塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 58  物語 ジュクモ

2014-07-26 02:33:17 | ケサル
物語:ジュクモ その3





 「老総督が競馬に参加するように言ったとのことだが、僕が持っているのは誰よりものろい馬だと知っているのだろうか」

 「私の家の厩には良馬がいくらでもいるわ。好きに選んでいいのよ」

 「でも、トトンおじさんのユウジアに勝てる馬はいないだろう」

 「では、どうしたらいいの」

 「天から降された馬がいるのだ。僕が生まれた時、野生の馬の中に降された。それは神様が僕のために用意した世にも稀なる馬だ。お前と母さんが力を合わせた時にだけ捕まえることが出来るのだ」

「私が? 野生の馬を捕まえる?このジュクモは高貴な生まれの娘よ。家の馬だって自分で世話することはないのに。野生の馬を捕まえるなんて、夢にも思ったことはないわ」

 「心配することはない。その馬は人の言葉が分かるのだ。お前と母さんなら必ず捕まえられる」

 「それなら、喜んで行きましょう」

 彼女がこう言い終るやいなや、もとの美しい顔立ちに戻った。

 ジュクモは心の中で呟いた。
 ジョルはその野生の馬の扱い方を知っているのに、なぜ自分で行かないのだろう、おまけに、走り回る野生の馬の群れの中から、どうやってその馬を見つけるのだろう。
 心に迷いがあるため、体は前へと進んでいかなかった。

 どうして出発しないのかとジョルが尋ねた。

 ジュクモは答えた。
 「どんなに河にも水源があり、荒野を行くには山の形を見る、と言うでしょう。天馬がどんな形をしているのか、どんな色なのか、どうして話してくれないの」

 そう言われてジョルはやっと母とジュクモに話した。

 「その特徴は九つある。
  ハイタカの頭、狼の首、ヤギの顔、カエルのまぶた、
  蛇の目、ウサギの喉、鹿の鼻、ジャコウジカの鼻の穴、
  九番目の特徴が最も重要だ。その耳に小さなワシの羽が生えている」

 ジュクモはまた尋ねた。
 「どうしてあなたは自分で天馬を捕まえに行かないの」

 ジョルは彼女をじっと見つめ、笑って何も言わなかった。

 メドナズは言った。
 「畑の土、種、温度、この三つが揃って作物は育ちます。
  母、ジョル、ジュクモ、三人の前世の縁はすでに定まっていたのです。
  私たち二人が力を合わせればジョルをリンの王に出来るでしょう。
  そして私たち二人だけがジョルが王となる栄誉を共に喜ぶことが出来るのです」

 ジュクモは自分が競馬の賞品であることを思い出した。
 そして、自分に注がれるジョルの目を見ているうちに、ふと、どこかで会ったような気がして、心が一瞬震えた。

 ジョルの黒くて深い眼差しはインドの王子の目の中にあった表情とそっくりだった。
 彼女は思った。
 もし、ジョルが王子のような男らしい顔だちで、穏やかな身のこなしであったなら、そしてインドの王子がジョルのように神に通じ変化する力を持っていたなら、自分は世界一幸せな女性になれるのに。

 ジョルはその時ジュクモの想いを感じ取り、一瞬、王子の姿へと変化した。
 ジュクモは何かを見たようだった。だが、目をこすってもっとしっかり見ようとすると、ジョルはまた元の姿に戻っていた。

 訝しく思いながらも、ジュクモはメドナズと共に山を登って行った。
 二人がパンナ山に登ると、野生の馬が群れをなして疾走しているのが見えた。
 大地が、ばちで打たれる太鼓のように細かく震えていた。

