(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
2 いにしえの人を想う その1
寺の話がでたところで、再び過去の時代、15世紀へと戻り、ギャロンの大地のいにしえの人、ギャロンの人々が永遠に忘れることのないいにしえの人に思いを馳せよう。
このいにしえの人とは、ギャロンの歴史においてヴァイローチャナと同じように名望のある僧侶、チャク・ウェンポ・アワンザパである。
音節の連なった長い文字の中で、アワンという三文字だけが彼の本来の名前である。
その他の文字はみな一種の付加成分といえる。
チャクはチベット語の書物で用いられるギャロンの別名であり、この二文字がアワンの前にあるということは、当然、彼の出身地であることを表している。
実際に、彼はマルカム県の領域、当時リンモ土司の領地だったクチュで生まれた。クチュとは、彼の出生地のチベット語の名前である。
周囲の山の斜面に白樺、トウヒ、矢竹の生えるその小さな山村と、山村の裏の谷あいに、ここ数十年ばかりの間で、新しい名前がついた。203である。
この呼び名は、解放後に現れた伐採工、道路修理工と長距離バスの運転手の間で広まった。
同じ場所に対して、異なった言葉を使う人々は、それぞれに異なった地名を使うものなのである。
203とは伐採場の名前だった。その伐採場の何百何千という労働者たちは、この地で数十年間、原始林を伐採した。森林資源の枯渇とともに、この伐採場はすでに閉鎖されたが、名前だけはそのまま伝わり、多分、永遠に伝え続けられるだろう。
さて、再び、数百年前に生まれたあのともし火のような人物アワンザパに戻ろう。
彼の名前の二番目の文字、ウェンポとはボン経の呪術師を言う言葉である。つまり、彼がチャク地方のボン経の呪術師だったということを表している。
呪術師だった彼は、ある日突然、慣れ親しんだ美しい土地を後にし、この地方の多くの知恵を求める人々と同じように、歩むにつれて幅を狭めて行く大河と、徐々に高度を増す雪山に沿って、青蔵高原へと向かい、チベットへ、ラサへと向かって行った。
チベット高原の高みにある場所、まさに、どこよりも濃密な仏教的雰囲気の中で、仏教徒になった。
彼は心の中の知恵のともし火を更に明るく輝かせようとチベットへ行った。その結果、自分の信仰を変えることになったのである。
そのため、彼の名前の後ろにはさらにザパという文字がある。
ザパとは、チベット族仏教の寺院では、教義を知って間もない僧のことを言う。
これでチャク・ウェンポ・アワンザパの意味が分かっただろうか。
つまり、チャクから来たボン経の呪術師であったアワン坊主である。
きっとこれは、アワンザパがチベットで新しい教義に帰依した後、同じ志で学ぶ友人たちがつけた、温かみと親しみのこもった名前なのだろう。
夢筆山の峠に立ち、これから遠ざかっていく小金を背にし、公道がカーブを描きながら森林をつき抜け、ゆっくりと深い山へと入って行き、谷が底へ向ってまっすぐに落ちて行くのをはるかに眺め、私の故郷が目に入った時、この高僧の名前が思い出された。
心の中でその名を唱えると、あたかも心地よい音節が耳元で響いたようだった。
しかも、目の前に突然一筋の清らかな泉が現れた。
その泉は夢筆山マルカム側の日当たりの良い小さな斜面の上にあった。斜面の草地には柏の木がまばらに立っていた。
古い柏の樹。枝は曲がりくねっているが、幹のしっかりした柏の樹だった。
私は多くのギャロン人が聖地としているあの場所に行った事がある。
最後に行ったのは2年前だった。それは深まった秋の日だった。
私達はトヨタのシープでマルカムを出発し、一時間もかからずに、夢筆山のふもとの急な斜面の下にある谷へと着いた。
昔、この谷は狩人たちの天国だった。わずか数十戸の、農家でもあり、牧民でもあり、狩人でもある家が数十キロの谷に散在している。
この谷をナチュという。
もし私の思い違いでなければ、この言葉の意味は「深い谷」である。そう名付けられてはいるけれど、四川盆地から青蔵高原に向って少しずつ高くなっていくキレン山系の中で、この程度の谷はそれほど深いとはいえない。
となれば、このような名前がついたのは、きっとその当時のこの谷にあった森林によるのだろう。
白樺、赤樺、杉、松、柏、そして高山のツツジからなる樹林が谷を埋め尽くし、その様子はことのほか神秘的で深遠だった。
そこで人々はこの谷にこの名前をつけたのである。
そうして、わずかの家が散在するこの谷の集落も同じ名前となった。
20世紀の後半、建設の名のもと、進歩の名のもと、伐採人夫たちがこの谷を切り開いていき、伐採場の建設は、静かな山村に20数年にわたる喧騒と繁栄をもたらした。
その代価は当然、豊かな森林の消滅である。
その後伐採場は閉鎖され、かつて現代生活という芝居を演じていた工事現場や伐採場は再び静寂にもどり、最後に残った間に合わせの木造の建て物は、ある雨の夜ひっそりと崩れ落ち、捨て置かれた斧やのこぎりが、泥沼の中で時を経ずして錆びていった。
ただナチュの村の住民だけは永遠にこの谷とともにあり、子から孫へと、世々代々続いていく。
伐採され裸になった山肌が、ここに一つあちらに一つ、点々と斜面に跡を残している。
その傍ら、渓流に沿った太い道の傍らに、石で作られた大きな家々が静かに聳え立っている様は、どこか現実味のない、夢か幻のようだった。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)
