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塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

丹巴 千ちょうの国

2007-10-09 02:19:24 | Weblog
車はマルカムを通り抜け、丹巴へとひた走っていく。
私にとってはこれから先は帰り道だ。
だから何の期待もなかったのだが、うれしいことに、丹巴への道でまた様々な石ちょうを見ることができた。

屋根の四隅が三角に尖っているもの、そこを白く塗ってあるもの、窓のひさしの組み木が花の形になっているもの、窓の周りが白く裾広がりに塗られたもの、赤と黄色と白に塗り分けられたもの、壁に月と太陽のシンボルが描かれたもの…それぞれの集落によって微妙な違いがある。地形から見ても、このあたりは集落同士の繋がりがあまりなかったようで、それぞれの集落独自の、象徴的な意味を持った様式で装飾されているからだろう。

その地で産するものを使い、文化と宗教に裏づけられ、その風土に合せて造られた建物は、時を経て美しさを増すものなのかもしれない。

桃坪、卓克基、大蔵寺で実際に触れて来たし、移動の間にもたくさん目にしてきたが、丹巴付近の石ちょう群は規模がちがう。

山の裾が河へと突き出た小さな尾根に、石を積み上げた高いちょう楼が孤独にそびえている。高いものは50mもあるという。次の尾根にも、その次の尾根にも、次々と現れてくる。敵の来襲に備えて建てられ、のろしを使った通信にも使われたという。
山一面に何十という石の家が密集し、大きな集落になっているところがあった。そこにもちょう楼が村を守るように聳えている。
夕闇が迫る中、この山全体が何百年という時の重さに包み込まれ、この世とは切り離された存在のように見えた。

それは私の感傷である。
宋さんはこのあたりで何ヶ月か暮らしたことがあり、石の家に泊まったこともあるという。大きなソファーのようなものが置いてあるだけで、特別趣があるわけではなかったそうだ。そうだよね。このあたりの人にとっては、これは普通の家、生活の場として今も使われているのだから。

暗くなって丹巴に着いた。街のはずれにある賓館。もう文句を言う気力は残っていない。宿の奥さんは、ここは丹巴で一番いい宿よ、という。さすがはジアロンの民、自信に満ち溢れている。
狭いけれどしっかりお湯が出て、結構満足する。
だいぶ低い場所に着たので、暑く感じる。クーラーをつけてもらった。



山が光る

2007-10-06 00:04:10 | Weblog
大蔵寺を出てしばらくすると、雨が降ってきた。山の天気は変わりやすい。

少し先をチベット族の一団が歩いている。おじさんと、おばさん二人と男の子。雨の中どこまで行くのだろう。宋さんが車を止めて声をかける。乗せてあげるようだ。おばさん二人と男の子が乗り込むと、どんなにつめても、もう車はいっぱいだ。おじさんは一人で歩いて行くことになった。
子供が病気がちなので、お参りに来たらしい。マルカムから来たというけれど、そこまで乗っていくのだろうか、あのおじさんはどうするのだろう。チベット族の衣装に、毛布の巻いたようなものを持っている。歩いて疲れたらこの上で休んだりするのだろうか。

しばらく行くと、人が大勢集まっている拓けた場所があった。車も何台か停まっている。おばさんたちはここで降りた。おじさんもここまで歩いてきて、みなで一緒に帰るのだろう。
おばさんたちは盛んにお礼を言う。ザシデレ!チベット語で吉祥如意という意味。両手を少し広げて手のひらを上に向け、腰をかがめる。何度も何度も腰をかがめる。周りの人たちも手を振ってくれた。

車の中が急に静かになった。主人も、うとうとし始めた。

雨はいつの間にか止んで青空になった。砂利道に水がたまっているのだろう、車は水しぶきを上げながら走る。まるで渓流の中を走っているようだ。
見上げると、山頂の岩肌がきらきら光っている。この地方では雲母が採れ、時々空中をキラキラと舞っている、と阿来が書いているから、これはもしかしてその雲母かもしれない。

いや、もしかしてこれは、先ほどの雨が岩の間を通って小さな雫となって滴り落ち、日を浴びて光っているのかもしれない。
今、山は雨水を吸い込んで、それをゆっくりと浄化しているのだ。浄化された清らかな水は、清らかな光の中で、山を輝かせる。
空もまた洗われたように青い。

岩から染み出た水は、一滴一滴と集まって、いつか小さな流れとなり、透明な渓流となり、波立つ大河となる。でも、今はまだ、小石や淡く咲く花々の間を遠慮がちに滴り流れていくだけ。
山奥の、ほとんど人の目に触れない場所で、長い長い道のりを静かに流れていく一滴の水、その輝き…

