまだはっきりと分かっていない一段を」

 「若者よ、おまえも語りを学びたいのか」
 「オレが夢で見るのはどれも完全じゃないんです」
 「どの一段だ」
 「神の子が生まれた一族について。入り組んでいて、まるでこんがらかった羊の毛みたいで…」

 老語り部はジンメイの答えを聞くと、羊が草原に散って行ったのを見て腰を下ろし、語らずに、言った。
 「そういうことなら、ワシはお前の役に立つかもしれん」

 「それなら、オレの師匠だ」

 「それなら、ワシはお前の師匠だ」









お知らせ 『ケサル大王』横浜で上映!

2013-09-18 03:16:37 | ケサル


お知らせ

ドキュメンタリー『ケサル大王』がついに横浜で上映されます。

10月12日(土)~18日(金)
14時15分上映開始
横浜 ジャック&ベティー


12,13,14日は上映後それぞれ、大谷監督、ペマ・ギャルポ氏、宮本神酒男氏による講演があります。


詳しいことはhttp://gesar.jp/で。
予告編 https://www.facebook.com/photo.php?v=215081078654186




会場のジャック・アンド・ベティーは横浜で長い歴史を持つミニシアター。
この劇場が好き、ここで映画を見るのが好き、というファンが沢山います。

そして、横浜は私の町(どうでもいいことですが)。

横浜でケサル! 
ジャック&ベティーでケサル!

内容も更に充実したと聞いています。
初めての方も、何回も見た方も、これまでとは違った世界が広がるでしょう。









阿来『ケサル王』⑲ 物語 初めて神の力を現す 

2013-09-17 02:39:51 | ケサル
物語:始めて神の力を表す その5





 トトンが洞穴に着くと、大変なことが起きていた。
 巨大な石が広い洞穴の口をしっかりと塞いでいる。
 不思議なことに、巨大な石になぜか新しい小さな穴が空いている。その小さな穴から中をのぞくと、首や手足がバラバラになったゴンプルヅァの変わり果てた姿が見えた。それでも、体とは離れてころがる手には杖がしっかりと握られていた。

 トトンは友の死を目にしても悲しむことなく、急いで杖を取り戻そうとした。
 だがその穴はあまりにも小さく、人間の体を通すことは出来なかった。

 そこでトトンは自分を鼠に変え、焦りと不安でチューチュー鳴きながらその小さな穴から大きな洞穴へと入って行った。
 だが、そこには死体はあるが杖はなかった。鼠の目ではよく見えないのかもしれない。そこで人間に戻ってしっかり探そうと考えた。
 だが、どんなに呪文を唱えても、体は鼠のままでチューチュー鳴きながらチョロチョロ走り回わるばかり。トトンは恐ろしくなり、急いで洞穴の外に出ようとした。

 その時、呪文の効き目が現れて、ネズミの頭が人間の頭に変わった。だが、呪文の効き目はまだ完全ではなく、体は鼠のまま。ネズミの体では人の頭を支えきれず、頭から地面に倒れた。必至で洞穴の入り口に着くと、人の頭ではどうあがいても小さな穴を通り抜けられなかった。
 ジョルの法力が、トトンの魔術を完全に封じ込めていた。

 ジョルはほら穴の入り口に姿を現し、わざと不思議そうに言った。
 「人の頭の鼠とは、怪しい奴だ。妖魔が変化したものにちがいない。
  みんなのために退治しなくては。殺してやろう!」

 トトンは慌てて叫んだ。
 「ジョルよ、ワシだ。お前の魔法にかかったおじさんだ」

 ジョルは暫くの間ぼんやりしていた。
 後になって、ある人がうまいことを言った。
 「まるで、テレビの電波が風で飛ばされ、画面いっぱいに砂嵐が現れたみたいだった」

 テレビの電波が風に乱されると、草原の牧民はアンテナを伸ばして、あちこち方向を変えながら、消えてしまいそうな電波を探す。ひどい時にはしばらく記憶を失っていた人が頭を叩くように、テレビを思いっきり叩いたりする。
 ジョルもまた洞穴の入り口で自分の頭を叩いて、言った。
 「きっと、おじさんは自分の心の魔法にかかったんだ。それなのにぼくの魔法にかかったなんて…」

 こんなふうに考えているうちに、ジョルの神通力はどんどん弱まっていき、トトンはその隙に洞穴の外に這い出した。ジョルがぼんやりしているのを見ると、体中の埃を払い、言った。
 「子供がこんなに遠くまで来て遊んではいけない」