 すぐに群馬の中に混じって荒涼とした地を駆けまわる天馬を見分けることが出来た。
 前から見るとその姿は猛々しく威厳があり、横から見るとその体つきは力強く逞しい。

 二人が近づくと馬は顔を上げていななき、思い切り大地を蹴って走り去る。
 まるで旋風のように。

 何度も試みたが、近づく術がなかった。
 この時やっと、ジョルがこの馬は人間の言葉を理解すると言ったことを思い出した。
 メドナズは天馬に向かって歌った。


  弓の名手の長い尾の矢も

  英雄の手で弓につがえられることなく

  弓壺に入れられたままでは

  敵に勝利することは出来ません

  どんなに鋭利でも何の用がありましょう
  


  神の宝馬よ

  真に天が降した神の馬ならば

  主人を助けて功を立てなければ

  荒野を疾駆しても何の用がありましょう





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阿来『ケサル王』 57  物語 ジュクモ

2014-07-21 12:47:12 | ケサル
物語:ジュクモ その2




 「私はそのリンの人間です。でも、そんなお話、聞いたことがありません」

 美男子はゆっくりと口を開いた。
 「ジュクモという娘は絶世の美女だと聞いている。もしや、あなたがジュクモではないのか」

 この一言にジュクモは気が動転して、自分でも気づかずぬうちに、僧がまじない用の太鼓を振る時のように首を振った。

 「私はまだ求婚の礼をしたわけではない。だったら、あなたを娶ってもいいわけだ!」

 これを聞いてジュクモの心は喜びと悲しみの間を行きかった。
 なによりも喜ばしいのは、自分が心を動かされた男性が同じように心を動かされていることである。
 悲しいのは、王子はジュクモの美しさを耳にして求婚に訪れながら、途中で美しい女性に出会うなり、名前も家柄も聞かず気持ちを移してしまったことである。
 幸いに、出会ったのはこのジュクモで、他の娘ではなかったのだが。

 それでも、男性は他の男など及ぶべくもなく、彼女の心は最後には喜びで満たされ、彼に告げずにはいられなかった。自分こそ、その名を遥かまで伝える高貴な生まれのジュクモであることを。

 胸の高まりを抑えきれないジュクモとは異なり、王子はなんと、どうやって彼女がジュクモであると証明できるのかと尋ねた。

 ジュクモは長寿の酒が入った瓶を取り出した。それはジョルのために用意したものだった。
 瓶の口の封蝋に押された印が彼女の高貴な身分を証明していた。

 あろうことか、男性は酒瓶を受け取ると、よく見もせずに封印を剥がすと、瓶の中の酒を一気に口の中へと注ぎ込んだ。
 上等の酒は彼の顔を更に魅惑的に輝かせた。

 「リンの競馬に参加しなければ賞品の娘を手にすることは出来ません」

 「それなら参加しよう。美人を手に入れなくては王とは言えぬ」

 ジュクモは嬉しさを抑えられず、娘が持つべき誇りと恥じらいなどおかまいなく王子に抱きつき、ありとあらゆる甘い言葉を囁いた。
 王子は水晶の腕輪を彼女の手に載せた。
 ジュクモは白い帯に九つの結び目を作り王子の腰に結び、競馬の会場で会うことを約し、恋々としながらも別れを告げた。

 黒い人もインドの王子もジョルが変化したものだとは、ジュクモは知る由もなかった。

 砂の山が消え、緩やかな丘がいくつか目の前に現れた。
 それらの丘はナキネズミの穴だらけで、一つ一つの穴の入り口にジョルがネズミのようにしゃがんでいた。
 それを目にして、彼を迎えに来たはずのジュクモもびっくりして大きな岩の後ろに身を隠した。

 この時ジョルは分身をすべて元に収め、叫んだ。
 「女の妖怪よ、見つけたぞ、出てこい」

 ジュクモはすぐさま姿を現し言った。
 「ジョル、ジュクモよ」

 ジョルは彼女がインドの王子に示した甘い蜜のような態度を思い出して、思わず心が痛み、言った。
 「妖怪め。騙さるものか」

 彼女を目がけ石を投げつけると、たくさんの小石が飛び散って、ジュクモの貝のように美しい歯が石に当たってぼろぼろと抜け落ち、頭の半分の毛がそぎ落とされた。
 ジュクモは地面にぺたんと座り込み、大声で哭きだした。