私たちの車もひたすら山道を下っていく。すれ違う車も追い越す車も見えない。下るに連れて、周りの木々が大きくなり、緑が多くなる。
私は思う。まだ川にならないあの水は、この緑の下を時々輝きながら、人知れず、けなげに流れているのだろう、と。



吉祥のシンボルたち

2007-10-02 23:59:59 | Weblog
いくつかある宝殿には、正面に大きな幕が掛かっている。黒い地に白く模様が描かれている。デザイン化されたシンボルなのだろうか、遠くからでもはっきりと見える。これは、チベット語でシャムプと呼ばれている、ヤクの毛で織られた幔幕で、本来の役割は、強烈な日差しを遮り、木の部分を守るためだそうだ。そういえば、土司の官寨にも同じようなものが下がっていた。
適当に好きな模様を書いているのかと思ってたけど、何か意味があるみたいね、と私が言うと、主人が答える。
世の中に意味のない模様はないのだ!
うーん、なかなかいいことを言うな。それでは少し調べてみよう。
大宝殿のシャムプに描かれたものと、それが象徴しているものを順に挙げていくと…

上の段・八瑞物のいくつか(それぞれに八正道も象徴している)
[黄丹(像の結石?)=護財象神、抗毒]、[ヨーグルト=体液、水の分子]、[茅の葉=長寿と強靭さ]、[鹿=自然の調和、浄土]、[法輪=仏の教え]、[鹿]、[パパイヤ=すべての善行]、[右巻きの法螺貝=教えの言葉]、[朱砂(額につける赤い点の材料)=三昧の境地]

下の段・八大吉祥物
[傘蓋=仏法の守護と高貴さ]、[金魚=魂の開放、幸福と自主]、[宝瓶=聖なる財宝、財神]、[蓮の花=慈悲の清らかな心]、[右巻き法螺貝]、[吉祥結び=無限の慈悲と知恵]、[勝利幡=仏法の勝利]、[法輪]

となりの護法殿のシャムプに、耳飾、犀の角、象牙、珊瑚、お金などが描かれている。転輪王の宝を象徴している。

いろいろな説があって、ここに書いた以外の解釈もある。調べだすときりがないけれど、楽しい。

下まで戻ると、やはりお参りに来ていたチベット族の家族が馬茶を飲もうと誘ってくれた。寺で振舞ってくれるものだ。味はほうじ茶のようだ。この地で採れるお茶ではないが、好まれて飲まれているようだ。馬と交換したので、馬茶と名づけられたのかもしれない。
お母さんはとても優しそうで、普段でもチベット族の衣装を着ているそうだ。三人の娘はみな大学を出て結婚し、今回はそれぞれの家族と一緒にこのあたりを回っていて、これから土司の官寨にも行くとのこと。娘さんたちはみなとても堂々としていて、遠くを眺めながらお茶を飲んでいるすがたは、難しい問題に取り組んでいる学者のような風情がある。チベット族の力強さがみなぎっている。

残念だが、そろそろ帰らなくては。そういえばお昼を食べていなかった。
山門の外に食堂があり、5元の定食があった。外の軒先で食べることにする。大きな大きなどんぶりにご飯と好きなおかずを乗せる。なかなかおいしい。台所に入って勝手にお代わりまでしてしまう。山を目の前にして食べられるなんて、それだけでも幸せでだった。



大蔵寺のひかり

2007-10-02 02:21:41 | Weblog
山の頂上は草原で、大きなテントも張られている。チベット族の女性が数人、青空を背景に歌いながら尾根伝いに歩いていく。これが彼女たちの日常なのだろう。お参りの人たちは、ほとんどが親族からなる一団で、にぎやかにおしゃべりしながら一つ一つお堂を回っている。私たちが日本人だとわかると「アリガトウ!」と何度も何度も挨拶し、明るく笑う。

ここで働いている若者がそれとなく後をつけてきて、話しかけられるのを待っている。
ニーハオ!ここに住んでるの?
そうだよ。どこから来た?
日本から。日本て知ってる?
知ってる。テレビで見た…

のんびりと歩いていたら、いつの間にかかなり上まで登っていた。木陰で一休みする。でも、気をつけないといけない。あちこちに牛のフンが落ちている。
門を入った時はとても行けそうもないと思ったお堂を、今は見下ろしている。

海抜3,800m。小さな起伏を利用して、たくさんのお堂が建てられているのがわかる。ひとつの僧房の前の植え込みに僧衣が干されている。日を浴びて鮮やかな色が一層際立つ。