 トトンは体をフラフラさせながら、ゆっくりとジョルの視線から遠のいて行き、山の麓を廻るやいなや、飛ぶように去って行った。

 数百里離れた家に帰り、トトンは考えた。
 自分の悪巧みはみなこの子供にいとも簡単に破られた。この子は本当に言い伝えのように天から降りて来たのかもしれない。そうであれば、知恵に満ち謀に巧みだと言われてきたこのトトンも、永遠のダロンの長官でしかなく、リンで人の上に立つ日はもはやなくなってしまう。
 ここまで考えると、一日中酒も食事も進まず、空っぽの腹の中で腸が雷のようにゴロゴロ鳴るほかは、深いため息を次々とつくばかりだった。






阿来『ケサル王』⑱ 物語 初めて神の力を現す 

2013-09-16 02:12:18 | ケサル
物語:始めて神の力を表す その4




 ジョル本人の体はまだ母の前に座っていたが、天から降ったこの神の子の分身は、黒い風が襲ってきた方向へ向かっていた。

 ゴンプルヅァが山を三つ越えたその時、そこにジョルの分身が天にも届かんばかりに立ちはだかっているのに出くわした。周りには九百の銀の甲冑を着た神の兵士が侍っている。
 ジョルは直立不動のまま辺りを睨み付け、ゴンプルヅァが法を使うのを待ち受けていた。
 黒雲の妖怪はジョルの本物の体はここにないのを早くも見抜き、白銀の甲冑の神兵の陣を迂回して下の峠へと飛んで行った。

 峠を越えると、そこにまたジョルが天に届くほどに立ちはだかり、九百の金の甲冑の神兵が周りを囲んでいた。

 こうして、ゴンプルヅァは更に二回ジョルの分身と出くわした。
 それぞれ陣を敷いて待ち構えていたのは、九百の鉄の甲冑の神兵と、九百の皮の甲冑の神兵だった。

 その後やっと、ゴンプルヅァは本物のジョルの体がテントの入り口に正座しているのを目にした。
 よく見ると、ジョルが手を伸ばすと、目の前にある色のついた四つの石が空中へ飛ばされ、四、九、三千六百の神兵たちがそれを真ん中に取り囲み、その様はまるで鉄桶のようだった。
 ゴンプルヅァは風を起こし、黒い煙に紛れてなんとか逃げ帰った。

 この時、ジョルは分身をテントの中に座らせて母を安心させ、本物は素早く空に飛びあがり、黒い風の術師を追って修練のほら穴へとやって来た。

 ゴンプルヅァはもはや後悔しても遅いと悟り、誘惑に勝てず、トトンの「ワシがリンを治めることになった暁には、お前を未来の国師にする」という言葉を信じた自分を責めた。

 そして、龍の娘がリンに嫁ぐのは天の神が人間の世に降りて妖魔を退治するためである、という言い伝えを信じなかったことを嘆いた。
 
 
 「もはやこれまでだ」

 ゴンプルヅァがほら穴に潜り込んだその時、ジョルは巨大な岩で入り口をぴったりと塞いでしまった。
 ゴンプルヅァは自分が数百年かけて作った法器をすべて投げつけ、やっとその岩に小さな口を開けた。
 だが、ジョルが天から雷を引き寄せ、洞穴へ投げ込んだので、ゴンプルヅァの体は稲妻に打たれて粉々に砕かれてしまった。

 戦いに勝ったジョルは、体を一揺すりすると、あっという間にゴンプルヅァの姿に変化し、トトンに会いに行った。

 ジョルは声を上げて言った。
 「ジョルの兵隊は徹底的に叩き潰した。あのチビはとっくにお陀仏だ。お前の杖を礼として寄こせ」

 この杖には謂れがある。
 もとは、魔物が黒風の術師に献上した宝物だった。黒風の術師はそれをまたトトンへ贈ったのである。
 この杖を手にし呪文を唱えると、飛ぶように歩くことが出来、進むも止まるも思いのままになるのだった。

 トトンはまさに不安でたまらない時にこの知らせを聞き、不思議に思うと同時に喜ばずにはいられなかった。だが、この如意杖を返すのは惜しくてたまらなかった。

 ジョルの化けた術師は追い打ちをかけるように言った。
 「もしこの杖を手にできなかったら、お前がジョルを殺害しようと諮ったことを、総督のロンツァやギャツァに訴えてやる」

 トトンは何としても断りたかったが、もはや惜しんでいる余裕はなく、大切な杖をゴンプルヅァ――実は神の子ケサルの手に渡した。

 ジョルはマントを翻し跳び去った。その後から黒い風は吹かず、虹が現れた。
 これを見て、狐から受け継いだ猜疑心にすっかり染まっているトトンは考えるほどに不安になった。
 そこでまた術師が修練していたほら穴まで飛んで行った。