 ジョルはジュクモの醜い様子を見て、心では大いに悲しみながら、その場でジュクモと分かった様子をするのも間が悪く、母を呼びに戻り彼女を家に連れて行かせた。

 メドナズは以前の美しいジュクモが毛が抜け落ち歯の抜けた奇怪な姿に変わってしまったのを見て、ジョルの悪ふざけと分かったが、はっきり言う訳にもいかず、ジュクモを慰めるしかなかった。
 「一緒にいらっしゃい、ジョルに頼みましょう。あの子は、あなたをもとのように美しくする神様の力を授かっているから」

 ジョルはジュクモを見るなりハハハと笑って言った。
 「言われてみれば、お前は誇り高いジュクモだ。てっきり妖怪が化けたのかと思った。以前妖怪がお前の姿に化けて僕を愛した振りをして、悲しい思いをさせられたことがあったのだ」

 「私は老総督の命で、あなたたち二人を競馬に参加するよう迎えに来たのです。道がどんなに遠いか、どんなに辛いかも顧みずにやって来たのです。それなのにこんな妖怪のように醜い姿にさせられて。戻ってから、どうやってみんなに会えばいいのか」

 話し終わらないうちに、また泣きじゃくり始めた。

 ジョルは再び嫉妬の心が甦り、彼女はこんな姿ではインドの王子に会えないと悲しんでいるのだろうと考えた。
 だが、インドの王子とは、彼女をからかおうと思って自分が変化したものだ。そう思い到ると心は穏やかになった。

 「お前を美しく戻すのは簡単だ、ただし、僕を助けるためにして欲しいことがある」

 「元の姿に戻れるなら、一つと言わず、十でも百でも、出来るだけのことをします」






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阿来『ケサル王』 56  物語 ジュクモ

2014-07-15 20:41:04 | ケサル
物語:ジュクモ その1




 リンの誰もが、トトンがジョルの策略によって競馬を計画したとは知るはずもなかった。
 そこで、老総督とギャツアたちは早くジョルにこの知らせを伝えなくてはと心焦った。

 彼らが競馬の時を草原に花が咲き乱れる季節まで延ばしたのは、ジョルに競馬に参加する準備の時間を与えるためだったのだ。
 リンにはトトンを超える勇気のある豪傑は事欠かないが、ユウジアと呼ばれる風を切る馬を超える駿馬はいなかったからである。

 ジュクモは心を痛めていた。
 「ジョルの馬とはあの杖だけ。杖を駿馬とみなすことは出来るのかしら」

 老総督はしばらく考え込み、
 「わしが心配なのは杖が馬とみなされるかどうかではなく、
  どのようにジョル母子を呼び戻し、競馬に参加するよう説得できるかどうかだ。
  みな考えてくれ、彼らを迎えに行くのに、最も望みを託せるのは誰だろうか」

 みなの目は一斉にジュクモへ注がれた。
 一つには、彼女がこの競馬の重要な賞品であること、二つには、ジョルを追放する時、彼女の口から出た叱責の言葉が、毒薬のように二人の傷口に注がれたこと、三に、天と競うほどに美しいジュクモはトトンが勝利してその妻になるのを望んでいないこと。

 果たして、ジュクモは口を開いた。
 「老総督様、英雄の皆様、この黄河のほとりの豊かな地へ来てから、
  私は自分の見境のない言葉を後悔しています。
  もし、今回ジョルとその母親を連れ戻すことが出来たら、私の心の傷もおのずと癒えるでしょう」

 すぐに、彼女は老総督の議事室を出て、家へ帰り荷物をまとめた。
 ジュクモが馬に乗り出発する時、後ろ温かくからからかう声が聞こえてきた。

 「面白いことは尽きないものだ。美しい娘が将来の婿を迎えに行くのを初めて見たよ」

 彼女の頬がひとりでに赤らんだ。まるで、早朝のまだ昇る前の太陽が染めた一刷けの朝焼けのように。

 この日、荒涼とした一面の広野まで来ると、晴れていた空が突然黒い雲に覆われた。
 黒い馬に乗った黒い人が手に長い矛を持ってどんよりした空気の中から現われた。
 顔は炭のように黒く、目は銅の鈴のよう、獰猛な顔付きにジュクモの美しい顔が青ざめた。