山中に澄み切った光が満ち溢れている。


大地の梯子

2007-09-30 18:50:33 | Weblog
廃墟の一つに、はしごがかけられていた。チベット梯子(チャケェ)と呼ばれているらしい。丸太に切込みを入れただけのもので、少し登ってみたけれど、安定が悪く途中であきらめたのだが。よく見ると、切込みの一つ一つが三角形になっていて、山が連なっているように見えなくもない。阿来の『大地の階段』の“階段”とは、このチャケェのことかもしれない。(そうすると階段とするのは誤りで、梯子としなければならない、これからは『大地の梯子』と改めます)

彼はためらいがちな微笑を浮かべた。
「私には、この折り重なる山々が一段一段昇っていくはしごのように見えるのです。私の魂
は、いつかこのはしごを伝わって天上へ昇っていくのでしょう…
…この題名から、私自身が旅から得た真摯な思いが伝わるようにと願っている」

これが『大地の梯子』の書き出しである。小さな寺の若いラマがふと漏らした言葉に、阿来は詩意をかきたてられ、この本の題名にした。

アバにいると、どこにいても山々が連なって、どこか遠くへ連れて行かれそうになる。ここ大蔵寺ももちろん目の前は山の連なり。天気が良いので、よけいに空に近づいてしまったような気がする。

(写真に右下にあるのがはしご 朽ちかかっているけれど)


新しいものと古いもの

2007-09-30 18:39:09 | Weblog
大雄宝殿の後ろから山道を登っていく。何しろここにはたくさんの建物がある。開祖ツォンカバを祭ったお堂、弥勒菩薩を祭ったお堂、高僧の住む建物、僧房、閉関のための建物…みな石造りの建物で、周りに白や黄色の漆喰のようなものが塗られている。これらの新しい建物は10年ばかりの間に再建されたものだ。一つ一つには極彩色の装飾が施されているのだが、山のそちこちに点在し、遠くから眺めるので素朴な感じさえする。はるかに連なる山々と、澄み切った強い日差しの中で、かわいらしくさえ見える。

阿来の文章やこの寺の主持・祈竹仁の自伝を読むと、文革の時にここは徹底的に破壊されたらしい。

「強烈な午後の日差しの中で、大蔵寺の巨大な柱の残骸に座り、つる草の間に散乱している極彩色の壁画の破片を見ながら物思いにふけっていたのを、今でもはっきり覚えている」
阿来の文章の一部である。

1982年、改革開放にともなって、再び宗教活動の場として開放され、少しずつ信徒が戻り、寺の姿を取り戻す。1993年から本格的な改修が始められ、2007年7月に竣工の式典が盛大に行われた。

「かなりの時が経ってから、ついに寺院の復旧が完成したという知らせを聞いた。落成の式典はかなり盛大だったようだ。信徒が続々と集まり、政府関係者や記者、更に西洋からの列席者もあったようだ。だが、私はその盛大な式典に行く気にはなれなかった。アワザンバが建立した寺はどれも、このような賑々しさはなかったはずだ。彼は当時、異教徒の中で仏の言葉を伝え、教えを説いていたのだから。
大蔵寺で盛大な式典が行われていた頃、私はこの静かな場所を思い起こしていた。何よりも目に浮かんできたのは、草むらと草むらの上の柏の木、そして柏の木の下の澄み切った湧き水だった。
そして今夜、星空の下、柏の木の枝が風にそよぐ音を聴きながら、満天の星に一人の古人、一人の聖賢を思っていた。アワザンバが最期を迎えたのも、このような星空の下だった。それは、中世の星空の下だったが、宇宙全体からみれば一千年など、わずかな時の流れでしかない…」

阿来の見ただろう廃墟は、今もまだかなりの数が残っている。復旧された色鮮やかな伽藍の間に無造作に残された、崩れたままの石の建物は、石本来の色を取り戻し、空の青さを際立たせている。近くに行って手で触れ、そのぬくもり、冷たさを感じることができる。

この廃墟があることで、この寺は完全なものとなっているのではないだろうか。



大蔵寺に着く

2007-09-29 02:54:44 | Weblog
大蔵寺に着いた。寺の周りを壁が取り囲んでいる。それがこの寺の特徴だ、とどこかに書かれていた。だが、いかめしい感じはまるでない。市場の入り口のような、わさわさした、誰でも受け入れてくれそうな雰囲気が漂っている。入場料も取らない。おばあさんが、土ぼこりのたつ入り口の前でしゃがんでいた。

門を入り、少し階段を上ると広い空間があり、もうそこが本堂だ。その後ろは小高い山。上のほうにもいくつかお堂が見える。私たちの体力では、とてもあそこまでは行けないだろうな。

