塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来「大地の階段」 56 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-01-29 17:24:51 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)





2 いにしえの人を想う   その1


 寺の話がでたところで、再び過去の時代、15世紀へと戻り、ギャロンの大地のいにしえの人、ギャロンの人々が永遠に忘れることのないいにしえの人に思いを馳せよう。
 このいにしえの人とは、ギャロンの歴史においてヴァイローチャナと同じように名望のある僧侶、チャク・ウェンポ・アワンザパである。

 音節の連なった長い文字の中で、アワンという三文字だけが彼の本来の名前である。
 その他の文字はみな一種の付加成分といえる。
 
 チャクはチベット語の書物で用いられるギャロンの別名であり、この二文字がアワンの前にあるということは、当然、彼の出身地であることを表している。
 実際に、彼はマルカム県の領域、当時リンモ土司の領地だったクチュで生まれた。クチュとは、彼の出生地のチベット語の名前である。
 
 周囲の山の斜面に白樺、トウヒ、矢竹の生えるその小さな山村と、山村の裏の谷あいに、ここ数十年ばかりの間で、新しい名前がついた。203である。
 この呼び名は、解放後に現れた伐採工、道路修理工と長距離バスの運転手の間で広まった。
 同じ場所に対して、異なった言葉を使う人々は、それぞれに異なった地名を使うものなのである。
 
 203とは伐採場の名前だった。その伐採場の何百何千という労働者たちは、この地で数十年間、原始林を伐採した。森林資源の枯渇とともに、この伐採場はすでに閉鎖されたが、名前だけはそのまま伝わり、多分、永遠に伝え続けられるだろう。

 さて、再び、数百年前に生まれたあのともし火のような人物アワンザパに戻ろう。

 彼の名前の二番目の文字、ウェンポとはボン経の呪術師を言う言葉である。つまり、彼がチャク地方のボン経の呪術師だったということを表している。

 呪術師だった彼は、ある日突然、慣れ親しんだ美しい土地を後にし、この地方の多くの知恵を求める人々と同じように、歩むにつれて幅を狭めて行く大河と、徐々に高度を増す雪山に沿って、青蔵高原へと向かい、チベットへ、ラサへと向かって行った。
 チベット高原の高みにある場所、まさに、どこよりも濃密な仏教的雰囲気の中で、仏教徒になった。

 彼は心の中の知恵のともし火を更に明るく輝かせようとチベットへ行った。その結果、自分の信仰を変えることになったのである。
 そのため、彼の名前の後ろにはさらにザパという文字がある。
 ザパとは、チベット族仏教の寺院では、教義を知って間もない僧のことを言う。

 これでチャク・ウェンポ・アワンザパの意味が分かっただろうか。
 つまり、チャクから来たボン経の呪術師であったアワン坊主である。

 きっとこれは、アワンザパがチベットで新しい教義に帰依した後、同じ志で学ぶ友人たちがつけた、温かみと親しみのこもった名前なのだろう。

 夢筆山の峠に立ち、これから遠ざかっていく小金を背にし、公道がカーブを描きながら森林をつき抜け、ゆっくりと深い山へと入って行き、谷が底へ向ってまっすぐに落ちて行くのをはるかに眺め、私の故郷が目に入った時、この高僧の名前が思い出された。

 心の中でその名を唱えると、あたかも心地よい音節が耳元で響いたようだった。

 しかも、目の前に突然一筋の清らかな泉が現れた。
 その泉は夢筆山マルカム側の日当たりの良い小さな斜面の上にあった。斜面の草地には柏の木がまばらに立っていた。
 古い柏の樹。枝は曲がりくねっているが、幹のしっかりした柏の樹だった。

 私は多くのギャロン人が聖地としているあの場所に行った事がある。

 最後に行ったのは2年前だった。それは深まった秋の日だった。
 私達はトヨタのシープでマルカムを出発し、一時間もかからずに、夢筆山のふもとの急な斜面の下にある谷へと着いた。