 黒い人は口を開いた。
 「お前のしなやかな姿は天女のようだ、身に着けた飾り物は星のようだ。
  富と美は両立しがたいと言うが、お前は何故あり得ないことを可能としたのか。
  この二つのものを一身に集めるとは」

 ジュクモは必死で心を鎮めた。体はまだ振るえていたが、声は落ち着いていた。
 「大樹は沼に育たず、好漢は女性を苦しめず、と言います。先を急ぐ者に道をお開け下さい」

 「お前を先に行かせるには三つの条件がある。選びなさい。第一、ここに残って私の伴侶になること」

 「いやです!」

 「第二、一度私と楽しむこと。その後、馬と身に着けた玉を通行料として置いていくこと」

 「なんでそんなことを!」

 「第三は下の下の策だ。色鮮やかな錦の衣装を置いていき、何も身に着けず家に戻ること」

 黒い人は無表情に、
 「オレには慈悲の心などない、悲しい声で許しを請うてもダメだ。
  すぐにお前の命を撮るつもりはない。我々には前世の縁があるようだからな」

 「玉は差し上げますが、馬は差し上げられません。あなたの愛人、伴侶になるなどとはもっての外。
  あなたは立派な方です。私のような弱い女性を苦しめないでください。
  私には使命があるのです。リンの未来の王を迎えに行くのです」

 「その幸運な者は誰だ」

 「若い英雄ジョルです」

 「ジョルという名を聞いたことがあるようだ。ここは許してやろう。
  事が終わったら馬と玉をここに届けるのだぞ。
  誠を示すために一番大切なものを置いて行け」

 ジュクモは躊躇することなく金の指輪を外して渡した。

 黒い人、黒い人が乗る黒い馬、そして荒野を覆っていた重苦しい雲はあっという間に消え去った。

 ジュクモは馬を急かして更に前へ進み、「七つの砂山」と呼ばれる場所へ来ると、七人と人と七匹の馬が山の上に立っているのが見えた。
 ジュクモは先ほどの驚きの後で人の姿を見たので、即座に馬を進ませた。

 近くまで来ると彼らは食事の支度をしているところだった。
 頭と思われる人物が岩影にもたれて休んでいた。

 ジュクモは彼を一目見るなり、金縛りにあったように足が動かなくなった。
 これまでに、このように美しく、このように高貴で穏やかな男性を見たことがなかった。

 彼の皮膚は赤銅のような輝きを放ち、頬は化粧を終えたばかりの女性が最後にさした紅のよう、漆黒の瞳は深い淵のようだった。

 さらに信じられないことに、ジュクモが現われれば男たちはみな酒に酔ったようになるのに、この人物は彼女など目に入らないかのようだった。
 彼女にとってはこれは何よりも礼を失した態度だった。

 馬を返して去ろうとすると、その美男子が口を開いた。
 「私はインドの王子だ。リンに求婚に行く途中でここを通った」

 リン? 求婚?

 ジュクモの頭に一人一人姉妹の姿が浮かんだ。心の中で、どの娘がその幸せに預かるのだろうと考えずにはいられなかった。




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阿来『ケサル王』 55  語り部 帽子

2014-07-11 20:41:35 | ケサル
語り部:帽子 その2




 ジンメイの叔父もまた少しは名のある語り部だった。
 だが彼は師匠について学んだ語り部だった。

 神授型の語り部は、それとはまるで異なっている。
 彼らは師なく自ら印を得るのである。その時が来ると、彼らの口から詩が溢れ出す。それは泉の水が湧き出すかのようである。

 ある地方に、ある日突然神授型の語り部が現れると、人から学び、胸の中の物語に限りのある叔父のような語り部はほとんどその存在理由を失ってしまう。
 叔父は優れた語り部になりたかったのだが、最後には精緻な技を持つ木版の彫師になった。