本堂は大きな白い建物で、密教風な模様が描かれた大きな幕がかかっている。お参りに来ている人は、若い人でもほとんどがチベット族の衣装を身にまとっている。
中を覗くと、またラマたちの食事の最中だった。私たちはなぜかいつもこの時間に行き会う。やはり色が氾濫している。その中で食事を終えた若いラマたちが思い思いに座り込んでいる。言い方は悪いけれど、暴走族の一団がしゃがんでいる風にも見える(ごめんなさい、とてもくつろいでいる雰囲気なので…)

宋さんがまた一生懸命説明してくれる。どうも仏教の話になると燃えるようだ。フンフンと聞いていると、よぼよぼのおばあさんが壁を伝いながらお堂の入り口に近づいて来た。宋さんは何のためらいもなく、おばあさんのそばに行って助けてあげる。すると、周りの人やラマも集まってきて一緒に支えてあげて、おばあさんは無事中に入っていった。

本堂の隣には、黄色く塗られた建物がある。ここがゲルグ派、黄教の寺だからだろうか。これもかなり大きな建物だ。その前に人だかりがあった。見ると何かが焼かれた後のようだ。みんなはそれを拾っていたのだ。
それは、穀物を焼いたものだという。お米のようなものがそのまま炭になっていた。それを拾って食べると病気除けになり、一緒に焼かれた木を拾って家に持って帰り、入り口においておくと災い除けになるという。一人の男性がそう説明してくれた。小さな箱にたくさん集めている人もいた。

男性が宋さんを見て、どこの出身かと尋ねる。成都だと答えると、純粋な中国人かと聞いてくる。そう、背がすらっとして、上品な優しい顔をしているから、外国人に見られてもおかしくない。宋さんはそれが不満らしくて、こんなに純正な四川訛りを話してるじゃないですか、信じないなら身分証見せましょうか、とポケットに手を突っ込む。むきになるところがおかしい。それに引き換え、私のほうが中国のおばさんに見えると言われてしまった。まあ、それはいいとして…

男性はハルピンから来て、もうここに10日くらい泊まっているという。昨日は一人の高僧が閉関(部屋にこもってする瞑想修行)を終え、それを祝う盛大な式典があって、それに居合わせたことに感激していた。
ここに泊まるには、基本的にはお金は要らない。食事も出る。お金のある人は何十万とお布施をするし、無い人はできる範囲でお礼をすればいいそうだ。
ラマたちの朝のお勤めは、山中に読経の声が響いてとてもすがすがしい、ここに泊まれば、明日それを味わうことができるよ、と誘惑する。また、ここにはもう1人、ヨーロッパから帰ってきたラマがいて、とても話好きの人柄のいい方だから会ってくればいい、とも薦める。15元くらいでハタを買って奉じればいいそうだ。
宋さんも私も心がぐらぐらした。今日ここに泊まって、明日からの宿泊先を少しずつずらしていけばいい。ラマとも会ってみたい。話好きなのは卓克基で経験済みだ。

マイペースで写真を撮っている主人に聞いてみたら一言、わがままは許しません!

そうだよね。もしここに泊まってチベット仏教の神秘にとらわれてしまったら、これから後はもう、とめどない漂泊の旅になってしまったかもしれない。

これで気持ちがすっきりしたので、少し奥まで行ってみることにする。




少年

2007-09-28 01:32:39 | Weblog
大蔵寺をはるかに望める山の草原で一休み。

チベット族のおばあさんがゆっくりゆっくり歩いて来て、草地の突先に座る。そのままじっと動かない。あんなところへ一たった人で何をしに行ったのだろう。しばらくして少年が牛を何頭か連れてやって来た。さっきのおばあさんの方へと向かっていく。そうか、おばあさんはこの子を待っていたのだ。少年がたどり着くと、二人は並んで牛とともにどこかへ消えていった。

宋さんがまた言う。あの子は学校へ行っていない、だから教養がないし、礼儀も知らないし、生活習慣もいい加減だ、でも、この美しい風景の中であくせくすることなく、心は満たされていているから、毎日楽しく暮らしていける……本当にそうかもしれない。

ところで、どうも、この、物事は楽しんでやるものだ、というのが宋さんの生き方の基本のようだ。宋さん自身、それを実践しているんじゃないのかな。つらい経験もあったのだろうけれど、立ち居振る舞いや言葉からは、そんなことは微塵も感じられない。大またでずんずん歩き、誰とでもすぐ打ち解け、楽しい話題を見つけ、勝手にしゃべり、優しく笑う。