阿来『ケサル王』⑰ 物語 初めて神の力を現す

2013-09-11 03:26:52 | ケサル
物語:始めて神の力を表す その3


 おじであるダロンの長官トトンは、その喜びの輪の中に入って行かれなかった。

 トトンは思った。
 リンの穆氏の一族の祖先は元は一つであり、後に長、仲、幼の三つの家系に別れたが、長い間上下の別はなかった。センロンが漢の妃を娶り、ギャツァというリンのすべての人々が声をそろえて賞賛する息子を産んで後、彼ら一族の幼系での力が日増しに強まっていった。総督は幼系の出であり、自分が統率する豊かな富を持つダロンも幼系に属している。道理からいって、総督の跡は彼トトンがその権力を掌握すべきである。だが思いもよらぬことに、今になって、同じ幼系のセンロンと龍族の娘との間に、生まれながらにいくつもの超常の力を現すケサルという息子が生まれたため、自分の夢は水泡に帰すかもしれない。

 ここまで考えた時、いつの間にか心に恐ろしい計略が生まれていた。まず先手を打って後の煩いを絶たなくてならない。

 トトンは起き上がると家に戻ってから、馬を駆って山に登り、人々が喜びに沸く山の入り江を望んだ。
 心の中は無数の毒虫が這い回っているかのように、孤独感でいっぱいだった。生まれたばかりのあの赤ん坊に抱く激しい憎しみを思うと、それは弱い心の仕業だとはっきり分かっていながら、もはや寛大にはなれなかった。
 少年時代、トトンは豪放で勇敢だった。ある日、一対一のけんかをし、素手で相手の命を奪ってしまった。ある者がトトンの母に人を臆病にさせる秘法を教えた。怖がりで用心深い狐の血を飲ませればよい、と。母はその通りにした。その時呪術師は、この血を飲むと人格までもが狐の陰険さと狡猾さに染まってしまうことを、母に伝えていなかった。

 彼は山の上で馬を止め、ギャツァと生まれたばかりの赤ん坊の瞳の中の穢れのない輝きを思い出し、自分は卑怯でずる賢い傲慢な狐の様な目をしているに違いないと考えると、その醜さを恥じずにはいられなかった。
 本来の彼はただ野蛮なだけで非常に大らかだった。こうなったのはすべて、運命の魔術にかかってしまったからである。
 問題は、このような慚愧の思いが、彼の心の内を更に陰険にしていったことだ。

 三日後、トトンが満面の笑顔で再び現れた時、手にはヨーグルトと蜂蜜を携えていた。
 「まことにうれしいことだ。ワシの甥は生まれながらにすでに三歳の子と同じ体格だとは。ワシの贈り物を食べたら、より早く成長するぞ」

 この言葉は蜂蜜のように甘かったが、手にする食物の中には像やヤクを倒せるほどの毒が仕込まれていた。トトンはジョルを抱き、毒の入った食べ物をその口に注ぎ込んだ。

 ジョルはすべて呑み込み、それから、どこまでも澄み切った瞳でトトンに笑いかけた。毒にあたった様子は少しも見られなかった。ジョルが手を挙げると、指の間から黒い煙がモワモワと立ち昇った。天から授かった術を用いて毒をすべて体から追い出したのである。

 トトンはそれを知らず、自分の指先にも新鮮なヨーグルトが付いているのを見つけて、舌を伸ばして舐めた。即座に誰かに腸を掴まれたかのように、激痛が閃光の鞭となってトトンを打ち据えた。自分が毒にあたったと分かり、助けを呼ぼうとしたが、舌に激痛が走ってはっきりと言葉にすることが出来ない。皆には狼のような叫び声しか聞こえなかった。
 すぐにトトンがテントから走り出して来た。
 トトンの後でジョルが嬉しそうに笑っていた。

 侍女たちは言った。
 「あら、トトンおじさんは狼のまねをしてお坊ちゃまを喜ばせているわ」
 
 トトンはつまずき、よろけながら河辺まで走り、しばらく舌を氷に貼り付けていた。そうすれば呪文を唱えて友人の呪術師ゴンプルヅァを呼び出すことができるだろう。
 この呪術師は修練を積み半分は人間半分は悪魔となり、生きている人間の魂を奪うことが出来た。魂を奪われた人間は屍と同じように彼の思いのままになった。
 呪術師はトトンと密かに交わり、二人は遠く離れていても特別な呪文で交信することが出来た。