 低い長椅子で深く眠っているジンメイの表情の変化はまだ続いていた。
 口元には微笑みが浮かび、顔全体に慈悲の表情が覗えた。

 叔父は言った。
 「誰がお前に琴を贈ったのかは聞かない。どうやってこれほど耳に心地よい琴の音を出せるようになったのかも聞かない。今はワシに、語り部として最後に二つのものを贈らせてくれ。」

 ジンメイは言った。
 「帽子」

 叔父は笑った。
 「目を覚ましたかと思ったぞ。夢の中でどの神様がオレに帽子をもらえと言ったのやら」

 ジンメイの答えはなかった。

 叔父は一言謝ってから、半分彫った経版を片付け、厚さが様々で、向きも異なった彫もの用の刀を袋に仕舞った。

 部屋に入る時彼は言った。
 「二日ほど針仕事をすることになりそうだ」

 家の中には神の像はなかったが、彫り上げたが人に渡すのが惜しくなったパドマサンバヴァを描いた版木があった。
 彼は版の前で香を焚いた。

 「大師様。あなたはケサルが英雄になるのを助けられました。
  今私は甥ジンメイのために仲肯の帽子を縫わなくてはなりません。
  もし大師がお喜びなら、その帽子を美しく仕上げさせてください。
  今は縫うのも繕いも機械でするようになりました。
  私はもう何年も針を持っていないのです」

 それからの二日間、叔父は甥の傍らに座って語り部の帽子を縫った。

 何年も仕舞われていた金糸を織り込んだ上等な錦の布を断ち、最もよい絹の糸で繋ぎ合わせた。

 帽子はまるでそそり立つ雪山を思わせた。
 真ん中に大きな尖りがあり、周囲には更に三つの小さな尖りがあった。
 三つの小さな尖りには鷹や鷲の羽が差してあった。
 真ん中の尖りは天に通じる塔を象徴していた。三つの尖りは、多くの人が、敏捷な戦いの馬がピンと立てた耳だと信じていた。

 大きな尖りの中程には小さな鏡があって、この世界の一切が神の慈悲の目で見通されていることを示していた。

 叔父は一日かかって、帽子を縫い上げた。
 叔父が体に付いた細かな糸を払っている時、ジンメイは目覚めた。

 起き上がると嬉しそうな表情で言った。
 「オレの帽子だ」

 「甥よ、お前のしっかりした口ぶりで分かる。神様は本当にお前を選んだってことが」

 叔父は帽子の真ん中にはめ込んだ鏡を彼に向けた。
 「見てみろ!お前、見た目まで変わってしまったぞ」

 ジンメイは言った。
 「腹が減った」

 叔父は頑なに言った。
 「まず見るんだ」

 ジンメイは失明していない目を鏡に近づけ、思わず声をあげた。
 そこには、物語の主役、英雄ケサルが鎧兜を身に着け矢壺を背負い、駿馬に跨っている姿が見えた。
 それは、競馬に勝利し、人々の歓呼の声を受けた時の英雄ケサル王だった。

 ジンメイは起き上がり、帽子を前にして地にひれ伏した。

 叔父は訳が分からず尋ねた。
 「なんで自分の帽子を拝むんだ」

 「ケサル大王が鏡の中にいる」

 叔父も慌てて地に跪き、その小さい鏡を見た。
 「ワシには見えん」

 ジンメイは言った。
 「もし叔父さんにも見えたら、オレが叔父さんに帽子を作るんだが」

 叔父は帽子を整え、大きい尖りと小さい三つの尖りをしっかりと立たせた。
 「お前は本当にこの帽子をかぶりたいか」

 ジンメイは何も言わずに腰を屈め、頭を叔父の前に差し出した。

 叔父はジンメイに帽子をかぶせると、涙を流した。
 「今からお前はお前自身ではなくなる」

 「じゃあ、オレは何者になるのか」

 「神様の特別なしもべだ。神様から授かった物語を語りに、お前はこれからあらゆる場所を放浪し、自分の家を失うのだ」

 ジンメイは帽子の位置を整え、言った。
 「掛け図を探しに行かなくては」

 掛け図もまた語り部になくてはならない道具の一つだった。
 錦の布で表装されたケサルを描いた掛け図は、四方を語りながら旅する時、旗のように背中に挿して行く。
 縁のある地に着くと掛け図を地に挿し、その絵の下に座って琴を手に語り始めるのである。