少しずつ、彼の姿がジアロンの人々と重なってくる。




8月9日第5日目 大蔵寺へ

2007-09-26 01:35:35 | Weblog
8月9日 第5日目

今日は、大蔵寺へ。

この寺の名前もずいぶん前から私の中にあった。この地の人々に親しまれているアワザンバのことを調べている時に知ったのだった。
アワザンバ(阿旺札巴)は14世紀中ごろジアロンに生まれた。ボン経を信仰していたが、修行の途中でチベット仏教ゲルグ派と出会い、開祖ツォンカバの弟子となった。ジアロンに108の寺を建てると誓いをたて、その108番目の寺が大蔵寺である。1414年に建立された。大蔵(ダチャン)とは完成、功徳円満の意味である。
でも、その大蔵寺がどこにあるのかは、ずっと分からなかった。私などには行かれない山奥の神聖な場所なのかもしれない、と思っていた。

だから、今回旅の計画を立ていて、「四川重慶行知書」というガイドブックの中にはっきりとした案内文を発見した時は本当にうれしかった。地図の中にその名があるのを何度も確かめ、私なりのイメージを浮かべることができた。もうそれで満足しよう。マルカムから100km、海抜3,800m。やはり遠い存在なのだ。

ところが、宋さんが昨日のパンフレットを見て、ここに行こうと言ってくれた。もちろん、当然のように受け入れた。
それでも、昨日の昌列寺の山道の記憶があまりに鮮烈で、ちょっとためらいがちではあったけれど。だめなら途中で引き返そうという軽い気持ちで出かけた。

マルカムの街のはずれ。大郎足溝という河を上っていくのが大蔵寺への道だ。またまた、師傅と呼びかけては路を尋ねている。そのたびに私が、大変そうだからここまででもいいわよ、と言うのだが、宋さんは一度行くといったら意地でも行く気らしい。

河をほんのしばらく上っていくと、風景はすぐに山間の農村へと変わった。ここにも石の民家はたくさん見える。窓の周りの色使いがちょっと違うだけなのに、とても優しい感じがする。日の光のせいかもしれない。

河の流れは相変わらず速い。どこまでもどこまでもその河に沿って進む。だんだん河底が見えるくらいに水が澄み、流れが浅くなる。周りの木もみな低い潅木に変わった。

少し広い場所に出ると、そこには必ず、一軒の家と石を積み上げた家畜用の囲いがある。このあたりは牧畜が主な仕事なのだろう。といっても、牛の姿も人の姿も見えない。山の中の廃屋かな、と思ってしまうくらいだ。
地面は石だらけ、山肌にも岩が露出している。

河は、ここではもうほんの一筋の透明な水の流れでしかない。低い木の葉陰を、きらきらと輝いて、でも、ひっそりと流れている。
この辺りは10月から翌年の6月まで雪で閉ざされる。6月になってやっと雪が溶け小さな流れとなり、それがいくつか集まって、いつか大きな河へと至るのである。この水が人々の暮らしの源となる。水があるからここは美しい。これもまた宋さんの言葉。

ちょっとトイレ休憩をする。といってももちろんトイレなどない。低い木の陰で空を見ながら…私の一筋の流れもこの岩で清められいつかは大渡河へと流れていくのだろうか…

これから行く路は薄い雲に隠れている。鷹がすぐ近くを飛んでいく。振り返れば、山の連なりの中心に、今私たちが走って来た路がくねくねと続き、彼方の山の後ろへと消えている。今ここにいるのは私たちだけだ。なんて贅沢なんだろう。
そこから頂上まではすぐだったが、それからまた尾根伝いに進んでいく。




私たちの塵埃落定 

2007-09-23 02:08:27 | Weblog
昌列寺は13世紀に立てられたニンマ派の寺。今目の前にあるのは元の寺のそばに新しく建てられたものらしい。2006年7月開眼供養を行ったというから、ぴかぴかなのもわかる。谷からの高さ900m、海抜は3300m。寺院、僧房、信者のためのホテル、経典の収蔵室(この寺の開祖は散逸していたチベットのお経を大量に回収しここに納めたそうだ)学習室等が一体となった、巨大な建物だ。

階段を上りきったところにある大経堂では、ラマたちが夕の勤めを終え、食事をしていた。といっても椀に薄いおかゆのようなものを薬缶から注いでもらうだけ。お代わりは何杯もできるようだ。食べ終わるとお椀をなめてきれいにしている。すでに食べ終わり、おしゃべりをしているラマもいる。

更に奥を覗くと、金の仏像、壁画、傘蓋、バターの花…高い天井のお堂いっぱいに色があふれ、押し寄せてくる。

しばらくすると全員が出て来て、経堂の前の広場を一周し、そのままなんとなく自由時間となった。

私たちは経堂の前に立って、その様子を見ていた。こんなところにいていいのだろうか。宋さんは大丈夫だと言う。いろいろ説明してくれるのだが、半分くらいしか聞き取れない(ごめんなさい)。日本に行った僧の名は…寺の名は…何も思い出せない。これって、もしかして高原反応の一つかな?

