塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』⑭ 物語 神の子下界に降る

2013-08-07 01:38:30 | ケサル
「物語 神の子下界に降る」 その5



 パドマサンバヴァは洞窟から外に出て、遥か彼方を見晴るかす岩の上で結跏趺坐した。目を閉じ思いを凝らし、右手の二本の指を重ね合わせ一つの印を結ぶと、リンのすべての情景が次々と目の前に現れた。

 神の子ツイバガワの降臨する地は、中リンと下リンの交わる場所に定められた。
 その地は、天は八方に広がる宝蓋、地は八宝を載せためでたい蓮の花のようである。
 河の波が高原の丸みを帯びた丘の石の堤を打ちつつ流れ、まるで日夜六字の真言を唱えているようだった。

 その地の風水は一目で読み取ることが来た。だが、天界であれ人間界であれ、由緒の正しい家柄と徳のある父母がなによりも重要だった。
 パドマサンバヴァはまず最も古い六つの氏族について考慮し、だがすぐに打ち消した。彼の頭の中にまた、チベットの地で最も有名な九つの氏族が浮かび上がった。
 果たしてその中の穆氏がリンで暮していた。

 穆氏には三人の娘がいた。末の娘ジアンムーサは、嫁いで男子を生み、その名をセンロンと言った。センロンは生まれつき善良で心が広く、天から降る神の子の父親になるための資格を十全に備えていた。

 パドマサンバヴァが指を折って数えてみたところ、父方が穆氏であれば、母方は龍氏でなけらばならない。つまり、神の子の母親は高貴な龍族の中から探すこととなった。その高貴な女性とは龍宮に居て、龍王の愛を一身に受ける幼い娘メドナズである。
 思えば、竜宮とは水族の天国であり、龍女がその宮を出るのは、神の子が天から人間界に降りてくるのと同じ意味を持っている。

 広大なリンのチベットの民の幸せのため、龍王は父親としての想いを断ち切り、愛しい娘をリンに嫁がせることにした。
 センロンと人間界での夫婦とさせたのである。心のこもった嫁入りの品々も届けられた。
 
 こうして、一切の機縁が熟し、神の子ツイバガワは天界での寿命を終え、苦難に満ちた人の世に降りることとなったのである。












阿来『ケサル王』⑬ 物語 神の子下界に降る

2013-08-05 00:39:37 | ケサル
「物語 神の子下界に降る」 その4





 大神は言った「ツイバガワが下界に降りる時が来たようだ」

 大神はツイバガワを呼んで来させ、下界でリンのすべての民衆が喜びに沸く様子を見せることにした。

 「若い神よ、下界の悲しみ、苦しみがお前の心の中の慈悲の海を波立たせたのだったな。見なさい。お前は間もなく彼らの中に降りて行き、彼らの王となるのだ」
 ツイバガワは下界を見下ろし、感動の涙を流した。
 「よく見えます」
 穏やかだった大神の表情が厳しく変わった。
 「表面だけは良く見えたかもしれない、だが、内側は見えたのだろうか」 
 「内側?大神様がおっしゃるのは、暗がりや洞穴に身を隠す妖魔や物の怪のことでしょうか」
 「それだけではない、すべての人間の心の中だ」

 ツイバガワはこれまで悩みを知らずにいた。天界での生活は、どこへでも自由に漂い、自身の重ささえ感じてはいなかった。少しばかりの憂鬱と言えば、たまたま目にした自分とは違う世界の悲しみ、苦しみだった。
 だが、大神のこの一言で一粒の懐疑の種が彼の胸に蒔かれた。

 大神は言った。
 「これは言うべきではなかったようだ。
  法力のある者たちにお前のために出来る限り多くの加持と灌頂を行わせ、お前にこの先人間としての試練を受けさせればそれでよいことだった。
  子供よ、人の世にははやりの病があり、草木や薬は休む暇さえないのだ。
  さあ、姿勢を正して座りなさい。じっと動かず、目をしっかりと閉じ、自分を様々な法力を受け入れることのできる巨大な入れ物と想像してごらん」