 トトンは河のほとりに横たわり、舌の痺れが収まると、助けを求める呪文を唱えた。
 暫くして途轍もなく大きな翼のカラスがまるで黒雲のように現れ、地上に大きな影を投げかけた。この影に紛れるように、ゴンプルヅァは解毒の薬をトトンの手元に投げた。カラスが飛び去った時、トトンはやっとフラフラと立ち上がった。

 この時、ジョルは既に話が出来た。

 母が尋ねた。
 「おじさんはどうしたの」
 ジョルはそれには答えず言った。
 「河で舌を冷ましている」
 「河にはいませんよ」
 「山のほら穴に行った」

 確かに、トトンは呪術で現したハゲワシに乗って呪術師の修練の場である山のほら穴に飛んで行った。

 ジョルは母に言った。
 「おじさんは黒い風を引き連れてここに来た。だからこの黒い風は、僕が初めて退治する可哀想なお化けになるんだ」






阿来『ケサル王』⑯ 物語 初めて神の力を現す

2013-09-07 02:01:22 | ケサル
物語:始めて神の力を表す その2



 メドナズとセンロンが露台に出ると、夜が更けても喜びの醒めやらない人々の歓声が聞こえた。顔を上げると、昇ったばかりの太陽の光の下、大河が湾曲する辺りの広い道を、凱旋するリンの兵馬が疾走して来るのが見えた。後ろには土埃が舞い上がり、その前には羽根飾りのついた旗の群れ、更にその前には刀や鉾や鎧兜がきらきらと光っていた。

 リンは天の守りを受け、瞬く間に九か月と八日が過ぎ、冬至(11月)の十五日となった。
 この日、メドナズの体は最も上等なカシミアのようにふんわりと和らぎ、気持ちは美しい玉のように透明に澄み渡っていた。
 メドナズは女の産みの苦しみを聞いていたし、さらに、多くの女がそのために命を落とすのも見て来た。こっそりと声に出したこともあった。「怖い…」

 だが、その息子が世に降った時、メドナズの体には痛みも苦しみもなく、心は喜びに満たされた。
 さらに不思議なことに、その子は生まれた時、すでに三歳の子供と同じ体つきをしていた。
 それは冬の日、だが、空には雷の音が響き、仏の功徳をたたえる雨が降った。人々は彼女が出産したテントに虹が懸かるのを見た。

 タントンギャルポが祝賀に現れ、名前を付けた。
 「世界英豪制敵宝珠格薩爾」 

 穆氏に新しい男子が加わった祝いの席上で、皆は、常ではない体格の子供を抱いて披露してくれるようメドナズにせがんだ。誰もがその子供に最上の祝福をしたいと願った。
 ギャツァは誰よりも喜びに満たされ、子供を受け取って目の前に抱き上げると、その子供は兄を見て瞳をきらきらと輝かせながら、様々に親しげな仕草をした。ギャツァは思わず弟の頬に頬を寄せた。

 この様子を見てタントンギャルポは言った。
 「二頭の駿馬が力を合わせる、それは敵を制する基本である。
  兄と弟が睦まじい、それは富強の前兆である。
  めでたきかな」

 ギャツァは弟の名前を呼ぼうとしたが、すぐには口に昇ってこなかった。
 「上師のつけられた名前がとても複雑なのです」
 「では、少し短く格薩爾―ケサルと呼ぼう」

 更に総督に言った。
 「牛の乳とヨーグルトと蜂蜜でしっかりと育てなさい」

 メドナズは我が子を胸に抱き、大きな口と広い額、整った眼と眉を見つめていると、どうしようもなく喜びが込み上げてきたが、わざとこう口にした。
 「なんとおかしな様子でしょう。私はジョルと呼ぶことにします」

 人々はこの呼び名にケサルよりもより親しみを感じ、そこでジョルがこの子供の幼名となった。






阿来『ケサル王』⑮ 物語 初めて神の力を現す

2013-09-03 00:16:02 | ケサル
物語:始めて神の力を表す その1


 6月、百花が一斉に開く季節に、龍の娘メドナズはセンロンに嫁いだ。

 リンに向う途中、メドナズは白い雲が西南の方角から漂ってくるのを見た。パドマサンバヴァ大師の姿が雲の上に現れた。
 大師は言った。
 「福と徳のある娘よ、神は間もなくお前の高貴な体を借りて、リンを救う英雄を降される。これからどんな苦難に遭っても、お前は信じなさい。お前の息子はリンの王になるのだ、と。妖魔に対しては厳しい神、髪の黒いチベットの民に対しては英明で武勇に優れた国王となるだろう」