宋さんは言う。修行は厳しいけれど、みんなそれを楽しんでいる、ラマたちの表情を見るとわかるでしょう、と。そういわれると、みな自然な表情をしている。小さなラマはスイカやナシをかじりながらスタスタ歩いている。若い僧は三々五々集まって、階段の手すりに凭れておしゃべりしている。貧しくてここに来た子もいるだろうし、大きなお寺の子もいるだろう。大師もその中に混じって、誰もがゆったりと時を過ごしている。修学旅行の夕食後のような雰囲気だ。

ここで働いている人達だろうか、トラクターにあふれそうに乗り込んで、私たちにも手を振り、みんなで声を合わせて歌いながら山を降りていった。革命映画のワンシーンのようだ。彼らも労働と生活を楽しんでいるのだろう。

金ぴかだろうとなかろうと、この寺のラマたちは、何百年も続けられてきた修行の日々をこれからも静かに楽しんで続けていくのだろう。古い美しい建築物の中にあった美しい生活は、新しい建物の中にもそのままある。とても幸せな気持ちになった。

夕暮れが迫っている。またあの道を降りなくてはならない。下りのほうが怖いだろうな。名残惜しいけれど、早く無事についてくれという思いのほうが強かったような…。そしてついに無事地上に降り立った。梭磨河を渡って公道に出る。ホッとした、と言ったら宋さんが「塵埃落定了!」と明るく笑った。

塵埃落定には、物事が落着するという意味がある。そして私の愛する物語の題名である。

そう、まさしく塵埃落定!

このちょっと危険で不思議な行程は無事に終了した。




昌列寺

2007-09-21 06:31:07 | Weblog
西索の寺を見て満足し、次はマルカム寺へ行こうとすると、宋さんが昌列寺へ行こうという。どこからからかこのあたりのパンフレットをもらってきてくれたようだ。やっとガイドらしくなってきたな。

マルカム賓館の小姐や門番のおじさんに道を確認してから出発。走り始めてからも手当たりしだい道を尋ねる「師傅(シィフ)~~へはどう行くんですか。謝謝啊!」師傅というのは技術のある人を尊敬して呼ぶときに使う言葉。このあたりではよく使われている。少し古めかしくて、親しみの中に礼儀正しさがあって、いい響きだなと思う。若い宋さんが言うと余計にそう感じられる。

昌列寺まで15km。それならすぐ着くだろう、と思ったらとんでもない!とんでもない山道だった。山肌に沿ったジグザグ道。砂利道で、もちろんガードレールなどない。カーブで向きを変えるときは、エンジンをふかさないと回れない。途中で牛に出会ったりするとまた大変だ。しばらく待って、またエンジンをふかして進む。かわいい野豚もいた。

宋さんに大丈夫、と尋ねると、以前大型車を運転していたから、小さい車は簡単だ、と答える。それでも知らずに力が入ってしまう。
窓から下を見てはいけない。すぐそこが崖だからだ。主人が時々無表情にこちらを見つめる。怖がっている。

向きを変えるたびに、梭磨河を挟んだ向かいの山の頂上が少しずつ目の高さに近づき、ふもとの石造りの民家が小さくなり、一塊の村となる。遠くの山と山の間に渓流が流れているのがはっきりと見える。その奥にも山々は連なり、かなり高いところにも石造りの民家の集落が見える。

こちらの山に目をやれば、小さな尾根に崩れかけ忘れられた石の家が見える。緑に埋もれ、静かに存在している。何百年か前には威容を誇っていたのかもしれない。「廃墟」という言葉の持つ重さ、厳しさ、寂しさ、厳粛さ…谷から900mほどの高山のあちこちにそれは残されていた。車の窓越しではあったけれど、間近に見ることができて幸せだった。ここに暮らしていた人と同じ高さにいるのだ、同じ空間にいるのだ、と強く感じられる。石の持つ力だろうか。

遠くに大きなタルチョが見えてきて、しばらく走ると門があった。ああやっと着いた、と思ったのに、まだ寺は見えない。また尾根に沿ってしばらく走り、やっと寺の姿が現れた。スピーカーからお経の音が流れている。山中が質の悪い無機的な音で覆われ、夕暮れの鉛色の空が余計重く感じられてくる。でも、その中に仏の救いがこめられていて、山中を、世界中を包み込んでいるのだろう。

寺はぴかぴかのホテルみたいだ。ポタラ宮みたいといえなくもないけれど。かなり最近(2006年7月)新しく立て替えられたようだ。

目の前にはどこまでも続く山。はるか遠くまで目をさえぎるものはない。深く柔らかな緑を見下ろし、こんな高いところまで来たしまった驚きと、静かな興奮を味わう。
そこからまた階段を上る。ハアハアする。どうぞ、高原反応ではないように…