 「しばらく休んでから行きなさい」叔父は言った。
 「これから、お前は帰ることのない道へ踏み出すのだから」
 話しているうちに、叔父の頬にはまた涙が流れた。

 ジンメイはこの時すでに語り部としての口調を身に着けていた。

 「おじさん、どうしたんですか。
  今のオレは、おじさんがなりたくて、でもなれなかったその姿なんです」

 言い終ると、ジンメイは琴の弦をそっと撫で、門を出た。





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語り部の帽子
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阿来『ケサル王』 54  語り部 帽子

2014-07-06 00:55:08 | ケサル
語り部 帽子




 丘の上に着いた時、空はまだ明けきっていなかった。

 振り返って、夜明け前の淡い光に包まれた村を見下ろした。
 村はまだ目覚めていなかった。だが、ジンメイは村を後にしようとしていた。

 草むらでは、大きな露がぶつかり合いころころと転がって、彼の柔らかな革靴に落ちた。
 わずかな荷物を背負い、村を出て先へと進んだ。
 村のはずれの羊小屋を囲む太い杭が朝の光に黒く光っている。
 檻の中に横たわっている羊たちはまるで灰色の雲のように、外に向おうとする光を懸命に夢の中に留めようとしているかのようだ。

 この静かな村は一人の羊飼いを失おうとしていた。
 太陽が昇った時、村人たちは羊を牧場に追っていく男を新たに探さなくてはならないだろう。

 彼は微かに笑い、向きを変えて大股で前へ進んでいった。
 歩むごとに道端の草が当たり、ずっしりと重い露が一粒一粒足の上に落ちるのに任せた。

 三日後、ジンメイは一本しか道のない小さな村に着いた。
 村には六弦琴を作る年老いた職人がいた。

 指さされた庭に入っていった時、年老いた職人が造り上げたばかりの琴を試していた。
 貝の様に丸い琴の空洞に息を吹きかけ、それを耳のあたりまで持ち上げて注意深く音を確かめる。
 その顔には満足げな笑顔が浮かんでいた。

 老職人は言った。
 「さあ、試してみろ」

 弟子の一人が出てきて琴を受け取ろうとした。すると、老人は言った。
 「お前じゃない。あの男だ」
 老人は入って来たばかりの人物に直接琴を渡した。

 ジンメイは言った。
 「オレですか?」

 老人は三人の弟子に顔を向けて言った。
 「これはとても良く出来た琴だ。わしが作った中で一番いい琴だ。今、これを受け取るべき者が来たのだ」

 「この男が…」

 三人の弟子が同時に声を上げた。彼らは、琴がこのような男の手に渡るとは思ってもいなかったのだ。
 ジンメイの、見えない方の目は大きく見開かれ、見える方の目は逆にしっかりと閉じられた。

 この村は牧人相手の仕事で成り立っている。だが、この工房はそうではなかった。

 この男の来歴を知るには、その身なりを見るまでもなく、間抜けて見えるほど頑な表情を見るまでもない。
 歩くと体が左に右に揺れるがに股の脚を見れば、そして、体から立ち上る牧人特有の獣臭い匂いを嗅げばそれで十分だった。

 弟子たちには、たとえ幻覚を誘う草を食べても、琴がこのような者の手に渡るとは想像できなかっただろう。
 しかもそれは、老いた琴職人がその生涯の最後に造り出した、最も優れた琴なのである。
 そこで彼らは一斉に声を上げた。