 昔、この谷は狩人たちの天国だった。わずか数十戸の、農家でもあり、牧民でもあり、狩人でもある家が数十キロの谷に散在している。
 この谷をナチュという。

 もし私の思い違いでなければ、この言葉の意味は「深い谷」である。そう名付けられてはいるけれど、四川盆地から青蔵高原に向って少しずつ高くなっていくキレン山系の中で、この程度の谷はそれほど深いとはいえない。
 となれば、このような名前がついたのは、きっとその当時のこの谷にあった森林によるのだろう。
 白樺、赤樺、杉、松、柏、そして高山のツツジからなる樹林が谷を埋め尽くし、その様子はことのほか神秘的で深遠だった。
 
 そこで人々はこの谷にこの名前をつけたのである。
 そうして、わずかの家が散在するこの谷の集落も同じ名前となった。

 20世紀の後半、建設の名のもと、進歩の名のもと、伐採人夫たちがこの谷を切り開いていき、伐採場の建設は、静かな山村に20数年にわたる喧騒と繁栄をもたらした。
 その代価は当然、豊かな森林の消滅である。

 その後伐採場は閉鎖され、かつて現代生活という芝居を演じていた工事現場や伐採場は再び静寂にもどり、最後に残った間に合わせの木造の建て物は、ある雨の夜ひっそりと崩れ落ち、捨て置かれた斧やのこぎりが、泥沼の中で時を経ずして錆びていった。

 ただナチュの村の住民だけは永遠にこの谷とともにあり、子から孫へと、世々代々続いていく。

 伐採され裸になった山肌が、ここに一つあちらに一つ、点々と斜面に跡を残している。
 その傍ら、渓流に沿った太い道の傍らに、石で作られた大きな家々が静かに聳え立っている様は、どこか現実味のない、夢か幻のようだった。




(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)







阿来「大地の階段」 55 第5章 灯りの盛んに灯る場所

2010-01-18 23:42:34 | Weblog
(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)


1 マルカムという地名について


 チベット語で「マル」という単語は「油、バター油」を意味している。「カム」の意味は「家、場所」ある。そこで、直訳して、マルカムという場所の意味は「バター茶の家である」と言われることが多い。

 このような解釈は言葉の意味を裏切ってはいないのだが、心情的な理から見ると筋が通っているとは言いがたい。

 チベット人は人や物や場所に名前をつける時、吉祥を祈る傾向がある。ところが、「バター油の家」は幾久しく続いていくものではないのだから。
 
 チベット族の芸術の中で、バター油によって作られるものはみな永久のものではない。例えば、正月の縁日で仏の前に供えられる酥油花などがそうである。

 そこで、より普遍的で多数の人が認めるのは、マルカムというチベット語の組み合わせでできた地名の意味を解釈する時、元の意味から導き出される「灯りの盛んに灯る場所」という、特別な意味に重きを置くべきだ、というとらえ方である。
 
 大渡河上流にある支流、リンモ河に臨むマルカムは、現在、高原の新しい都市と呼ばれている。そのリンモ河にある水力発電所が供給する尽きることのないエネルギーは、確かにこの山や谷を名前の通りの灯火の明るい場所に変えた。

 だがこうした情景が現れたのは、解放後のわずか40年あまりのことである。

 ある時、私は学識のあると言われているラマを尋ねた。別れを告げて坂の上にあるその寺から出てきた時、すでにたそがれ時になっていた。
 ラマは山のふもとの数え切れないほどの灯りを指さして言った。
 その昔、マルカムと命名したのは一人のラマで、その時すでにこのすぐれた人物は、今日のような家々の灯火が盛んに灯る光景を予見していたのだ、と。

 彼は、真に徳のある高僧は未来を予言できるのだ、と言った。
 彼は予言と言った。未来を占うとは言わなかった。

 私はこの老僧に、この話はいつの頃から伝えられ、その高僧の名前は何というのかたずねようと思った。だが、そうしたなら、みなを興ざめさせてしまうだろう。そこで、山のふもとの灯りを眺めながら暗闇の中で密かに笑い、何も言わなかった。