 龍の娘はその言葉を聞き、心穏やかではいられなかった。
 「大師様、私の未来の息子は天から降り王となるよう定められているのでしたら、何故苦難に遭うとおっしゃるのですか」
 パドマサンバヴァは暫く考えてから言った。
 「なぜなら、妖魔の一部は人間の心の中に住んでいるからだ」

 メドナズは自分がリンに嫁ぐのは天からの命を受けてのことと知ってはいたが、これまで大切に守られて育って来た娘はこの言葉を聴くと悲しみが胸にあふれて、涙をこぼした。再び顔をあげた時、パドマサンバヴァの乗った雲はすでに遠くを漂っていた。

 婚礼の後、センロンの寵愛と民たちの敬愛に包まれていると、未来の息子が生まれた時にどのような苦難に襲われるのか、想像もできなかった。
 時には、彼女は天の雲を眺め、微笑みをたたえて言った。大師様は冗談をおっしゃったのだ、と。だが、微笑みが過ぎると、やはり名づけようのない恐れが心に湧き上がるのだった。


 メドナズの前に、センロンは遥か彼方の地から漢族の妃を娶り、ギャツァシエガと呼ぶ息子があった。
 ギャツァシエガはメドナズよりもいくつか年上で、リンの総督の下で、智と勇を二つながらに備えた大将となっていた。彼はメドナズを実の母として仕えた。

 ある時、おじトトンが軽はずみにもこう言った。
 「かわいい甥よ、もしワシなら英雄と美女として、若い母を愛してしまうだろう」
 ギャツァシエガは聞かないふりをした。

 おじはこの言葉を何度か繰り返した。あまりの恥ずかしさに、若い戦士は青草をおじの口に押し込み、大声で笑った。笑った後、誰もが、彼の瞳の奥にある深い悲しみの光を見た。
 たとえどれほど勇猛な大鷲でも、この光の中に入ったら、たくましい翼を失ってしまうだろう。

 そんな時いつも、メドナズの心は優しい母の愛で溢れた。
 「ギャツァ、あなたはどうして時々そのような悲しみに包まれるのですか」
 「若い母上、私を生んだ母がどんなに故郷を想っているか、考えてしまうのです」
 「あなたは」
 「私の故郷はリンです。様々な地で強敵を倒してきましたが、母の果てしない苦しみは取り除けません」

 話を聞いてメドナズの目に涙が光った。ギャツァは後悔して言った。
 「母上に悲しい想いをさて後悔しています」
 「もし私があなたの弟を産んだら、あなたは弟が不幸に会うのを見ていられますか」
 ギャツァは笑い、自信を持って言った
 「どうしてそんな心配をなさるのですか、私が命を懸けて……」
 メドナズは微笑んだ。
 
 瞬く間に3月8日になった。昼、めでたい兆しが現れた。

 城塞の中央に一つの泉があり、冬は凍りつき、春暖かくなり花が開くと、氷は消え雪は解け、泉は再び溢れ出す。この日、泉の水は厚い氷の層を押し開き、濁って重苦しかった空気を潤し、洗い清めた。
 さらに、天空には夏のような雨を孕んだ雲がたなびき、雲の中ではくぐもった雷の音が響いた。メドナズは顔を晴れやかにほころばせ言った。
 「まるで水の底の宮殿の龍の鳴き声のようです」

 冬の間中、ギャツァは兵馬を率いてリンに侵犯して来る周りのと戦った。ギャツァは大軍を率いて一気に反撃し、前線からは絶えず勝利の知らせが伝わって来た。早馬が砦の前に現れるたびに、必ず新しい戦勝の報告が届いた。

 この日また新しい勝報が届いた。
 リンの兵馬は既に周りののすべての囲いと砦を平定し、戦いを助けた呪術師たちは陣の前で殺され、のすべての土地、家畜、民とすべての財宝はリンの統治に入り、間もなく大軍は凱旋するだろう、と。

 その夜、センロンとメドナズが寝室に戻る時、外では歓声がどよめき、二人はなかなか寝付かれなかった。メドナズは言った。
 「私とあなたとの子も、長男のギャツァと同じように正直で勇敢であって欲しいと望んでいます」

 その夜、メドナズがようやく眠りについた頃、鎧兜の神人が一刻も傍らを離れない夢を見た。その後、頭上の空に轟音が響き、雲の層が開いた時、メドナズには天庭の一部が見えた。そこから、炎を上げた金剛杵が降りて来て、あっという間に彼女の頭の先から入り体の奥深いところへと降りて行った。
 朝目覚めると、体が軽やかで、心に感動があふれているのを感じ、恥じらいながら夫に告げた。
 私たちの子は既に受胎し、私の体の中で静かに座っています。