土司とは

2007-09-17 23:19:39 | Weblog
せっかく卓克基に来たのだから土司について考えてみよう。

土司とは、中国封建王朝が、西部の少数民族の首長に授けた世襲の官職の一つである。軍事指揮権を与えられた、その土地の皇帝のようなものだ。職を世襲する証書と、金銀の護符を授けられていた。元の時代に始まり、清末から解放後にかけて、「改土帰流」(中央政府の官僚を流官として派遣して支配する)として廃止される。雲南省、貴州、甘粛省、青海、チベット、そして四川省の各地で土司は力を振るった。

ジアロンでは、梭磨河、大渡河に沿って18の土司がいた。ジアロンの人々は復讐を好むようで、土司同士の間で争いが絶えなかったらしい。その中で最大のものは「金川の役」と呼ばれるもので、大金川、小金川の二つの土司が争い、清の乾隆帝はそれを治めるのに苦労した。この地に石ちょう(石+周)がたくさん聳えているのは、そういった戦いに備えたためでもあった。
(そういえば、小説の主人公、お馬鹿な若様も、個人的な復讐に巻き込まれて命を落としている)

ジアロンでは、大鵬鳥が産み落とした白、黒、黄色の卵から土司が生まれたという伝説がある。そこから人間が生まれ、土司になった。初めの四人から代を経て18の土司となった。
卓克基土司は後の世代で生まれたことになっている。実際にも、それほど勢力は強くなく、山の中の静かな王国だったのだろう。1286年から土司の職に就き、1748年「大小金川の役」で功労をたて、長官司の印をもらっている。その後力をつけ、四土司の一つとなった。
17代(末代)の土司、1912年に土司を告いだ索観瀛は賢明な人物で、清の役人を呼んだり、漢文の書記官を設けたり、ケシを植えたり、官寨を修復したりしている。梭磨河に沿って歩き、民が種をまくのを見るのが好きだったそうだ。
1935年、紅軍が長征の途中でこの地にやって来て、官寨に滞在する。当然、索観瀛は、毛沢東や周恩来に面会し、教養人として認められた。解放後は北京で毛沢東と再会し、食事もしている。そう聞くと、この地も身近に感じられる。
卓克基土司が小説のマイチ土司のモデルといわれるが、本当なのかどうか、私にはわからなかった。もちろん、18土司のさまざまなエピソードから、阿来はマイチ家の姿を作り上げていったのだろう。

索観瀛は1936年に再び官寨を修復している。
その後、1984年にアメリカの記者が、長征の取材でこの地を訪れ、忘れ去られていた卓克基官寨を目にして、その美しさに感動し、「東洋建築の明珠」と胡耀邦に手紙を書いた。それを受けて、1994年から修復計画が始まり、2005年1月、今の姿となって公開された。

「アジア遊学」という雑誌に(1999年6月)この官寨の写真が載っている。北側の経堂のあたりは見事に崩れている。修復計画の始まったころの写真ではないだろうか。これを見て「東洋建築の明珠」と感じた記者はすばらしい。だが、この風景の中で廃墟に近いままにたたずむ官寨に、本当の美しさはあるのかもしれない。

西索の寺

2007-09-13 00:03:31 | Weblog
西索民居の中をぶらぶらする。とても居心地がいい。石を積み重ねた家は、重々しいのだがとても暖かく感じられる。軒の下には花が飾られたり、木を組み合わせて作った四角いものが置かれていたりする。お供えのようなものだろうか。

細い道を河に向かって降りていったところに、古ぼけた壁画の描かれた建物があった。よく見ると仏画のようだ。そうか、ここは寺院なのだ。普通の民家と同じように、静かにそこにある。

勇気を出して入り口の階段を上る。おじいさんが3人、静かに座っていた。写真を撮っていいか尋ねると、ダメだと言う。もう一度お願いすると、恥ずかしそうに顔を隠す。仕方がない、あきらめようとすると、経堂に入れと言う。大きな錠をゆっくりとはずし、雨風にさらされた重い扉を開けてくれた。なんともったいない。
堂内は薄暗く、床は土のままだ。電気を点けてくれる。

そこにあったのは金色に輝く仏像。だが、壁画はやはりくすみ、剥れかかっていた。緑色が多く使われている。(卓克基のは青が多くて、今書き上げたばかりかと思えるくらい、まぶしかったが)
私が求めていたのはこういうお寺だったのだ。遠慮がちに写真を撮らせてもらう。