 私は、だが、マルカムという地名はすでに永い年を経ている、と知っていた。

 その頃、マルカムの広い河原は狐や狸の天国だった。
 マルカムにこの名がついたのは、この広い河原にマルカムという寺があったためである。その寺は、当時の荒れ果てた河原では、相対的に見れば、確かに灯火の明るい場所だった。

 光明と暗黒はいつの時代でも相対する概念となる。

 一つの仏教の寺が、このように、光明と関係のある名前をつけたのは、その目指すところが、蒙昧な時代に人々を啓蒙することにあると示す、一種の象徴的意味があったからだろう。仏教の書籍の名称にも、灯りと関係のある言葉を持ったものが次々と現われている。

 前に述べたように、初めてギャロンの地に文化と知恵の光をもたらしたのは、チベットに生まれたヴァイローチャナである。それから後、大渡河の上流と岷江の上流の一部では、かなり統一されたギャロン文化が形成され、全チベット文化の中で、一貫して他とは顕かに異なる地方文化の特徴を保ってきた。

 だがその後のかなり長い年月の間、当地のギャロン土司たちは、自分たちの利益に考えをめぐらせた結果、チベットとは異なる政教合一の制度を作り上げた。
 チベットでは、神の力は至上であり、世俗の政治的権力は神に従属するものである。だがギャロン地区全域では、中央の王朝に柵封された土司が世俗の大きな権力を握り、僧侶階層は世俗の権力に依拠して始めて存続できた。
 また、多くの場合、土司一族は神の力をも同時に手にしていた。
 例えば、すでに述べたように、小金川流域のツァンラ土司とウオリ土司の祖先は、ボン教の呪術師だった。

 15世紀以前、ギャロンの土司と貴族が頼みとし、庇護したのは、主に当地の宗教ボン教の勢力だった。
 マルカムの河沿いの広い台地には広大な寺院が建立された。当時はボン教に属し、その後、周囲の政治的環境の変化につれてチベット仏教のゲルグ派に改宗された。だが、マルカム寺という名前はそのまま変わらなかった。

 193、40年代になると、この寺に因んで、寺の前の白楊がまばらな林をつくる広く平坦な河岸で、季節的な市が開かれるようになった。
 商人たちはギャロン各地の土司の領地からやって来た。更に、四川盆地からやって来る漢人や、甘粛省からやって来る回族の商人も多かった。

 鮮やかな花が群山に咲き乱れる美しい夏。それぞれの方角から商人たちが続々とやって来て、草花の生い茂る河岸に、一夜の内にたくさんの美しいテント現れた。

 ある老人がこの時の様子を振り返ってこう語った。
 まるで一夜の雨の後に、きのこが一斉に生えてきたようだった、と。

 私がこのような回想に触れられるのは、アバ州政協の年に一度の会議の宴席でである。
 文章を書いている関係で、私は政教の常任委員会の一員となった。そのため、労せずして先輩たちから昔の思い出を聞き出すことが出来るのである。
 これらの先輩たちの中には、その昔、テントの持ち主だった人も何人かいた。

 これらの思い出話は、会議でもてなされるうまい酒と並ぶ、極上の味わいがある。

 別の先輩は、テントときのこの喩えを聞くと、愉快そうに笑った。
 彼は言った。
 「きのこ、か。2年くらいの間かな、夜雨が降るとテントの周りに必ずきのこが生えたものだ。その時付き合っている女がいてね。きのこを集めて牛乳で煮てくれたんだが、その味と言ったら……」

 人々は、季節によってしばしの間だけ賑わう通りもマルカムと呼んだ。

 解放後、政治的な必要からここに永久的な建物が建てられ、規模の大きな鎮になっていった時、その地名もマルカムと呼ばれた。

 そして、あの輝いていた寺院は、日々忘れられていったのである。



(チベット族の作家・阿来の旅行記「大地的階梯」をかってに紹介しています。阿来先生、請原諒!)