2 いにしえの人を想う その1
寺の話がでたところで、再び過去の時代、15世紀へと戻り、ギャロンの大地のいにしえの人、ギャロンの人々が永遠に忘れることのないいにしえの人に思いを馳せよう。
このいにしえの人とは、ギャロンの歴史においてヴァイローチャナと同じように名望のある僧侶、チャク・ウェンポ・アワンザパである。
音節の連なった長い文字の中で、アワンという三文字だけが彼の本来の名前である。
その他の文字はみな一種の付加成分といえる。
チャクはチベット語の書物で用いられるギャロンの別名であり、この二文字がアワンの前にあるということは、当然、彼の出身地であることを表している。
実際に、彼はマルカム県の領域、当時リンモ土司の領地だったクチュで生まれた。クチュとは、彼の出生地のチベット語の名前である。
周囲の山の斜面に白樺、トウヒ、矢竹の生えるその小さな山村と、山村の裏の谷あいに、ここ数十年ばかりの間で、新しい名前がついた。203である。
この呼び名は、解放後に現れた伐採工、道路修理工と長距離バスの運転手の間で広まった。
同じ場所に対して、異なった言葉を使う人々は、それぞれに異なった地名を使うものなのである。
203とは伐採場の名前だった。その伐採場の何百何千という労働者たちは、この地で数十年間、原始林を伐採した。森林資源の枯渇とともに、この伐採場はすでに閉鎖されたが、名前だけはそのまま伝わり、多分、永遠に伝え続けられるだろう。
さて、再び、数百年前に生まれたあのともし火のような人物アワンザパに戻ろう。
彼の名前の二番目の文字、ウェンポとはボン経の呪術師を言う言葉である。つまり、彼がチャク地方のボン経の呪術師だったということを表している。
呪術師だった彼は、ある日突然、慣れ親しんだ美しい土地を後にし、この地方の多くの知恵を求める人々と同じように、歩むにつれて幅を狭めて行く大河と、徐々に高度を増す雪山に沿って、青蔵高原へと向かい、チベットへ、ラサへと向かって行った。
チベット高原の高みにある場所、まさに、どこよりも濃密な仏教的雰囲気の中で、仏教徒になった。
彼は心の中の知恵のともし火を更に明るく輝かせようとチベットへ行った。その結果、自分の信仰を変えることになったのである。
そのため、彼の名前の後ろにはさらにザパという文字がある。
ザパとは、チベット族仏教の寺院では、教義を知って間もない僧のことを言う。
これでチャク・ウェンポ・アワンザパの意味が分かっただろうか。
つまり、チャクから来たボン経の呪術師であったアワン坊主である。
きっとこれは、アワンザパがチベットで新しい教義に帰依した後、同じ志で学ぶ友人たちがつけた、温かみと親しみのこもった名前なのだろう。
夢筆山の峠に立ち、これから遠ざかっていく小金を背にし、公道がカーブを描きながら森林をつき抜け、ゆっくりと深い山へと入って行き、谷が底へ向ってまっすぐに落ちて行くのをはるかに眺め、私の故郷が目に入った時、この高僧の名前が思い出された。
心の中でその名を唱えると、あたかも心地よい音節が耳元で響いたようだった。
しかも、目の前に突然一筋の清らかな泉が現れた。
その泉は夢筆山マルカム側の日当たりの良い小さな斜面の上にあった。斜面の草地には柏の木がまばらに立っていた。
古い柏の樹。枝は曲がりくねっているが、幹のしっかりした柏の樹だった。
私は多くのギャロン人が聖地としているあの場所に行った事がある。
最後に行ったのは2年前だった。それは深まった秋の日だった。
私達はトヨタのシープでマルカムを出発し、一時間もかからずに、夢筆山のふもとの急な斜面の下にある谷へと着いた。
昔、この谷は狩人たちの天国だった。わずか数十戸の、農家でもあり、牧民でもあり、狩人でもある家が数十キロの谷に散在している。
この谷をナチュという。
もし私の思い違いでなければ、この言葉の意味は「深い谷」である。そう名付けられてはいるけれど、四川盆地から青蔵高原に向って少しずつ高くなっていくキレン山系の中で、この程度の谷はそれほど深いとはいえない。
となれば、このような名前がついたのは、きっとその当時のこの谷にあった森林によるのだろう。
白樺、赤樺、杉、松、柏、そして高山のツツジからなる樹林が谷を埋め尽くし、その様子はことのほか神秘的で深遠だった。
そこで人々はこの谷にこの名前をつけたのである。
そうして、わずかの家が散在するこの谷の集落も同じ名前となった。
20世紀の後半、建設の名のもと、進歩の名のもと、伐採人夫たちがこの谷を切り開いていき、伐採場の建設は、静かな山村に20数年にわたる喧騒と繁栄をもたらした。
その代価は当然、豊かな森林の消滅である。
その後伐採場は閉鎖され、かつて現代生活という芝居を演じていた工事現場や伐採場は再び静寂にもどり、最後に残った間に合わせの木造の建て物は、ある雨の夜ひっそりと崩れ落ち、捨て置かれた斧やのこぎりが、泥沼の中で時を経ずして錆びていった。
ただナチュの村の住民だけは永遠にこの谷とともにあり、子から孫へと、世々代々続いていく。
伐採され裸になった山肌が、ここに一つあちらに一つ、点々と斜面に跡を残している。
その傍ら、渓流に沿った太い道の傍らに、石で作られた大きな家々が静かに聳え立っている様は、どこか現実味のない、夢か幻のようだった。
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)