経堂の周りにはマニ車が並んでいる。おばあさんが二人、ゆっくりゆっくりまわしながら歩いていた。おじいさんが私も回しなさいというので、恐る恐る一周した。お願いすることも何もできなかった。ただ、感激して緊張して歩いた。普段宗教とはかけ離れた生活をしているのに、行きずりにこんなことしていいのか、とちょっと自分を責めた。でも、うれしかった。

あのおじいさんは、もしかして、ラマだったのだろうか。






西索民居

2007-09-10 20:50:54 | Weblog
土司官寨の前に梭磨河に注ぐ渓流がある(多分、納覚渓流)。そこを渡ると西索民居だ。石造りの家が一塊になった静かな村である。桃坪とは雲泥の差だ。

私が橋を渡って進んでいっても主人はついてこない。どうしよと思ったが、マイペースなヤツなので、かまわず一人で進んでいった。(後で聞くと、気分が悪かったとのこと。高原反応がまた出たのか、疲れか。悪かったな。でも、ここを見過ごすわけにはいかず、主人もそれをわかって、何も言わなかったのだろう。感謝しなくては…)

ここの建物は、窓の周りを白く塗り、ドアにも色がついていて、可愛らしく明るい感じがする。緑も多く、木陰が涼しそうだ。私がのんびり歩いている間に出会ったのは、柴を担いだおばさんと、暇そうなおじさんだけだった。

この村の辺りの風景を、阿来は『大地の階段』の中で描いている。

「梭磨河にかかる花崗岩の橋の上で歩みを止め、四方を見渡す。
風は上流から吹いてきて私の背中にかかる。風は強くないが十分な力を持ち、私のシャツはパタパタと音を立てる。
河の下流は東南の方向だ。高原の光の下、キラキラと耀いている。
河の左岸は山の斜面に沿った西索民居だ。民居の後ろには、柔らかな緑の山肌が空に向かい、清らかな白い雲がいくつか、山の尾根に留まっている。
尾根の辺りで、険しかった斜面が緩やかになり、潅木の林が山の草原に変わる。草原では村の牛や山羊が放牧されている。ほとんどのジアロンの村では午後のこの時間が一日で最も静かな時だ。子供は学校に行き、働いている大人はこの時村から最も離れたところにいる。村の中では、それぞれの家の厚い木の門に銅の錠が掛けられている。それを開ける鍵は、金属の涼しさを静かににじませて、壁の穴に隠されている。家の中の囲炉裏の火は消され、火種は灰の中に埋められている。銅の壷の水や、缶の中の牛乳は静かに考え事をしているようだ。
外では、果樹の木陰で猟犬が昼寝をしている…」

私が歩いたのはまさにこんな時間だった。

ここからは卓克基官寨がよく見える。

言葉について

2007-09-09 18:58:07 | Weblog
ふと、日本語訳の『塵埃落定』の文章のことが思い出された。

何年か前、私はこの作品に感動して、できれば自分で訳したいと大それたことを考えていた。ところがそれからすぐに日本語版が出てしまった。
期待して読んだその文章に驚いた。ほとんどその当時のギャル言葉で書かれていたのだ!会話には大阪弁や、創作方言まで使われて、土司の夫人は土司マダム!
これでは、せっかくの作品の良さが日本の読者に伝わらないではないか!
思い余って訳者に電話してしまった。訳者は若い姉妹で、民族的な特色を出したかったから普通と違う文体にしたのだ、と話してくれた。阿来先生と会った時に受けたユーモラスな印象も、文体を決めるきっかけになったそうだ。
10年くらいかけて私なりに訳してみたい、と伝えると、その時はお手伝いしますよ、と明るく答えてくれた。
あれから何年経ったかな。

主人公のお馬鹿な若様自身が、この作品の語り手で、しかも、自分が仇に刺されて天に昇っていく様子までも語っているのだから、一筋縄ではいかない物語なのだ。ドラマでは主人公が昔を思い出す風に描かれている(結局死ななかったのか!)。
ある意味、現実にはありえないおとぎ話とも言える。しかも、舞台は3000m近い高い山の中の、ジアロンチベット族という特異な民族の作り出した小いさな王国。
幻想と民族と歴史と寓意と…ごちゃ混ぜになった世界をどうやって表わしたらいいのだろう。
若い訳者が一生懸命考えて選んだのが、この奇妙な文体だったのだろう。

その時、もうひとつ思ったのは、どんな文体であれ、きちんと訳していけば原作の本来の姿は必ず現れてくるものだ、という、言葉への信頼のようなものだった。(ちょっと苦しいかな)
彼らの訳したものから、阿来の詩意は充分に感じられたからだ。

土司官寨で、私はこんなことを考えていたのか、いなかったのか。

向かいには、西索民居という美しい村がある。次はそこへ行こう。