 「この男が…」

 「そうだ、この男だ。お前たちが琴に油を塗って磨き上げた時、ワシはこの男が来るのが分かったのだ」

 「どうして分かったんですか。占い師みたいに」

 琴職人は三人の弟子には構わず、ジンメイの方を向き言った。
 「持って行きなさい。お前は夢に見た様子そのままだ」
 
 「親方はこの男を夢に見たんですか」

 「そうだ、神さまがワシに夢を見させたのだ。
  神さまは言った。お前の琴は一番ふさわしい者に出会う、と。
  神さまは言った。お前の琴作りの生涯はこれで終わりだ、と。
  さあ、若者よ、お前の琴だ、受け取りなさい」

 ジンメイはおどおどと琴を受け取り、うっかりして琴の弦に触れた。琴は美しい音色を立てた。

 「オレ…金を持ってません」

 弟子はいらいらして言った。
 「金がないのに何しに来たんだ。羊で払おうっていうのか」

「とんでもない。羊の群れは村の人のもの、オレは雇われて番をしてるだけで…羊はオレのじゃないんです」

「でも、お前は琴を探しに来たんだろ」

「そうです、オレは琴と語り部の帽子を探しに来たんです」

 今度は琴職人が苛立った。
 「まだ持って行ってないのか」

 ジンメイは言い訳しようとした。
 「でも、オレは本当に弾けないんです…」

 怒った老人は棒を手にして、野良犬を追い払うかのようにジンメイを庭から追い出した。

 こうして語り部は自分の琴を手に入れた。
 三日後、ジンメイは琴を弾いて語りに使う拍子を取れるようになった。

 道を行く時、ジンメイは、自分の耳の奥に神の使いが体を縮めてしゃがみ、リズムを響かせているように感じて、拍子に合わせて足を踏み出し、拍子に合わせて、大通りを得意揚々と歩く人のように体を揺らした。

 歩きながら彼は突然気付いた。水の動き、山の起伏はもともと同じリズムであることを。
 そのリズムは一つだけでなく、異なったリズムもあることを。
 
 風は草を波打たせ、天空では様々な鳥が様々なリズムで翼を羽ばたかせる。

 より微かなリズムも感じることが出来た。

 風が岩の空洞を通り過ぎ、水が樹の中を昇り、鉱脈が地下で伸びて行くリズム。
 ジンメイはいとも簡単に琴を鳴らし、それらのリズムを真似ていった。

 叔父の家のまだ青い実を付けた木で覆われた門の前に辿り着いた時には、すでにさまざまなリズムを繋ぐことが出来た。

 いつの間にか耳の奥でリズムを刻んでいた神の使は消えていた。
 それは彼自身が彼の手の中の琴を通してあの長く古い歌のリズムを聴き取っていたのだった。

 高鳴る戦いの太鼓、軽やかな蹄の音。神が降りてくる時の憤怒の雷鳴、女の妖怪は鞭を揮うように蛇の形の稲妻を振り動かす…

 叔父の家の門の鉄の環を叩いた時、その音はジンメイを現実の世界へ引き戻し、ここ数日何も食べていないことに気づいた。
 扉が開くのを待たず、ジンメイはそのまま気を失った。

 ジンメイの叔父は出て来るなり、すぐさま琴を目に目をやり、倒れている甥に向かって言った。

 「運命の時が訪れたようだな」

 ジンメイの叔父は人を呼んで、ジンメイをスモモの木の下の低い椅子に寝かせ、ヨーグルトを与え、香を焚いた。
 ジンメイはまだ目覚めていなかったが、辛そうに寄せていた眉はほころんでいた。

 空気の中にこれまでと異なる匂いが漂った時、彼の鼻は敏感にひくひく動き、緩んでいた口元がきりっとした線を描いき、ざらついた石のようだった耳にかすかな光が透けて見えた。

 ジンメイの顔はまさに変化していた。

 無表情な顔から、今は生き生きした顔に変わった。奇跡はこのように起こるのだ。

 一人の人間が今まさにこれまでとは違う人間に変わろうとしていた。
 朴訥な牧人が、胸に幾万もの詩を秘めた「仲肯」―神から授かった語り部となるのである。

 そう、表情の変化はその顔かたちまで変化させるのである。