 目を閉じる前に、ツイバガワは天庭の大神が早くも無辺の法力を持つ西方の諸仏をすべて集めているのを目にした。


 盧舎那仏は額から一筋の光を放った。光は十方をあまねく照らし、すべての法の始まりである「ウォン」の文字を八つの金輪に変えた。金輪は神の子の頭上を一渡り回ると、その額の際から直接体の中に入って行った。
 大神は告げた。この加持があれば、どのように穢れ卑しい環境にあっても、心身を清らかに保ち悪の道に陥ることはない、と。
 これは、これから下界に降りる神に対する最も基本となる守護である。


 喜現仏は前に進み出て裸の胸から一筋の光を放った。光は空中に暫く留まり、金剛杵に変化して神の子の胸に入った。
 仙女たちが現れて宝瓶の中の甘露で神の子の身を清めた。
 神の子はこうして、人の世を汚す罪業から逃れることが出来るようになった。


 吉祥荘厳宝生仏も現れて、臍から一筋の光を発し、あらんかぎりの福と功徳を集め、燃える宝瓶に変化させ神の子の臍へ入れた。
 こうして神の子は人の世の隠された珍宝と縁を結び、何時の日か、多くの珍宝を掘り起こし、それは神の子が人間の世に安泰の国を打ち立てる助けとなるものである。未来の国王として神の子にはこの機縁が必要となる時が来る。

 天の仏たちはすべてを光に変え、体のどの部分からも思いのままに光を発することが出来る。


 阿弥陀仏は喉から一筋の光を放った。この光は一切の言葉の力を一輪の赤い蓮の花に変化させた。この光を受けた者は人の世の六十の音律を自由に使うことが出来る。
 だが佛はすべてを光に変えることはせず、ただ神々の未来に対する美しい誓いを集めた金剛杵を神の子の右手に下しただけだった。
 佛は言った。
 「愛する若者よ、これを持ちなさい。これはお前が衆生を救うと誓った言葉を忘れさせないためのものである」
 「忘れることなどありません」
 「いや、こうしておかないと、もし下界に足を着ければ…」


 不空成就仏が前に進み出て言った。
 「若者よ、もしお前が誓いを忘れず、務めを成し遂げた時、軽率で野心にあふれた衆生の中には、お前に対して嫉妬の心を持つ者がいるかもしれない。そこで…」
 顔の長い、ユーモアにあふれた仏は、股間から一筋の光を発し、神の子の同じ部分に入れ言った。
 「若者よ、これは一つの力である。これで嫉妬の火に傷つくことはなくなった。もちろんこれはまた一つの権限である。務めを無限に果たすための能力である」

 ウォン!神の子の体には一切の福徳と法力が集まった。
 多くのものが注がれ、体はかなりの重さを持ったはずだが、意外なほどに軽やかだった。立ち上がろうとして力を入れすぎ、危く足が玉の階段から離れ、体全体が浮き上がりそうになった。

 神の子の心にはわずかに残念に思うことがあった。天庭には異なる道を行く多くの神々が居るのに、自分に加護を与えたのは仏道の神々だけだったからである。だが大神をちらりと見ただけで、喉元まで来ていた言葉を口にしなかった。
 大神は笑って言った。
 「神々であってもそれぞれ一つの道しか進めないのだ。リンはもともと仏の光に浴すべき場所なのである」
 「ただ…」
 「ただ…なにかね。言ってみなさい」

 神の子は小さな声で言った。
 「ただ私は、他の神々はもう少し愉快かもしれないと思っただけです」

 大神は楽しそうに笑い、たった今まで全力で加持し、いささか力が抜けて玉の階段に座って休んでいる諸仏に言った。
 「聞いたか。この子は、お前たちは少しまじめすぎると言っているぞ」

 諸仏は合掌し、唇を動かさず、皆が同じくぐもった声を発した。ウォン!

 大神は言った。
 「さあ、父母と姉のところへ行きなさい。今回別れたら、それはかなり長い時間になるだろう。私と仏たちはまだなすべきことがある。お前のためにリンの由緒ある者を選ばなくてはならない」

 諸仏は言った「そのことはパドマサンバヴァに執り行わせましょう」


 この目論見はすぐさまパドマサンバヴァが修業している山の洞穴に伝わった。